表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東原~あずまのはら~ Remake版  作者: 水野 精
6/24

激動編 1 ~北の大地の春~

19 新将軍と反骨の二人組



 蝦夷地に遅い春が訪れようとしていた。まだ奥羽の山々は麓まで雪に覆われ、冷たい風がやっと芽を出したばかりの若草を吹き撫でていく。見渡すかぎりの原野と点在する森。まだ野生が支配するこの地には、人の存在を感じさせるものはほとんどなかった。


「今日も、大使の使いは来るのかのう?」

「ああ、来るだろうな」

 毛あしの長い、ずんぐりとした馬に乗った二人の男が、彼らだけに通じる言葉で話しながら原野を駈けていく。


 二人にとって、磐城いわきから北は自分たちのものだという思いがあり、新しい国造りと言われても協力する気などまったくなかった。ただ、もし相手がたんまりと贈り物をくれれば少しばかりの土地は分け与えてやってもいいと考えていたのだ。


 筑波山の麓にある一方の男の根城が見えてきた。手前に大きな川が流れ、その向こう岸の段丘に竪穴式の粗末な家々が八十戸ほど固まって立っている。その小さな村にそぐわない頑丈な木の柵が、周囲を取り囲んでいた。 川には洗い物をしている女たちの一団がいたが、向かってくる二頭の馬に気づくと、そそくさと洗い物をまとめて村の方へ戻っていった。


 見張りから報せを受けたのか、配下の男たちが柵の外へぞろぞろと出てきた。

「お帰りなさいませ」

「おう。留守の間、何事も無かったか?」

「へい。例の奴らが何度か来ましたが、それ以外は何も…。実は、今日も……」

「来ているのか?」

「へい…それが……」


 手下の歯切れの悪いもの言いに、首領の男は眉をひそめながら、話を最後まで聞かずにさっさと自分の住みかへ向かう。


 村の奥の高台になった場所に、ここばかりは高床造りにかやぶき屋根の館が建ち、傍らには見張りの楼台が立っていた。

 その楼台の下から館の前にかけて、たくましい体の男たちの一団が二十人あまり、何かを取り囲んで集まっていた。


「おい、佐内様がお帰りじゃ」

「そうか…」

 館の外の階段の途中に座っていた、白い狩衣を着た若い男はそっけない返事をして、おもむろに立ち上がった。


 首領の男は馬から下りると、相棒の男とともに若者を睨みつけながら近づいていった。

 若者を取り囲んでいた男たちが、へり下った態度で首領を迎える。

 首領の男倶知安佐内は、初めて見る若者に得体の知れない迫力を感じて、それに負けじと肩を怒らせながら対面した。


「わしに何の用じゃ?」

 若者は物憂げな目で、微かに笑みを浮かべながら佐内を見つめた。

「わが主人がそなたに御用がおありじゃ」

 佐内はいささか面食らって、周りをきょろきょろと見回した。というのも、彼は目の前の若者こそ、噂に聞く征東夷大使その人だと思い込んでいたからである。


「主人は村の中を見回っておられる。もうじき戻ってこられよう」

 若者は佐内の心中を察して答えたが、それを聞いて佐内はますます面食らった。

「お、おめえは何者じゃ?」

「佐伯広麻呂……久米の殿の護衛をおおせつかっておる」


 さて、その頃当の極は大勢の村人に囲まれて、いかにも楽しげに話をしていた。彼の傍らには大胡仁来が控え、極と村人との通訳をしていた。


「ううむ……見れば見るほど不思議な目の色、髪の色じゃのう。美しい…」

 極は村の少女たちをそばに呼んで、しげしげと見つめながらつぶやいた。

 少女たちは粗末な麻の貫頭衣だけを身にまとい、ぼさぼさの髪を後ろで束ね、手足も泥に汚れていた。そんな姿を「美しい」と言われて、まるで狂人を見るように彼を見つめている。


 村人たちは三月ほど前、極の命を受けた丙助から新任の将軍のことをいろいろと聞かされていた。そして、今実際に目の前にいる将軍の気さくで一風変わった物腰に接し、好奇と期待に目を輝かせていたのである。


「新しき国はどのような国かど、聞いておりまずる」

一人の年老いた村の男の問い掛けを、仁来が通訳して極に伝えた。

 極はにこにこしながら村人たちを見回して言った。

「どのような国になるか、わしにもまだ分からぬ。ただ……」

 極はそこでちょっと言葉を切ると、自分のひざにもたれかかってにこにこしながら見上げている幼い少女を抱き上げた。

「このような幼子らがひもじい思いをせず、誰もが楽しく笑って暮らせる国にしたい……そう思うておる」


 彼がそう語り終えたとき、遠くの方から何やらざわめきが聞こえてきた。

「どうやら、佐内と阿知世が戻ってめえったようで…」

「おお、そうか。では、参ろうぞ」

 極と仁来が歩きだした時、ちょうど館の方から佐内の手下の男たちが二人を呼びに向かってくるのが見えた。


 極と仁来は、武器を手にした男たちに囲まれて、館の前まで歩いていった。そこに、佐内と阿知世はどっかりと座って待ち構えていた。二人には初めて会う極だが、やはり二人とも仁来と同じく、赤く縮れた髪、高い鼻、深くくぼんだ目の異相の男たちだった。


