激動編 3 ~最後の帰郷~
極はまず、二重、三重の防衛ラインを構築することに力を注いだ。
最前線は駿河の富士川とし、蒲原から沼津にかけての海岸添いに防塁と出城を築かせた。
第二の防衛線は箱根である。天然の要害でもあるこの地には、二つの関門を築いた。そして最終ラインは相模川とした。川沿いに延々と防塁と柵を巡らし厚木には城と水門を作って味方の動きを助ける役割を持たせた。
朝廷軍が険しい信濃路、または北陸路を回って攻めてくることは、まず考えられなかったが、少数精鋭の部隊が密かに入り込んで、内部から撹乱する可能性はある。その対策として、丙助率いる「耳目番」と呼ばれる忍びの者たちを信濃、甲斐の村々に常駐させるとともに、大胡仁来率いる忍びの軍を諏訪の城に置いて、後方支援と敵への撹乱工作の役目を持たせた。
「久米皇子、良い報せでこざるぞ。」
水無月に入った直後の二日、秦万礼がじきじきに国府の庁に極を訪ね、興奮を抑えるように低い声で語り始めた。
「十日後に、飛鳥の宮で三韓の使者を迎ゆる儀式が執り行われまする。どうやら、その折りに、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我大臣をおとしいれる画策をしておるらしいと…」
万礼はそこで話を中断し、けげんな顔で極を見つめた。
「もはやご存じか?」
若い国主は小さくうなづくと、憂いに満ちた顔でため息を吐いた。そして、彼は机の引き出しから一本の木簡を取り出して、万礼に差し出した。
「佐伯の大殿よりの文でござる…」
万礼はおしいただて、早速木簡に目を通した。
「こ…これは…」
そこに書かれた驚くべき内容に、さすがの豪放な秦の当主も言葉を失った。
「今朝早く、耳目の者が届けてくれたのでござる。今、主立った者たちを呼んで、緊急の合議をと思うておりました」
「うむ…なれど、これがまことならば、我らにとっては天の助け。戦の準備が十分にで
きましょう」
極は万礼に椅子をすすめ、自らも椅子に腰を下ろして、小さく首を振った。
「わしは、大臣に報せを送ろうと思うておりまする…」
「な、なんと…それはおやめなされませ。せっかくの好機をみすみす…いや、それよ
りも、もし、この企みが事前に入鹿に知られていたと分かれば、まず疑わるるは佐伯子麻呂と葛城網田じゃ。されば、佐伯連の家にも追及の手が及びましょうぞ」
極はいよいよ苦悶の表情を浮かべ、机にうつぶせになった。万礼の言うことが正しいことを、彼も十分知っていたのだ。
「蘇我大臣は…」
わずかに顔を上げた極が、うめくようにつぶやいた。
「この国にとっても、わしにとっても大切なお方なのじゃ…大臣なら、きっとこの東国のまつりごとを喜び、手を携えてゆこうとなさるであろう。それをみすみす…」
万礼は非常な危機感を感じて、いったん話題を変え、他の指導者たちが来るのを待ってもう一度説得を試みようと考えた。
「おお、そうじゃ。殿、実はもう一つ良い報せがあったのでござるよ」
極は頭を抱えたまま返事もしない。
「末浦と瀬戸内の海族の頭領たちが、ぜひとも殿に会わせていただきたいと申しておる旨、吉備のわが一族より報せがござりました」
極は顔を上げ、わずかに微笑んだ。
「それは良い…万礼殿、ご苦労じゃが、その者たちに駿河まで来てくれるように伝えて下さらぬか?」
「はっ、承知いたしてござる」
極の顔にようやく生気が戻ってきた。彼は机の上に広げた地図に目を向け、小さくうなづいた。
「水軍が手に入らば、守りと攻めの両方に心強き援軍となる…残るは北陸路か…」
「越前の大伴(後に朝倉を名乗る)は、まだ迷うておりまするか?」
「うむ…表立って大王に刃を向くることはできぬと…つまり、わが方にもつかぬが討伐軍にも加わらぬ、ということでござる」
「高見の見物というわけでござるな」
「いや、討伐軍に加わらぬというは、後々朝廷からの罰を覚悟せねばならぬ。大伴の家を潰す覚悟の決断でこざる。我らにとっては有り難きこと、いずれはこの恩に報いねばなりませぬ」
「なるほど、確かに…」
万礼が感嘆したようにうなづいた直後、極直属の女官の一人が、戸の外から来客を告げた。
「雲井様と白峰様、お見えにござりまする」
「おお、来たか。通せ」
戸が開いて、二人の男が音もなく中に入ってきた。
「緊急のお呼びと聞き、まかりこしてござりまする」
