特定な方に向けた物語
「君の様に独りに慣れるのもたぶん辛い事だが、僕の様に独りになるのもまた辛い事だね。」
と彼は読んでいた本を閉じ、メガネを上げながら言った。
彼のその言葉だけに反応した素ぶりをして、病室を後にした。
足早に廊下から階段へと降りながら、とても腹立たしく、悔しい思いが吹き上がった。
そうさ、だって理由も分からずに結末が分かってしまう事もあるだろう。
独りに慣れる奴なんていない。ただその先が分かってしまうから仕方がない。
慣れるでは無い、仕方無いだとなぜ分からない?
例えば、大切な人にありがとうと言われて、時に何だか切なさを感じないか?
駅の改札でサヨナラと手を振った後、心が軋む様な瞬間は起こらないのか?
僕が思うより大切な人は僕を思ってくれているのか?
急ぎ病室に引き返して、彼に
「あの、この場合はやっぱり僕はもう少しいた方が良いかな?」と彼に尋ねた。
そうだね。僕はトンチンカン大会世界第二位にはこれで間違えなくなれる。
(ファンファーレが聞きたい。)
もちろん違う、僕の聞きたいのはそんな事では無く、僕は彼に対して、
八つ当たりではなく、とても大事な事を見逃しているからだ。
大丈夫、大丈夫、巻き返しは出来る。
ファンファーレはまだ後だ。
致命的なミスをしているのは、この匂いで分かっている、
ただそれが何処から湧き出ているのかが分からない。
僕が見えているもの聞こえて来るものの、全てからそれを見つけ出すのは出来るのか?
それが正しい事なのか?
例えばそのミスは部屋のクーラーを入れっぱなしにしている事か、
それとも君の周りにある、気分が悪くなる程の濃い孤独を払い除ける方法を見つける事なのか。
よく考えなくては。言葉にして良い事、ためらわなくてはならない事、
そぶりを見せなくてはならない事。
たくさんの中から、最適な手順を踏まなくては。
分かっている、これじゃ、僕はただの迷子の子供だ。
それに、あみだくじは得意じゃないんだよ。
どうする?
彼は本から目を上げ、相変わらずの優しい呆れ顔をして、
「君はどうしたい?」と僕に聞き返した。
そう、僕はどうしたいのだろう。
僕は知っている。
彼は僕に何も求めていない。学生時代からのルールだ。
求められず、求めず。足下に降らず。
(どこかで、誰かがクスッと笑った。)
「いや、どうしたいとかはないんだ。なんか。。。」
どうかしている、会話になっていない。
全てがいっしょくたんになっている。とっ散らかっている。
黙って立っていたら、彼は笑いながら、「お大事に」と言って本を読み始めた。
試合終了。
誰も幸せになれなかった時間。
オチすら無い。
(誰か、Booと言ってくれ。)
病院に向かうまでは、見舞いをした後に、
学生時代を過ごした街並みを歩こうかと思っていたが、そんな気にもなれず、
仕方無しに新幹線に乗った。
誰も僕を待っていない東京行き。
以前、アシスタントにお土産を渡さなければ、何処に行って来たとか、何を見たのかとか、
美味しい食べ物は何だとか話さなくて済むから良いと言ったら、
「ただの偏屈でケチなだけじゃ無いですか」と真剣に怒っていた。
「良い大人はそんな事では怒らないよ。それに僕は偏屈じゃ無い」と返したら。
「はいはい。偏屈さん。」と言われた。
彼とは大学院を卒業してから、
季節の変わり目に葉書を交わす程度の付き合いだった。
いつも長岡の風景写真とその下に達筆過ぎる万年筆の青い文字。
一生懸命目を凝らしても、内容の半分も理解出来なかった。
「これじゃ、やり取りしている意味が無いな」といつも僕は思っていた。
その彼から、1通のLINEメッセージが届いた。
「君に受け取って貰いたい物がある。手で持ち運べる程度の物だ。
ついては、恐縮ながら、以下の住所に来て頂きたい。
新潟県長岡市○○町XX中央病院610号室」
病院?
彼は入院しているのか?
