鳴動編2 ~吹き始めた改革の風~
ちょっと一遍ずつが長すぎるため、今後は短めに切って更新していきます。
19 吹き始めた改革の風
広間が宴たけなわの頃、合議の席から憤然として立ち去った紀古麻呂は、そそくさと荷物をまとめて出立し、四百の軍勢を引き連れて西への道を急いでいた。
「ええい、急げ、急げ。遅れた者は置いていくぞ」
彼は、何としてもその日のうちに箱根を越えたいと考えていた。時折、後ろの兵たちを振り返って叱咤しながら、実は遥か後方を気にしていたのである。
彼の脳裏には極のにこやかな笑顔が浮かんできて、どんなに振り払おうとしても消えなかった。そして、そのたびに背中に冷水を浴びたような悪寒が走った。
武蔵の国府を出る時は、笠原、土師の二人と一緒だったので鼻息も荒く、いつでも極の軍勢と戦う気でいた。しかし、途中で笠原と土師は、いったん領国へ帰ってから財産や家族と一緒に都へ向かうと言って、古麻呂と別れたのである。古麻呂はとたんに心細くなりそれとともに、極への恐怖がどんどん大きくなっていた。
(うぬ……なに、箱根を越えさえすれば、大王に忠誠を誓うた者たちばかりじゃ。へたに手出しもできまい……)
古麻呂は、心の中で自分に言い聞かせながら、いよいよ前方に見えてきた箱根の山並み
へとひたすら急いだ。
一方その頃、佐伯広麻呂は道から外れた武蔵野の丘陵をゆっくりと西へ向かっていた
彼の傍らには、衛士の服を着て太刀を腰に提げた丙助が付き従っていた。
彼らは視界に古麻呂の軍を捉えながら、近づきすぎないように注意しつつ後を追っていたのである。
「では、広麻呂様、行って参りまする」
「うむ、頼みまするぞ」
古麻呂の軍が箱根の山道に入ったのを確かめると、丙助は広麻呂と別れて、一人海岸の方へ向かった。
広麻呂は道の方へ下りていった。道は大勢の兵士たちや馬の足跡で荒れていた。
うららかな春の日差しが、新緑の木々や野の草花を照らし、蜜蜂が時折微かな羽音を立てて耳元を通り過ぎていく。どこまでも平和でのどかな春の朝だった。
広麻呂は、遥か上空でさえずる雲雀を時折見上げながら、まるで散歩でもしているかのようにのんびりと馬に揺られて行く。
箱根の山道に入ってしばらく進んだ所で、彼は馬から下りて間道に入っていった。木の疎らな高台まで来ると、彼は馬をつないで、そばの倒木に腰を下ろした。雑木林を吹き抜ける風の低いうなり声を聞きながら、広麻呂は昨夜のことを思い出していた。
昨夜、極は密かに自室へ広麻呂、春通、田彦麿、丙助の四人を呼んで、一人一人に今日の手はずを言い渡した。そして、最後に沈痛な面持ちでこう言ったのである。
「わしはこれから鬼にならねばならぬ。嫌でも多くの人の命を奪うことになろう。戦になれば、さらに多くの血が流されるのじゃ。そのすべての罪はわし一人にある。わしはそれらの罪を背負うて黄泉に落ちよう……」
(殿には将来起こるであろう事が、あらかじめ見えておられるのだ……)
広麻呂はそう思わずにはいられなかった。
(そして、何もかも辛いことは一人で背負って行こうとなさっておる……)
広麻呂は深いため息をつくと、静かに目を閉じた。
さて、険しい箱根路を行く古麻呂の軍は、日が西にだいぶ傾いた頃、ようやく二つ目の箱根峠を越えて、三島への下り坂にさしかかった。曲がりくねった岩だらけの道を半刻ほど下ったとき、突然前方に木の柵と大勢の兵士の姿が見えてきた。
古麻呂はいぶかしげな表情で近づいていった。
「わしは内裏大侍紀古麻呂である。駿河の国軍か?」
その問いに誰も動く者はなく、ただ隊長とおぼしき一人の男が冷静な声で答えた。
「いかにも。駿河国造物部国麻呂様の軍である」
「おお、助かった。よいか、よく聞け。征東夷大使久米極、謀反。早々に大王にお知ら
せいたし、討伐軍を率いて戻るゆえ、後から謀反軍がやってきても、決してここを通さぬように。よいな?」
「はて、謀反を起こせしは久米大使にはあらず、紀古麻呂、その方であろう」
「な、なにい…」
古麻呂は天地がひっくりかえるような衝撃を受けて、愕然となった。
「わが主人は、すでに三日前よりそのことを知り、われらをここへお遣わしになったのじゃ」
