3 急
「少し、休んでゆかれませんか?」
その日私は、とある店先でうずくまった。
ちょうど今時分の季節――春に近い晩冬――、だった。
その頃、私はようやくプロジェクトの責任者を任されるようになっていて、俄然仕事が面白くなってきていた。
毎日が滅茶苦茶に忙しかったものの、充実していた。
充実し過ぎていた。
取引先でちょっとしたトラブルがあり、私はその日、対策のために走り回っていた。
なんとかトラブルが解消出来たのは夕刻。
ホッとしながら疲れた足を引きずり、会社へ戻る途中のこと。
私は急に、足が萎えてうずくまってしまった。
そう言えば、昼食をとる暇もなかった。
低血糖でも起こしたのか、急に足が前に進まなくなり、目の前が暗くなってしゃがみこんでしまったのだ。
「大丈夫ですか?」
低めの柔らかな女性の声。
遠慮がちに肩に触れ、こちらを覗き込んでくるのは、真白の髪を結い上げた上品な老婦人。
暖かそうな黒のワンピース、木綿の、地の厚い真白のエプロンを身に着けていた。
「顔色がよくありませんね。少し、休んでゆかれませんか?」
「……いえ」
私はかぶりを振って答えた。
「社に、戻らねばなりませんから」
彼女は一瞬考え、踵を返す。
すぐに、小さめのお盆に乗せたマグカップを手に戻ってきた。
「はちみつレモンです。一口でもいいから召し上がって下さい」
そういう訳にはと言いかけたが、鼻先に漂ってくる湯気に含まれた、はちみつとレモンのほのかな香りに惹かれた。
一瞬ためらったが、私はお礼を言ってマグカップを受け取った。
程よく温かいはちみつレモンが、身体中にしみわたる。
気付かないうちに私の身体は、飢えて渇き切っていたらしい。
あっという間に、まさに貪るように、マグカップの中身を飲み切ってしまった。
「ありがとうございます、あの、お代を……」
少し赤面しながらカップを返し、私は言った。
彼女が、すぐそばにあるレトロな店構えのカフェの店員もしくは女主人だと、はっきりしてきた頭で理解したからだ。
が、彼女は母親のような目で軽く笑む。
「いえ。これはただのおせっかいですからお代は結構です。ですが……本当に少し、休んでゆかれませんか? 身体の渇きは今の一杯でどうにかおさめることが出来たようですけれど、心の渇きまでは無理ですからね。あなたが当店の前に現れたということは、当店の魔法を必要とされているということですから。乾いた心をひととき癒す、魔法のお茶は如何ですか?」
(……は? はあぁ? ま、まほう?)
言葉の意味はわかるけれど言葉の真意……、つまり、何を言いたいのかわからない。
ポカンとした一瞬後、私は頬を引いて背筋を伸ばした。
この人のことを、店先で倒れかけていた行きずりの人間にも親切な人なのだと単純に思っていたが、ひょっとすると、怪しい宗教の勧誘でもしているのかもしれないと思い直したのだ。
笑みを作り、私はきっぱり言う。
「いえ。残念ですけど急いでいますから、今日のところはこれで失礼します。日を改めてまた、こちらへお邪魔させていただきますね。その際にぜひ、お茶を飲ませて下さい」
さようでございますか、と彼女は、やや古風な言い回しで了解すると再び笑んだ。
もう一度お礼を言った後、私は踵を返し、逃げるようにその場を去った――。
「思い出していただけたようですね」
彼女は可笑しそうに目許をゆるめ、言った。
あの日、還暦を十歳は過ぎている老婦人に見えた彼女が、今の私とほぼ同世代にしか見えないのは何故だろう?
当然そう思うが、そんな理屈とは別に、今ここにいる人はあの時の老婦人なのだということが、私には直感的にわかる。
「……約束を、果たしに来ました。ずいぶんと遅くなってしまいましたけど」
半ば無意識に、私の唇は言葉を紡ぐ。
「いいえ。光と影の距離が限りなく近づくたそがれでは、数十年の時間はあってなきが如きもの。私もこの商いを始めて長いとは思いますが、悠久のたそがれの中では儚い瞬きのような時間しか過ごしていないと思っております。お客様へピッタリの魔法を提供するのは、地道な努力と勉強の繰り返し。そうこうしているうちに、十年二十年などすぐ過ぎてしまいますから」
苦笑交じりに彼女は言う。
私が密かに思っていたことと同じような感慨を持っている彼女に、かすかな親近感を覚える。
と、彼女はふと目を転じた。
「砂時計の砂が落ち切ったようですね。どうぞゆっくりお召し上がりください」
そして一礼し、静かに彼女は去った。
ポットを引き寄せ、カップへお茶を注ぐ。
色味は普通の紅茶と変わらない。
ゆっくりカップを持ち上げ、香りを楽しむ。
紅茶の香りの中に、ほのかな甘い香りが感じられる。
一口だけ飲んでみる。
さほど主張の強くない紅茶へ、林檎に似た、ほんのりとした甘みが加わったような味。
呑み込んだ瞬間、あるかなきかの爽やかな後味と香りが鼻へ抜けた。
ほんの少しだけ、茶葉にミントが混じっているのかもしれない。
このままでも美味しいが、お勧めの通りお茶へ、はちみつとミルクを加える。
金色のスプーンでまぜ、コクリと一口、飲んでみた。
美味しい。
あの日のはちみつレモンが乾いた砂地へ染み込む慈雨だとすれば、これは……どう表現すればいいのだろうか?
似ているが、何かが違う。
二口、三口。
甘みとミルクが、それぞれの茶葉の味や風味を柔らかくまとめている……あえて言葉にするのならそういう感じだろう、すごく興ざめな表現になるが。
不思議な感覚だ。
身体や心の不要なこわばりが、ゆるゆるとほどけてゆくような感覚。
カップ一杯のお茶を飲み切った時、乾いた枯野のような胸の奥に、緑色の小さな双葉が顔を出した……、何故か、そんなイメージが浮かんだ。
帰宅後。
私は花束をまずは洗濯用のバケツへ活け、少し考えて大きめのグラスを用意する。
そこへ水を入れ、バケツの中の花から適当にピックアップし、活け直す。
それをチェストの上に乗せ、少し考えた後、花の上にある殺風景な白い壁に、今日記念品としてもらった白と金の装飾的な掛け時計を掛けてみた。
(へえ……意外と悪くない)
実用一本槍のそっけない私の部屋だ、ここだけ華やいでいたらおかしくなるかと思ったが。
ここだけ『華やいでいる』感じが、意外と悪くない。
(花瓶、買おうかな)
胸の奥から、今まで知らなかった風がゆるやかに吹いてくる。
「……光と影が限りなく近付くたそがれで、魔法を売る女主人の店」
知る人ぞ知る、ささやき声で語られる噂話。
老いた心には若く映り、若い心には老いて映る、永遠に一番近い場所にいる善き魔女。
彼女の店に出会える者は幸運だ。
その店で贖ったささやかな魔法を正しく使えれば、人生が少しだけ、善いものになるだろう。
だが、必ず幸せになれるとは限らない。
魔法の効果をどう受け取るのかは、お客の心が決めることだから。
遠い日、そんな話を聞いた気がする。
店を辞す時、レジスターの前にいた彼女は、はちみつレモンを飲ませてくれたあの日の彼女と同じ姿だったことを思い出す。
活けられた花と掛け時計を見て、私はかすかな笑みを浮かべる。
じわじわと、これからの日々が楽しみになってきた。