「うむ、すまぬな、足労をかけた。さあ、こちらへ来て掛けてくれ」
二人の男は、先客である万礼にあいさつをしてから円卓の一角に並んで座った。
一人はあの丙助である。名前を雲井兵助と改め、今や甲斐の国の中央部に広大な領地を持ち、およそ三千人の忍者たちを束ねる頭領であった。
もう一人は鎌倉の忍者軍団を束ねる白峰真竜という名の、すでに四十の半ばを過ぎているがたくましい体の男だった。
二年前、大胡仁来が自分の代わりにと、陸前から連れてきたのである。もともと、波荒い北の海でクジラの漁を専門とする蝦夷の漁師集団を束ねていた男だった。
「磯部様、お見えにござりまする」
続いて姿を見せたのは、笠原狭津彦に代わって下総の領主となった磯部式仁である。笠原家の家人として、長年実質上の政務を取り仕切っていたので、領主になってもとまどうことはなかった。極に惚れ込み、今では彼の側用人のようにあれこれ世話を焼いていた。
「遅くなりまして申し訳ござりませぬ。」
磯部はよほど急いで来たのか、汗を拭き拭き頭を下げて入ってきた。
「おお、これはお珍しい。兵助殿、真竜殿、お久しゅうごさる」
「お久しぶりにござる。相変わらずお忙しそうでござりまするな。あはは…」
「はあ、なにしろ殿の代理であちらへもこちらへも出向かねばなりませぬゆえ…」
「すまぬのう、苦労をかけまする」
「あ、いや、く、苦労などとは、とんでもござりませぬ…」
磯部は赤くなって、いっそうせわしく汗を拭き始め、それを見た一同はなごやかな笑い声をあげた。
その後、佐伯尾人と賀谷利黒丸が相次いで到着し、臨時の合議の顔触れはそろった。
磯部が議長役になって、合議が始まった。まず、極が都から届けられた報せを一同に公表した。
いずれはこうした事態が来るだろうと、誰もが予想していたので、驚きよりもむしろ静かな興奮が部屋の中を包んだ。
「我らにとっては好都合じゃ。蘇我亡き後の混乱は、すぐには収まりますまい。殿、こちらから一気に攻むることも考えてよいのではござりませぬか?」
賀谷利の言葉に、一同はうなづき合って極に注目した。
「それはできぬ…」
極は低く、しかし厳とした声だった。
「我らはあくまでも守りの戦をしなければならぬ。勝つにしろ負くるにしろ、後々相手にこちらの非につけこむ口実を与えてはならぬのじゃ」
「ははっ」
あくまでも用心深い国主の言葉に、今では臆病だと思う者は誰もいなかった。
「実はのう、今日集まってもらったのは、わしが一度都へ帰らねばならぬ、ということを知ってもらうためであった」
「な、何と、それは…」
誰もが驚きの声を上げ、思わず椅子から立ち上がった。
極は、おもむろに一枚の書状を取り出して円卓の中央に置いた。
「大王からの勅命じゃ。征東夷大使の任を解くゆえ、すぐに帰れとある。おそらくは中大兄皇子らの建議であろう。されど、大王の勅命であれば従わねばならぬ。いや、まず話を聞け…」
口々に異義を唱え始めた者たちを制して、極は続けた。
「我らはあくまでも、大王に逆らう意志はない、ということを天下に示すべきじゃ。さらに、久米の家、蘇我石川麻呂様、佐伯の大殿にも、この後のことを知っていてもらわねばならぬ。刀鍛冶の西吉磨世とも話をしたい。さらに…」
極がそこまで言って言葉に詰まった時、秦万礼が意を決したように口を開いた。
「殿は、蘇我大臣にもお会いになるおつもりなのじゃ。なれど、それはおやめ下され、とお願いしておったところじゃ」
一同はあまりのことに言葉を失った。神のごとく賢明であるはずの国主が、自ら暴挙に及ぼうとしているのだ。過去に、蘇我と国主の間にどんな深い関わりがあったのかは誰も知らない。しかし、今、蘇我入鹿と会うことは害こそあれ、何の益もないのは誰の目にも明らかだった。
「殿…殿のお気持ち、この兵助、ようくわかりまする。なれど、ここは我慢していただかねばなりませぬ。東国のすべての民のためでござりまする。」
兵助の言葉に、極は深いため息を吐いて顔を上げた。
「わかった。そなたたちの言うとおりにしよう。じゃが、どうか都に行くことは許してくれ。戦になれば二度と都には戻れぬ。久米の者たちを一人でも二人でも連れて帰りたいのじゃ。」
これもまた大きな危険を伴う提案だったが、一同もそれ以上は反対できなかった。話し合いはその後、極をどうやって無事に都へ送り届け、また連れ帰るかについての計画が熱心に協議された。
