Defend
裕哉がそれを心に決めたのは、ごく単純なことだった。恋人である美嘉から真剣な眼差しで「私のストーカーを殺してほしい」なんて言われたら、そりゃ本気にもなる。それが悪いことだと分かっていても、心から愛する人からの命懸けの叫びなら実行に移してしまうのも理解できなくはない。
そもそも裕哉は正義感が強く、隣の席の女子が寒そうにしていると上着を肩に掛けてあげたり、力仕事は率先してやるタイプの男子だった。「座右の銘は?」という質問に「右が0.8の左が0.7」と答えたり、歴史の教科書に載っている偉人の肖像画に髭を描いてみたり、つまりは人が笑顔になるのが好きだった。男友達が多いのはもちろんのこと、女子からも人気があり、休み時間の彼の周りには常にクラスメイトが集っていた。
だからこそ、そのニュースに驚いた同期生たちはたくさんいたのだろう。通勤ラッシュ真っ只中の夏の朝に駅前で起こった惨劇の中心人物が裕哉であったことを。
就活にも本腰が入った大学3年の8月は、他人よりも自分のことで精一杯になる若者が急増する。それはカップルも例外ではなく、就活でお互いの価値観の相違が顕著になり破局する事案も増えてくる。そういった意味では裕哉と美嘉は安泰だったのかもしれない。人並みに内々定通知と不採用を受ける2人は、互いに励まし合いながら絆を強固なものにしていた。しかし美嘉には元カレというストーカーが付きまとい、手放しで素敵な時間を過ごせているわけではなかった。しかもその元カレが既婚者であり子持ちであったことに立腹し、美嘉を守りきることに全神経を集中させているほどだった。
そんなある日のこと、裕哉の元に届いた一通のメッセージが、破滅の始まりであった。
「美嘉の彼氏は君には務まらない。」
それが誰なのか、裕哉は当然分かっていた。そのメッセージを美嘉に見せると、案の定と言うべきか声を震わせながら訴えかけた。
「私、もうこいつにはうんざり。こいつのこと殺してほしい。」
そのストーカーが何処に出没するのかを聞き出した裕哉が行動に移すのに時間は要しなかった。大切な人の笑顔のためなら方法は問わない。高架駅に発着する通勤電車と、行き交う人の波、音響式信号機の機械音の中に、背後から突如の痛みを受けた男とその妻、そして巻き添えを受けた通行人の悲痛な叫びが轟く。やがてサイレンと赤色灯が辺りを包み込み、逃げもせずその場に留まっていた裕哉は車の中に押し込まれた。
その日の夕刊にはその事件が記事となり、同期生たちの耳にも入った。憶測だらけのメッセージが飛び交うなか、その後の裕哉と接触できた者は誰もいなかった。ひたすら切なさだけが取り残され、時間だけが過ぎていった。
それから早くも10年が経ち、その事件のことを覚えている人もそう多くはなくなった。駅前には報道カメラとインタビュアーが転々とするも、その話題は10年前の悲劇ではなく、8月としては珍しく気温一桁の雨の朝についてだった。あの日と同じように、喧騒に包まれるいつもの朝。その喧騒に逆行するように、ゆっくりと歩を進める1人の女子高生。その手元には、父の遺品である紺色のハンカチと、母が好きだった紅いグラジオラスの花が包まれていた。
ふと立ち止まり、何かを祈るようにしゃがみこんで濡れた路面に左手を付く。そしてハンカチから出したグラジオラスを灰色のタイルの上に置き、哀悼の意を呟く。
「お父さん、お母さん。今年も来たよ。」
その女子高生の背中には、孤独が付きまとっていた。