夏の訪問者
がらり――。
古びた引き戸が遠慮なく開く音に、奥川雅也は思わずため息をつく。ノートパソコンから視線をそらすことなく、一定のペースでキーボードを叩き続ける。
「こんにちはー、先生! また来ちゃった!」
元気いっぱいの声とともに、日焼けした腕と脚をむき出しにした少女が上がり込んできた。帽子を後ろに放り投げ、汗で湿った前髪を手でかき上げる。
藤乃紫、十五歳。不登校三ヶ月目、そしてこの古い家に居つき始めた変わった少女。
「勝手に先生呼ばわりすんな。お前、誰に断って上がってきとんねん」
雅也が苦言を呈する間にも、紫は勝手に書斎の小さな冷蔵庫を開け、コーラを取り出す。
「はいはい、うるさーい」
雅也は舌打ちした。四十手前の男が少女一人に振り回されている事実に、自分でも呆れる。鋭い目つきは元ヤクザ時代の名残だが、そんなものは紫にはとうに効かない。
「今日は何書いてんの? また推理小説? それともエロ小説?」
「うるさい、あっち行っとけ」
「どうせまた、元ヤクザが語る実録なんとかかんとか系のコラムでしょ」
雅也はため息を吐きながらも、キーボードを打つ手は止めずに答える。
「一応、小説家なんやけどな。来るのはこういう仕事ばっかり。それよりお前は遊ぶ暇あったら学校行けや」
「やーだね。あそこ、行っても面白いことなんて何もないし」
にやりと笑い、紫はコーラを飲みながら雅也のすぐ後ろで腰を下ろし、胡坐をかく。
「先生の小説、私は結構好きだよ? よく分かんないけど」
「お前に褒められてもな。とは言え、お前が面白いっていうことは、俺の書く小説は世間のニーズとはズレてるのかもな」
「なんか遠回しに私の事、ディスってない?」
「さぁて、仕事仕事」
こいつに構っていると手が止まる。
――日が暮れた。
書斎代わりの六畳間で、雅也は相変わらずノートパソコンに向かって仕事をしている。紫は後ろで寝転がってスマホをいじっていた。時折、ゲームの音がする。
障子越しに夕闇が滲み、部屋に薄明かりが落ちる。蝉の声も途絶え、古い家がきしむ音だけが響いていた。
「そろそろ帰れや。いつまでいるつもりやねん。もう外は暗いぞ」
「どうせ帰っても誰もいないし。今日はここで泊まっていこうかな」
「なんでやねん。着替えとかどうすんねん」
「一日くらい着替えなくても死にはしないでしょ。それより先生、ごはん食べに行こうよ」
「これやもんな、どんどん図々しくなっていきよる。もうええわ、後で送っていったる」
「やだ、ここで食べる。今日はカレーがいい」
「ああもう、お前はちゃんと人を見て喋れや。俺がそんなもん作る人間に見えるんか。まぁええ、とにかく送ったるから、ちょっと待て」
「晩御飯は?」
「帰りの道中でどっか寄ったるわい」
吐き捨てつつも、どこか呆れと諦めの混じった声だ。実際のところ、この静かすぎる家に紫の声があるのは悪くない。それを認めるつもりはないが。雅也は重い腰を上げると、外へ出る準備をする。
そのとき――。
古い古民家特有の人が歩くとする廊下の軋み音が部屋の外で静かに響く。もちろん、雅也と紫以外、この家には誰もいない。そしてその音は徐々にだが確実に近づいてくる。軋む音は障子の前で止まった。
障子の向こう、縁側に"何か"の気配が立つ。音はしない。だが確実に、そこに何かがいる。
雅也は眉一つ動かさない。
だが紫は身を起こし、じっと障子を見つめていた。
「ねぇ……誰かいる?」
「ほっとけ。無視しときゃ勝手に消える」
ぶっきらぼうに言う雅也。
「えーっと、車のキーは……」
ごまかすように大きな音を立てて、車のキーを探すふりをする。
「…………っ!」
紫の拳が一閃した。
ばしっ――障子紙を破って何かを殴りつける。
「おい、お前……」
刹那、氷のような冷気が部屋を駆け抜けた。紫は思わず拳を引く。
腕には、爪で裂かれたような赤い線が三本、くっきりと浮かんでいた。
「な……に、これ……」
震える声で呟く紫。血が滲み始める。
「ちっ、ボケが」
雅也は咥えていたタバコをゆっくりと口から外し、指先で弾いた。
白い煙とともに火のついた吸い殻が、障子の穴へと吸い込まれていく。
――屋敷全体に響く、耳を裂くような悲鳴。
そして次の瞬間、氷のような気配は霧のように消えた。
残ったのは、夕闇と、破れた障子と、紫の腕に刻まれた三本の赤い線だけ。
「……今の、何だったの?」
青ざめた紫が震え声で問う。血を拭おうともせず、ただ雅也を見つめている。
雅也は面倒くさそうに――いや、どこか疲れたように顔を上げた。
「だから言うたやろ」
低く呟く。
「……早よ帰れってな」
障子の向こうで、風が鳴いていた。
翌日
「おい、今何時やと思っとんねん」
「朝の7時だよ。おはよ、先生。朝なのに暑いね」
そこには昨日と同じ格好の紫が立っていた。
「いや、お前おかしいやろ。昨日の今日で、なんで平気で来てんねん」
「だって先生は助けてくれたじゃん。じゃあ先生がいれば大丈夫って事でしょ」
「なんでそうなんねん。あかん、眩暈がするわ」
「今から朝ごはんでしょ。私、トーストと目玉焼きがいい」
「そんな洒落たもんあるかい」
目に入る夏の日差しが、えらくまぶしく感じた。
初めまして、黒瀬クロエです。
とりあえず続けるかどうかも不透明ですが良かったらひまつぶしにでも読んでください。