その二日後の朝、風が強く、今にも雨が降りだしそうな空の下、極は西へ向けて出発した。三年ぶりの帰京だった。
供には、佐伯広麻呂と下毛野小山の領主となった時丸の二人が随行していた。
極たちは、深夜に交代でわずかな睡眠をとり、一日二回の簡単な食事をする以外は馬を走らせ続け、四日後の夕暮れにはもう春日野の入り口にたどり着いていた。
「ここから先は用心して参りましょう。馬をどこかに預け、歩いた方がよいかと…」
「うむ、そうしよう。」
「では、馬を預くる所を探して参りまする。しばしお待ちくださりませ」
小山時丸はそう言うと、北の方角へ馬を走らせていった。
「時丸は何処の生まれなのじゃ。」
「はて、それは聞いておりませぬが…大和の地理には詳しい男でござりますれば、ご安心なされませ」
「うむ…。胆力も知謀も備えたなかなかの男じゃ。いずれは国の要となってもらわねばならぬ」
広麻呂はうれしげに微笑みながら、極に水筒の水を竹の器に入れて差し出した。
「わたくしの赤子の時より、片時も側を離れず守ってきてくれた男にござりまする。いろいろなことを教わりました…」
「おお、そうであったか。そなたを見れば、彼がいかに優れた人物か、わかるというものじゃ」
広麻呂は、夕日に負けないほど赤くなってうつむく。神仏にさえ戦いを挑もうという男の、純情この上もない一面だった。
極たちは春日野を左手に見ながら、夕闇が辺りを覆い始めた野道を南へ下っていった。
飛鳥に近づくにつれて、大きな街道の要所や豪族の館で見張りをする衛士の姿が見られるようになってきた。もちろん、名前を名乗れば堂々と通って行けるのだが、同時に自分が帰ってきたことを朝廷にも知られてしまうことになる。極は、できるだけ時間を稼ぎたかった。その間に、久米の者たちを一人でも多く東国へ逃れさせたいと考えていたのだ。
野原や林を抜けながら、ようやく懐かしい橿原の館の近くまで来た時には、すでに戌の刻近くになっていた。
「館の者たちをなるべく驚かせたくない。表門から参ろうぞ」
極の言葉に、供の二人もうなづいて道に出ようとしたときだった。
広麻呂が、いきなり太刀を抜いて極を守るように移動したのである。
「何者じゃっ。」
「お、お待ち下さりませ…雲井様の命で参りました、白猿と申す者にござりまする」
横合いの木の陰から、一人の男が現われて地面に平伏した。
「兵助が…何かあったのか?」
「はっ。道中、殿をお守りせよと…それがしと、あと四名の耳目の者が参っておりまする」
極はいつもの兵助の手回しの良さに、苦笑しながら言った。
「あいわかった。そなたたちには、後ほど大事な役目を申しつくるゆえ、久米の館に一緒に参るがよい」
「ははっ」
極は男たちを促して道へ出ていく。折から遠くに雷光が走り、ぽつぽつと大粒の雨が降りだした。
極一行を迎えた久米の館は、極の意に反して、上へ下への大騒ぎになった。なにしろ三年ぶりの当主の帰郷である。無理からぬところではあった。
「爺様、長らく留守にいたし、ご苦労をおかけしました。お元気のご様子、安心いたしました」
穂足はめったに感情を表に出すことはなかったが、この時ばかりは目に入れても痛くないほど可愛い孫の、たくましく成長した姿に感涙とまらぬ有様だった。
極は広間に家人を全員集め、帰郷の理由と今後のことを説明した。それを聞いた誰もが朝廷の理不尽に怒るとともに、極の身を心配した。
「いや、まだ都の人間は、東国の変化をほとんど知らぬ。わしをなんとしても殺さねばならぬ、と思うておるのは中大兄皇子と中臣鎌足ぐらいであろう。そのための策は考えてあるゆえ、案ずるには及ばぬ」
家人たちはなおも心配そうだったが、たくましく成長した若き当主は、大きな安心感を抱かせる何かを持っていた。
「お館様、東国のことをもっと詳しくお話し下さりませ」
「うむ…そなたたちも、いずれ自分の目で見ることになろうが…」
極はそう前置きすると、さも楽しげに東国の人々の暮らしぶりなどを語って聞かせた。
誰もが、とうてい現実の世界の話だとは信じられない気持ちで聞いた。そして、それをわずか三年の間に成し遂げた少年当主を、ただただ恐れにも似た気持ちで眺めるだけだった。
その夜、極はなかなか寝付けなかった。しかし、なつかしい故郷へ帰ってきたという実感が増すにつれ、心地よい温もりに包まれるような感じがして、いつしか深い眠りの中へ引き込まれていった。