手が離せない程、忙しい案件は無いが、行くのが億劫だった。
僕は小さい頃から病院が怖かった。
静かな病室、不機嫌な医師、急ぎ足の看護師。
機械音が定期的に鳴り、不意にそのリズムが崩れると、
誰かがパタパタと走る音がする。
手の届かない場所に行かせない様に誰もが僕に緊張を強いた。
彼とは30年近く会っていないが、長岡に行けない理由は何も見つからなかった。
「ちょっと手の離せない仕事が有って、直ぐにそちらに行けそうに無いんだ。
良かったら、その”物”とやらを僕に送ってくれないか?」と返信した。
「無理を言っているのは承知だが、是非手渡しをしたい。再度検討を請う」
と僕の提案を静かにそれでもしっかりと拒絶するメールが、
彼から有ったのは10分程度してからだった。
10分。
病室のベッドで僕の返信を読み、彼は10分間何を考えていたのだろう。
どんな病状から知らないが、病人からお願いをされて、その断る理由が、
僕は病院が怖くてたまらないので行けないとは言えない。
「分かった、明後日の日曜日に伺う事にするよ。果物でも持って行こうか?
花は勘弁してくれよ。お互いに恥ずかしい」とメールを送り返し、
明後日の長岡行きの新幹線予約をアシスタントに依頼した。
少し迷って帰りの新幹線の予約はいらないと付け加えた。
日曜日の早朝、東京駅に向かう途中で、彼から「何もいらない」との一文だけがLINEメールで届いた。
長岡に向かう車中で、彼との出会いを思い出していた。
彼は変わっていた。
いや、正確にはあの頃の学生は多かれ少なかれ変わっていたのかもしれない。
変わり者と言われると勇者に近い響きが有った。
ファンファーレこそ高らかに響かないが、ほんの少し紙吹雪が舞ってもおかしくは無かった。
だから皆、こぞって変わり者になりたいと願い行動した。
毎夕、学内の長い手洗い場にスッポンポンで横になり、
蛇口を4、5ヶ所開いて、シャワー代わりにしいる学生を教務課の事務員達が追っかけ回していた。
1か月以上風呂に入らず、それを自慢したいのか、猛烈な異臭を発しながら講義に出席し、
遠巻きに着席している学生を見て悦に浸っているのを、
教授から「体全部を洗って出直して来い!」と退席を命じられる者。
彼が座った座席は「清掃の為、しばらく使用禁止」と書かれた紙が貼られていた。
時代は大らかで大人達は大人の役目を果たし、僕らは僕らの役割を探していた。
そんな時代が終わりに向かっていたのは誰も気付いていたが、
誰も口にしなかった。
大人達には僕らがどう映っていたのだろう。
これから訪れるであろう、
いや、あの時、既に訪れていた不幸せな時代に角逐するには、僕らが持っている武器は余りに貧弱で、
まして、誰に立ち向かえば良いのかすら分かっていなかった。
彼は学内で上位三位には入る位の変わり者だった。
他の二人は変わり者と言うより、精神的に崩壊している人間だったと思う。
ある日、彼は、学内を歩いている一人の女性に駆け寄り声を掛けた。
「僕は工学部の○○です。貴方の事は知っております。
僕は貴方に相応しい男ですので、僕との交際をお願い致したい」
彼女は真っ赤になりながらも「はい」と応じた。
神様さえも変わり者であった時代。
翌年、学生結婚をし、その行動に僕は唖然とした。
しばらくして、大らかな時代は終わり、僕らはそれぞれの道に進んだ。
彼は大学に残り、彼女は地元の銀行に勤めた。
僕は、鼻をほじっりながら、研究室でぼぉと日々を独り過ごし、たまに、
がむしゃらに研究論文を書いた。
あの時は皆が言うように確かに僕は何かに取り憑かれてたと僕も思う。
一人ひとりとキャンパスから学生が居なくなるのに気付き、
その理由が、皆就職先が決まっているのと知り、
担当教授に何度も頭を下げて、無理くり東京の大手メーカーに何とか滑り込んだ。
僕の論文は担当教授が書き上げてくれた。
教務課の事務員に追っかけ回されていた奴も、風呂に入らなかった奴も
破廉恥な行為で警察に捕まる事無く、
誰かの配慮か、それなりの場所に落ち着いた。
その後は、確かに暗い時代だったが、何とかその日を忙しくこなしていた。
そう、クリスマスには小さくてもケーキを買うことは出来たし、横にはとても綺麗な彼女は居た。
どこもかしこも、スピーカーから「雨は夜更け過ぎに雪へと変わる」と切々と説いていた。
学校を卒業して15年くらい経った時、彼からいつも通りの季節の挨拶状が来た。
相変わらず、長岡の風景写真と達筆な万年筆の文字。
文章の最後に、
「追伸、愚妻が鬼籍に入りました事。ご連絡致します」と有った。
長岡では秋が木の葉に染み込む事を終え、葉を散らしながらそそくさと冬支度をしている季節だった。
彼はまるで他人事の様に淡々と事務事項を終わらせ、葬儀を済ませ、そして49日を終えた。
その翌日、自殺を試みた。
未遂だった。
大学側は彼の行為を表沙汰にせず、彼に1ヶ月ほどの休暇を与えた。
その1ヶ月彼は何をしていたのかは、知らない。
その時、僕は僕でとてつもない厄介な事に見舞われていた。
何があっても無くしてはいけない人を守る事に必死だった。
