espressivo
自宅でお昼を食べるため、いったん月子と別れたあたしは、帰宅するなり舌打ちをした。今日は、家に帰ったって誰もいないのだ。弟は朝から少年野球団の試合に行ってしまっているし、ママは週二回の華道教室に通う日だ。空っぽの家の中には、むっとするような熱気がこもっていて、あたしは慌ててエアコンのスイッチを入れ、浴室へと向かった。
こんなことなら、月子と一緒にハンバーガーでも食べに行けばよかったな……。
ぬるいシャワーを浴び終え、髪をがしがし拭きながら姿見の前に立つと、肩や腕、うなじの辺りが日に焼けて赤くなっていることに気づく。あたしは思わず苦笑してしまった。スポーツとは無縁で、万年帰宅部の、ちょっぴり引きこもりがちだったあたしが、朝早くから公園でテニスをするだなんて……。昨日は昨日で、レンタル自転車屋でマウンテンバイクを借りて、日が傾くまで月子と一緒に河川敷のサイクリングロードを走った。
あの子と知り合ってから、あたしは少しずつ変わり始めている。毎日が充実していてとても楽しい。だから……もしかすると、あたしをずっと苦しめ続けているあの心の疼きも、彼女と一緒にいるうちに、いつの間にか癒えてしまうのではないか……。
漠然とそんなことを考えていると、玄関からその月子の呼ぶ声がした。きっと、”忘却の彼方へ旅”をしに来たのだろう。ふっと顔がほころぶ。
「誰もいないから、入っておいでよ」
「ほーい」
返事をしたときには、もう階段をとんとん上りはじめている。いつもこの調子なのだ。油断していると、引き出しの奥にそっと隠してある恥ずかしい日記なんかも、当然のように読まれてしまう。少し気が急いて、髪を乾かすのもそこそこに自分の部屋へと戻ってみると、月子はあたしのベッドに両足を投げ出し、もうすっかりくつろいでいた。
「もう、お昼食べちゃった?」
彼女がそう訊いてくるのでテーブルの上を見ると、ドーナツのぎっしり詰まった箱が置かれていた。その中の一つを、月子はすでに頬張っている。
「ああん、あたしのベッド汚さないでよ」
言いながらも、あたしのお腹はくうと鳴った。やはり運動の後は、体が糖分を欲しているのだ。はやる心を抑え、キッチンで二人分のコーヒーを入れて戻ってくると、月子はもうすでに三つ目のドーナツに手を付けていた。
やばい、全部食われる。
いくら仲の良い女の子同士だからといっても、甘い物と、格好良い男子をめぐっては弱肉強食の世界が繰り広げられるのだ。あたしは、慌てて一番甘ったるそうなフレンチ・クルーラーにかぶりついた。胃の中から体の隅々へ向けてエネルギーが行き渡る。女の子の体っていうのは、元来甘い物で出来ているのだ。
しかし月子は、三つ目のドーナツを食べ終えるや満足げにコーヒーをすすり、そして、おもむろにシステム手帳を開いた。
「いい、里沙? これから私が色々な言葉を口にするから、なにかピピッと感じるものがあったらそう言ってね」
「……うん、分かった」
あたしは、口をもぐつかせながら生返事をした。何か心理テストみたいなものでも始める気だろうが、今のあたしは、食べることに集中していたい。
「いい、いくよ?」
「うん」
「――リボンの付いた白い麦わら帽子」
あたしは、いきなりがつんと殴りつけられたような衝撃を受け、ドーナツを目一杯頬張ったまま口の動きを止めてしまった。強烈に胸が締めつけられ、体中の力がへなへなと抜けてゆくのが分かる。冷や汗がこめかみを伝い、視線が挙動不審に游いだ……。
言っておくが、ドーナツを喉に詰めたわけじゃない。
「…………やっぱりね」
月子の、猫のような瞳が自信満々にあたしを捉えた。瞳孔が、すうっと針のように窄まってゆく。獲物を発見したときの猫の目だ。
「さっきね、帰り道でほら、自販機でジュース買って飲んだとき、あのとき、帽子をかぶった女の子が目の前を通り過ぎたでしょ。私、見てたんだよね、そのとき里沙がもの凄く動揺するのを……」
あたしは気力をふり絞ってドーナツを飲み下すと、神妙にこくんとうなずいた。
「……う、うん」
「あの子、白い夏物の帽子かぶってたよね、リボンの付いたやつ」
「……そうね」
月子は、よし! と力強くうなずいた。
「これ最重要キーワードだね」
言いながら彼女はシステム手帳に”リボンのついた夏帽子”と書いて丸で囲んだ。それを見て、あたしは哀願するように尋ねた。
「ねえ、やっぱりこれ止めにしない?」
「だめ」
月子は、即座に返した。その表情がいかにも満足げだったので、あたしは少し腹が立ってきた。友人の苦しむ顔を見るのがそんなに楽しいのか? あたしが今までどれだけ、この得たいの知れない記憶の刃に心を傷つけられてきたと思っているのか? しかし、そんなあたしの思いを察したのか、彼女はあたしの目を真正面に見据えながら、こう言った。
「里沙、あんたこのまま一生自分の過去から逃げ続ける気? 自分自身なんだかよく分からないまま、突然胸が締めつけられて、おろおろしたりするんだよ。そんなのってイヤじゃない? 私だったらやだなあ、正体の分からないものに、ずうっと苦しめられ続けるなんて」
「うん……、それはそうだけど」
「私、里沙のこと助けてあげたいの」
その真摯なまなざしを見て、あたしはたった今彼女に憤慨したことを後悔した。月子は、本気であたしのことを心配してくれているのだ。
「……うん、ありがと。月子って優しんだ」
「なーに言ってるの、ともだちじゃない」
ともだち…………。
もういいかい
まあだだよ
再び、あたしの心がきゅんと痛んだ。なぜだろう? ともだちと聞いたとたん、何かが胸の奥に鋭く突き刺さった。そんなあたしの様子を見て、月子は首を傾げた。
「あれれ? 里沙ってば、”ともだち”って言葉もNGだったの?」
彼女は、ちょっとのあいだ思案をめぐらせていたが、思い出したように、
「そう言えば……」
と言った。
「里沙ってさ、ふだん”ともだち”って言葉、ぜったい使わないよね」
言われてみれば、あたしは”ゆうじん”とは言うが”ともだち”とは決して言わない。きっと無意識のうちに忌言として、使うことを避けてきたのだろう。
「じゃあ、この言葉もキーワードだ。チェーック!」
月子は、手帳に”ともだち”と書いて楽しそうに丸で囲んだ。
「さあ、続き続き、どんどんいくよ」
「えーっ」
「何言ってるの、あんたのためなんだからあ」
本当だろうか……?
結局、ママが帰ってくるまでのおよそ二時間、月子の尋問、もとい心理テストは延々と続いた。その結果あたしには、先に挙げた二つのキーワード以外にも無意識に避けている言葉がいくつかあることが判明した。
きつね
あそ
じんじゃ
かざあな
じごく
あまのいわと……
これらの言葉は、何故だかあたしの心の中で、例えようのない悲しみと深く結びついていた。