maestoso
悔しいくらいに、空は晴れていた。
雲ひとつない蒼昊は、SKYというよりは、むしろCOSMOSだ。
なのに、あたしの心には暗雲が垂れ込めている。ああ、やはり来るべきじゃなかったんだ。
あたしは、逃げ出したい衝動を懸命にこらえ、両足を踏んばった。
――そして、見ていた。
すぐ目の前に、まるで江戸時代の刑場に掲げられた高札みたいに、木の看板が突き立てられている。長年風雨にさらされ、ところどころ文字が剥げかかっているが、墨で書きなぐったようなその文章からは、はっきりと『血の池地獄』という文字が読み取れた。
「……湧き水に、酸化鉄が多く含まれているから、こういう赤い色をした池になるのよ」
看板に書かれた説明を読んでいるのか、月子が、あたしに背を向けたまま言った。声は穏やかだが、表情までは読み取れない……。
四、五メートル先に池がある。
いや、池と呼ぶにはあまりにも小さい。どちらかといえば、大きな水たまりといった感じだ。その水が赤褐色に濁っているのだ。山中の、緑一色の景色にあって、それは血のように赤く見えた。さらに地中からガスが発生しているらしく、時折こぽこぽと泡が浮き上がってくる。
地元の人たちが、血の池地獄だなんて仰々しい名前を付けたのも、あながち的外れじゃない、とあたしは妙に納得していた。
「キーワードにあった”じごく”って、たぶんここよね?」
月子がふり向いた。きれいに切り揃えられた前髪が、白いひたいをさらりとなでる。そして、目が……あの妖しい猫のような瞳が、磨かれた黒曜石みたいに鋭利な底光りを放っていた。
「さあ、思い出してよ、里沙、ここで何があったのか……、あなたには、そうしなければならない理由があるはずよ」
「月子? あなたは一体……」
「まず目を閉じて――、そして感じるの」
月子が、あたしの言葉をさえぎり、夏空を仰いだ。うっとりと目を閉じる。そして、まるでフィナーレを演じるオペラ歌手のように、ゆっくりと両手をひろげていった……。
「ほら見えてくるでしょう……? 幼い日の、まだ疑うことを知らなかった無垢な少女時代の……。あの頃には見えていたはずの、眩いほど愛おしい世界が……」
彼女の言葉が、妙に心に染み入る。幾つものバリケードを突破して、何か得体の知れない力が、あたしに迫って来るような気がする。ああ、だめだ、心の閂が外されてしまう――。
あたしは、催眠術でもかけられたように、ゆっくりと目を閉じた。そして思いきり喉を反らす。まぶたを突きぬけて、太陽光線がきらきらと渦を巻いた――。
あたたかい……。もういっそ、このあたたかさに身も心も預けてしまいたい。
やがて、あたしは、水に少しずつ体を浮かせるみたいに、徐々に意識を解放していった……。
まず風の囁きが聞こえた……次に草の匂い……そして胸の中いっぱいに、アイスクリームの味が広がった…………。
もういいかい
まあだだよ
後ろから少女がふたり、息せき切って駆けてくる。
背を向けたままなのに、あたしにはその姿がはっきりと見えた。まだ、お伽の国と、輝けるネバーランドを信じていた、少女時代の自分が――、大切な大切な、友だちを伴って、駆けてくる。
彼女たちは、どんどんあたしへと近づいてきた。ああ、ぶつかる、そう思った瞬間、二人はあたしの背中を突きぬけて、前面へと躍り出た。二つの小さな後ろ姿が、目の前に仲良く並ぶ。
そのまま、少女たちは池を見下ろした……。
「どや? すごいやろ、ここ、うちの秘密の遊び場やに」
「うん……、でも何だか恐いね」
「こわないこわない。ここ、おもろいんやで、そこらじゅうに大穴な空いとんのや」
「ふーん……」
「そや、隠れんぼ、しやへん? ここなら隠れるとこ、ぎょうさんあるよってに」
「えー、危なくない?」
「あんきしない、穴の側な寄らんとけば、大丈夫やに。な? かまんやろ? しよに」
「うん、しようしよう」
「ほな、さいしょは、うちが隠れるよって、里沙、オニやっておくんない」
「いいよ」
「うちが隠れるまで、覗いたらあかんでー」
「うん」
もういいかい
まあだだよ
あぶり出しの文字がしだいに浮き出るように、幼い日の記憶が甦ってゆく。
そうだ、あの日、東京にいる父から、弟が生まれたと電話があったんだ。それを聞いたあたしは、慌ててあの子に会いに行った。お別れを告げるために。でも、結局その話を切り出せないまま、あたしは彼女にここへ連れて来られたんだ。
そして、二人で隠れんぼをした。
まず、オニになったのはあたしだ。あの子が隠れ場所を探しているあいだ、あたしはずっと目を閉じていた……、その後は? 何があったの?
あたしは、駆り立てられるようにまた一つ記憶の扉を押し開けた。
安っぽい悲劇のヒロインみたいに、幼い日のあたしが池の縁をさまよっている。自分の背丈ほどもある夏草が、行く手を阻むように覆いかぶさってくる。血の池で、ちゃぷんと泡がはじけた。あたしは不安に駆られ、泣き出しそうになりながら友だちを呼んだ。
「ねえ、どこ? どこに隠れているの? もういいから出ておいでよ」
返事はなかった。
また、血の池でこぽっと泡がはじける。あたしは、初めて見た時からこの池が恐ろしかった。だから、なるべくそっちの方を見ないようにしていたのだ。でもその時は、なぜだかいやな予感がして、無意識にそこへ目をやってしまった。
切り取った夏空が、赤い水面に映り込んでいた。その中空を漂うように、白い麦わら帽子がぽつんと浮かんでいる……。
ああ大変、あの子、池に落ちちゃったんだ。はやく、はやく誰かに知らせなきゃ。
あたしは慌てて狐坂を駆け下った。泣きながら神社の社務所へ駆け込む。すぐに町中が大騒ぎとなった。そして警察や消防、地元の青年団までが出動して、みなで池の底をさらった。
でも結局、あの子はいつまでたっても見つからなかったのだ。あたしは、不安と悲しみで気が遠くなるのをおぼえた。
ああ、その後のことはよく覚えていない、気がつくと、あたしは東京へ帰る車の中だったんだ。じっとりと汗ばんだ手に、くしゃくしゃになった白い麦わら帽子が握られていた……。
そうだわ、あたし、ともだちの安否も確かめずに、さっさと東京へ帰ってしまったのよ。なんてひどいことをしたんだろう。あんなに仲良しだった友だちのことを放り出して……。
あたしは手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。指の間から嗚咽が漏れる。
とうとう、悲しい過去を全て思い出してしまった。はたして、これで良かったのだろうか? ずっと、心の内に秘めておいた方が楽だったのではないか?
ふと……、すぐ鼻先に人の吐息を感じた。見ると、幼い頃の自分が、息が吹き掛かるほど顔を近づけ、あたしを見つめていた。
――どうしたの?
あたしが問いかけると、彼女は、鼻の付け根にしわを寄せて、こう言った。
「う、そ、つ、き」
「へ……?」