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cantabile

 あたしは、心に傷を負っている。

 それが、どういった類の傷なのかは今ひとつ判然としないが、ふとした瞬間に心がずきずき痛むということがままある。

 そんなときは、ただじっとその痛みに耐えるしかない。なぜなら、その心の傷がどういった出来事に起因するのか、自分自身さっぱり心当たりがないからだ。いや、あるいはひょっとすると、その痛みの根源をあたしは初めから知っているのかも知れない。そして思い出すことを恐れ、記憶の奥底に閉じこめてしまっているだけなのかも知れない。最近、そんなふうに考えるようにもなった。しかし度々あたしを襲う心の疼きは、大抵の場合しばらく我慢していると潮が引くようにすうっと消えてしまうので、余程のことがないかぎり、あたしはそのことについて深く突き詰めないよう心がけてきた。

 でも、その時だけは違った。

 あたしは、まるで心臓をナイフで抉られたような衝撃を受け、口の中に流し込んだソーダ水を飲み込めないまま、固まってしまったのだ。夏の盛りだというのに、みるみるうちに顔から血の気と汗が引いてゆく……。

 ――目の前を、小さな女の子が通り過ぎたのだ。白い夏帽子に付けられたリボンが、深海魚の尻尾みたいにひらひら揺れていた。


 もういいかい

 まあだだよ


「……ねえ、どうしたの?」

 月子が、心配そうにあたしの顔を覗き込んだ。静かな晴天の昼下がりだ。あたしたち二人は、ちょうど近所の公園でテニスをした帰りで、駄菓子屋のベンチに並んで腰を掛け、ハンドタオルで汗を拭いつつ冷たい飲み物で喉を潤しているところだった。どこか遠くの方から、踏切の遮断機が下りるカンカンという警報音が風に乗って運ばれていた。

 あたしは、やっとの思いでメロン味のソーダ水を飲み下すと、幽霊でも見たような面持ちで言った。

「…………ううん、何でもない」

「本当にぃ?」

 月子が好奇の目を爛々と輝かせながら、猫のようにこちらを見つめている。あたしは、鼻の奥につんと突き上げてくる得体の知れない切なさ、やりきれなさをぐっと堪えながら、ぎこちない笑顔で答えた。

「ほんと、ほんと」

 月子の目に、猜疑(さいぎ)の炎が灯る。あたしは平静を装うため、手にしたソーダ水の缶をふたたび口へ運ぼうとしてあきらめた。面白いほど手が震えるのだ。

 紺色の夏空に、セミの声が充満している。

 あたしは、ゆっくりと深呼吸をした。だいじょうぶ、だいじょうぶ、いつものことだから……。

 そのとき、目の前の埃っぽい道を、派手な音をさせてRV車が通りすぎた。あたしは、もう見るまいと思っていたが、反射的に通りの向かい側へ視線を戻してしまった。一瞬、心臓がきゅっと縮みあがるほど緊張したが、しかし幸運にも、あの女の子の姿は、もうそこにはなかった。どこかで道を折れたのだろう、あたしはようやく胸の苦しさから解放され、ほっと息をついた。

「ねえ、里沙(りさ)ってさあ……」

「――えっ、なに?」

「なーんか、時々そんな風に精神、飛んじゃうよね?」

「そ、そうかな?」

「うん――。最初はさあ、ただ単に天然さんなのかなーって思ってたんだけど、なんかそういうのとは、ちょっと違うよね」

 あたしは、それに対して何も答えることが出来なかった。自分でも、どう説明したらいいのか分からないからだ。月子は、汗でひたいにへばりつく前髪を鬱陶しそうにかき上げながら何事かを考えていたが、不意にこんなことを言った。

「それって、いわゆる心的外傷(トラウマ)ってやつじゃない?」

「とらうま?」

「そう。何かこう、とても苦しくて悲しい思い出が里沙の心の中を抑圧しててさ、ふだんはそれが、無意識のうちに記憶から締め出されているんだけど、ふとした拍子にその辛さ、悲しさだけが甦ってきて里沙のことを苦しめてしまうの……」

 あたしは、この最近知り合ったばかりの友人の、人懐っこそうな顔をまじまじと見つめた。初めて出会ったときから、言う事がいちいちウイットに富んでいるなあと感心していたが、今はちょっぴり尊敬してしまっている。

「へえ、月子って、けっこう物知りなんだ」

「うふふ……、実はねえ、最近フロイトとかに凝ってるんだ。知ってる、フロイトって? 精神分析とか夢判断の本を書いたユダヤ人の精神医学者だよ」

「うん、名前だけは聞いたことある」

「そのフロイトが言うにはねえ、心的外傷を取り除くには、その元となる記憶を再び呼び覚ます必要があるんだって」

 ――記憶を呼び覚ます。

 あたしは、即座に怖じ気づいて月子から視線を反らした。自分の記憶の奥底を探るということは、まだ塞がっていない傷痕にエンピツを突き立てるみたいで恐い。あたしは、自分の心の(ふち)になにかとてつもなくイヤなものが眠っていることを、薄々感じ始めていた。できれば、イヤな過去は掘り返したくない。

 しかし月子は、そんなあたしの心的外傷とやらにたいへん興味を持ったらしく、その猫っぽい瞳が、鼠を追い詰めたときのそれのように爛々と輝いて見えた。

 ここは、なんとか話題をすり替えねば。

 あたしは懸命に頭をひねったが、それより一瞬早く月子が言った。

「ねえ、あとで里沙の家に遊びに行ってもいい? 一緒に、忘却の彼方へ旅をしよう」

 忘却の彼方という表現が自分でも気に入ったのか、月子はいたずらっぽく含み笑いすると、ご機嫌な様子でカフェオレの残りを一気に飲み干した。どうやら、あたしの意向を伺う気はなさそうである。

 ああ、あたしって、いつも月子のペースに巻き込まれてばかりだ。

 どちらかと言えば引っ込み思案で、他人の意見に流されがちなあたしが、どうして月子みたいな猪突猛進タイプのポジティブ娘と気が合うのかよく分からない。でも、いつもそうなのだが、彼女のペースに押し切られ、すっかり諦めてしまうと、逆になんだか楽しくなってくる。

 まあ、いいか。夏休みは、まだまだ始まったばかりだし、お天気だってこんなに爽快だ――。

 あたしは、深海の底のように奥行きのある夏空を胸一杯に吸い込みながら、缶の中ではじけるソーダ水の音を聞いた。

 

 


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