「そろそろ極めが、東国の返事を持って帰ってくる頃じゃな。できれば、大事の前に始末をつけたいものよ」
「今は、東国のことより大和の豪族たちをとりまとむることが肝要にござりまする。久米皇子は、逃げ隠れするような方ではありますまい」
水無月の五日、いよいよ蘇我入鹿暗殺計画実行は七日後に迫っていた。すでに主立った豪族たちへの根回しは終わり、残るは蘇我派の豪族たちを懐柔することだ。中大兄皇子と中臣鎌足は、南淵靖安のもとから帰る道すがら語り合った。
「そなた、まだ極に未練があるようじゃのう?」
中大兄皇子の皮肉っぽい言葉に、鎌足はあえて否定せず、静かな声で答えた。
「惜しい男ではござりまするが、しょせん国のことはわからぬ男にござりまする」
「ふふ…国よりも民の方が先じゃ、と申しておったな。この頃奴の言葉を思い出すことがある。我らの国造りを、奴はどのように見るのかのう。まあ、それまで生きていればの話じゃがな。あはは…」
その日、極は一日中荷造りの手伝いに明け暮れた。祖父の穂足は最初、大王の側を離れることに難色を示し、一人ででも残ると言い出しそうな気配だった。極は義兄の長手から相談を受けると、汗を拭きながら居間にいる祖父のもとへ向かった。
「お爺様、久しぶりに良い天気にござりまするぞ。外においでませ…」
穂足はもごもごと何か言ったが、後は下を向いて黙り込んだ。
極は祖父の前に座ると、あえて厳しい表情と言葉で祖父の心を変えようとした。
「お爺様、今や久米の一族は、朝廷にとって必要でないばかりか、目障りな一族になっておりまする。蘇我の本家が滅び、中大兄皇子を中心とした政事が行わるるようになれば、豪族はただの下役人に成り下がりましょう。もはや戦上手は無用のものとなり、へつらい上手が幅をきかする世になるのでござりまする…」
極は、祖父の最も嫌がることを良く知っていた。
穂足はうなり声を上げて立ち上がり、怒ったように自分の部屋へ立ち去った。周囲の者たちはおろおろと見守っていたが、それから一刻半ほど経った昼過ぎのこと、穂足は大きな荷物を抱えて部屋から出てきたのであった。
「わしの持っていく物はこれだけじゃ。」
下人の一人があわててその荷物を運んでいく。
「これ、何をぼおっと見ておる。働け働け。今日中に出発でくるようにしておくのじゃ」
家人たちは、笑いだしそうになるのを我慢しながら、それぞれの持ち場へ散っていくのであった。
その夜、極は再び一族の主立った者たちを広間に集めて話をした。
「わしは明日大王にお目通りを願うつもりじゃ。征東夷大使の解任は間違いないが、事と次第ではもっと厳しいご沙汰があるやもしれぬ。されば、わしの帰りは待たず、なるべく早う東国へ出立するのじゃ。道中はそこに控えておる白猿、山彦、夕月、浮島が案内するゆえ、彼らの差配に従うてくれ。予定通り鈴鹿を越えて伊勢に入り、津の浜から船に乗るのじゃ」
一同は静かに頭を下げる。
「お館様はいかがなされまするや?」
穂足が、極の返事次第では自分も一緒に宮中に乗り込む意気込みで尋ねた。
「わしのことはご心配めさるな。この広麻呂と時丸がいてくれますれば、どうにでもなりまする」
穂足は極の傍らに控えた二人の男を見て、静かにうなづいた。
「その方たち、お館様をよろしゅう頼むぞ」
「ははっ。命に代えて…」
翌日、極は二人の男を従えて板葺宮へ向かった。
強い南西の風が吹き、黒い雲が飛ぶように流れていく。時折、さあっと驟雨が三人の衣を濡らした。
さすがの極も今日は緊張しているのか、口数が少なく、厳しい表情で黙々と前を向いたまま歩いていた。ましてや、広麻呂と時丸の緊張感はいかばかりであったろうか。
事の成り行き次第では、宮中で大勢の衛士たちを相手に戦をしなければならないのだ。
いよいよ前方に板葺宮の大門が見えてきた。道を行く人の数も多くなり、宮中に出仕する役人の姿も見かけられた。と、そのとき、極は背後からふいに呼び止められた。
「久米の皇子様ではござりませぬか…?」
「ん……おお、そなたは、山背大兄王様の舎人の…」
「はい、安曇矢彦にござりまする。ああ、ご立派になられて…」
山背大兄王の館にいた頃、極の側仕えをしてくれていた若い舎人だった。しかし、その姿はあまりにもみすぼらしく、とうてい皇子の舎人にはふさわしくなかった。
「そなた、舎人をやめたのか?」
極は、彼のただならぬ様子に驚いて尋ねた。