「初めてお目にかかる。久米極じゃ」

「わしはカムイ・サナイ、こっちはカムイ・アチセじゃ」

「ん?そなたは倶知安佐内、もう一人は加奴井阿知世ではないのか?」


 二人の男はあからさまに嫌悪の表情を見せ佐内が吐き捨てるように言った。

「それは都の者どもが、われらを侮ってつけた呼び名じゃ。二度と口にするな」

「おお、そうか。あい分かった」

 極はにこやかにうなづきながら続けた。


「それにしても、見事な大和言葉じゃのう。どこで習うたのじゃ?」

 佐内が若い頃、五年近く都で衛士をしていたことを、調査から知った上での問い掛けだった。


「ふん…敵を討つには、先ず敵を知ることが肝要じゃからな」

「うむ、その通りじゃ。では、わしの使いに会わなかったのは、わしを敵とは思うておらぬからなのか?」


 佐内は急に高笑いをしながら、階段の途中に再び腰を下ろして座った。

「うははは……なかなか食えぬのう。見ればまだ少年のごとき姿じゃが……幾つになられるや?」


 さっきから、横で広麻呂がしきりに剣に手をかけようとするのを手で制しながら、極はにこにこしながら答えた。

「十五じゃ。」


 佐内も周りの男たちも 真に驚いたような顔で小さな声を上げた。

「何と……」

「さて、佐内…そなたはなかなかの知恵者と見た。その知恵をわしの国造りのために貸してくれぬか?」


 佐内は元の顔に戻って、にやりと笑みを浮かべた。

「さあて…ふふ…話の如何いかんでは貸してやらぬこともないが…」

 佐内は阿知世や手下の方へ視線をむけながら、おもむろに続けた。

「まず、どのような国を造ろうというのか、それを聞かせてもらおう。」


「うむ……されば、この東国を民の国にしたいと思うておる」

「民の国…?」

 男たちは訳が分からないといった顔で、お互いを見合った。

「はて……民とは、あそこにおる村の者どものような者か?」

「うむ、そうじゃ」

「うははは……」

 佐内と男たちは一斉に大笑いを始めた。


 いきりたつ広麻呂を目で厳しく制しながら極は佐内たちが落ち着くまで待っていた。

「いやはや、おもしろきことを…あの怠け者たちの国とはどんな国じゃ。大使殿、考え直されてはどうかのう」

 佐内はまだ笑いを含んだ声で、哀れむように言った。


「いや、考え直すつもりはない。佐内、そなたに一つ問うが……」

 極はじっと佐内を見つめながら続けた。

「朝夕の飯は何を食うておる」

「ん…今度はまた何の話じゃ?」

「黙って殿のお尋ねに答えろ」

「何ぃ…」

 広麻呂の言葉に、佐内も手下の男たちも、すわと殺気立った。


「広麻呂、やめよ。では、問い直そう。そなたは自分の食い物を自分で得ておるか?」

「おう、自分で得ておるわ。村の者どもは、わしに守ってもらう礼に、酒と食い物を差し出すのじゃ。女もな……ふふふ……時には、都への献上物を力で奪い取っておるわ」

 男たちは一斉に喝采を上げて笑った。


「ふむ……さすれば、酒や粟、ひえなどを作り出す村人がおらねば、そなたは飢えて死ぬわけじゃな?」

「な、何じゃと?」

「違うか?」

 佐内と男たちは、険しい顔つきになって極をにらみつける。


「わしも同じじゃが、己れ一人では米の一粒たりとも作り出せぬ。民が作った物を奪い取っておいて、それを己れの力で得たと言うは思い上りじゃ」


 佐内は怒りに顔を真っ赤にして、うなりながら立ち上がった。

「ぬうう……だから、どうじゃと言うのだ。力ある者が民を守り、その報いとして民からの供物を受くるは当然のことではないか」

「うむ、民がそう望んだのであればそれで良い。わしとそなたは同じ考えを持つ者として手を携えて行けよう」

「おう、民はわしらを喜んで主人と思うておるわ。じゃがな、大和の人間と手を組む気など爪の先ほどもないわ」

 男たちがやんやの喝采を上げ、佐内は勝ち誇った顔で極を見下ろした。


 極はにこにこ微笑みながら、騒ぎが静まるのを待っていた。

「ふむ…では、佐内よ…」

 男たちはぴたりと口をつぐみ、険しい顔つきで、若い将軍が何を言い出すのか注目している。

「わしはそなたたちを討たねばならぬ」


 さきほどよりも更に殺気立って、男たちは極に詰め寄ってきた。広麻呂と大胡仁来は極の両側に立って、いつでも剣を抜けるように構える。

「やれるものならやってみろ。ふふ……なんなら今からやってもよいぞ」


「まあ、そう死に急ぐな。もうすでに二千の兵が、この村の周りを取り囲んでおるはずじゃ。それに、この広麻呂がその気になれば、そなたの首、すぐにでも胴体から離れてしまおうぞ」


 その言葉に男たちは動揺し、佐内はごくりと生唾を飲み込んでから、無言のまま手下の一人に見張り台へ行くように促した。手下の男はがくがく足を震わせながら見張り台を上っていく。

「おいっ、ど、どうなんじゃ?」

 佐内はあせりを隠せずに怒鳴った。


 見張り台の男は、口を開けたまま呆然と村の周囲を見回していた。

「も、もう終わりじゃ…さ、佐内様…」

もう、それで佐内たちは極の言葉が真実であることを知った。

「ぬうう…不意打ちとは卑怯な…」


「いや、不意打ちをするつもりなら、わざわざこうして話をしには来ぬ。佐内、しばし考ゆる時を与えよう。五日後、またここへ来るでな。良い返事を待っておるぞ」

 極はそう言い残すと、広麻呂と仁来を促しくるりと背を向けて歩きだす。

 広麻呂と仁来は佐内たちに目を配りながら、ゆっくりと主人の後についていく。


「おい、仁来」

 ふいに、佐内が仁来の背中に声を掛けた。

「おめえ、大和の犬になり下がっただか?」


 仁来は歩みを止め、瞬時地面を見つめて歯をくいしばった。そして険しい顔で佐内の方へ振り返った。

「ふふ……情けねえのう。あれほど大和の人間を憎んでいたおめえがよ」

「ち、違う…お、おらは…」


 極は歩みを止めて様子を見守っていたが、広麻呂に無言で促した。

「大胡殿、参りましょうぞ」


 仁来はやり場のない悔しさにこぶしを震わせると、背を向けて足早に歩きだす。彼はそのまま極の横を通り過ぎていった。


 村外れの川岸には、笠原、筑紫、佐伯の三人の国造たちと、賀谷利、馬津目の二人が心配そうな顔で待っていた。

「おお、殿、何事もなくよろしゅうござりました」

「うむ…じゃが、佐内を説き伏せることはできなんだ」


 男たちは、主人の第一声にいささか驚いて顔を見合わせた。彼らとしては、よく無事に帰られたものだという思いが強かったからである。

「まあ、すぐにはなかなか難しかろうと思いまする。説き伏せることが無理なら、力ずくで従わせるまで…」


 賀谷利の言葉に、極は足を止めて振り返った。

「黒丸殿、わしはできうるかぎり佐内をわが陣営に組み入れたいと思うておる。その心積もりでいてくれ」

 賀谷利ははっとした顔で、あわてて頭を下げた。

「ははっ」

 極はうなづくと、再び歩きだした。辺りを見回し、大胡仁来の姿を見つけると、つかつかと彼のそばへ近づいていく。


「仁来殿…」

 仁来は川を見下ろす岸の上に立って、筑波の峰を見つめていた。

「はっ…」

 彼は気のない返事をすると、極の方を見ないままその場に片膝をついた。


「仁来、わしを見よ」

 いつになく厳しい極の声色に、仁来はおずおずと顔を上げて少年皇子を見た。

「佐内に『大和の犬』と言われて悔しかったか、どうじゃ?」

 仁来は唇を引き結んで、再びうつむく。

「そうか…返事ができぬということは、そなたの心にも、どこかに自分が大和の犬だという思いがあるのじゃな?」

 仁来はびくっとしたように肩を震わせるとさっきよりも生気が戻った目で極を見上げた。


「よいか、仁来……」

 極はその場に座ると、正面から仁来を見据えて続けた。

「わしがこれから造る国には、大和も蝦夷もあらず。ただ同じ志を持った人間がおるだけじゃ。そなたが、いつまでも大和だの蝦夷だのという考えにとらわれておるならば、わしはそなたを必要とせぬ。さっさと佐内たちのもとへ去るがよい」


 いつしか二人の周囲には国造たち、毛野の宿将たちが集まって、はらはらしながら成り行きを見守っていた。


 仁来は頭を鉄槌で殴られたような衝撃を受け、呆然とした顔で極を見つめた。

「と、殿……わだすは……」

 仁来は見た。自分をじっと見つめる少年皇子の目に、いつしか涙が溢れてこぼれ落ちるのを。


「仁来、わしの手を握れ……」

 極はそう言って、仁来の目の前に手を差し出した。

 仁来はその手を、微かに震える両手で包むようにそっと握る。極のもう一方の手が、しっかりと仁来の手に重ねられる。

「いかに、仁来、わしの手とそなたの手に何ぞ違いがあるや?」


 極はもう流れる涙を拭おうともせず、仁来の手を震えるほどに握り締めながら続けた。

「わしの手にもそなたの手にも同じ赤き血が流れておるでないか」

「うおおお…お…おおお……」


 まるで地の底から沸き上るような声で、仁来は泣いた。極の手を握り締め、涙に濡れた顔を押しつけて、声の限りに泣いた。周囲の男たちも皆、袖を顔に押し当てない者はなかった。



 20 改革を助ける者たち



 極は新しい国造りのために奔走し、寝る間もないほど多忙な日々を送っていたが、その傍らで彼の妻たちも、少しでも夫の力になれたらと心を砕き、それぞれにできることを懸命にやっていた。


 綾は、毎日武術の鍛練に汗を流す一方で、多摩川のほとり、谷保に移り住んだ吉野川原の部民の中から若い娘を選んで、自分の身につけた武術を伝授していた。綾はそれらの娘たちの中からさらに選びぬいた何人かの娘たちを、自分と同じ極の護衛役にしようと考えていたのである。


