激動編 2 ~極、戦いを決意する~
サナイとカムイの民を取り込んだことで、極の国造りはさらに勢いづいた。
極は主立った指導者たちと常に協議の場を持ち、次々に新しい施策を打ち出した。この会議は「合議」と呼ばれ、この後も定期的に開かれた。
一方で、極は東国の動きを都に知られないように、丙助を中心とした吉野川原の部民たちに街道筋の人の流れを監視させ、怪しい者は密かに見張らせていた。
こうした、いわゆる後の時代には「隠密」とか「忍び」とか呼ばれる諜報活動の専門家たちを、極は努めて大切に遇し、大きな権限と自治を与えた。その結果、彼らの中に誇りと責任感が育ち、平和な時代になった後も、国内の治安維持という重要な任務を果たすことになるのである。
こうして、三年の月日が夢のように流れていった。
「あっ、皇子様だ、皇子様がおいでになったよ」
「おお、皇子様じゃ…」
武蔵の国府周辺は、この三年の間に大きな町に発展していた。
町の中心には「国府の庁」と呼ばれる木造三階建ての巨大な役所が建ち、そこから四方に広い道が造られた。それぞれの道の両側には、商家や職人の作業場、旅篭、市場等が立ち並び、沢山の人で賑わっていた。
『民の力を強くする』という極の理想は、着実に現実のものとなっていた。
まず、農地を増やし、さまざまな作物の栽培を試みさせ、地域による特産化を進めた。次に、産業の特産化、地域による分業を進めた。東国のすべての民が協力して互いの足らざるを補い合うという意識を、徹底して浸透させていったのである。
さらに、秦万礼が中心となって、まだ都の一部でしか行われていなかった貨幣制度を導入した。米を基準にして、主な物品との交換比率を定め、物品の大規模な流通と労働報酬の簡素化、平等化を目指したものだった。
こうした様々な変革の結果、東国全体が見事に活性化したのである。
何よりも民衆の意識が大きく変わった。分業意識の浸透によって、一人ひとりの果たすべき役割が明確になったことと、労働の報酬が、貨幣という形になって現れることで、労働意欲が飛躍的に高まった。
また、それと同時に、民衆と指導者との信頼関係がより強固なものとなり、国を愛し守ろうという意識が予想以上に高まったことも、極や指導者たちを大いに喜ばせたのである。
極は十八歳になった。今や駿河以東の連合国家の盟主であったが、自分ではそんな意識はまったく無く、以前と変わらず忙しい日々を送っていた。努めて自分の目で国内の様子を見て回り、民衆の生活がより良くなるように心を砕いた。「まだ、やるべきことは山ほどある」というのが彼の口癖だった。
今日も彼は国府の町を見て回り、その足で甲斐の国の田彦麿を訪ねる予定だった。
人々は、この三年の間に自分たちの生活を劇的に変化させた若い国主を神のように崇めながらも、少しも気取らない気さくな人柄に心から親しみを感じていた。
「おお、これは良い布じゃ。木綿かな?」
「へい、馬津目の藍染にござりまする」
「うむ…じゃが、えらく値がはるのう。絹よりも高いではないか?」
「へ、へい、その…藍染は手間が掛かりますもので…」
「もう少し安うなれば、誰でも買うことができるのじゃがのう」
極は、こうして時折商家の店先を覗いては、商人が利益を貪らないように目を光らせていた。この日、織物屋の店先では藍染の布の値札が急いで付け替えられた。
極の周囲には、いつも大勢の人々が集まり遠巻きに付いて回った。そんな彼の身辺警護に当たっているのは、三人の若い衛士だった。
「綾、では、甲斐へ参ろうぞ。」
「はいっ。」
一人は十三歳になった綾である。もともと手足が長く背が高かったが、一段と身長が伸びて、狩衣がよく似合っていた。後の二人も桃井と真白という名の若い娘たちだった。
綾が、部民の娘たちの中から選んで訓練し、その中からさらに選び抜いた者たちである。彼女たちは、衛士たちの中でも特に極の身近で警護にあたるので、御身番と呼ばれていた。
さて、極が三年間、用意周到に隠し続けた東国の変革だったが、やはりいつまでも隠し続けることはできなかった。