とてもしんどい事だったが、それでも守り切れると信じていた。
休暇が明けて、直ぐに彼は学生に対して講義をしたと聞いた。
まるで、先週の講義の続きをするかの様に。
「幸せなんて、その時に感じていなければ何ら意味が無い」と彼は僕に言った。
とてつもない孤独がそっとやって来て、彼の側にじっとしているのが、
彼からの葉書から滲み出て来るのが分かった。
何か声を掛けたかったが、僕はその何かを言葉にする術を持っていなかった。
僕の出来る事は、彼のその孤独を完全に理解し、
そして、小さく溜息を吐くだけだった。
新幹線は無感情で長岡駅に到着した。
昔の車両の様にいちいち感情は込めてはいられないのであろう。
たくさんの乗客を決まった時間に送り届ける役目で精一杯だし、
定刻通り駅に送り届けても、誰も感謝してくれないのも知っている。
駅から病院までは歩いて20分程度だったので、歩いて行くつもりだった。
その前に手土産をどうするか。
東京駅で買って行くつもりだったが、彼から何もいらないと連絡があったので、
そのまま、手ぶらで新幹線に乗車したが、長岡に着いてから、
流石に手ぶらはと思った。
僕はいつもこんな感じになってしまう。
素直で臆病な人と遠くで誰かが僕に向かって言った。
でも遠くで見守っているから大丈夫だよと。
花と地元銘菓以外で何かないか探したが、これと言ったものは見つからなかった。
本屋に入って、百名山の雑誌を買った。
これなら、山好きの彼の時間潰しになるだろう。
カバーをしますか?と店員に聞かれたので、少し迷って、
お願いしますと答えた。
店員はもう何十年も同じ事を繰り返してきた手つきで、
手早く本を包み、折り目を入れて、器用に折り畳み、本にカバーをしてくれた。
本はとても居心地が良さそうだった。
本とカバー。
良いコンビだ。
本屋を出た時には雪が降っていた。
駅まで戻りタクシーで病院まで向かう事にした。
タクシーの運転手は物凄く退屈していたのか、
どこから来たのか?
病院に行くって事は何かあったのか?
帰りはどうするのか?
ここらの経済はもうダメだ。
時間があるなら、そこの定食屋さんのカツ丼を食べて帰った方が良いと教えてくれた。
タクシーが病院に到着し、お釣りは要りませんからと
言ったら、運転手は、帽子を取って、嬉しそうに頭を下げて、
また、宜しくお願いします!と言い車の扉を閉めて、発車した。
彼の病室の場所は知っていたが、受付で彼の見舞いにきた旨を告げた。
それが1つの作法だと、会社のアシスタントが言っていた。
「作法?あのお茶とかお花とかの?」
「まぁ、そんな感じね。ただ、それだけでは無くて、世の中にはその作法が沢山あって、
大人はそれを一つ一つ身に付けるの。身につけた具合が品格の高低になるんです。」
「僕はお茶もお花も好きじゃないな。それに品格なんて食べられ無いし。」
アシスタントは僕にため息をつきながら、
「「普通」の大人は品格を重んじるんですよ!」
僕はコーヒーを啜りながら、「作法」と「普通」と口に出してみた。
とても素敵な兄弟の様に感じたが、どうも僕とは仲良く慣れそうには思えなかった。
受付の女性はとても忙しいのか、病室の場所の問い合わせなんて日常茶飯事なのか、
僕の顔を見ずにパソコンのキーボードを叩きながら、
「ご親類か何かですか?」と尋ねた。
「はい。親戚です。」と答えた。
この場合、彼女の仕事をこれ以上邪魔してはいけないと思うのは、
「普通」の大人だ。
「作法」と「普通」と声に出してみた。
聞こえなかった筈だが、彼女は怪訝な顔をしながら、
「この向こうのエレベータで6階に行って左側の病室になります」と言った。
エレベータか。
階段で行っても良いでしょうか?と彼女に問うと。
ご勝手にと言った感じで、「エレベーター横に階段が有ります」とパソコンに向かって返事をした。
病院とは大抵、病気の人達が来る場所で、誰しもが両手を上げて喜んで来る場所では無い。
もちろん、笛やラッパなんて鳴らない。
たまに鳴っても誰も気付かないのに。
これも「作法」なのだろう。
クリーム色のリノリュームが敷かれた階段を登って、彼の病室にたどり着いた。
病室には4つの名札が出ていて、彼以外には2名の名前が有った。
彼は良い名前だと思う。
きっと両親や祖父母が真剣に考えたのだろう。
それだけでも幸せだ。
どんな子にも平等に名前が与えられる。
それがとても嫌な名前だったとしても。
一人一人に等しく与えられる。
病室で彼に会った時の第一声は新幹線で考えてきた。
「よう。元気にしてたか?」と言わない様に。
病室の一番奥の窓際に彼のベッドが有り、彼は本を読んでいた。
「久しぶりだね。どうした?大変そうだが大丈夫か?」と僕は彼に言った。
彼は、本から目を離し、とてもハッキリとした声で、
「あぁ、こう見えても大丈夫なんだ。わざわざすまない」と僕に詫びた。
「まぁ、いいさ。そんな事は。それで、しばらく入院するのか?」
「いや、今回は検査入院なんだ。1週間程度だ。ただ、結果が良くないとそのまま治療入院になる」
「そうか。それは大変だな。それで、何か困っている事は無いか?