これを聞いて、わけが分からぬままにやっとの思いでここまで走ってきた紀軍の兵士た
ちは騒然となった。
「ぬうう…極め……」
古麻呂は、怒りのあまりぶるぶると体を震わせながらうめいた。何もかもが、極の予定に入っていたことであり、自分がまんまとそれに乗せられて動いていたことを、ようやく悟ったからであった。
「ええいっ、よく聞け。わしの言葉を信じねば、その方らの主人ばかりか、その方たちもすべて謀反の罪を受けるのじゃ。さっさと道を開けよ」
古麻呂の叫びに、しばらくは何も返事がなかったが、やがて一人の兵士が柵の前に出てきた。丙助であった。
「紀殿、無駄なあがきはおやめなされ。あなた様がここへあわてて逃げて来られたのが
謀反を起こした何よりの証拠でござるよ」
「ん…ややっ、そなたは久米極の下人…ぬうう…下郎が何をほざくか」
古麻呂は太刀を引き抜くと、丙助めがけて馬を走らせた。
丙助がさっと柵の内に入ると、代わりに弓を持った数人の兵士が前に出てきた。古麻呂はあわてて馬の手綱を引き、鬼のような形相で柵の方をにらみつけた。もはや、前進するには力ずくでいくしかなかった。
しかし、彼が後ろを振り返った時、すでに兵たちは混乱し、わめき合い、とうてい戦える状態ではなかった。
もはやこれまでと覚悟を決めた古麻呂は、せめて憎き久米極に一太刀なりとも浴びせんという思いで、武蔵の国へと道を引き返し始める。
「ええいっ、どけっ、どかぬか……」
右往左往する兵士たちを蹴散らしながら、古麻呂の馬が走り去って行く。
兵士たちは、あわてて後を追う者もいればその場にへなへなと座り込む者もいて、混乱の極に達していた。
「おおい、待て待て、何も心配はいらぬぞ。われらは、皆仲間じゃ」
丙助が柵の外に飛び出して、混乱する兵士たちに呼び掛けた。
時は二時間ほどさかのぼる。
箱根の入り口で一人高台にたたずんでいた広麻呂は、武蔵の方角からやってくる百人ほどの軍勢に気づいて、道へ下りていった。
兵たちの中から一人のたくましい体の男が走り寄ってきた。広麻呂の家人で、彼が右腕と頼む時丸という男だった。
「殿、遅れて申し訳ござりませぬ」
「うむ…いや、思うたより早かったな。それで、首尾は…?」
「はっ、ご命令通り」
「そうか……ご苦労であった」
広麻呂は時丸の労をねぎらってから、前方の山を指して続けた。
「射手を山手の茂みに潜ませよ。残りの者は道を塞ぐのじゃ」
「はっ」
時丸が承知して去ると、広麻呂は道の脇に立つ杉の根元に座った。さすがの彼も、自分が提案した計画が最後まできっちりと終えられるか、いささか不安になっていた。
静寂の中で、もどかしいほどゆっくりと時間が過ぎてゆく。
日は西に傾き、箱根峠のすぐ上から、赤っぽい光を投げかけていた。海から吹く風は弱まり、ゆらゆらと立ち上る陽炎の中を、羽虫が音もなく飛び回る。
広麻呂は仏像のように半眼で虚空を見つめながら微動だにせず座っていた。と、ふいに彼の耳に、遥か彼方の馬の足音が聞こえてきた。広麻呂の目が、かっと開いた。
「来たか…」
彼は悠然と立ち上がり、道の中央に出て行く。
今や運命の激流に翻弄された古麻呂は、ただ復讐の一念だけに支えられて、馬を走らせていた。彼にはまだ、今の自分が現実の世界にいることが信じられなかった。悪い夢であってほしいと思った。自分は決して間違ったことはしていない。それなのに何故、このような窮地に追い詰められねばならないのか。
(すべては、あの若造のせいだ。何もかも最初から、奴が仕組んでいたのだ。わしも、中大兄皇子もだまされていたのだ…)
考えれば考えるほど、怒りに体がぶるぶると震えた。何としても久米極を誅殺し、この危機を乗り越えねばならない。
ようやく箱根の山道が終わろうとしていただが、皮肉にもそこが、彼の終着点になろうとしていた。
「ん?あ、あれは……」
古麻呂の視界の中に、行く手に一人立っている狩衣姿の男が見えてきた。
もはや息も上がり、倒れる寸前の馬を止めて、ゆっくりとその男の方に近づいていく。
「広麻呂…」
二人の男は二十メートルほどの距離を置いて、じっと互いを見つめた。
すでに古麻呂は、広麻呂の後方に整然と並んだ兵士たちに気づいていた。