この三年の間に二度、巡検使が訪れた。極と国造たち、毛野の指導者たち、さらにはサナイやカムイの長たちは何度も合議を開いて対策を練り、巡検使を騙すためのシナリオを作って民にも演技をさせた。また、都への御料物も、三年の間に以前の倍近くまで増やした。だから、皇極帝をはじめとした朝廷の側近たちは大いに喜んで、極の声望はいよいよ高まっていたのである。
だが、最初に東国への疑問を持ったのは、中臣鎌足だった。
鎌足は極が東国に赴任した直後、武蔵国府の役人巨勢某が解任され、続けて紀古麻呂、笠原狭津彦、土師比多別王が蝦夷との戦いで戦死したという話を聞いた。
その時は、何か漠然とした違和感を感じただけだったが、彼の疑いがはっきりと形を成したのは、密かに東国へ遣わした密偵三人が、期限を過ぎても戻らなかった時であった。
東国で何かが起きている…。鎌足は直感した。
彼はすぐに巨勢某に話を聞いたり、東国から帰ってきた紀軍の残党の兵士数人から事情聴取をした。その結果わかったことは、巨勢某は論外にしても、紀古麻呂の死が、武蔵国造からの報告とは異なり、謀反を起こした挙げ句の憤死だったということである。
『あの古麻呂が謀反じゃと…?』
鎌足にはとうてい信じ難いことだった。ここに至って、彼は自分の直感を確信に変えたのである。
「皇子、あの折りのこと、謝らねばなりませぬ」
「ん、何のことじゃ?」
阿騎野の山野は美しい新緑に覆われ、狩りのための下草刈りが大がかりに行なわれている。丘の上からその様子を眺めていた中大兄皇子と中臣鎌足は、大勢のお供の者たちから少し離れた所で話をしていた。
「皇女様の件でござりまする」
皇女と聞いて、中大兄皇子の顔色が変わった。
「間人の消息がわかったのか?」
「いえ、そうではござりませぬが…ひょっとすると、あの折りの皇子のご推察が正しか
ったのやもしれませぬ」
「何と…では、間人はやはり極とともに東国へ参ったと申すか?」
「確証はござりませぬ。なれど、皇子にはまだ話しておりませなんだが、密かに佐伯連の館を探らせましたところ、どうやら皇女様は居られぬようでござりまする。さらに…」
皇子は青ざめた顔でごくりと息を飲んだ。
「どうも東国の様子に不審なことがありまする」
「ううむ、極め…やはり、間人を盗みだしたるは、彼奴であったか…」
鎌足は、間人のことに執着している皇子をたしなめるように言った。
「このさい皇女様のことは後にして、先ずは東国に探りを入れるが肝要。急がぬと大事になりまするぞ」
中大兄皇子はややむっとした表情になったが、鎌足には何も言い返せなかった。
「どうするというのじゃ?」
「はい…大王に御進言なされませ。飛鳥の新都造営のため、東国に人夫五万、米五万俵
を差し出すよう詔勅をと。もし、東国の国造たちがそれを拒むようなら、彼らの朝廷
への叛意明らかと言えましょう」
「ううむ…して、極のことはどうする?」
「彼は征東夷大使を拝命した身、更には東国全体のまつりごとを司る権限も与えられておりまする。国造たちの謀叛は、すなわち彼の謀叛。死罪は免れ得ませぬ。詔勅への返答は彼が持って参るようにいたしましょう」
「うむ、あいわかった。早速大王に進言奉ろう。ふふ…極の奴め、何を血迷うたか知ら
ぬが、これで終わりじゃな」
こうして、中臣鎌足がブレーンとなって、朝廷による対東国干渉が始まった。
皇極帝は初めこの施策に強く反対した。蘇我入鹿も人夫の数や米の量が多すぎて、とても負担には耐えられないだろうと、反対を表明した。しかし、新都造営のため、という大義名分の前には、帝も反対し続けることができなかった。彼女は仕方なく鎌足が起草した詔勅に御璽を押したのである。
時に西暦六四五年五月。おりしも朝鮮半島では、唐の後押しを得た新羅が百済への圧力を強め、百済は日本への援助を再三求めて来るという緊張した情勢の中でのことだった。
帝の詔勅は十日後、早馬に乗った勅使によって各国造のもとへ届けられた。
「も、申し上げまする。ま、馬津目様、ご到着に…あっ…」
取り次ぎの若者を押し退けて、真っ赤な顔でいきり立った大男が入ってきた。ところが国府の庁の会議室には、すでに各国の指導者たちが顔を揃えていたのである。
「あはは…遅かったではないか、馬津目殿…もう皆来ておるぞ」
「あ、いや、これはご無礼を…されど、殿、笑い事ではござりませぬぞ。この、都の、
何たる横暴、非道…わ、わしは…」