「ああ…まだご存知ではなかったのでござりまするか…?」
安曇は天を仰いでそう言うと、溢れる涙に袖を押し当てながら、極が知らなかった驚くべき話を語った。
それは、極が東国に下ったわずか一年後、山背大兄王は蘇我入鹿の命を受けた東漢氏や古人皇子の軍に襲われて、一族郎党とともに自害して果てたというものであった。
極はあまりの衝撃に、言葉を失って立ち尽くした。
「なぜじゃ…なぜに蘇我大臣が皇子様を…」
「殿、それはすでに東国に下る前からあった企みにござりまする」
「なんと…どういうことじゃ。」
広麻呂は不快の情を露わにしながら、佐伯の館で耳にしたことを語った。
「…つまりは山背大兄王が蘇我の思い通りにはならなくなったゆえ、次代の大王には思
い通りになる古人皇子を、ということにござりまする。義父はずいぶんと悩んでおりましたが、蘇我の命には逆らえなかったのでござりましょう」
極はいつしか目に涙をためたまま、じっと宙をにらみつけていた。そして、広麻呂の話が終わると、深いため息を吐いて天を仰いだ。
「思えば、山背大兄王は御自分のさだめをすでにご存知であったのやもしれぬ…広麻
呂よ、これでわしの迷いはなくなった」
極はそう言うと、強い決意を秘めた目で広麻呂を見つめた。
「この世で信じられるものは、もはやそなたたちと東国の民だけじゃ」
「はい…」
広麻呂は少年皇子に次々と降りかかる辛い運命を思い、はからずも涙ぐみながら頭を下げた。
「では、参ろうぞ。」
極は決然として歩き出した。その目は大門を映していたが、彼が本当に見ていたのは、遥かな時空の彼方だったのかもしれない。
「では、どうあっても勅命には従えぬと言うのじゃな?」
「はっ。恐れながら、東国の民はこの三年の間、己の食うものさえ差し出して御料物を増やして参りました。されば、いずれの国の倉にも蓄えはなく、ないものを差し出すことはできませぬ。また…」
「ええい、黙れ、黙れ。そのような言い訳は聞かずともよいわ。されば、大王の勅命に従わぬは反逆の罪じゃ。久米臣、そちの官位、役職は剥奪し、追って沙汰を申し付くる。里に謹慎しておれ。」
すでに、極に対する処分は決定していたので、そこまでは予定された流れだった。
ところが、三年ぶりに極の成長した姿を目にした皇極帝は、もう、感激に涙し、情にほだされてしまっていた。
彼女は、判決を述べて意気揚々と自分の席に戻った中大兄皇子に、そっと耳打ちした。
皇子は驚きととまどいの表情を見せたが、しぶしぶと頭を下げた。
「久米臣、大王がじきじきに東国の内情をお聞きになりたいとの仰せじゃ」
「ははっ、謹んで承りましてござりまする。」
中大兄皇子以下の臣下たちは部屋から出され、帝の護衛の舎人だけが残された。
「極よ、近う、近う…」
皇極帝は、いましも御簾の陰から飛び出してきそうな様子で極を呼んだ。
「ああ…なんとたくましゅうおなりじゃ。朕は…朕はそなたに会いたかったぞよ」
「ありがたきお言葉。極、この上の名誉もござりませぬ。されど、大王のご不興をこうむりたるこの身には辛いばかりにござりまする」
女帝は御簾の陰で切なく身悶えた。
「ああ…どうか朕を恨まないでおくれ。そなたに何のとがも無きことは、わかっておる。
なれど、皇子と鎌足は東国で良からぬことが起きておると、そう申すのじゃ。調べがつくまで、橿原の館でゆるりとしておられよ。そなたを決してないがしろにはせぬゆえ…」
「ははっ…」
女帝はそっと涙を拭いた後、おもむろにこう尋ねた。
「紗月であったかのう、あの利発な娘…元気でおるか?」
「はっ、よほどかの地の水が合うのでござりましょう、畑仕事や洗濯に毎日精を出しておりまする。紗月ばかりではござりませぬ。こちらから参った者たちは、皆元気に暮らしておりまする」
極の言外の報告を、女帝は心中どれほど喜んだであろうか。娘が元気で暮らし、幸せであれば他には何も望まなかった。
「そうか、それは良かった。なれど、東国はいまだ朝命に服さぬ者たちが、多くいるのであろう。秋が来る前には、阿部比羅夫そなたの代わりに遣わすことになっておる。紗月たちもすぐに都へ連れ戻さするゆえ、安心して待っておられよ。」
「ははっ。ありがたき幸せ。されば、その日まで魚釣りでもしてのんびりと過ごすことにいたしまする」
「おほほ…おお、それがよい。時には顔を見せに参られよ」
「はっ…されど、謹慎の身なれば…」