「もはや、逃れるすべはない。潔う縛につけ古麻呂……」
「うぬうう…このようなことが、許されると思うてか。わしに何の罪がある?」
「ふむ…確かにそなたに罪はない。なれど、殿の大望のためには、そなたに死んでもらわねばならぬ」
「よ、よう考えてもみよ、広麻呂。いずれ、極も毛野も、謀反に加担した者はすべて滅ぼされるぞ。それが分からぬか?」
「そうかもしれぬ…」
広麻呂は静かに一つ息を吐くと、おもむろに太刀を引き抜いた。
「されど、それはわしには何の関わりも無きこと…」
「な、何ぃ…」
「わしはこれまで、蘇我一族を討ち滅ぼすことのみを思うて生きてきた。されど、久米の殿に会うて、それが取るに足らぬことじゃと思い知らされた。この世にはもっと大切なことがある。わしは、これから殿のためにわが命を捧ぐる」
もはや、古麻呂には言うべき言葉がなかった。
彼は素早く辺りを見回し、逃げ延びる道を探した。しかし、右手は崖、左手はやぶが続いている。残るは、再び今来た箱根の山道を引き返し、途中から海辺に下りるか、富士の裾野へ向かうしかない。
古麻呂は、さっと馬首をめぐらすと、広麻呂の前から去って行く。
広麻呂は、おもむろに太刀を空に向かって突き上げ、そのままさっと振り下ろした。
風を切る矢音と断末魔の叫びが聞こえてきたのは、その直後のことだった。
ちょうどその頃、甲斐の国への道を馬に揺られる田彦麿の姿があった。
紀古麻呂と二人の国造が広間を出ていった直後、彼は時丸と上総の国造佐伯尾人の家人止真利の二人と共に、古麻呂たちの後を追った。途中、止真利は笠原狭津彦を討つために別れ、田彦麿と時丸は甲斐の国造土師比多別王を追ったのだった。
昼少し前、小仏峠に続く山道に入った所で二人は馬を止め、遥か前方に見え隠れする土師王一行を見やりながら言葉を交わした。
「時丸殿、そなた手練れの者を連れて、彼らの先回りをしてくれぬか。岩か木で道を塞いでくれるとありがたい」
「はっ、承知いたしましてござる」
時丸は勇躍馬を下りると、二百の手勢の中から腕に覚えのある男たち七人を選び出し、彼らと共に雑木林の中へ消えていった。
土師王はあせっていた。広間で突然勃発した謀反に、彼は国造として、謀反を制圧する側に立った。他の国造たちも、当然自分と同じ行動をとると思っていた。
ところが、事態は思わぬ方向に向かった。彼と笠原狭津彦以外の国造たちが、謀反を起こした側についたのである。彼は、早まった事をしたのかもしれないと後悔したが、朝廷に歯向かう勇気はなかった。
崇神帝の流れを汲む名門の王は、これまで一度も命の危険に直接さらされた経験がなかった。彼は恐怖のあまり生きた心地もせず、あたふたと領地への道を急いでいた。
時丸たちは半刻も経ずに王たち一行を追い越し、視界から隠れた曲がり角の先で道の方へ下っていった。
「よし、そこの倒木を道へ引いてゆけ。その方たちは小木や枝を切って、倒木の上に積み上げるのじゃ」
時丸たちはものの数分で準備を終え、道の脇の茂みに身を潜めて、土師王一行が現われるのをじっと待ち受けた。
「ややっ、道に倒木が…おいっ、誰ぞ早うあれをどけろ」
先頭を馬で走っていた土師王は、馬を止めて傍にいた数人の家人たちに命じた。まだ、護衛の兵士たちは、二百メートルほど後方から必死に走ってきていた。
土師王の周囲に、ぽっかりと無防備の空間があった。時丸はその機を逃さなかった。
突然、音も無く現われた数人の兵士たちが土師王を取り囲む。
王は呆然として、口を開いたまま言葉を発することもできない。
「土師比多別王とお見受けいたす。恐れながら、お命頂戴いたしまする」
「ひいい……た、誰ぞ、ああっ……」
時丸は土師王に襲いかかって馬から引きずり下ろすと、次の瞬間、光のような速さで剣を一閃し、王の首を切り落としていた。
王の側近たちが、異変に気づいて駈け付けたときにはもうすべてが終わっていた。
「待て。無用な争いはすまいぞ」
「ぬうう…よくもぬけぬけと…主人を殺されて、このまま帰れるか」
「止むを得ぬ…か。」
