海上の祟り
海の上は、思っていたよりも静かだった。
エンジン音が遠く、波の音さえ穏やかで、世界から切り離されたような錯覚を覚える。
けれど紫はテンションが高い。
「すごーい! 海の真ん中って、なんか世界の果てって感じ!」
風を受けながら、クルーザーのデッキを走り回っている。子どものように無邪気な笑顔が、白い波しぶきに照らされていた。
雅也は日差しを嫌そうに眺めつつ、煙草を取り出した。
「はしゃぎ過ぎや。海に落ちても知らんぞ」
「先生、サングラスかけるとよりその筋の人に見えるね」
「うるさいわ」
短い火花のような会話に、操縦席から苦笑が聞こえる。
アロハシャツに短パンの男、新堂だった。二十代半ばだが、パッと見は売れないホストみたいな顔立ちをしている。
「けど兄貴、たまにはこういうのもいいでしょ。よく組長に付き合ってクルージングしてたでしょ」
「懐かしいのう。お前も付いて来んでいいのに、よう来とった」
「はは、俺は単純に組長や兄貴からの小遣い目当てですわ。付いて行ったら美味いものも食べれましたしね」
笑いながらも、新堂の顔にはどこか影があった。サングラス越しでもわかる、その目の奥の不安。
雅也は煙を吐き、横目で見やる。
「で? 今日ここに来た理由はなんや。ここでみんなで仲良くサビキ釣りってわけやないんやろ」
新堂の肩がわずかに強ばった。
「……やっぱり気づいてましたか」
髪をかき上げ、ハンドルを握る手に力が入る。
「最近、組でやってる漁業のシノギがおかしくて。魚が全然獲れない。網が破れる。漁師が原因不明の熱出す」
「最近の極道は漁業もやるんかい。大変やのう」
「借金のカタに漁業権をもらったんですよ。シノギになると思って」
「その考えは悪くはないが、お前らは漁できんやろ」
「そこはその、借金してた漁師と相談して、手伝ってもらってます。儲けは折半で」
「どうもお人好しやのう。やっぱりお前は向いとらん」
雅也はぼそっと呟く。
「困って俺も若頭に相談したら……『あいつに見せてみろ』って」
「なんでそこで仙道が出てくるねん」
灰羽組若頭・仙道保。聞きたくない名前だ。
「もともとの借金の取り立ても若頭のシノギで、俺は手伝ってただけなんですけど、漁師との仲介とかやってたらなんか俺の仕切りになってて、それで」
雅也の目が細まった。あの男はなにか企んでいる――そう確信したような表情。
「面倒いのう」
立ち上がり、手すりにもたれながら海面を覗き込む。
その目がわずかに鋭くなった。
「……見えとるな」
「え?」と紫が覗き込む。
「鮫? うわっ!? でっか」
「七匹。でかい影が泳いどる。たぶん"七本鮫"や」
「なにそれ?」
「本来は神の使いとかそういう類やが、今起こっている現象から考えると、なんらか祟りで出てる可能性が高い」
雅也は煙草の灰を海に落とした。
「じゃあ原因は……」
「だいたい見当はついとる」
雅也が新堂に視線を向ける。その目には、確信と失望が混ざっていた。
「お前、ここで何した?」
一瞬、新堂の表情が止まった。
呼吸が浅くなる。喉が動く。そして次の瞬間、視線をそらした。
「……一週間前、沈めました。人間を」
静寂。
波の音だけが、やけに大きく響いた。
「えっ新堂さん、今なんて」
「アホかお前」
雅也の声に怒気が混ざる。
「どうせ、上から指示やろ。子は親には逆らえん。分かっているとは言え、因果な世界や」
「そういう事です。俺もこの世界にいる以上、綺麗事だけではやっていけないですから」
新堂の声が震えていた。
「そういう事なら、どうしようもないぞ」
神の使いである七本鮫を祓う事は難しい。時間を置いて、七本鮫がいなくなるのを待つしかない。
その時だった。