「なに、それもわずかの間のことじゃ…」
女帝はそう言うと、やや間を置いてから真剣な口調で続けた。
「これからの国造りに、そなたは無くてはならぬ者じゃ。それは皇子も鎌足もようわかっておる。極、朕のために、どうか力を貸してくれ」
帝の話の中に、蘇我入鹿の名前が出ていなかったことに、極は気づいていた。この日も入鹿は、三日後の三韓の使者を迎える準備のために、河内へ出かけていなかった。女帝の頭には、もはや蘇我は亡き者になっている、極はそう感じていた。
「ははっ。極、身命を賭して国のために働く所存にござりまする」
極はあえて「大王のために」とは言わなかった。もちろん、その意味は皇極帝にはわからなかった。
上機嫌の女帝に別れを告げると、極は無位無官の若者として宮中を去った。もはや誰も彼に挨拶をする者はいなかった。しかし、彼はむしろすがすがしい気持ちで大門の所まで歩いていった。
衛士の番屋から、時丸が出てきた。
「お帰りなされませ」
「待たせたのう。ん…広麻呂はどうしたのじゃ?」
「はあ、知り合いの男に誘われて出て行かれました。すぐに戻るとおおせでござりましたが…」
「そうか。されば、待つことにいたそう」
二人は大門の脇に並んで立ち、もう見納めになるであろう内裏の方を眺めた。
「征東夷大使は解任、里で謹慎というご沙汰であった」
「さようで…。ここまでは予想通りでござりまするな。問題はこの後でござりまする」
「うむ…。大方の予想はつくがな」
時丸は険しい顔つきになって極の方へ目を向けた。
「中大兄皇子の好き勝手にはさせませぬ。殿、今夜のうちにも…」
時丸がそこまで言ったとき、衛門府の方から広麻呂が一人で歩いてくるのが見えた。何やら怒ったような顔つきだった。
「お待たせして申し訳ござりませぬ」
「いや、わしも今来たところであった」
三人は、大門を出て西へ向かった。飛鳥戸の刀鍛冶、西吉磨世を訪ねるためだった。
三年前、吉磨世はぜひ自分も東国へ連れて行って使ってほしい、と極に頼んでいた。三年前は、余計な詮索を受けないように連れて行かなかったが、今回はそんな心配はいらない。
ただし、これから謀反人となる極に、彼がついて来るかどうかはわからなかった。
「何かあったのか。」
三人は押し黙ったまま歩いていたが、いつもと違う広麻呂の様子に気づいた極が何気なく尋ねた。
「はっ…」
広麻呂は瞬時ためらってから、足を止めて極の方へ向き直った。
「衛門府に勤める朋輩が手前のところへ参りまして、言うことには、もはや蘇我の時代は終わった、と……。義兄子麻呂を中心に、密かに蘇我から離れる動きがある。蘇我と懇意である殿も、やがて厳しき沙汰を受くることになるやもしれぬ。されば、私にも、今のうちに…」
「わしを見限り、中大兄皇子と通じよ…か」
極が笑みを浮かべながら言った。
「はい」
広麻呂は小さくうなずくと、再び前を向いて歩き出す。自分がいかなる返事をしたのか、相手の男が他に何を言ったのか、いっさい語らず、平然とした顔で前を向いていた。
極もにこやかな顔のままで歩き出す。
おろおろして両者を交互に眺めるのは時丸だった。彼には二人の心がまったく理解できなかった。それにもまして、二人の間に亀裂が入ることが何より心配だった。
しかし、二人は何事も無かったように、たわいもない話をして笑いながら歩いてゆく。
やがて飛鳥戸の工人集落が前方に見えてきた。ここはもともと蘇我氏の発祥の地であり、朝鮮半島から渡ってきた技術家集団が根を下ろした場所だった。蘇我氏が力を持ったのも彼らを保護し、その技術力を手に入れたからだと言われている。
吉磨世は、三年ぶりの極との対面に感激の面持ちで工房から出てきた。
「久米皇子様…お久しゅうござりまする。よくぞおいで下さりました」
「うむ、そなたも息災でなによりじゃ。佐伯広麻呂と時丸は知っておるな」
「はい。かねてより懇意にしていただいておりまする。ささ、まずは中へ…」
三人は工房に隣接した板葺きの小屋へ案内された。
「東国のことを噂に聞くたびに、心沸き立つ思いでおりました…」
吉磨世は三人に椅子を勧めながら、興奮を抑えるように言った。
それを聞いて、極の顔にさっと緊張が走った。
「吉磨世、誰が噂をしておったのじゃ?」
「あっ…いえ、どうかご心配なく。わが一族の者は国中を歩いて、良き砂鉄の産地を探しておりまする。その者たちが語ってくれるのですが、彼らも皇子様のお考えは承知しておりまするゆえ、決して他言はいたしませぬ」