着替えとか身の回りの物とか必要だろ?さっき病院の1階でお店が有ったからそこで買ってくるよ」
「その必要はないよ」
「そうか。その必要は無いか」
「そうだ。」と言って彼は笑った。
30年ぶりの彼の笑顔に少し戸惑った。
なぜだろう。
そして、とりあえず僕も笑った。
少しづつお互いの雰囲気に慣れて来たのか、取り留めない話をした。
お互いの仕事の事。
馴染みの定食屋がチェーン店化して長岡では有名店になっている事。
大学時代に一番モテていた奴が、すこぶる気が利かない嫁を貰って、子供が5人もいる話。
どうでも良い話をして、お互いの持ちネタが無くなって、
これ以上話をすると、お互いに触れては行けない所に手を伸ばしそうだったので、
「それで、僕に渡したい物とは?」と切り出した。
彼から手渡された物は何の変哲もない茶器と数冊の本だった。
「これをどうして僕に?」と彼に問うたら、
「君が以前欲しいと言っていた物だよ。忘れたのかい?」と彼はスッと息を吐く様に答えた。
「僕が?いつ?」
「僕と彼女が結婚をして、一緒に住む為に、僕は下宿から引っ越しをしただろう?
その時、君がポンコツの車を借りて来て、荷物を運んでくれた。
何をお返しをしなくてはいけないが、適当な物が無いと言ったら、
それなら、いつかその茶器とこの本をくれと言ったじゃないか。」
「そんなこと言ったか?それにあれはポンコツじゃない。」
「言ったよ。そんな物ならいつでも持って行ってくれ」と言ったが、君は頑として受け入れず、
「いつかとはいつかになってからだと。今じゃない」と。
「あぁ、こいつはやはり変な奴だと思ったよ。彼女も同感だった」と笑った。
「仕方無い、そのいつかは今日なら頂いていこう」と僕が言ったら、
「そう。そのいつかは今日だと思う。それにあの車は勲章もののポンコツだった」と彼は言った。
「そろそろお暇するよ」と彼に言い、
彼は「そうか、ありがとう」と笑顔で答えた。
「今度いつ来たら良い?住んでる場所は変わっていないだろ?」
彼は小さく頷きながら「あぁ、住所は変わってない。いつか来れば良い。」
と言い、本を開き視線を落とした。
その言葉を背に病室を出る時にとても大事な事を見逃している様な、
ここに来た本当の理由がそこに彼の側に落ちている様な気がした。
背を向け病室を出る僕に彼は独り言の様に僕に言葉をかけた。
「君の様に独りに慣れるのも辛い事だが、僕の様に独りになるのもまた辛い事だね。」
それから彼は春を迎える事を無く、あの白いベッドから静かに彼女の元へ向かった。
その彼の喜びに誰も彼にラッパや笛を吹いて祝って上げられなかった。
せめて僕には言ってくれたら、ピアニカくらいは吹いたのに。
「幸せなんてその時に感じていなければ何ら意味が無い」と彼は僕に言った。
良い言葉だ。
当たり前の日なんて無い。
幸せに大小も無い。
独りになるのはオロオロしていたら、自分の座る席が無くなっていただけの事。
独りに慣れるのは自分の席がこれからも無いと分かっただけの事。
たったそれだけの事。
そうだろ?
君はどこぞで彼女とまた静かに暮らしているのかい?
こっちでやる事を済ませたら、そこに僕は行けるかな?。
3人でポンコツじゃない車でドライブしよう。
早くその日が来ると良いね。
終わり