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1 序

家紋 武範様主催・『約束企画』参加作品。


『たそがれの魔法売り』・『ヤグルマギクの温かいお茶』と同一の世界観のお話です。

 今日、私は長年勤めた会社を定年退職した。


 このご時世につぶれもしないで会社が存続し、何かと雑音が入りがちな女の身で、定年まで勤め続けられたのは僥倖と言えるかもしれない。

 定年後もしばらくは、嘱託社員として後輩の育成を担ってほしいと言われているので、有給休暇の消化が済めばまた、同じ会社で勤め続けることになっている。

 こちらも僥倖であろう。

 いくばくかの貯えもあるし退職金も出たが、夫も子供もない私にとって、今後も仕事(それも慣れた職場で)があり、収入を得られるのは切実にありがたい。


 この状況を引き寄せたのは私自身が頑張ったのが六割にせよ、世知辛い社会情勢から鑑みるに四割方、運が良かった、から。

 若い頃は自分の頑張りが九割以上だとうぬぼれていたけれど、最近は考え方が変わってきた。

 なんだかんだ言っても私は運が良かったのだと、このところしみじみ思う。

 

 この運を手放さず、身体が動かなくなるまでそろそろと生きてゆきたい。

 ぼんやりそんなことを考えながら私は、無駄に大きな花束と記念品の入った紙袋を持ち換えた。

 退職祝いにと職場のみんなが用意してくれたものだ。

 気持ちはありがたいしもらった時は嬉しかったが、少々持ち重りする。

 そもそも花を活ける習慣のない私は、花瓶を持っていない。

 だからもらった大きな花束は、洗濯用のバケツにでも活けるしかない。

 記念品にもらった、やたらと華やかな掛け時計も、実用一点張りのそっけない私の部屋に似合うとも思えない。

 花の方は小一週間、バケツで活ければ消えるからまだしも。

 掛け時計は困ったなあと、ちょっと思う。

 頃合いを見計らって、リサイクルショップへでも持ってゆこうか?

 そんな、いささか罰当たりなことを考えつつ私は、再び荷物を持ち換えるために立ち止まった。



 立ち止まり、何気なく辺りを見渡す。

 町は橙色の夕映えに染まっていた。

 そう言えば定時に仕事を上がって、ゆったりした気分で帰路につくなんて、一体どれくらいぶりだろう?

 こうして夕映えの中に身を置いたのは、いつ以来だろう?


 定年の十年前、私は課長になった。

 泣く泣くでも管理職、定時に仕事をあがることもゆったり帰路につくことも、以来ほとんど無かった。

 『定時』は基本、部下たちの為にある区切りであって、私には関係ないと思っていた。

 昨今は流行らない考え方だろうから、これを他人に強要するつもりはない。

 あくまでも私個人の仕事のやり方だ。

 そして、最寄駅から自宅までの暗い道は、明日の段取りを整理する為のすきま時間。

 無意識のうちにそう考えるようになっていて、せかせか歩いてこの道を通ってきた。


 ややさびれた駅前商店街。

 いつもは遅いのでシャッターを下ろしている店がほとんどだが、さすがにまだ午後六時前、営業しているお店も多いしお客さんもそれなりにいる。

 それを見るともなく見つつ、持ち重りのする荷物をゆっくりと持ち換えた瞬間。

 急に私はどっと疲れた。

 軽い眩暈。


 せわしなくも張りのある、これまでの生活。

 ひとつの区切りがつき、今までの肩書きも外れ、私は心の底からホッとしていた。

 ホッとしてはいたけれど……寂しくもあったのだ、見ないようにしてきたけれど。


(……ああ。疲れた)


 疲れた。本気で疲れた。

 思ってしまうともう駄目だった。

 持ち重りのする荷物を抱え、駅前商店街を抜けて自宅へ帰るまでの道のりが、大袈裟に言うなら隣の惑星へ行くくらい遠い道のりのような気がしてきた。


(どこかでお茶でも飲んで、休憩しよう)


 いつにないことを思ったのは、あまりに夕映えが美しかったからかもしれないし……定年退職という事実をそろそろ本当に実感し始め、感傷的になっていたからかもしれない。

 おあつらえ向きという感じの、カフェと昔ながらの喫茶店の間くらいの、クラシカルだけど排他的になりすぎない、いい感じのお店がすぐそばにあったからかもしれない。

 とりあえず私はそのお店まで、持ち重りのする荷物を抱えてフラフラと歩いていった。



 扉を押すと、ロォーン、とでもいう感じの柔らかい音色のベルが鳴った。

 ドアベルとはまた、レトロな。

 レトロすぎて、かえって新鮮な気がするくらいだ。


「いらっしゃいませ」


 穏やかな低めの声が私を出迎える。

 声の方へ目をやると、長い髪をすっきりと結い上げた若い……少なくとも三十歳には遠いであろう年頃の店員が来た。

 黒一色のワンピースの上に、飾りっ気のない厚地の、清潔な白い綿のエプロンを重ねた彼女は、訓練された上質のほほ笑みを浮かべ、私を窓際の席へ案内した。


「メニューでございます」


 差し出された茶色いそれには、一番最初のページに【紅茶】とあって、私は若干、違和感を持った。

 こういうお店は大体、メニューの最初にコーヒーがくるものだと、少なくとも私は思っていたから。


「当店は紅茶とハーブティーの専門店です」


 こういう客の反応になれているのか、店員は静かな声でそう言った。


「もちろんコーヒーやココアもご用意できます。ただ、コーヒーはブレンドコーヒー1品だけ、ココアも一般的な市販の純ココアと牛乳でお作りするだけのものになりますので、その点だけはご理解いただきたいのですが」


「……はあ。そうなんですか」


 なんだか間の抜けた返事をしてしまったことに気付き、ちょっとうろたえた気分で私は、メニューへ目を落とした。


 しかし、すぐに困る。

 紅茶の種類など、ダージリンやアッサム、アールグレイくらいなら聞きかじったことはあるが、それぞれの特徴だとか自分の好みの茶葉はこれだとか、一切わからない。

 メニューには一応、説明っぽいことが書かれているが、その説明を体感へ咀嚼できる気力など、今の私はない。

 ページをめくると、今度はハーブティーのメニュー表になっていて尚更困った。

 こちらは本当に、まったくわからない。

 強いて言うなら『カモミール』くらいなら聞いたこともある気がするが、それの味あるいは効能など、一切わからない。

 私はメニューを閉じ、店員へ目を向けた。


「ごめんなさい。私こういうの、よくわからなくって。もしよかったら店員さんのお勧め……っていうか、私に合いそうなお茶を持ってきていただけませんか?」

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