「そうか。それを聞いて安心した」
極は椅子に腰を下ろすと、にこやかな表情に戻って吉磨世を見つめた。
「吉磨世、わしは明日にも東国へ発つことになろう。そなた、まだわしについてくる気持ちはあるか?」
吉磨世は、その鋭い目を輝かせて居住まいを正した。
「この三年の間、ずっとそのお言葉を待っておりました」
極も思わず胸を熱くしながら、椅子から立って吉磨世のそばにかがみこんだ。
「わしは朝敵となるのじゃぞ」
「皇子様のお役に立てれば、他に望むものは何もござりませぬ」
「かたじけない…。じゃが、そなたがいなくなれば、ここの者たちは困るであろうのう」
「いえ、ご心配にはおよびませぬ。安心して後のことを託せる者がおりますれば…それに、幸い私は独り者にござりますれば、家族を悲しませることもござりませぬ」
極は吉磨世の手を握って頭を下げた。
「ありがたや。では、そなたの命、わしが預からせてもらおうぞ」
吉磨世は感激に震えながら、地面に平伏した。
「ははっ。もったいなや…。この吉磨世、これより命をかけて皇子様のために働かせて
いただきまする」
こうして、その日のうちに、飛鳥戸の刀工吉磨世は単身荷物をまとめ、極の家臣として同行することになった。
極たちは、いったん橿原の館に帰った。すでに日は西に傾き、ひぐらしの鳴き声がうるさいほどに聞こえていた。広い館の中は祖父の穂足をはじめ、主だった者たちがすでに出立し、後始末のために数人の下人たちが残っているだけで、がらんとして寂しげだった。
「のう、広麻呂、そなた今夜は佐伯の館で過ごすがよいぞ。これからのことも、大殿にお知らせしなければならぬでな。わしは行けぬゆえ、そなたが代わりに大殿にお話いたすのじゃ」
「はっ…。なれど、殿の御身をお守りせねば…」
「案ずるな。まだ誰も、久米の者たちが東国へ旅立ったことは知らぬ。へたに兵を差し向けてくることはあるまい」
「は…はっ。されば…」
広麻呂はなおも不安げだったが、一礼して立ち上がった。
「明朝辰の刻、初瀬の社の前で落ち合うことにいたそう」
「はっ。では…」
時丸が、広麻呂を見送るために立ち上がって一緒に外へ出てゆく。
「夏も今が盛りじゃのう。蝉たちも懸命に鳴いておるわ。」
極は、庭に目を向けて誰にともなくつぶやいた。
翌朝、極は吉磨世と下人たちと共に館の門を出た。いよいよ、この懐かしい故郷の家とも永遠の別れである。もはや生きてここに戻ってくることは二度とないだろう。
極は門を出るときに、もう一度館の方を振り返ると、万感の思いを込めて頭を垂れた。
そして、歩き出した後は、もう二度と振り返ることはなかった。
「皇子様、石川麻呂様にはお会いになられたので…?」
「いや、あえてお会いしなかった…。いろいろと事情があってのう」
「さようで…。そういえば、明日は確か、三韓の使者を迎ゆる儀があり、石川麻呂様は大王への奏上という大役をおおせつかったと申されておりましたが…」
極はやや表情を険しくして、前を向いたまま口を結んでいた。
「私も大殿に黙って出て参りましたので、後々、お叱りを受けることでござりましょう」
吉磨世はそう言って苦笑した。
「吉磨世、そなた、馬には乗れるか?」
極はやや怒ったような口調で尋ねた。
「あ…は、はい、乗れまする」
「うむ。春日野より先は、馬を飛ばせるでな。時丸、そなた先に行って、人数分の馬を用意しておいてくれぬか。これだけあれば足りるであろう」
極はそう言うと、銀粒の入った袋を時丸に手渡す。時丸はかしこまってその袋を受け取ると、一礼してすぐに走り去っていった。
初瀬神社の鳥居の前には、すでに数人の人物が極を待って佇んでいた。
「おお…これは佐伯の大殿、お方様も…。わざわざのおいで、かたじけのうござりまする」
「久米皇子…」
佐伯連の当主は、感極まってそれ以上何も言えず、涙を隠すように頭を下げた。
「謹慎を仰せつかった咎人にござりますれば、表立ってお会いすることもできず、ご無礼をいたしました」
極の言葉に阿津麻呂は首を強く振ると、極の手をかき抱くように握り締めて、涙にかすれた声で言った。
「皇子…今、世は大きく動こうとしておりまする。わが佐伯の家も明日はどうなることやら…。何の手助けもできぬ我らを、どうか恨まないで下され」
