2 破
言葉と同時に顔を上げ、私はまっすぐ、店員の女性の目を見た。
何故そんな不躾な視線を相手へ向けたのか、自分でもよくわからない。
無意識のうち年若い部下を教え導くような気分だったのかもしれない。
少しばかり厄介なこの一見の客を、どう捌くのか興味があったのも否めない。
彼女の瞳は凪の海のように静かだった。
「かしこまりました。それでは今のお客様に相応しいお茶をご用意いたします」
(……え? 今の私に相応しいお茶? へえ……言うじゃない)
たじろぐことなく、特に何も質問することなく、一見客へ向かって『今のお客様に相応しいお茶を用意する』などと言い切る彼女の胆力に、私はやや鼻白む。
常連客ならいざ知らず、今日初めて会った客へ『相応しいお茶』を出すなど、普通に考えれば無理だろう。
仮に、ぴったりくるお茶を客に出せたとしても、意地の悪い相手なら難癖をつけてくるだろうし、場合によれば飲食代を踏み倒すかもしれない。
もちろん私はそんなバカなことなどしない。が、可能性は低いにせよ、そういうトラブルも想定できる。
(まあ……でも。そこまで言うのならお任せしましょ)
キッチンブースへ戻る彼女を見送った後、私は、何気なく窓の外へ視線を転じた。
窓の向こうで残照が美しい。
少し怖いくらい、美しい。
暗い赤が地平線を、熾火の様に焦がしている。
澄んだ青は、空の上へ行くほど蒼や藍……、黒へと近付いてゆく。
(……仕事は十二分にやってきたけど。だからって私に、何が残るだろう?)
ぼんやり夕映えを見ていると不意に、今まで思いもしなかった言葉が胸に浮かんだ。
一瞬後、ぎょっとする。
私に何が残るだろう? ……は? 何それ。
ヒトと生まれたからには何か残さなくてはならない、なんて、今の今まで考えたこともなかったのに。
(……ああ、でも)
あえて意識してこなかっただけで、常に頭の隅で考えていたのかもしれない。
思えば、がむしゃらに仕事をしてきた半生だ。
これまで恋愛や縁談も皆無だった訳ではないが、それこそ『縁がなかった』。
仕事自体が面白かったのは事実だが、では今の仕事をしないでどう生きていけばいいのかわからない……つまりは消去法のように選択した結果だという自覚も、なくはない。
私の年齢ならば、そろそろ孫を抱いていてもおかしくない。
そういう人生……伴侶と共に家庭を作り、子供を残すという人生。
未練や憧れがないとは言わない。
でも、独り身の気楽さに慣れ切った今の私ではとても耐えられない、言うに言えない煩わしさに苛まれる人生なのではないかとも思う。
その煩わしさと同じだけ、豊かな人生だったかもしれないとも思うのだが。
だが、私のこの人生も悪くない。
子供や孫という目に見える『残るもの』はないかもしれないが、少なくとも後悔にまみれたみじめな人生だとは思わない。
蓄積してきたビジネスパーソンとしての経験は、家庭を持つ人生とは違う輝きを私に見せてくれた。
社会の中で、否応なく自分ひとりの足で立って闘う手ごたえは、家庭の中での闘いとは別種の喜びがある。
それに、そもそも子供や孫は別の人格を持つ人間なのだから、『私が残すもの』などと考えるのも烏滸がましいではないか。
失礼な話だ。
要するに、この手に残るのは記憶と経験、たまさかの幸せな思い出。
どの人生を選んだとしても、それは変わらないはず。
だからこれは、きっと。
ないものねだり、というものだろう。
苦笑を隠すように私は、コップの水を口に含む。
涼やかな水が、口中の不自然な熱を冷ましてくれた。
「お待たせいたしました」
低めの、柔らかな声。
同時にサーブされる、白いカップとソーサー、ティーポット。
お茶を蒸らす時間の目安として、逆さにして置かれる砂時計。
小さなガラスのポット八分目ほど満たされた黄金色のはちみつと、それより少し大きなポットには温めたミルクが添えられた。
「砂時計の砂が落ち切った時が飲み頃です。甘みとミルクはお好みですが、こちらのブレンドティーには甘みもミルクもよく合いますので、よろしければお試しくださいませ」
「ありがと……」
顔を上げ、お礼を言おうとした瞬間、私は息を呑んだ。
声音やたたずまいから、さっきの女性店員だとばかり思っていたのに。
彼女の母親世代ではないかと思われる、白が目立つ黒髪の初老から中老の女性……私とさほど変わらない年代の女性がそこにいたから。
彼女は軽くほほ笑み、こう言った。
「ようやく来てくださいましたね、お客様。でもそれで良かったと思います。『やすらぎのお茶』という魔法はあの時より今の方が、お客様に必要だと思いますから」
「え?」
言葉の意味はわかるけれど、何を言っているのかわからない。
(……ま、ほ、う?)
この言葉に、まだ若かったある日のことを思い出す。