婚儀はなかったことになっている?
「なんてことだ。いや、あなたには申し訳ないが、この政略結婚はなくなったのだ」
「はい?」
「王都から婚儀について使者が来たが、ドミニク様はすぐに断った。それ以降なんの音沙汰もなかったから、てっきり立ち消えになったのだとばかり。まさか勝手に話を進めていたとは……」
「ええええっ、ケイッて皇女様なの? 素敵じゃない」
「ステイシー、やめないか。皇女殿下に無礼すぎるぞ」
「だって、パーシヴァルさん。王宮でもこんなに間近に王女殿下たちを見たことがなかったのよ。こういうのってめずらしいじゃない」
「ス、ステイシー、めずらしいとは何事だ?」
「だってだって、皇女様ってそこいらにゴロゴロ転がっているものじゃないでしょ?」
ステイシーの奔放でマイペースなところが楽しすぎる。それから、それに生真面目に接しているパーシヴァルさんが可愛い。
おもわずふきだしてしまった。
急に可笑しくなってきた。
いったん笑い始めると、それを止めることは出来ない。
お腹を抱えて笑っていた。
つい先程のパーシヴァルさんの「政略結婚はなかったことになっているんだ」という言葉を忘れて。
「笑いは伝染する」
それは、わたしの持論。もっとも、家族の間ではそうではなかった。
残念ながら、家族はみんな心から笑ったり楽しんだりということはない。いつも怒ったり不満気だったりという負の感情に支配されていた。
いつも床を磨きながら、そういった負の感情に耐えていた。
でも、ここでは違うみたい。
ステイシーも笑いだした。すると、トーマスとウインストンさんも笑い始めた。
そしてついに、プリプリ怒っていたパーシヴァルさんまで笑い始めた。
陽射しが赤色のやわらかい感じになるまで、五人で笑い続けた。
ほんとうはわたしが一番困らなければならないのに、わたしが一番呑気に構えている。
訂正。ステイシーも、である。
別棟の食堂で話をすることにした。
身代わりの問題以前に、まず王子ドミニク・ウォルフォードに妻を迎える気持ちはまったくないらしい。妻を迎えるという問題とは別に、彼は王太子にほぼ決まっているという。
彼は、婚儀のことも王太子の地位のことも避け続けている。
将軍として前線に立つのを言い訳にして。
その戦争も終わった。戦争による負傷、加えて常日頃からの政治的な応酬による精神的な疲れから、この隠れ家に静養にきているという。
「ほんとうに申し訳ありません。わざわざ足を運んでいただきましたが、ドミニク様は会おうともなさらないはずです」
「そうですか。そういう事情でしたら仕方がないですね」
料理長のウインストンさんは夕食の準備の為厨房に行き、トーマスは馬たちの世話があるので厩舎に残った。だから、パーシヴァルさんとステイシーと三人で話をすることになった。
それはともかく、ここから出て行けば行く所がない。
国に戻っても「残りカス王女」を迎えてくれるとは思えない。
だけど、大丈夫。
このレストン王国なら、住み込みで働ける場所があるかもしれない。
掃除や料理や洗濯といった家事は出来る。近くの町か、もしくはもっと大きな都市に行けば、裕福な商人や貴族のところで住み込みの仕事があるかもしれない。
なるようになる。悪いことはそうそう起こらない。ふつうよりほんのちょっとよくないくらい。
「パーシヴァルさん、まさかケイを追いだすつもり?」
「だからステイシー、ケイ様だと言っているだろう」
「いえ、パーシヴァルさん。ケイ、です。わたしは、出来損ないです。今回、初めて家族の役に立てそうだったのですが……。それはさておき、そういうわけでわたしには『様』など必要ないのです。実際、皇宮でもみなさんから『おい』とか『おまえ』とか『ちょっと』とかで呼ばれていましたから」
「なんてことだ。ケイ様、それはまた……」
「なんなの、それ? おかしくない? ケイ。あなた、それってなめられて……」
「ステイシー、やめないか。とにかく、そうですね。とりあえず、今夜はこのまま泊っていただければ。むさ苦しいところですが、いまからだとどこにも行けませんので」
「ありがとうございます。泊めていただけるだけで充分すぎます」
ホッとした。
パーシヴァルさんの言う通り、いまここから出て行っても途方に暮れるだけでどこにも行けそうにないから。