新堂がゆっくりとポケットに手を入れた。
空気が変わった。
「――乙女の生贄、なんてどうですか」
銃口が紫の方に向けられた。
時が止まったような静寂。
「……笑えん冗談やな。だいたい、お前、どこが乙女やねん。どう見てもわんぱく小僧やろ」
「先生、それは酷くない。一応、乙女だよ」
「そうかい。次からもうちょっとそれらしく頼むわ」
雅也の声は、氷のように冷たかった。目が全く笑っていない。
「本気ちゃうやろな?」
「違います、違いますよ兄貴」
新堂は銃を持つ手を震わせながら、必死に言葉を続けた。
「でも……本気で言いたいのは別のことです」
銃を下げ、深く息を吐く。
「兄貴。もう一度、組に戻ってきてください」
風の音だけが響いた。
雅也は煙草をくわえたまま、ゆっくりと間合いを詰めた。一歩、また一歩。
「お前……昔からそうや。人を信じすぎや」
声が低くなる。
「俺がもうそっちに戻らんことくらい分かっとるやろ。なんで今さらそんなこと言うんや」
「来ないでください!」
新堂は叫びながら再び銃を向ける。その手は激しく震えていた。
だが次の瞬間――
紫の拳が唸りを上げて、上から炸裂する。
ガンッ。
顎をかすめた一撃に、新堂は膝をつく。
銃が甲板に転がり、金属音を立てた。海風が血の匂いを散らす。
「……ほんま、お前は極道には向かんのう」
銃を拾い上げた雅也が、どこか寂しげに笑った。
新堂は顔を伏せ、肩を震わせていた。泣いているのか、笑っているのか、わからなかった。
「すんません……兄貴……俺……」
「ええわ。もう何も言うな」
雅也は銃を海に投げ捨てた。
小さな水音が、すべてを飲み込んだ。
その夜。
とあるマンションの一室で、若頭・仙道はノートパソコンを閉じ、窓の外を見た。
夜景が冷たく光っている。
「……どうせダメだろうな」
その背後に、ふっと影が落ちた。
気配がない。音もない。だが確かに、そこに"何か"がいる。
刃が首筋に触れる冷たい感触。
「――っ」
息が止まる。全身が硬直する。
「今回のおいた、見過ごせませんえ」
静かな声だった。
黒い着物をまとい、長い黒髪を揺らす女。中禅寺静。
「中禅寺静か」
「あら、灰羽組の若頭はんがうちみたいな女の名前を憶えといてもらえるなんて光栄ですわ」
「組長の愛人の娘を忘れるわけないだろう。まぁあんたを憶えているのは別の意味もあるがな」
「なんや、えらい含みを持たすなぁ」
「あんたにちょっかいかけた人間がよく消息不明になるって噂を聞く」
「あら恐ろしい。誰やろ、そないな噂流すなんて」
「それにあんたを一目見た時から思った。あんた、まともじゃないだろ」
「ごちゃごちゃ、やかましいわ」
刃が皮膚に食い込む。一筋の血が首を伝う。
「今回は警告や。さすがに若頭、殺してまうといろいろ影響大きいし、後処理も面倒や」
仙道の喉が鳴る。冷や汗が背を伝う。心臓が早鐘を打つ。
「うちの玩具に次、手ぇ出したら黄泉平坂に案内したるわ」
「玩具か……分かった。俺も命は惜しい。もう手は出さねえよ」
「よろしい」
刃が離れ、気配が霧のように消える。
仙道はその場に崩れ落ち、荒い息を吐いた。
窓の外、夜景だけが変わらず光っていた。
数日後。
雅也は自宅の庭で、煙草を吸う。
紫は後ろの縁側に座り、スマホをいじる。
「新堂、組やめたらしいな」
「ふーん。もう会えないの?」
「たぶんな」
雅也は空を見上げた。
「……まぁ、ええことや」
紫は視線を上げ、少し哀しい表情を浮かべる。
「先生、さみしそう」
「うるさいわ」
風が、静かに二人の間を通り抜けた。
遠くで鳥が鳴いている。
世界はまた、いつもの日常に戻っていく。
ただ少しだけ、何かが変わったような気がした。




