con brio
みごとに晴れ渡った夏空は、どこか南国の深い海の底と同じような色をしていた。もしも天と地がひっくり返ったなら、あたしはきっと、この天空の深みにたちまち飲み込まれてしまうに違いない。
「なに、ぼーっと空見上げてんのよ」
登山靴を履いてリュックを背負った月子が、あたしの肩をぽんと叩いた。明らかに何か勘違いしているような恰好だけれど、彼女みたいに活動的な女の子にはよく似合っている。思いっきり気が進まないけど、でもピクニックに行くんだと思えば、なんとか割り切れる。なんたって月子は、あたしのために、わざわざ遠いところまで付き合ってくれるんだ。
ポッキーをかじりながら楽しそうに話しかけてくる月子と並んで、あたしは、とぼとぼと歩き出した。早くも脇の下にじっとりと汗がにじんでいる。今日も暑くなりそうだ。
覚悟していた以上に、三重までの道のりは遠かった。
うんと早起きしたにもかかわらず、名古屋で関西本線に乗り換え、ようやく亀山駅にたどり着いた頃には、すでにお昼を少し回っていた。目的地の阿曽まで行くには、ここからさらに紀勢本線に乗り換え、一時間以上も列車に揺られなければならない。旅慣れないあたしは、さすがにげんなりしてしまった。
「なーに疲れた顔してんのよ。ほい、お弁当」
新宮行きの列車に飛び乗ると、いつの間に買ったものか月子が二人分の駅弁をぶら下げていた。現金なもので、お弁当の美味しそうな匂いをかいだとたん、あたしの体から疲れが吹っ飛んでしまった。それにしても、月子って頼りになる友人だ。
「へえ、変わってるねえ、ここのお弁当、お茶漬けなんだ」
「えへへ、美味しそうでしょう?」
かさかさと音をさせて『名物志ぐれ茶漬』と印刷された包装をはがすと、何とも言えない磯の香りがただよってきた。刻み海苔と一緒にアサリのしぐれ煮がたっぷりと乗せられたご飯からは、まだほのかに湯気が立ちのぼっている。これにお茶を豪快にぶっかけて食べるのだ。ダシの利いた熱々の茶漬けを割りばしでかき込むと、口の中いっぱいに香ばしい海の味が拡がった。ああ、言葉が出てこない。本当に美味しいものを食べてるときって、誰もがみな無口になってしまうのだ。
そんな、あたしたちのささやかな感動を乗せたまま、列車はゆっくりと動き始めた。
食事を終えた後、あたしは月子の持ってきた折り畳み式の地図を広げてみた。いわゆる食べ歩きマップみたいなやつだが、カラーで刷られた地図を眺めていると三重県の全貌がよく分かる。紀伊半島の東面を占める南北に細長い県だ。西は奈良に隣接し、東側には伊勢湾、熊野灘を望む海辺の景勝地が拡がっている。あたしたちの乗ったこの列車も、まずは海を目指して走っているようだ。
「あ、潮の香りがする」
車窓から、海風が流れ込んできた。あたしは、この先さぞかし白砂青松とした海沿いの絶景が待ち受けていることだろうと期待したが、思いのほか海岸線は遠く、時折ビルの合間から魚のウロコみたいにぎらぎら輝く水平線を覗かせてくるだけだった。そして県庁所在地である津市を過ぎると、線路はのどかな山間の街並みへと進路を変えたのだった。
「しまった!」
列車のダイヤグラムを手にとって眺めていた月子が、不意に声をあげた。あたしは、この旅の計画に何か重大な誤算でもあったのかと心配になり、息をのんだ。
「……どうしたの?」
月子は、運行表を睨みつけながらうーんと唸っていたが、やがて悔しそうにつぶやいた。
「私としたことが……、駅弁買うの早まったかも」
「え?」
「だってほら、次の駅は松阪なのよ。特選元祖牛肉弁当ですって……ああ悔しい」
「やーね、なに言ってるのよ、月子ってば……」
この友人と一緒なら、どんな旅でも楽しいかもしれない。あたしは、月子と知り合えたことに今さらながら感謝した。クラスも違うし、部活動の仲間というわけでもない。ある日突然、月子の方から親しげに話しかけてきたのだ。それ以来、いつも一緒に行動している。
人の縁って、本当に分からないものだ。
夏休みということもあって、列車内はそれなりに混み合っていた。やはり家族連れの姿が目につくが、お年寄りのグループなんかもけっこう見受けられる。しかし多気駅に着くと、そこでかなりの乗客が降りてしまった。伊勢神宮にお参りする人が、ここで参宮線に乗り換えるのだ。急に人影がまばらになり、少し心細くなったが、次の駅である相可を過ぎると、列車はいよいよ山の中を走りはじめた。
「ずいぶんと山奥を走るのね?」
あたしが不安をおぼえてそう尋ねると、月子はにっこり微笑みながら大きく深呼吸をした。
「ねえ、お茶の香りがしない?」
「え? ……ああ、本当だ」
渓谷に架けられた鉄橋をいくつも越え、狭いトンネルを抜けると一面の茶畑が拡がっていた。今は、ちょうど茶摘みの最盛期なのだ。遠目にも、畑の中を行き来するたくさんの人影が見えた。
「そうだ、おみやげに新茶を買って帰ろうよ」
「うん、それいいね」
京都の宇治とならんで、三重のお茶は美味しいことで有名なのだ。女の子が買うにはちょっとシブすぎる気もするけれど、上等のおみやげをゲットできれば、今回の旅がまったくの無駄に終わるということもなくなる。月子の、猫のような瞳と目が合うと、可笑しくもないのに笑いが込み上げてきた。なんだか楽しくなってきたぞ。
ちょっとだけ気分が盛り上がったところで、列車は目的地である阿曽に到着した。
想像していたとおり、阿曽駅は殺風景な無人駅だった。駅舎などはなく、バラックみたいな待合所がホーム上にぽつんと佇んでいる。
列車を降りると、ぐらりと地面が揺れたような気がした。半日ぶりに踏みしめる地面が、なんだか頼りない。セミの声が、ぐわんと山に反響してあたしたちを取り囲んだ。紋白蝶が二匹、ジグザグに飛びながらすぐ目の前を横切った……。
「うわあ、思ってた以上に寂しいところだねー」
月子が、両手を振り上げてうーんと伸びをしながら言った。
「……うん」
本当に、陸の孤島といった表現がぴったりの町だ。
駅のすぐ前を流れる大内山川を渡ると、町のメインストリートが南北に延びている。そしてその両側には、何十年も前から時間が止まったままのような、過疎地の街並みが拡がっていた。歩道には、まったくと言っていいほど人影が見あたらない。動くものといえば、遠くに見える国道四十二号線をごくたまに通り過ぎるトラックと、あとは山の麓にある畑をゆっくりと横断する耕耘機の小さな影だけだ。つぶれたガソリンスタンドに放置された、タイヤメーカーのロゴの入った幟が、雨ざらしのまま、はたはたと風になぶられていた……。
しかし、あたしは直感した。
――ああ、ここだ。
見るからに寂しい景色だが、何かがあたしの心の奥底を激しく揺さぶっているのが分かる。
それにしても何なのだろう? この切なさ、苦しさ、やり切れなさは……。
もういいかい
まあだだよ
間違いない、やっぱりここにあるんだ。あたしの心に傷をつけた、思い出の正体が……。