dolce
――あたしの目の前を、二人の女の子が戯れ合いながら通りすぎた。楽しそうに神社の境内のほうへ駆けてゆく。そそり立つ神木の梢に、あどけない笑い声が谺しながら吸い込まれてゆく。そんな様子を、あたしは声を失いただ茫然と見つめていた。
この子たちって、もしかして……。
いや、実際にはそんな女の子などいるはずもなかった。あたしは、ありもしない幻を見ているのだ。と、自分自身に言い聞かせる。しかしこの古びた神社を見た瞬間、あたしの心の中で何かのスイッチが入った。あたかも埃をかぶっていた映写機が勝手に回りだし、その存在すら忘れていた思い出の記録映画を、突然上映し始めたみたいに――。それはまさに、古いシネマのワンシーンのようだった。視界一杯に、幼いころ目にした懐かしい情景がひろがっている……。
女の子の一人は、白いむぎわら帽子をかぶっていた。レース編みの黒いリボンが、深海に住む魚の尾ひれに似て、ひらひらと風にそよいでいる。
ああ、これは、たぶん子供のころのあたしだ。きっと自分は今、この町で過ごした幼いころの記憶を甦らせているのだ。
それにしても、もう一人の子供は誰だろう? どこかで見たことがあるような……。
――いや、あたしは絶対にあの子を知っている。
そんな諦めにも似た確信が、不意にあたしの胸をしめつけた。忘れてはいけないような、でも思い出したくないような……。
やがて、まるで外国映画の吹き替えみたいに微妙なズレをともなって、少女たちの会話が耳に届いた――。
なーなー、その麦藁帽子ええなあ、リボン付いとって、むっそ可愛いらしいわあ……
「うふふ……、パパやママと百貨店に行ったとき買ってもらったのよ。あたしが駄々こねてわんわん泣いたら、しょうがないやつだなあって……」
里沙んちは、しんしょ良しやからええなあ。うち、ほんまにけなりいわあ
「じゃあ、これあげるよ」
えっ?
「あたし、もう一つ帽子持ってるんだ」
やけど……
「いいのいいの、友情のしるし」
ほんにええの?
「うん」
うれしいわあ、おおきんな!
帽子を受け取った女の子は、嬉しそうにそれをかぶると、まるで草原を駆けるアルプスの少女ハイジみたいに無邪気にはしゃいでまわった。その背中を、子供の頃のあたしが楽しそうに追いかける。
ああ、そうだ、帽子はあの子にあげてしまったんだ……東京に戻ってからママに「お帽子どうしたの?」って訊かれて、ごめんなさい山で遊んでてなくしちゃったのって……。
いや違う、違うわ……思い出した。
あの帽子は確か家まで持ち帰ったはずよ……そう、ビニル袋に入れて……そして夜中にこっそりと捨てたんだわ……だけど、どうして?
気が付くと、子供の頃の自分が目の前に立っていた。物怖じせず、じっとあたしを見上げている。邪気のない澄んだ目をしていた。
あたしは直感した。
――この子はまだ、あの心の傷を負っていない。
「おねえさん、どうしたの?」
幼いあたしが、心配そうに尋ねた。びっくりして何も言えずにいると、今度は目を反らして、ぽつりとつぶやいた。
「なんだか、かなしそうなかおしてるね」
あたしは意を決して訊いてみた。
「ねえ、お願い、教えてほしいの。あの子は何て名前?」
遠くから、心配そうにこちらを見ている少女を指さして言った。すると目の前のあたしは、はあっと大人びたため息を漏らし、顔を伏せた。
「わすれちゃったの? いちばんたいせつな、おともだちなのに……」
……ともだち。
もういいかい
まあだだよ
あの子は、あたしの大切なともだち――。
ポーカーの手札がそろうように、突然あたしは理解した。
そうよ、そうだわ。どうして今まで忘れていたんだろう? あんなに仲良しだったのに。
堰を切ったようにあふれ出す記憶の断片が、原色のイメージとなって次々にフラッシュバックする。
西瓜の赤、蚊とり線香の緑、ラムネの青、かぶと虫の黒、線香花火のピンク……。
それと同時に、”ともだち”という言葉が醸し出すほろ苦いノスタルジアが、痛いほどリアルな五感を伴って、あたしの心に甦った。
あの子と摘みにいった木苺の味、あの子と游いだ小川の冷たさ、あの子と寝ころんだ草原の匂い、あの子と見上げた打ち上げ花火の音、あの子とつないだ手の温もり……。
全ての感情がいっぺんに押し寄せ、あたしは息も出来ないまま、立ち尽くしていた。
どうして……、どうして忘れていたんだろう?