 紗月、加波、そして多摩媛こと間人の三人は、疲れて帰ってくる夫のためにできるだけ館の中を住みやすく、くつろげる環境にしようと心を砕いていた。

 武蔵の国に来て二ヵ月、三人とも姫様育ちで土に触ることさえめったに無かったのだが今では部民の女たちに交じって野菜の収穫をしたり、多摩川で洗い物をしたりと、村の女たちとほとんど変わらない仕事ぶりだった。透き通るように白かった肌も日焼けし、手もずいぶん荒れていたが、彼女たちの顔にはいつも笑顔が絶えなかった。


「やはり今の時期は、乳の量も増えるのでしょうか。ほら、こんなに絞れました」

厨所で朝食の準備をしていた紗月と間人のもとへ、牛小屋から戻ってきた加波が桶を重そうに台の上に乗せながら言った。

「わあ、本当にたくさん採れましたねえ。さっそく煮立てさせましょう」

 牛や山羊の乳は、武蔵に来てから極が皆に飲むように勧めているものの一つだった。他にも、いろいろな鳥の肉や卵、麦の利用など、極は自分たちだけでなく、民衆の食生活が豊になるよう各方面から知恵を集めて取り入れるようにしていた。


 衣服についても同様だった。これまでは、一般の民衆の衣服はほとんど麻織りの貫頭衣だけだったが、極は養蚕と機織りを広め、誰でも日常的に絹の衣服を着られるようにしようと考えていた。それは当然、禁制を破ることであり、朝廷に知られれば反逆の罪に問われることになる。しかし、養蚕と機織りの技術と権限を一手に握る豪族秦氏の東国分家、武蔵秦氏の当主万礼まれは、極と会い、東国独立の夢を聞くと、大いに感動して全面的な協力を約束した。


 朝敵になることへの覚悟を問われると、万礼は長身の体を揺すりながら豪放な笑い声を上げた。

「あははは……いやいや、ご心配痛み入りまする。されど皇子様、われら秦一族は故国を後にした二百年前、もはやこの世に安住の地は無いと覚悟を決めておりまする。恐るるものなど何もありませぬわい」


 極にとっては何とも心強い同志であった。秦氏の持つ経済力と全国に広がる同胞のネットワークは、この後の極の国造りにとって大きな力になるはずだ。

 しかし、極は慎重にも慎重を期す心構えを忘れなかった。


「万礼殿、あと三年ほどは都に良い顔を向けておいて下さりませ。貢納物も怠らずに……万全の戦の準備をせねばなりませぬゆえ」

「おお、確かに承知いたしましてござる。ついでに都の動きを逐一報せさせましょう」

 万礼はいかにも楽しげに答えた。


 こうして、極の大いなる夢は着実に現実のものになっていった。蘇我氏を筆頭とする大豪族への権力集中と地方の隷属化への不満が高まっていた時でもあり、時代が彼の味方をしたとも言えるだろう。ただ、さまざまな思惑と利害が複雑に絡み合った東国の諸豪族同士をまとめるには、極のような特別な資質を持った者でなければ不可能だったことも事実であった。


「皇子様、ただ今帰りました。やはり皇子様のお見立て通りでござりましたぞ」

 回廊に座って、降り続く夜の雨を眺めていた極のもとへ、箱根の宿から帰ってきた丙助が菅笠に蓑姿で現われた。


「おお、ご苦労であったのう。ささ、上がれ上がれ。先ずは着替えるがよい。話はそれからじゃ。お前たち、丙助に着替えを…」

「はい。丙助殿、早うこちらへ」

「へい、それでは遠慮無く…」


 今ではもう家族同然の丙助は、笠と蓑を庭先の梅の枝に掛けると、鹿皮の靴を脱いで回廊の下に置き、ひょいと身軽に飛び上がって極の傍に立った。

「あはは……相変わらずせっかちな奴じゃのう。階段へ回ればよいものを…」

「あっ、あかん、またやってしもうた。ご無礼をお許し下さりませ」

 極の屈託のない笑い声が、夜の闇へ流れていく。


 五月雨の季節に入り、毎日のようにしとしとと雨が降り続いてていた。人々は連日、こぞって雨の中に出ていき、稲の苗を植えていた。毎年恒例の風景だったが、今年は人々の表情が違っていた。極の命を受けた各国造たちから、村々へ新しい税制が申し渡されていたからである。

『一つ、各々の村は力を合わせ、土地の開墾と用水路の確保、補修に努むること。

一つ、各々の村は収穫物を共同の倉に収め、何人も飢えることなきよう努むること。

一つ、各々の村は互いに足らざるを補い合い、その上で余剰の収穫物の生産に努め、それらはすべて国の倉に納めること』

 これが、東国九ヶ国の村々に出された通達文であった。


 衛士の服を脱いで、すっかりくつろいだ姿になった丙助が、妻たちとともに極のもとへ戻ってきた。

「いやあ、さっぱりしましたわい」

「まだや、早う髪拭きや。しずくが垂れとるやないか」

「うるさいやっちゃなあ。自分でやるさかい、ええっちゅうに…」

 いつもの綾と丙助の掛け合いに、極も妻たちもにぎやかな笑い声を上げる。


「まったく、近頃は随分とええ匂い振りまいて……すっかり綾姫様やなあ」

 綾は冷やかされて頬を赤らめ、きりりとした眉を釣り上げる。


「おお恐…皇子様、こんなはねっかえり、さぞかし手を焼いてござりましょうなあ」

「あはは…いやいや、綾はまことに心優しき妻じゃ。いつも心を慰められておる」

 極の言葉に、紗月、加波、間人もうなづいて、口々に綾への賛辞を述べた。


「ま、まあ、そんな…恥ずかしい…」

 今度は本当に真っ赤になって、どうしようもなさそうに極の背中に顔をうずめる綾を、

 丙助は目を細めて幸福に胸を詰まらせながら眺めるのだった。


「さて、酒でも飲みながら話を聞こうか。」

 極の言葉に、綾を除いた妻たちはうなづいて立ち上がり、酒肴の用意をしに厨所へ向かう。


 極は綾を膝に抱いて、優しく髪を撫でながら、丙助の報告を聞いた。

「都の密使、確かに入っておるようでござりまする」

「うむ…そうであろうな。巨勢某や紀古麻呂の残党が都へ帰って、話をしておろう。中臣鎌足と中大兄皇子の耳にも入る頃じゃ」

「はい。このひと月の間、わが手の者たちを箱根と甲斐に張り込ませて、この地へ入ってくる者を逐一調べさせましたが、明らかに怪しき者が三名、いずれもこの五日の間に箱根を越えましてござりまする」


「で、その者たちは何処いずこへ参ったのじゃ?」

「はい、いずれも子代こしろ名代なしろになりすまして駿河、武蔵、上毛野の屯倉みやけに入り込みましてござりまする」


 極は静かな笑みを浮かべて、外に目を向ける。ちょうど妻たちが酒肴の膳を抱えて部屋に入ってきたところだった。


 極と丙助は妻たちの酌で、ゆっくりと酒を飲み始める。

「国造たちには、こんなこともあるだろうと思うて、民が新しき国造りのことを一切口にせぬよう厳しく申しつけよ、と言うてある。されど、小さな漏れは必ずやあるに違いない。すまぬが、三人の監視を悟られぬよう続けてくれ」