「何を仰せられまするや。これまで、広麻呂殿をわが手足のごとく使わせていただきもうした。それだけでもありがたく思うておりまする。されど、これより後はそうもまいりませぬ。大殿のおおせの通り、これからこの国は大きく揺れましょう…」
極はそこでいったん言葉を切って、ちらりと広麻呂に目を向けた。
「大殿、もう話はお聞きにござりましょう。我らは、東国で謀反を起こしまする。それはとりもなおさず、佐伯の一族とも戦うということにござりまする」
佐伯連の主は、わずかに微笑を浮かべながら、さらに強く極の手を握った。
「皇子、存分に大暴れなされ。今の朝廷に、東国を平らげる力はござりませぬ」
極は頭を垂れて、涙を隠すようにしながら言った。
「大殿、お許しくだされ…。恩を仇で返す所業なれど、この戦、なんとしても勝たねばなりませぬ…」
「何をためろうておられまする。大事の前に立ちはだかるものは、何であろうと払いのけねばなりませぬ。それが、たとえ親、兄弟であろうと…。皇子、その覚悟を持って戦いなされよ」
極は慈父のような阿津麻呂の目をしっかりと見つめながらうなづいた。
「では、お行きなされ。くれぐれもお体をいとわれよ」
阿津麻呂はそう言うと、後ろに控えた広麻呂に目を向けた。
「広麻呂、皇子のこと頼んだぞ」
極は驚いた。これから敵同士になって戦うというのに、最も武勇に優れた義理の息子を敵の大将に付けてやるというのだ。当然、今日が広麻呂との別れの日だと、覚悟を決めていた極だった。
「あ、いや、お待ちくだされ…」
極は、慌てて佐伯の当主に反論した。
「広麻呂を連れて行くことはできませぬ。いや、広麻呂と時丸を選んで連れ参ったのも、今日を限りに、二人を佐伯のもとへお返しするためでござった…」
佐伯の当主は、急に厳しい表情になって肩を怒らせた。
「先ほど言うた覚悟、まだできぬと仰せか?」
「いや、それは…なれど…」
「皇子…広麻呂は皇子のためとあらば、今ここでわしを斬り捨つることも、何のためらいもなくやってのけましょう。もはや、この子は皇子こそ生涯お仕えすべき主人と決めておるのでござる。もし、それでもお迷いとあらば、広麻呂に死ねとお命じ下され」
もはや、極には何も返す言葉はなかった。感動に体を震わせながら、自然にその場にひざまづいて頭を下げる。
「み、皇子、何をなされまする……」
佐伯の当主と広麻呂は慌てて駆け寄り、極を両側から支えて立たせた。
「いやはや、広麻呂が言うた通りでござった。あはは…」
阿津麻呂は極を優しく見つめながら苦笑して続けた。
「昨夜、広麻呂が申したのでござる。皇子が、必ずや自分を置いて行くと仰せになるであろうと…」
五十を過ぎた老当主は、極から離れて小さなため息をついた。そして自嘲気味の微笑を浮かべながら、都の方角に目を向けて続けた。
「実のところ、蘇我と結んでいた我らに、出兵の勅命が下されるかどうかもわからぬのでござりまする。よしんば下されたとしても、恐らくは捨て石のごとき役目でござりましょう」
「されば、いっそのこと我らと共に…」
極の言葉に、老当主は微笑んだまま遠くを見つめていた。と、不意に、それまで黙っていた広麻呂が静かに口を開いた。
「殿…それはできぬこと。養父は最後まで佐伯の一族の意地を通す覚悟なのでござ
りまする。」
広麻呂の言葉を引き継ぐように、阿津麻呂が極の方へ顔を向けて言った。
「我らは、あくまでも大王をお守りするが役目…。それはもはや要らぬと言われれば、
一族郎党を率いて最後の戦におよび、いさぎよう散るのみにござる…」
極は流れる涙を拭おうともせず、佐伯の老当主をじっと見つめていた。
「皇子…さらば、お別れでござる」
阿津麻呂の目にも光るものが溢れ、静かに頬を流れ落ちていった。
極は黙って頭を下げると、くるりと背を向けて、もう振り向くこともなく近江への道を歩き出す。広麻呂がその後を追っていく。二人の後ろ姿をじっと見守る阿津麻呂の目は、限りなく優しく穏やかだった。
「見よ。広麻呂の背が踊っておるわ」
彼のつぶやきに、傍らで涙にくれていた夫人も顔を上げて、遠ざかる二人の姿に目を向けた。そして、小さなため息まじりにつぶやいた。
「男とは、つくづく不便なものにござりまするなぁ」
「う、うむ…。そうじゃな」
今すぐにでも二人の後を追いかけて行きたい、という心の奥の思いを見透かされて、阿津麻呂は思わず頭の後ろに手をやりながら苦笑するのだった。