側近たちは五人、皆上等の絹の袍に短袴、木沓を履いていた。中には恐怖のあまりぶるぶる震えながら腰を抜かしている者もいた。とても時丸たちの相手になるような者たちではなかったが、主人に対する忠誠の心はお互いに同じだった。
時丸が 配下の者たちに目で無言の合図を送り、剣を構え直した時だった。
突然、背後でときの声が上がり、その後に兵士たちの入り乱れた怒号が続いた。しかしそれはほんの一瞬のことであった。
土師王の護衛の兵士は二十人足らずで、田彦麿が率いる広麻呂の軍はその十倍の数だったからである。護衛の兵士たちはほとんど抵抗することなく、武器を捨てて降伏した。
田彦麿はそれを見届けると、前方で睨み合った時丸たちの方へ馬を走らせた。
「ええい、待て待て…互いに剣を引けい。無用な血を流すでない」
田彦麿が馬上から叫ぶと、時丸たちはさっと剣を収め、道の脇に控えた。
田彦麿は馬から下りると、土師王の遺体のそばに行き、瞑目して頭を垂れた。そして
顔を上げると、土師王の側近たちに言った。
「甲斐の大人たちよ、王の死を無駄にするでない。そなたたちには、これから甲斐の国を支えてゆく大切な仕事があるのじゃ」
「われらに謀反の片棒を担げと言うか」
「謀反ではないっ」
田彦麿は辺りに響き渡る声で一喝した。
「甲斐の国が…いや、この東国のすべての国が、まことの民の国となるための止むを得ぬ仕儀じゃ」
側近たちはようやく剣を下ろして、苦渋の表情で、首のない王の遺体と夥しい血の跡を見つめた。
「征東夷大使は、これから何をしようというのじゃ……」
「うむ、案ずるな。先ず、これからわしとともに甲斐に戻り、王の一族と民が動揺せぬよう説得してくれ。わが主人久米極は、必ずやそなたたちの労苦を無駄にはせぬお方じゃ。共に良き国を造ってゆこうぞ」
側近たちは顔を突き合わせて、密談を始めた。
「時丸殿、ご苦労であったのう。王の首は、誰ぞに託して武蔵へ持って行かせて下され。そなたはすぐに兵の半分を率いて、広麻呂様のもとへ…」
「はっ。道中お気をつけて下さりませ」
時丸は一礼すると、その場から立ち去ったそして、百人の兵士を引き連れて箱根へ向かったのである。
側近たちの密談は熱を帯びて長引いたが、田彦麿は辛抱強く待った。日はすでに山陰に隠れ、辺りは薄暗くなり始めていた。
ようやく話し合いの輪が解け、五人の男たちが田彦麿のもとへやってきた。
「失礼ながら、そこもとの御名をお聞かせ願いたい」
「おお、これは失礼つかまつった。われは久米田彦麿と申す」
「はっ。されば、久米殿……われら五人、本来ならば、全員主人の後を追って死ぬべきところでござる。されど、主人亡き後の甲斐の国の行く末も心細きことなれば……」
一番年長らしき白髪混じりの老臣は、涙に喉を詰まらせながら続けた。
「それがし、押坂部岐真多と境部稲置、厩番の松丸の三人は、主人と共に黄泉の道を行きまする。後の二人、伴部石麻呂、倉方の永麻呂は甲斐へ同行いたし、残された主人の御子たちを守る所存…」
そう言うと、老臣はその場にひざまづいて田彦麿の前に両手をついた。
「久米殿、死に行く者の最後の願いをお聞きとどけ下さりませ。なにとぞ、御子たち、姫たちのお命ばかりはお助け下さるよう、大使殿に…」
「無論じゃ。わが殿は決してむやみに人の命を奪うようなお方ではない。何も心配せずともよい」
「ははっ。それをお聞きし、安心して逝けまする」
老臣の表情が初めて和らぎ、安らかな微笑みを浮かべた。
田彦麿は形容し難い熱い思いに胸が詰まり、自然に溢れてくる涙を押さえきれなかった。
「そなたたちの心、よう分かった。土師王の首は、検分が済みしだい手厚く葬られよう。遺骸を運ばするゆえ、押坂部殿たち三人は武蔵まで同行せられよ」
「ははっ。情けある御沙汰、厚く礼を申しまる」
五人の側近たちは最後の別れを交わし、二手に分かれて反対方向に歩きだした。
田彦麿は十人ほどの兵士に遺体運びを命ずると、甲斐へ向かって兵を進め始めた。
彼の脳裏には、昨夜の極の言葉と沈痛な表情がよみがえっていた。今の彼には、極の気持ちが痛いほどよく分かる。しかし、それは通らねばならない道でもあった。
かなり思い入れのある作品なので、長ったらしいかもしれませんが、どうかじっくり読んでいただけたらと願っています。