「はい、すでに手配はすんでおりまする。御命令があれば、すぐにでも密かに始末できまする」

 極は満足気にうなづくと、横に座った加波に酌をさせ、土器に口をつける前にぽつりとつぶやいた。

「やはり、そなたたちを都から連れて参って良かった…」


 それを聞いて、丙助は飲みかけの土器を置くと、目を輝かせながら言った。

「それでござるよ…最初、皇子様からお話をうかがったときは、どんな役目かよく分か

りませなんだ。されど今思うに、皇子様の御彗眼、ただただ驚くばかりにて……まったくわれらにとって、これほど性に合うた役目は他にござりませぬ」


「うむ…」

 極はうれしげに土器を干すと、丙助に差し出しなから言った。

「のう、丙助、そなたには苦労をかけるが、こうした、何というか、報せと密使と警護

の役目を合わせ持つ、特別な人間だけを育つる村を作ってみてはくれぬか?」


 土器を両手で押し戴いた丙助は、そのままの姿勢で驚きに目を丸くした。

「無理かのう…」

「あ、い、いや…驚いたのなんの…この丙助、実はもうそのつもりで準備をしておっ

たのでござりまするよ。皇子様には、まだ誰も話してはおらぬはずじゃと…」


「あはは……そうか。いや、何も聞いてはおらぬが…相変わらず、手回しが良いのう。

それで、場所はどの辺りにめぼしをつけておるのじゃ?」


 丙助は紗月から酒をついでもらって、いかにもうれしそうに一気にあおった。

「へいっ、一つは海の近くにと思いまして相摸の鎌倉辺りににと…いま一つは山を自

在に駆け回る者たちを育つるために、甲斐の国の何処かにと考えておりまする」


「うむ、見事じゃ。海と山の両方に備ゆるが肝要…さっそく、取り掛かってくれ」

「へいっ、承知いたしました。ただ、そのためには、一つ足りぬものがござりまする」

「おお、何でも言うてくれ」


 丙助は土器を置いて姿勢を正し、神妙な顔で両手をついた。

「有り難き幸せ…されば、甲斐の国へは手前が行くとして、もう一方の頭になる者がい

まだ見つかりませぬ。皇子様にお心当たりがあればと…」


「うむ……」

 極は深くうなづいたなり、じっと考え込んだ。

「そなたの同胞はらからにもおらぬのだな?」


「はい…使える者は何人もおりまするが、人を育つるとなれば、誰にでもできるという

ものではござりませぬゆえ…」


「うむ、確かにのう…はて、わしにもすぐには思いつかぬ。今しばらく二人でよく捜してみようぞ」

「はい、そういたしましょう」


 雨は小止みなく降り続いている。

 なごやかな声に包まれた部屋に、雨を逃れて迷い込んだのか、二匹の小さな白い蛾が灯りの周りをせわしなく飛んでいた。



 21 金色の鷲



 次の日もまた雨だった。

 この日、極は朝早くから百人ほどの兵を引き連れて磐城の国を目指していた。筑波山の麓の根城を捨てて、一族の者たちとともに北へ北へと移動している佐内を追うためであった。


 この半月の間、極は三度佐内に会いに出掛け、説得を試みた。しかし、佐内はかたくなに協力を拒み続けていた。二度目からは極に会わないように、阿知世の根城である猪苗代湖畔に隠れたり、また、極が佐内の根城に三日間待ち続けている間、行方をくらまし続けたりしていた。

 しかし、極は決してあきらめなかった。大胡仁来の手の者たちに佐内の動きを見張らせ、逐一報告させていた。そしていつも佐内の意表をついて彼の前に忽然と現われるのだった。


 この日も、極は前日までの情報をもとに、長旅の準備をしてゆっくりと佐内の後を追っていった。

 常陸の国に入って間もなく、先導をしていた大胡の兵士数人が極のもとへ走ってきた。

 この先の道端に、病人を抱えた村人の一団がいるという。


  極がそこへ着いてみると、みすぼらしい姿でやつれ果てた老人、女、子供たちが草の上に座り込んでいた。

「佐内の村の者にござりまずる。無理矢理連れられで行く途中、足手まどいになって置き去りにされたそうで…」

 仁来の言葉に極はうなづいて、全軍に小休止を命じた。そして、春通、笠原使手、仁来を呼んで言った。

「この先にも、ついて行けずとり残された村人が相当いるであろう。大胡殿、先導の兵にそれらの者たちに武蔵へ下るよう伝えさせて下され。春道、そなたはここに残り、最後の者たちが来るまで食い物を与え、手厚く世話をしてやってくれ。それから笠原殿、春通と共にここに残り、村人が元気になったれば、兵に命じて谷保の部民の村へ送り届けさせて下され」


 三人は承知してすぐに持ち場へ向かう。

 軍は再び北へ向かって進み始める。筑波の峰を左手に見ながら石岡、友部を過ぎ、常陸の国府がある水戸の近くまで来た。ここには県麿の手配で、彼の家人や部民が食料や飲み水、酒などを用意して待っていた。

 極はここで宿営することを全軍に告げた。武蔵、下総、上総、常陸の国軍、総勢約七百と、馬津目、大胡、駒の各手勢三百、合計千人が、さっそく協力して周囲の柵を作り始める。


 極と広麻呂は兵たちの作業を見ながら、都の情勢について話し合っていた。と、そこへ筑紫県麿と大胡仁来がやってきた。

「殿、佐内たちは昨日この辺りを通り、村々を襲うていったそうにござりまする…」

 県麿が苦々しげに、家人の話を伝えた。

「幸い、大胡の手の者たちが、前もって村々に呼び掛けてくれたので、村人たちは避難しておりましたが…」


「そうか…怪我人が無かったのは不幸中の幸いであった。村の復興のために、できるだ

けの手助けをしてやって下され」

「ははっ。では、さっそくその手配をしてまいりまする」


 県麿が立ち去った後、極は仁来に目を向けて言った。

「よくぞ、村の者たちを救うてくれたのう。礼を言うぞ」


 仁来はあわてて片膝をついて、赤くなった顔を隠すように頭を下げた。

「い、いえ、もったいねえ。当だり前のごどをしたまでで…」

「うむ…ところで、佐内たちはどこへ向かおうとしておるのか、そなた、わかるか?」


 仁来は顔を上げると、その青みがかった瞳を輝かせて答えた。

「はっ、恐らぐは十和田のカムイの村がど…もどもど佐内は、そごの一族の出なのでごぜえまする」


「おお、そうか。十和田のう…」

 極はしばらく下を向いて何か考えていたがやがて顔を上げて、仁来に尋ねた。

「ここから十和田まで、いかほど日数がかかるや?」


「はっ…馬なら三日、歩ぐならどんなに急いでも六日はかがりまずる」

「うむ…さらば、佐内たちが十和田に着くのは、早くても五日後と考えてよいな」


 極はそこで、傍らに控えていた広麻呂に目を向けて続けた。

「広麻呂、仁来、わしとともに早駆けをいたそうぞ」


「早駆け、にござりまするか…?」

「うむ。佐内たちが着く前に、先回りをするのじゃ。できれば、カムイの者たちに話もしてみたい」


「殿、それは危のうござりまする。わたくしと仁来だけで行きまするゆえ、殿は…」

「いや、わしが行かねばならぬのじゃ。わかっておろう」

 そう言われては、広麻呂も仁来も返す言葉はなかった。


「仁来、そなたカムイの言葉は話せるか」

「は、はっ。少しばかりなら…。さりど、わが一族に夷鹿士いかしという若者がおりまする。カムイの娘を母に持つ者で、大和言葉もカムイの言葉も自在に話しまする。この者を連れて行がれてはどうがど…。」


「おお、それは構わぬ。されど命懸けの務めじゃ。その若者に覚悟はあるか確かめた方がよかろう」

「はっ。ではさっそく…」


 極はすぐに主立った者たちを集めて、自らの決断を告げた。誰もが極の身を心配して、なんとか考えを変えさせようと説得した。

  極は小さくうなづきながら、じっと皆の話に耳を傾けていたが、最後に一同を見回して静かに口を開いた。


「皆、ここまでわしのわがままによう付き合うてくれた。されど、これが最後じゃ。今回佐内を説得できなんだら、もはや彼のことはあきらめる。そのためにも、わしが自ら行かねばならぬのじゃ。最後のわがままをどうか許してくれ」

