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「とりあえず……」
二杯目のコーヒーをひとくちすすると、月子が言った。
「狐や河童のはなしは、この際、脇に置いといて」
「あたし、”かっぱ”なんて言ってないってばあ」
月子の尋問で浮かび上がったキーワードは、きつね、あそ、じんじゃ、かざあな、じごく、あまのいわと――という、実に荒唐無稽なものばかりだった。それだけ並べてみると、まるで日本昔話のようだ。月子が茶々を入れたくなるのも無理はない。ただ、”あそ”という言葉だけは、地名のような気がすると月子が言った。あたしもそう思う。
「”あそ”って言ったら、やっぱり九州の阿蘇山のことだよね。ふもとに神社だってあるし」
月子はそう決めつけるが、しかしあたしは違うと思った。あたしが”あそ”という言葉から受ける印象は、なんていうかもっと秘やかで、穏やかで、そして淋しい……。とても雄壮な火山のイメージとは重ならない。それに、あたしは九州へは行ったことがない。あたしが踏んだことのある日本最南端の地は、修学旅行で訪れた京都なのだ。
「そうだ里沙、卒業アルバム見せてよ、中学校と、あと小学校のときのやつも」
「えっ? 別にいいけど……、どうするの?」
決まってるじゃん、という顔で月子があたしを見た。
「過去に里沙と仲の良かった子を一人ずつ洗い出してみるの。なにか手掛かりが掴めるかも知れないじゃない」
「例えばあ?」
「ふふ……、例えばほら、偶然同じ男子を好きになっちゃった子がいたとか。でもって、結局恋に破れた里沙の心には、癒しようのない傷痕が残ってしまった……なーんて筋書きどお? 面白そうじゃない?」
「ぜんっぜん、面白くないんですけどー」
あたしは、ぶすっとふてくされながら本棚に並べられた卒業アルバムを二冊取り出し、月子に手渡した。彼女は、そのずしりと重たいアルバムにうっすら積もった埃をふうっと吹き払うと、猫の瞳を輝かせながら表紙をめくった。
「ねえ――、里沙が、中ぼうのとき仲良かった子って、どの子?」
「……ええとね」
あたしは、月子と並んで腰を下ろし卒業アルバムを一緒にながめた。
「うーん、この子と、この子。あと、この子ともよく遊んだ。三年のときは、この子たちのグループにいたかな」
中学時代、仲の良かったクラスメートを順番に指し示してゆくと、月子はその顔と名前をチェックしながら、ふーんとか、ほーとかいちいち相づちを打ってくれた。
「あれっ、この子ってキツネ顔じゃない? ねえねえ、この子――」
「うん、まあ言われてみれば、そうかな……」
「この子と何か因縁はなかった? たとえば好きな男子をめぐってトラブルに発展したとか……」
「月子ってば、どうしてもそっち方向に話をもっていきたいのね。彼女とは、卒業までずうっと仲良くしてました」
こんなやり取りが数回続き、あたしはちょっとだけ苦虫を噛み潰したような顔になった。
何をかくそう、あたしはまだ男の子と付き合ったことがないのだ。ひそかに片思いしたことならあるけれど、その相手とまともに話をした思い出はない。まあ言ってみれば、アイドル歌手なんかに抱く憧れとさほど変わらない、ピュアな恋心だったと思う。だから、とてもじゃないが誰かと三角関係に発展するようなシチュエーションなんてありえない。
失恋説は脈がないと踏んで集中力が切れたのか、月子のページをめくる手が少し早まった。
「この子、天野って名前だね。ひょっとしてアマノイワトってあだ名じゃなかった?」
「まさかー、そんなセンスのないあだ名付けないよ。この子は薫っていって、みんなからは”かおるっち”って呼ばれてた」
「あっ、この男子って可愛いー。ねえ里沙、あんたこういうの好みじゃなかったっけ? ひょっとして好きだったとか……」
「そんな事ないって」
「あー、なにこの子ー、タッキーにちょー似てるう。これこれ、この子。いいなー、うちの中学ってイケメン、絶滅危惧種だったから」
「えーこいつ? 実物見たらがっかりするよ」
「あははは、見て見て、この子、お笑い芸人に似てるよ。ほら、何てったっけ? あのパンツ一丁で躍るヤツ……」
卒業アルバムを調べ始めてから、ものの五分と経たないうちに、探偵ごっこはいつもの他愛ないお喋りへと変化した。あたしたちに、こういうシリアスな作業はつとまらない。だいいち箸が転んでも可笑しい年頃なのに、集中力が続くわけがない。すぐに小鳥の囀りみたいになってしまう。悲しいかな、女子高生とはそういう生き物なのだ。
