tranquillo
どす黒い罪悪感が、真実を拒絶する。
もしも神様がいるなら、きっとあたしのような人間をお許しにはならないだろう。
この町を訪れたときから、あたしは薄々感づいていた。でも恐くて気づかない振りをしていたのだ。
気づいた瞬間に、いや気づいたと悟られた瞬間に、あたしはまた大切な友だちを失うことになるのだから……。
つきこ。
「……やはり、あなただったのね?」
「ふふ……、やっと見つけてくれたんやね、うちのこと」
恐る恐る彼女を見上げた。その顔は、照り付ける逆光線と重なり……暗闇に見えた。あたかも太陽を蝕む、月のように――。
あたしは膝元に生える夏草を握りしめ、そして忌まわしい真実の記憶を噛みしめながら震えた。
あのとき……。
月子と隠れんぼをしているとき、あたしは目をふさいだ指のあいだから、そっと彼女がどこへ隠れるのかを盗み見ていたのだ。
山の斜面、雑木の陰、夏草の茂み……。隠れる場所を逡巡したあげくに月子が選んだのは、大きな洞穴だった。この近辺には、風穴と呼ばれる鍾乳洞がいくつも空いている。でもその大穴には、何か特別な雰囲気があった。
天の磐戸……。
後で、神社の人がそう呼ぶのを聞いた。日本神話にちなんで付けられた名前だ。入り口には、立派な注連縄が張られている。子ども心にも、侵してはいけない神聖な場所だと感じた。
「……だんないなあ、よし、ここに隠れたろん」
そう言って、月子がその穴に入るのを見届けてから、あたしは彼女を探すふりをして歩き回った。隠れている場所は分かっている。でも、すぐに見つけてしまっては、あたしがズルをしたことがばれてしまうのだ。
「おかしいなあ、つっこちゃん、どこへ隠れたのかなあ」
わざとらしく、そんな台詞を吐いて、あたしは大穴の中を覗き込んだ。そして、思わず息を呑む。
穴の中には、醤油樽の底に沈殿しているような濃厚な闇が満ちていた。
よく、こんな所へ入れるなあ……。恐くないのかな?
穴の奥から冷たい風が吹き出していた。どこか別の穴と繋がっている証拠だ。
一瞬、躊躇したが、あたしはその穴の中へと足を踏み入れた。
「まさか、こんなところに隠れてないよね? 神社のひとに見つかったら怒られちゃうもんね」
ちょっと意地悪して、わざとそんなことを言う。暗闇の中、月子が慌てて、さらに奥へと身を隠すのが見えた。もう、そろそろ見つけてあげた方がいいかな?
あたしがそう思ったとき、穴の奥で短い悲鳴が聞こえた。いやな予感がした。あたしは慎重に足下を確かめながら、穴の奥へと忍び寄った……。
かつては岩壁に釘を打って綱を渡し、人が入れないようにしていたのであろう、朽ちたロープの切れ端が地面に落ちていた。そして、その奥に……。
たいへんだ!
あたしは悲鳴を上げそうになった。
その洞窟は、奥のほうで急に縦穴へと変化していたのだ。子どもが一人、やっと入れるほどの穴が、まるで罠のようにぽっかり口を空けている。月子は、まちがいなくこの中へ落ちたのだ。穴の前に、あたしがあげた麦わら帽子が転がっていた……。
覗き込んだ穴は、地獄の底まで繋がっていそうなほどに深く見えた。とてもあたしに、月子を助け出すことなんて出来ない。
あたしは、そこを飛び出すと、神社のひとを呼びに走った。でも社務所の中は空っぽだったのだ。
どうしよう、どうしよう――。
夢遊病者のようにふらふらとさまよったあげく、あたしは妙子お婆ちゃんの家に駆け戻っていた。
「あっ、おばさん!」
ちょうど月子のお母さんが挨拶に来ているところだった。あたしが東京へ帰ることを聞きつけてきたのだろう。あたしは慌てて彼女のエプロンに取り付いた。
「おばさん、たいへんよ! つっこちゃんがいなくなっちゃったの。神社の裏山で隠れんぼしてるうちに、姿が消えちゃったの」
なぜか穴へ落ちたとは言えなかった。幼心にも、どこか後ろめたい気持ちがあったに違いない。しかし、月子がいなくなったと言えば、みんなが慌てて探しに行ってくれるものと信じていた。
でも、あたしの予想に反し、大人たちは誰もあたしの話に取り合ってはくれなかった。
「ほんま、しゃあない子やなあ。里沙ちゃん、もう東京へ帰ってしまうんやろ? もう会えへんようになるのになあ……」
そう言って笑った。月子はこの辺りでは有名なお転婆娘だ。遊びに夢中になってどこかへ行ってしまうなんてことは、しょっちゅうなのだった。
違うのよ、そんなんじゃないのよ、大変なのよ……。
妙子お婆ちゃんの家に、パパの運転する車が迎えに来たのは、ちょうどそのときだった。
「里沙、ママの具合が悪くて、すぐに東京へ戻らなくてはならないんだ。早く車に乗りなさい」
「あらら、幸江さん、大丈夫ね?」
「ええ、それが異常分娩らしくて、出血がひどいんです」
「まあ大変や。ほならすぐ里沙ちゃん連れて帰らんと」