 一同は、沈痛な面持ちで頭を下げるしかなかった。


 日が沈み、衛士たちが篝火をともす時刻になった。

「さて、そろそろ出掛けるとしようぞ」

 鹿皮の上袴うわばかま、鹿皮の長靴という長旅のいでたちで、極は立ち上がった。同じいでたちの広麻呂が、浮かぬ顔で傍に控えている。


「殿、カムイの者たちの大和に対する恨みはかなり根深いものがあると思われまする。兵たちを連れていかれた方が…」

「いや、だからこそよけいに兵を連れていってはならぬのじゃ。わしの考えをカムイの者たちに聞いてもらいたい。兵を大勢引き連れていっては、彼らは心を開かぬであろう。それに…」

 極は、薄灯りに照らされた広麻呂を見つめがら続けた。

「そなたが側にいてくれるのじゃ。何も恐るるものはない」

 広麻呂は微かな灯りの中でもわかるほど顔を赤らめ、全身に湧き上がる歓喜に震えた。


 この夜、極と広麻呂、仁来、そして夷鹿使の四人は、星明かりの中を北へ向けて出発した。


 この当時、本州のカムイ(アイヌ)の民を中心とした土着の民たちは、渡来勢力の拡大に伴って住んでいた土地を追われ、一部はわずかな抵抗の末に滅亡し、また一部は渡来民族と融合して歴史の中から姿を消していた。


 もっとも勢力の大きいカムイの民は、大和政権の度重なる討伐に、小さな抵抗を続けてきたが、次第に北へ追い詰められていた。彼らの抵抗がついに大きなものにならなかったのは、彼らの社会がコタンという小さな村単位に分かれていて、一つにまとまることがなかったことが大きな要因だった。


 十和田湖は、周囲をブナやダケカンバの原生林が生い茂る山々に囲まれた秘境の地に、澄んだ美しい水を湛えている。

 ここには、三つのカムイのコタンがあり、約六百人の村人がひっそりと生活していた。


「サ、サシ様、どうなされました?」

「鷲じゃ…黄金の鷲がこちらへ向かって飛んでくる…」


 湖の東にあるウルナイ・コタンは、三つの中でも最も大きなコタンであった。

 見張りの男たちは、夜中に突然起きてきた族長の言葉に驚いてざわめき合った。というのも、族長のサシは齢八十を越え、目も手足も不自由な老人だったが、これまでに何度も不思議な予言をして一族の危機を救っていたからである。


「黄金の鷲…それは、良い報せですか、悪い報せですか?」

「鷲はカムイのお使い様じゃ。良い報せなのか悪い報せなのか、それはわからぬ…じゃ

が、黄金の鷲を見たのは初めてじゃ…」


「どちらの方角から飛んでくるのですか?」

 サシは白濁の目で空中を見つめ、震える手をゆっくりと上げて南の方角を指差した。

「南…そういえば、噂であのサナイとアチセが、新しい征東夷大使の軍に追われて、こ

ちらへ向かっているそうです。もしや、その黄金の鷲とは…」

「違う…」

 サシはきっぱりと否定した。


「あのような無法者たちが、カムイのお使いであるはずがない」

 男たちはとまどったように互いの顔を見合った。というのも、このころカムイの各部族長たちは、カムイ民族全体が大和の軍によって全滅するという事態だけは避けねばならないという考えで一致し、隠忍自重を掟として守らせていたが、一部にはそれを弱腰として反発する者たちもいた。そういった不満分子たちは、サナイやアチセを英雄視し、また彼らに期待していた事実もあったからだ。


 夜中にもかかわらず、集会場に主立った者たちが集められ、族長の予言が告げられた。

「とりあえず明日の朝、若い者を何人か南へやって様子を探らせよう。見張りの数も増やすのだ」

 サシの代わりに息子のアタカが、眠そうな顔の男たちに命じた。


  男たちは偉大な族長を尊敬しつつも、そろそろ隠居すべき時期であると考えていた。だから今回の予言も、ただの夢をお告げと思い込んでいるにすぎない、と高をくくっていたのである。


 ところが、それから二日後の昼すぎのこと様子を探りに胆沢いさわあたりまで出掛けていた若者たちが、思いがけない人物を連れて戻ってきたのだった。


 見張りからの報告を聞いたウルナイ・コタンの男たちは、武装して村の入り口まで出ていった。


 初夏の日差しが湖面を照らし、時折、強い風が新緑のブナの林を吹き抜けていく。そのたびに、男たちはびくっとして上の方を見回す。緊張した時間がゆっくりと過ぎていった。


「おっ、あれではないか…?」

 遠い森陰から今、湖岸へ出てきた数人の人影があった。先頭に四人の若者、やや離れて大和の衣服を着た二人の男が続き、そのすぐ後ろには赤い髪、赤い髭で、黒い熊の毛皮の袖無しをはおった大男が続いていた。


「ん…確か、様子見に遣わした若者は三人ではなかったか?」

「うむ、そうだ。するともう一人は誰だ?」

「あの大男は何者だろうか」


 ざわめきが大きくなり始めたとき、男たちの背後に静かなどよめきが起こった。

 世話係の女に支えられて、族長のサシが不自由な足で歩いてきたのである。男たちは両側に分かれて道を開いた。


「おお…黄金の鷲じゃ…」

 サシは白濁の目を前方に向け、顔に喜びの色を浮かべながらつぶやいた。男たちはけげんな顔で、こちらに向かってくる男たちに目を向けた。

 確かに、くちなし色の袍を着て鹿皮の袴をはいた極の姿は、黄金の鷲に見えないこともなかった。


 先頭の四人の若者たちは、サシから二十メートルほど離れて立ち止まった。そして、その中の三人が、一人を囲むようにしてサシの前に連れていった。

「サシ様、この者はイカシという名で、オボナイ・コタンの女が母親だそうでございます。大和の皇子を連れて参ったと…」


 サシは全部を聞き終える前に、にこにこしながら震える手を差し伸べて、夷鹿使の頭や顔を確かめるように触った。

「良い相じゃ。イカシ…名前も勇ましくて良いのう」


 サシはそう言うと、今度は後方に待っている三人の男たちの方へ手を差し伸べた。

「よう来て下された。さあ、どうかわがコタンでゆるりと休んでいって下され」

 夷鹿使が、その言葉を通訳して極たちに伝えた。


 極は広麻呂と仁来を促して、サシの前に進んでいく。そして、彼は白髪の族長の前まで来ると、さっと片膝をついて頭を垂れた。広麻呂と仁来もあわててそれに倣った。

「お初にお目にかかりまする。征東夷大使の久米極にござりまする」


 夷鹿使がカムイの言葉で極のあいさつを伝えると、それを聞いたカムイの男たちの中にどよめきが起こった。カムイの者たちにとっては、憎んでも余りある敵である。それが、兵士も連れずに自分たちの前に現われたのだから、彼らが驚くのも無理はなかった。


 しかし、サシは自ら案内して、極たちを村へ連れていった。それは、これまでのカムイと大和の歴史から考えると、前代未聞の出来事だった。


「まさか、われわれをだまし討ちにするつもりではありますまいな?」

 森の中の道を歩きながら、広麻呂が小さな声でささやいた。

「それはあるまい。殺すつもりなら、先程もできたはずじゃ」

 極は微笑を浮かべながら、平然と答えた。


  ウルナイ・コタンは、深い森を抜けて突然開けた広い台地に、八十ほどの竪穴式住居が立ち並ぶ村だった。険しい岩山を背にしているので、前面を堅牢な柵で囲めば、敵からは守りやすかった。