不意にあの子が、あたしに向かって微笑んだ。白い夏帽子がゆっくりとこちらに近づいてくる。黒いリボンが……深海魚の尾ひれに似て……ああ…………。
気がつくと、目の前に懐かしい友だちが立っていた。
小麦色の肌、汗ではりつく黒髪、そしてこの瞳が……この瞳、動物の目に似ている、なんて動物だっけ……ほら、あの…………。
なっとしたん? もっけもねえ顔して
懐かしさで胸がいっぱいになった。十数年ぶりに会えた、あたしの大切なともだち……。ああ、心が泣いている。会いたかった、会いたかったんだ、ずうっとずうっと会いたくて会いたくて…………。
「里沙……?」
はっと我に返った。目の前に、月子の心配そうな顔がある。
「あんた、だいじょうぶ?」
「…………え」
どうやらあたしは、知らぬ間に泣いていたらしい。視界が曇りガラスを通したようにぼやけている。月子が、そっとハンカチを差し出してくれた。
「ありがと……」
「ねえ、もしかしてなんか思い出したの、昔のこと?」
「…………うん」
二人並んで、神社の中へとゆっくり歩き始めた。苔むした朱塗りの鳥居をくぐると、鳩が数羽、音を立てて飛びたった……。
「白い夏帽子は、昔あたしがあの子にあげた物だったの」
「あの子……?」
「うん、この町に住んでた子。その子とは、とっても仲良しの友だちだったんだ」
月子が立ち止まった。
「あれっ? 里沙、あんた今”ともだち”って言った?」
驚いたようにあたしを見つめる。あたしもようやくその事に気づいて、はっとなった。
「本当だ……、あたし”ともだち”って言えてる。いままで言えなかった”ともだち”って言葉が、普通に言えるようになったんだ」
月子と手を取り合って喜んだ。なんだか、心がひとまわり軽くなったような気がする。月子が言っていたフロイトうんぬんの話は、やはり本当だったのだ。ああ、苦労してここまで来た甲斐があった……。
「それで?」
月子は、その猫のような瞳を爛々と輝かせた。
「その大切な友だち、何て名前だった?」
「うん……、それは」
あたしは言い淀んだ。さっきから懸命に頭をひねっているのだが、あの子の名前だけが、どうしても思い出せないのだ。
一瞬、月子の視線が氷柱のように突き刺さった。
「あんた……、まさか思い出してないんじゃ?」
「……う、うん」
月子が、正面からあたしを見据えた。そして、両肩をがっちりと掴んで揺さぶる。
「大切な友だちだなんて言っておいて、あんた名前も憶えてないじゃない。どうして、どうして名前が思い出せないのよ?」
「そんなこと言ったって……」
「ちょっと、こっちに来て」
月子があたしの腕をつかみ、神社の奥へとぐいぐい引き込んでゆく。あたしは呆気にとられ、彼女のなすがままになっていた。
「痛い、痛いよ月子、そんなに引っぱらないで。一体どうしたっていうの?」
月子がふり向かずに言った。
「――この前チェックしたキーワード、憶えてる?」
「……う、うん、憶えてるわ」
「確か、じんじゃ、きつね、かざあな、あまのいわと、じごく――だったよね?」
「……うん」
それらのキーワードを耳にしたとたん、あたしは足がすくむのをおぼえた。長年使用を避けてきたそれらの言葉が、この場所と密接に結びついていることを直感したのだ。
「私、売店のおばさんに聞いたの」
「え、何を……?」
「この辺りの地形は阿曽カルストといって、小さな鍾乳洞みたいなのがそこら中に空いているの。なかには内部で複雑に繋がっているものもあって、涼しい風が吹き出してくるんですって」
――風穴!
あまり手入れの行き届いていない神社の境内を、あたしたちは雑草を踏みしめどんどん奥へと進んでいった。やがて古ぼけた春日造りの拝殿が見えてくる。月子は、迷わずその拝殿を回り込み、社務所の横を抜けて神社の裏側へと出た。
「見て――」
気が付くと、あたしたちの目の前に、裏山へと続く登山道の入り口があった。そこで月子がはじめてふり向く。あの猫のような瞳が、森の霊気に触れ、神秘的に輝いているように見えた。
「この坂、地元の人たちは狐坂って呼んでいるそうよ」
「きつね……ざか」
「そうよ。そしてこの坂を登り切ったところに、地獄があるの」
「じごく…………」
月子のしっとりと汗ばんだ指先が、再びあたしの手首に絡みついた。
「さっ、一緒に行きましょ。……地獄へ」
じごくへ――。
視界がぐらりと揺らぎ、針葉樹に囲まれた三六〇度のパノラマが、ゆっくり回りだしたような気がした……。