「ええい、まず席に着け、馬津目。気持ちは皆同じじゃ」
駒真人にたしなめられて、馬津目丙地は今にも泣きそうな顔で、こぶしを震わせながら自分の席へ行って座った。
「では、先ほどからの話を続けましょうぞ。諏訪殿、続きを…」
議長役の筑紫県麿改め竹部氏郷が静かに口を開いた。
県麿がそうであるように、各国造たちは二年前、一斉に新しい姓名を名乗るようになった。大和朝廷との完全な決別を表明するためであった。
「ともかくも、これは明らかにわれらの動きを見るための嫌がらせだ、ということでござる。そのことを念頭において、どうするかを話し合いましょうぞ」
信濃国造若建豊日子王改め諏訪建時の言葉に一同はうなづき合った。
「これを拒めば、朝廷がどう出るか、ということじゃな?」
「さよう…いよいよ覚悟を決むる時が来たのやも知れぬ」
安房国造玉速王改め三浦安房は、強い決意を秘めて周囲の者を見回した。
広間の空気がざわざわと静かに動きだした。
「とおに覚悟は決まっておるわい。のう、各々方、そうであろう?」
馬津目の言葉に、ほとんどの者たちがしっかりとうなづいた。
ただ一人、上毛野国造別日垂子王改め毛野高日子が、憂い顔でつぶやくように言った。
「どうしても戦は避けられぬかのう…また多くの人の命が奪われ、多くの者たちが悲しむのか…」
賀谷利をはじめとする毛野の宿将たちは、かつての主人の嘆きに、何も言えずうつむいた。
「毛野殿、まさに仰せの通りにござる。でき得ることならば、戦はせぬ方がよい…」
静まり返った広間に、極の声が染み透るように流れていく。
「われらは、二度と戦のない国にするためにこれまで苦労をしてまいったのじゃ。されば新しき国造りをあきらめて、大和との戦を避け、その代わりに大和への忠誠を誓うか…。それも一つの道であると思う」
長卓を囲んだ十八人は、期せずして同時に極の方へ顔を向けた。その顔には一様に激しい感情が露になっていた。誰も心にあるのは同じ思いだった。
『この三年の間に、かくも素晴らしい国になったこの東国を、むざむざ大和にくれてやるというのか。そんなことをするぐらいなら、戦で死んだほうがましだ』
しかし、誰もその思いを口にすることができなかった。なぜなら、国のために人が死ぬことを誰よりも深く悲しみ、それをすべて自分の責任だとして心の中にためこんでいるのが、今、自分たちの目の前にいる若き国主だということを知っていたからである。
苦悶に満ちた空気の中で、不意にうめくような声が聞こえてきた。
極の横で議長役を務めていた竹部氏郷が、流れ落ちる涙を拭おうともせず、男泣きに泣いていたのである。常に思慮深く、時には歳を感じさせない豪胆さを見せて、この国を支える大黒柱となった老将が、人前で初めて見せる涙だった。
氏郷は、驚いて見守る一同の前で、いきなり椅子から下りて床にひざまづいた。そして搾り出すような声でこう訴えたのである。
「殿…人が、家族や国という愛するもののために死ぬるは本望であると、この爺に教え
て下されたのは、殿にござりまする。この歳まで生きて参って、やっと…やっと、本望
を遂げらるると、いかばかりか喜んでおったに…もはや、この老いぼれには、死に場所
さえも与えてはもらえませぬのか?」
「お爺…」
極は立ち上がって、氏郷を立たせようと手を差し伸べた。氏郷はその手にすがりつくように握り締めて、必死の形相で訴え続けた。
「殿、今ようよう明け初めしこの東原に、まことの夜明けを…なにとぞ、なにとぞ来たらせ給えぇぇ…」
その魂の叫びを聞いて、誰一人涙を流さぬ者はなかった。
極も立ったままで、涙が頬を流れ落ちるのにまかせていた。
「竹部のお爺…ようわしを叱って下された…。この通りじゃ、礼を言いまするぞ」
「殿…うう…う…」
氏郷は、極の手に顔を押し当てて体を震わせながら感涙にむせんだ。
極は老臣を優しく椅子に座らせると、一同を見回した。もはや、どの顔にも迷いはなかった。
「竹部殿に代わって合議の決を採る。朝廷よりの勅命に対する返事は、黙殺…各々方それでよいな?」
「おうっ」
「では、この件についての合議は終わる。引き続き軍議に入ろうと思うが、よいか?」
「おうっ」
ついに、日本全土を揺るがすことになる大きな波は動きだした。大和の朝廷は、まだその動きを知らない。