 極たちは、村の中央に設けられた祭壇のような場所に連れていかれた。周囲には簡単な柵のようなものがあり、木の枝に刺した日干しの魚や果実がたくさん掛けられていた。

 サシ以下、村人たちはいったん何処かへ姿を消し、辺りはしーんと静まり返っている。

 夷鹿使も彼らとともに姿を消していた。


「ここは何をする所でござりましょうか?」

 広麻呂は不安を拭いきれない様子で、辺りを見回しながらつぶやいた。

「ふむ…何か、神に供物を捧げる場所のようじゃな」

「さらば、我らはカムイの神への供物というわけでござりまするか?」

「うむ、そうかもしれぬ。あはは…」

「殿、笑い事ではござりませぬ。今のうちにここを去らねば…」

「まあ、待て待て…まだ、そうと決まったわけではない。腹を据えて待つのじゃ。それに、いざという時はそなたと仁来がおる。百人の敵がおろうと恐るることはあるまい」

 そう言われて、広麻呂と仁来は顔を見合わせ、思わず苦笑するしかなかった。


 それから間もなくのことだった。村の一角から、サシを先頭に大勢の村人たちが現われて、しずしずと極たちのいる方へ向かって歩いてきたのである。夷鹿使も緊張した顔で、サシのすぐ後ろからついてきていた。


 やがて、一団は祭壇の前にやってくると、静かにひざまづいた。そして、サシが何か厳かな態度で歌うように語り始めた。


 夷鹿使がそっと極の側に来て、片膝をついた。

「殿、カムイの者たちは、殿を神のお使いだと申しておりまする。あの老人はサシという名で、この村の長でござりまする。今、神のお使いが、なぜこのコタンへ来られたのか、お話願いたいと申しておりまする」


「うむ、そうか…」

 極はうなづくと、族長の言葉が終わるのを待って、夷鹿使に言った。

「皆に聞こゆるように伝えてくれ。わしは、新しき国造りのために、カムイの力を借りたいと思うてここへ来た…」


 夷鹿使はよく通る声で、極の言葉を村人たちに伝えた。

 小さなどよめきが起こり、族長のサシは顔を上げて、驚いたように何か言った。

「新しき国とはどのようなものか、と尋ねておりまする」


「うむ。この東国に住むすべての民が、手を取り合い、後々まで幸せに暮らすことのできる国じゃ」

 夷鹿使の通訳を聞いた村人たちは、ますます驚いて騒然となった。


 サシが立ち上がって、まず村人たちに静かにするよう合図すると、極の方へ向き直り、白濁の目を見開いて言った。

「まことに、そのような国ができるのでござりましょうか。もう少し、詳しくお話し下さりませ」


 そこで極は、自分の考えとこれまでの経緯を詳しく語った後、こう付け加えた。

「これまで、我ら大和の民は、そなたたちカムイの民に多くの苦難をしいてきた。わしが謝ってすむものではないが、どうか許してくれ。そして、どうか、新しき国造りのために力を貸してくれ」


 いつしかサシの目からは涙が溢れ、頬を伝って流れ落ちていた。しばらくは静寂が辺りを包み、その中で、サシや村人たちの微かな嗚咽だけが聞こえていた。


 こうして、極は期待した以上の敬意と信頼をもってカムイの人々に受け入れられた。広麻呂は感嘆のため息をついて、こう言ったものである。

「まさしく、殿には八百万の神々がついておるとしか思えませぬ。いや、殿そのものが、

神なのではありますまいか…」


 さて、その日、極たちはサシの家に招かれ歓待を受けた。夜になって、近隣のコタンのおさたちも集められ、改めて極の話を聞くことになった。


 極は話の中で、佐内と阿知世のことに触れ、長たちに協力を頼んだ。

「もし、今回も彼らが話を聞き入れぬときは止むを得ぬが、討ち取ることになろう…」


 サシをはじめとする族長たちは、苦々しげに話を聞いていたが、一人の若い族長が強い口調で言った。

「サナイとアチセはカムイの掟を破った者たちでござりまする。いずれは我らの手で討ち取ろうと話し合うておりました」


 夷鹿使の通訳でそれを聞いた極は、厳しい顔で首を振り一同を見回しながら言った。

「いや、それはならぬ。この先、民が互いに殺し合うことは断じてあってはならぬ。このたびも、わしは最後まであきらめず佐内を説き伏せるつもりじゃ。どうか、わしにまかせてくれぬか」


 族長たちは極の言葉に口々に感嘆の声を上げ、自然に頭を下げて承諾の意を表した。

 その後、極は佐内たちを捕らえるための作戦について、族長たちの意見を聞いた。


 極と族長たちとの話し合いは、深夜まで熱心に続けられた。とりわけ、新しい国造りに対する族長たちの興味は尽きることがなかった。


 ようやく話し合いが終わり、しんしんと冷え込む星空の下で族長たちを見送った後、サシはしみじみと言った。

「この歳まで生きて参りましたが、今日ほど心沸き立つ思いをしたことはござりませぬ。

できることならもう少し長生きして、新しき国の生まれる日を、この目で見とうござりまする」


「気弱なことを申さるるな。わしは三年をめどに、国造りをしようと考えておりまする。

どうか、いつまでも長生きして、いろいろなことを教えてくだされ」

 サシは涙を隠すようにして、何度もうなづいた。


「夜風は体に毒じゃ。夷鹿使、サシ殿を中へお連れいたせ」

「はっ」


 若者が老人を支えて小屋の中に入った後、極はしばらくの間、じっと夜空を見上げて考え事をしていた。

「殿もお休みになられませ」

 広麻呂の言葉に、極はふっと息を吐いて目を地上に戻した。

「うむ…のう広麻呂、わしはあと何年生きられるのかのう」


 広麻呂はとっさに答えようとして、ふと言葉に詰まった。微かな星の光に見る主人の姿が、今にもすっと消えてしまうように思えたからだった。

「殿は何十年も生きられまする。わたくしがきっとお守りいたしまする…」

 広麻呂の声は低く、微かに震えていたが、極は安心したように笑ってうなづいた。


「あはは…そうじゃのう。そなたが側にいてくれれば、黄泉の使いも恐れをなして逃げ

去るであろう」

 (はい、必ずや……)と心の中で答えながら広麻呂は涙に咽喉のどを詰まらせて頭を下げるのだった。


 極たちはサナイとアチセが現れるのを待ちながら、カムイたちと生活を共にした。

 極は彼らの中に入っていき、食事、仕事、考え方などを興味深く観察した。


 そして、二日後の昼過ぎ、見張りに出ていた男たちが帰ってきて、サナイたちが山の向こうに姿を現したことを告げたのだった。

「彼らがここに着くのは、明日の昼前でござりましょう」

 見張りの男の言葉に極はうなづいて、すぐに主立った者たちをサシの家に集めさせた。

 すでに、極と広麻呂、仁来の三人で計画は話し合っていた。それをカムイの男たちに話し、協力を頼んだのである。


「天気はどうかのう…?」

 極のつぶやきに、大きな手製の矛を手にした仁来が、はやる心を抑えて答えた。

「まだ、すばらぐはええ天気が続きまずる。風の向きが南になりば、やがて雨になるのでごぜえまずる」


「おお、そうか…」

 極は目を輝かせて答えた後、いっそう楽しげな顔になって続けた。

「のう仁来、そなた丙助は知っておるな?」

「はい、ようぐ知っておりまずるが…」

「うむ。この件が済んだら、丙助と話をして彼の仕事を手伝ってやってくれぬか。わしからも話をしておくゆえ…」

「は、はあ…」

 仁来は狐につままれたような顔でうなづいた。


 次の日は薄い霧が辺りを包み、ひんやりと肌寒かった。

「殿、一つお尋ねしてよろしゅうござりまするか?」

 サナイを待ち伏せするために、朝もやの立ちこめるブナの森を馬で進みながら、広麻呂が不意に問い掛けた。

「うむ、何じゃ」

「新しき国は何と呼ぶか、もうお考えでござりまするか?」


 極は意外な盲点を突かれて、楽しげに目を輝かせた。

「おお、それはついぞ考えておらなんだ。なるほどのう、新しき国の名か……広麻呂、そなた何か良い案があるか?」


「あはは…いいえ、不意に思いついたものでござりますれば、何も…」

「うむ…では、わしも考えておくゆえ、そなたも考えてみてくれ」

「はっ」


 広麻呂はいかにも楽しげに馬の手綱を引いていた。敬愛する主人と、こうして二人だけで命懸けの任務に向かう恍惚…いや、それはもはや危険なまでに、彼の中で高まっていた主人への盲愛であった。彼はこのまま主人と二人だけで、この東国の森と原野を暴れ回りたいと思う。主人の命があれば、八百万の神々さえ敵にして戦う覚悟はできていた。