そんな大人たちの会話に、あたしの言葉は押し流された。気付いたら、東京行きの車へ押し込められていた。混乱する頭を整理する間もなく、車は無情にもその町を後にした。
どうしよう……。あたし、とんでもないことをしている。
あたしは、自分の罪深さにおののいた。
いま、月子はどんな気持ちで穴の中にいるのだろう。きっと、あたしが見つけ出してくれることを信じて、助けを呼んできてくれることを信じて、必死に勇気をふりしぼり待ち続けているに違いない。ああ、どうしよう、どうしたらいいの……。
五才の子どもにとって、三重県の田舎町は、大海の彼方にある見知らぬ外国ほどに遠かった。東京が近づくにつれ、あたしの焦燥感は、自棄的な諦めへと変わっていったのだ。
もうだめ、あたしには、どうすることもできない。ごめんね、つっこ、ごめんね……ごめんね…………。
やがてあたしは、日が経つにつれ募ってゆく後悔に押しつぶされそうになる自分を、自分の心を、無意識のうちに封印してしまったのだ……。
もういいかい
まあだだよ
月子の顔を見ることができない。この十数年間、どんなにあたしの事を憎んできたろう。東京で偶然あたしと出会ったとき、どれほど怒りが込み上げてきたろう。あたしは、たとえ彼女に殺されたって文句を言えやしないんだ。
――ああ、また失うんだ、あたしは大切なともだちを二度までも失ってしまうんだ。
さっきはあんなに泣けたのに、この汚れた悲しみのためには、涙なんて一粒も出てこなかった。人間って不思議だ、本当に悲しいときには、返って泣くことすら出来ないんだから……。
もういいかい
「もういいよ…………、里沙」
月子があたしの目の前にしゃがみこんだ。あの、天日干しした洗濯物みたいな素朴で優しい匂いが鼻先で揺れ、はっとなる。そして、あたしは生まれて初めて彼女の泣いてる顔を見てしまった。
「勘違いしやんとって、うち、別に怒ってるわけやないに。うちは、ただ自分のこと、里沙に見つけて欲しかっただけなんや」
「え……」
「だって、そやろ? 隠れんぼしたまま、ずうっと見つけて貰えへんなんて、めっちゃ淋しいやん。うちは、『つっこちゃん見ぃつけたっ!』っていう里沙の嬉しそうな顔が、ずうっとずうっと見たかったんや。ただ、それだけやに……」
月子がそっと手をさしのべた。
「さ、もう帰ろ。東京へ」
「…………つき、こ」
あたしは最初ためらいながら、しかしやがてすがりつくようにその手を握りしめた。細くて、やわらかくて、あたたかい月子の手が、ぐっと握り返してくる。そして彼女は、握った手に力を込め、思いきりあたしのことを引っ張った。
「里沙――」
そのままの勢いで、あたしは月子の胸に飛び込んでしまった。
「月子、月子、あたし、あたし!」
「よしよし」
月子が優しくあたしの頭をなでてくれた。その途端、もう枯れてしまったと思っていた涙がいっきに溢れ出てきた。
「月子ぉ、月子ぉ、ごめんね、会いたかった。あたし、ほんとは、ずっとずっとあなたに会いたかったの」
思いっきり泣こう……。そしたらきっと、あたしの心の中にあるあの血の池地獄だって、美しい泉に姿を変えるかもしれない。なぜだか、そんな気がした――。
女の子は、その精神にやがて母性が芽生えると、少女のときのようなピュアな心を失ってしまうらしい、と何かの本で読んだことがある。でも、それはきっと違うんだと思う。
あたしたちの中には、幾つになっても少女時代の自分が住んでいて、心が荒んだとき、汚れてしまったとき、渇いてしまったときに、まるでケルトの妖精のように現れ、そして失いかけた無垢な心を忘却の淵から引っ張り上げてくれるんだ。
月子に出会えて、あたしはそのことを知った。
神様が与えてくれた――、あたしの大切なともだち。もう二度と離しはしない…………。
「東京に着いたら、もう夜中かもね。家に電話入れといたほうがいいよ、うちのおかんと違って里沙のママ心配性だから」
「……うん」
「名古屋のあたりでご飯食べてから帰ろっか。あと、おみやげも買わないとね」
「……うん」
「ああそうだ。さっきの弁当代とアイス代、あとで返してね」
「………………せこ」
帰りの列車に乗り込むとき、あたしは泣きはらした顔で懐かしい景色を、もう一度ふり返ってみた。もう決して、この町のことを忘れたりはしないだろう。だって、忌まわしい過去は、オセロゲームで大逆転するみたいに、すっかり素敵な思い出へと姿を変えてしまったのだから。
あいかわらずよく喋る月子と、叱られた子どもみたいにうつむくあたしを乗せ、やがて列車はゆっくりと動き始めた。
「……あれっ?」
「うん? どうしたの、里沙――」
窓枠に四角く切り取られた景色がゆっくりと流れだしたとき、あたしは確かに見た。
誰もいないはずの駅の待合所に、少女が二人、嬉しそうにこちらへ向かって手を振っているのを……。
お読み下さり、ありがとうございました。