「なになに、里沙って小学生のときお下げ髪にしてたんだ。かっわいー、きゃははは」
「ちょっとお、まじめにやんないならもう返してよう、あたしの卒業アルバムー」
「えー、いいじゃん、もうちょっとこれで盛り上がろうよー」
あたしと月子がアルバムを奪い合っていると、一枚の写真がはらりと落ちた。いつの間に挟まっていたのだろう、今まで見たこともない古い写真だ。しかし足下に落ちたそのセピア色のフォトグラフを見て、あたしの心臓は凍りついた。動けないでいるあたしに代わって、月子がそれを拾う……。
「あれ、なんだろうこの写真? ねえ里沙……、里沙?」
あたしは今、いったいどんな顔をしているだろう。きっと死人のように青ざめてしまっているに違いない。
その写真には、幼い頃のあたしが写っていた。ピンク色のキャミソールに白いコットンパンツ、くまのキャラクターが描かれたポシェット、無邪気に微笑む幼い日のあたし……。
――そして……黒いリボンの付いた白いむぎわら帽子。
頑なに閉ざしていた心の扉がわずかに開き、遠い夏日の喧噪の中へ置き去りにしてきた思い出の残像が、熱風のように吹き込んでくるのを感じた。
もういいかい
まあだだよ
「…………これ、いつどこで撮った写真?」
月子が心配そうにあたしの顔をのぞき込んだ。さすがに彼女も緊張しているらしく、心なしか声が震えている。でも、あたしの動揺はそんなもんじゃない。どうして子供の頃のあたしが……。わけが分からなくなり、いやいやをするように首を振った。
知らない、知りたくない……、思い出したくない。
「ずいぶんと古い写真みたいだね……、小学校のアルバムに写ってる里沙より、もっとずっと幼い感じがするよ」
その写真に写るあたしは、髪をショートにしていた。小学生になるちょっと前、あたしはその短い髪のせいで日射病にかかったことがある。以来ずっと髪は伸ばしてきた。今だって、枝毛のない肩までとどく黒髪があたしの自慢なのだ。
「ねえ、里沙?」
「だめ、あたし思い出せない」
「…………うん」
いまにも泣き出しそうなあたしを見てこれ以上は無理と悟ったのか、月子がそっと肩を抱いてくれた。彼女の体からは、いつでも天日干しした洗濯物みたいな優しい匂いがする……。
「あらあら、あなたたち仲が良いのねえ」
絶妙最悪のタイミングで、ママが二人分のハーブティをお盆に乗せて入ってきた。
「でも女の子同士なんだから、私たち将来結婚します、だなんて言われても困るわよ」
「あはは……、どうも、お邪魔してまーす」
うちのママは、どういうわけか月子とうまが合う。まるで女学生時代の親友みたいにお互いシンパシーを感じ合っている。まあ、類は友を呼ぶというから、年頃の娘の部屋にノックもせず入り込んでくる無神経さと、ひとの日記を勝手にぬすみ読む月子の奔放さとが惹かれ合ったとしても不思議ではない。
とにかくママは、月子が相手だと余計なことまでべらべら喋るので、あたしは少し身構えた。案の定、月子が親友の気楽さでさっそくママに話しかける。
「おばさま、この写真って見たことあります?」
「あら? これ里沙が、妙子お婆ちゃんのところにいたときの写真じゃない」
「え……、あたし妙子お婆ちゃんとこにいた事あるの?」
「そうよ。ほら、ママが翔太を生むとき難産で入院してたでしょ。あのとき一ヶ月くらいあんたを預かってもらったのよ。あんたずいぶんとお世話になったのに、ぜんぜん覚えてないのね」
覚えてなかった。妙子お婆ちゃんというのは、あたしの祖母のお姉さん、つまり大叔母に当たる人だ。子供のころはよくお小遣いなんかを貰った記憶があるが、あたしが中学生になった年に心臓の病気で亡くなっている。
「ねえ、おばさま。その妙子お婆ちゃん……ってひと、どこに住んでたんですか?」
「ええとね、三重県の……、そうそう、たしか阿曽って町よ」
――あそ。
「うふふ……、どうやらビンゴみたいね」
月子が、あたしに向かって招き猫のポーズで「にゃあ」と鳴いた。
どうやらあたしの忘却の地は、九州ではなく三重だったようだ。
「ねえ、行ってみようよ」
「……え? 行くって、どこへ」
「何言ってんのよ、決まってるじゃない。その阿曽って町までよ」
「えー! 本気い?」
ああ、なんだか大変なことになってきた……。