「カムイたちが言うておったのは、あの丘のことでござりましょう」

「うむ、確かに良き場所じゃな」


 そこは、森の外れにある小高い丘で、十和田湖へ続く道は丘のふもとの狭い谷を通っていた。遥か遠くに南部へ続く平野を見渡せ、サナイたちの動きをよく観察できた。

「仁来たちは、この先の谷の入り口付近に伏せておるはずじゃ。彼らが仕掛けたら、我らも参るぞ」

「はい……殿は右手の岩の陰に潜まれませ。先にわたくしが、サナイを馬から引きずり下ろしまする」

「うむ」


 二人は手はずを確認し合うと、道と反対側の丘のふもとに馬を置き、歩いて丘の上に登っていく。

「おお、何の匂いかと思うたが……これはスズランじゃな」

 丘の一角に、スズランの群生があり、ちょうど可憐な花を咲かせていた。

 極はしばし仕事のことは忘れて、微笑みながら花に顔を寄せていた。

「お方様がたへの手向け物に持ってゆかれまするか?」

「あはは…いや、花も人も同じ、あるがままが一番良いのじゃ」

 極はそう言うと、立ち上がって表情を引き締めた。

「さて、身を潜むるとしようか」


 空は抜けるような青空だった。太陽が高くなるにつれて、森や湖面を漂っていた霧は動き始め、やがて消えていった。

  ようやく緑の衣をまとった丘には、短い花の季節に蜜蜂や花アブたちが忙しく飛び回って蜜を集めていた。


「殿、サナイたちにござりまする」

 待つこと一刻半近く、ついに目指す相手が姿を現した。

 極も広麻呂の傍に俯せになって、広麻呂が指差す東南の方角に目を凝らした。森と原野が折り重なったなだらかな丘陵地帯の一角を、黒く細長い人の群れがこちらに向かって進んで来ていた。


「彼の手下が、様子をさぐりに近くまで来ておるやもしれぬな」

「はい…されば手はず通りに。できるかぎり動かぬようにいたしましょうぞ」

「うむ」

 極はしっかりとうなづくと、身をかがめたまま素早く丘を下りていった。


 広麻呂は、腰にくくりつけた麻の袋から太い麻縄を取出すと、束ねた輪にして左腕を通し、縄の先端をほぐして馬のくつわにつけるリング状の金具をしっかりと結びつけた。準備が終わると、彼は草の上に身を伏せ、サナイたちの動きを見ながらじっと辺りの気配をうかがう。

 かつて、初瀬の山中で武術の修業に明け暮れた少年時代に、彼の感覚は研ぎ澄まされた。野生の中で生き延びるために、自然に身についた感覚だった。しかし、辺りに怪しい気配は無かった。


 日が高くなるにつれて、サナイはいよいよ焦燥を募らせていた。

 二百人余りの村人を連れていたために、予定が三日も遅れた上に、後から追ってくる東征軍が一定の間隔を置いて近づかないという不気味な動きを見せていたからである。こちらから戦いを仕掛けるのは無謀であるし、かといって、一気につき離すには、大事な人質でもある村人がお荷物になっていた。


「おい、報せはまだか?」

「へい、まだ帰って来ません」

 サナイは、後方にいるはずの征東夷大使が気になって仕方がなかった。なぜ、今までのように姿を見せないのか、一気に攻めてこないのはなぜか……。


『まあよいわ。コタンに身を潜めれば、奴も簡単には手を出せまい。ゆるりと話をつければよい』

「とにかく後ろを急がせろ。付いて来れぬ者は置いていってかまわん」

 サナイは何人かの手下にそう命じて、後方に向かわせた。そして、自身は前方に見え始めたブナの丘陵を目指して、馬に鞭を入れたのだった。


 仁来と夷鹿使の目の前を、サナイを先頭に一味の者たちの馬が土煙を上げて通り過ぎていく。そして、かなり遅れて牛馬のように追い立てられ、鞭打たれて、哀れな村人たちがよろよろと付いてきていた。

 仁来は谷の上に向かって手を上げた。すると、それを合図に両側の崖の上から大小の岩が落雷のような音を立てて落ちてきたのである。


 濛々たる土煙を茫然と見つめていた村人たちと数人のサナイの手下たちは、その土煙が去った後に、周囲を取り囲んだカムイの男たちを見た。


「得物を捨てよ。命までとるつもりではねえがら」

 身の丈六尺余り、赤く縮れた髪、赤い髭が彫りの深い顔の周囲を埋め、太い腕をむき出しにした男がのっそりと現われたとき、村人もサナイの手下たちも、ごくりと息を飲んでその場に立ちつくした。

 数人の手下たちはこっそり逃げ出す動きを見せたが、カムイの男たちが立ちはだっていてはそれもできなかった。


「夷鹿使、村の者たちを連れでいげ」

 仁来は手下たちを睨みつけたまま、傍らの若者に命じた。若者は緊張した様子で、憎々しげに見守る男たちの横を通り過ぎようとした。


「おい、おめえ、カムイを大和の犬に売る気か?」

 手下の一人が 夷鹿使に聞こえるぐらいの低い声でささやいた。が、仁来の耳はその声をはっきりと捕らえていた。

「夷鹿使、早ぐ行げ」

「奴はカムイじゃねえ。それに、大和に魂を売った男だ。だまされるな」


 仁来はつかつかと若者に近づいていく。

「この国に、カムイもヘライも大和もあらず。ただ、人がおるのみ」

 それは、周囲の岩壁をびりびりと震わせるほどの大音声だった。

 夷鹿使ははっとして顔を上げ、仁来を見つめてしっかりとうなづいた。そして、おろおろと成り行きを見守っていた村人たちの方へ走っていく。


 もはやこれまでと観念したサナイの手下たちは、手に持った武器で破滅に向かって動きだした。

「山鬼の子はおとなしく山に引っ込んでいやがれ」

 四人の男たちは、一斉に仁来に襲いかかってきた。


 カムイの男たちはさっと弓を構えて、いつでも矢を放てるようにしていたが、それは必要なかった。仁来が、手にした長柄の矛を何回か振り回すとすべてが終わっていたのだ。

「気ぃ失っとるだげだ…すまねが、縄で縛って連れでいっでけれ」

 仁来はカムイの男たちにそう言い残すと、大きな体に似合わぬ身軽さで、岩に埋まった谷をひょいひょいと登っていった。


 一方、谷がカムイの男たちが落とした岩で埋まったとき、すでにサナイとアチセは谷の出口にさしかかったところだった。

「な、何だっ、何が起こった?」

「お、お頭ぁ…道が、道が岩で」


 サナイたちはパニックに陥った。

 慌てふためく手下たちを叱りつけ、周囲に気を配るように叫んだが、馬を落ち着かせるのに精一杯で、誰もサナイの言葉に従う者はいない。

 サナイはとっさに身の危険を感じて、早く谷を抜けてしまおうと考えた。右往左往する手下たちを置いて、一人だけ馬を飛ばしていく。


「おいっ、サナイ」

 右手の岩の上から聞こえてきた声に、サナイは小さな叫び声を上げて馬を止めた。

「き、極…なぜ、ここに…」

 彼はそう叫んだ直後に、はっと気づいた。またしても、極の策略にまんまと掛かってしまったことを……。

「サナイよ、わしの仲間になれ」

「ぬうう…聞く耳持たぬわ」


 サナイは叫ぶなり太刀を抜いて、一気にコタンへの道を走り去ろうとした。

「うわっ」

 馬が走り出したとたん前のめりになり、サナイはたまらず馬から転げ落ちた。腰と背中をしたたか地面に打ちつけられて、サナイはうなり声を上げながらよろよろと立ち上がった。


「あっ…き、貴様は、さ、佐伯広麻呂…」

 馬の脚にからみついた麻縄をはずし終えた人物が、涼しげな顔で振り向いた時、サナイは背中に冷水を浴びたようにぞっとした。


 サナイは膝をがくがく震わせ始める。

「お頭アァ…」

 ようやく態勢を整えたアチセと二十人余りの手下たちが、前方の異変に気づいて駆けつけてきた。

「お、おおっ、ここだっ」

 サナイは地獄に仏という顔で、あわてて広麻呂から離れた。

「ひひひ…勝負は決まったようだな。いくら腕が立つと言うても、あれだけの荒くれどもを一度に相手にはできまい」

「さて、それはどうかのう」

 広麻呂はサナイを見つめたまま、おもむろに太刀を引き抜いた。


 アチセを先頭に、手に手に矛や剣を持った男たちの馬が、広麻呂とサナイの間をめがけて突っ込んでくる。と、広麻呂は風のように身を翻して、突っ込んでくる馬の真正面に太刀を構えて立ったのである。

 極でさえあっと驚いて、思わず岩場から身を乗り出したほどだった。


 アチセの馬は驚いて前脚を高く上げ、その一瞬の隙をついて、広麻呂は目にも止まらぬ速さで横に移動し、アチセの太股に太刀を一閃した。

 ギャアッという悲鳴が上がった直後、ゴトンと何かが地面に落下した音が響いた。

 血しぶきとサナイの恐怖の叫びが上がったのはほとんど同時だった。その時、すでに広麻呂は、次の獲物に襲いかかっていた。


「ひいいいっ…」

 馬の脚の間を飛鳥のように駆け抜けながら男たちの足を切りまくっていく。

「う、うわああぁ…」

 運良く難を逃れた数人の手下たちは、サナイを置いて谷の出口へ向かって逃げ出した。

 しかし、彼らはその直後、出口に待ち構えていた仁来とカムイの男たちにあっさり捕らえられて、村へ連れていかれたのであった。


 ようやく静けさが戻ってきたとき、そこは血の匂いと瀕死の男たちのうめき声に覆われていた。

 サナイは座り込んで、アチセの首を見つめたままわなわなと唇を震わせている。地面に倒れてもがき苦しんでいる男たちの傍で、馬たちが悲しげにいなないていた。


 広麻呂は、一人ずつ男たちの様子を用心深く覗いていきながら、もう助からない者は心臓を一突きしてとどめを刺していった。


「サナイ…」

「ひっ」

 極はいつしかサナイの傍に立って、悲しげな顔で前方を見つめながら言った。

「わしはそなたを得るために、あのように多くの者たちの命を奪うてしもうた…」


 極は静かに瞑目して頭を垂れた。

 サナイは必死に辺りを見回して、逃げ道を探した。


「のう、サナイ、やはりわしは間違うておったのかもしれぬ。初めから、そなたとアチセを亡きものにしておれば、他の者たちの命は奪わずにすんだであろう」

「ま、待て、待ってくれ…頼む、い、命だけは…」

 サナイは、自分が落とした太刀の方へじりじりと移動しながら命乞いをした。しかし、

 そこへ始末を済ませた広麻呂が戻ってきた。彼は、すぐに落ちている太刀に気づいて、サナイを嫌悪の表情で見下ろしながら、つかつかと歩いていって太刀を拾い上げた。


「殿、こやつに慈悲をかけられても無駄ではござりませぬか?」

 広麻呂が吐き捨てるように言った。


 今や、サナイは本当に青ざめてがたがたと震え始めた。

 極はじっと苦悶の表情でサナイを見つめていた。


「サナイ…わしは迷うておる。これからわしが造ろうと思うておる民の国にとって、そなたが害をなす者であれば、今、ここで斬って捨つるべきじゃ。じゃが…」

 極はそこで小さなため息をつくと、歩きだした。


「広麻呂、サナイを連れて参れ」

 広麻呂は麻縄でサナイを後ろ手に縛ると、彼の背中を押して極の後を追った。


 極は岩場を身軽に登って、先ほどまでいた丘の上に立った。

「見てみよ…」

 縄を打たれてうなだれたサナイが傍まで来ると、彼は周囲の地平線を指し示しながら言った。

「サナイ、そなたはこの国をどのような国にしたいのじゃ?」


 サナイはちらりと遠くを眺めてから、また視線を落とすと、ふて腐れたようにつぶやいた。

「そんなことは考えたこともねえ。わしは誰にも指図されず、自分の好きなように生きたいだけじゃ」


「うむ、その通りじゃ。それはすべての人間が思うておることじゃ。じゃが、そなたは、己れが好きなように生きるために、多くの者に指図をしてきたではないか?」

「他の奴らのことなぞ知ったことかっ」


  広麻呂は思わずサナイの背中をこぶしでこづいたが、極に手で制されて憎々しげにサナイをにらみつけた。

「よし、ではもう一つ聞こう。わしが、常磐から北の地をそなたに治めさせると言うたらそなたはどうする?」


 サナイはびっくりしたように顔を上げて極を見た。

「カムイの民を手下にして、またわしと戦うか。どうじゃ?」


「あ、ああ…そうじゃ。くだらねえ話はやめて、早う殺しやがれ」

「わしは、まことにそなたに治めさせようと考えておる。じゃが、今のそなたでは、決してカムイの民を治むることはできぬ。そなたがわしに歯向こうたように、カムイの民はそなたに歯向かうであろう。違うか?」


 サナイは険しい顔で地面を見つめていた。

「さらばとて、歯向かう者を皆殺しにすれば、そなたは死人の国を治むる愚か者になるだけじゃ。違うか?」


 サナイはきっとして顔を上げると、まだ意地を張って言い返した。

「わ、わしに従う者だけを生かせばよい。その者たちの子を増やせば…」


「そなた、今幾つじゃ。三十はもう過ぎておろう。あと何年かかれば、そのような国がきるというのじゃ。そなたが死ねば、また元の蝦夷の地に逆戻りするだけではないか。 なぜ、わしの言うことがわからぬのじゃ」


 極は再び遠い地平線に目を向けて、ため息のようにつぶやいた。

「己れの恨み辛みで人を、いや、この美しき国までをも殺して何になる…」


 しばらく沈黙の時が流れた。丘を吹き上がってくる風の音だけが聞こえた。


「もし、わしを…」

 サナイが、うめくような低い声で口を開いた。そして、片足ずつゆっくりと地面にひざまづいた。

「もう一度お許し下さるならば、この国を大和に負けぬ国に…そのお手伝いをさせてい

ただきとうござる」


「おお、わかってくれたか」

 極はかがみこんで、サナイの肩に手を置いた。

「とてものことに、あなた様には勝てませぬわい」

 サナイが苦笑いを浮かべて言った。


「当たり前じゃ」

「これ、広麻呂…今日よりはそなたたちは仲間ぞ。仲良うしてゆくのじゃ」

「い、いや、かんべんして下せえ。このお方ばかりは恐ろしゅうて、恐ろしゅうて…」

 極は楽しげに笑った。


 まぶしく輝く地平線に向かって、二羽の鳶が高い声で鳴きながら悠然と飛び去っていった。


頑張ります。ご意見ご感想をおよせください。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