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東原~あずまのはら~ Remake版  作者: 水野 精
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鳴動編 ~少年皇子、時代を動かす~

 13 両陣営の思惑



「では、行って参ります」

「うむ、道中くれぐれも気をつけてな」


二月の半ばの十四日、旅姿の春通と丙助が葛城の館の門から、遠い武蔵の国へ旅立とうとしていた。

見送りに出た紗月と綾は、朝早くからせっせと作った弁当と手縫いの守り袋を二人に手渡すと、とうとうこらえきれずに二人の体にしがみついて泣いた。


男たちも感涙にむせびながら、ようやく未練を振り払って一歩を踏み出した。

「では、殿、奥方様、綾、かの地でおいでをお待ち申しておりまする」

「丙助親分、体に気いつけてや。あたいもすぐに行くさかい…」

「おうっ、待っておるぞ。殿と奥方様をしっかりお守りするんやぞ」

春通と丙助は何度も振り返って手を振りながら、やがて道の向こうに消えていった。


「武蔵の国までどれほどの道のりでござりましょう…」

「うむ、二人の足なら、十日あまり二日ほどで着くじゃろう。五月には、われらも同じ道を歩かねばならぬのじゃ」

「鹿皮の靴を作ってもらお、紗月姉様。軽くて歩きやすいえ」

「ええ、ぜひ作ってもろうてくださいな。でも…ふふ…疲れたら、殿におんぶしていただきますから…ねっ、殿…?」

「うん、それが一等ええなあ。ふふ…皇子様あたいもね」

二人の幼妻たちにからかわれて、極はたじたじになりながら、館の内へ戻っていく。


それから二日後、蘇我の館から使いの者が訪ねてきた。蝦夷・入鹿親子からの私的な招待であった。

「謹んでうけたまわったと、大臣にお伝え下さりませ」


極はあえてその招待を受けることにした。恐らく、他の豪族たちよりも早く一族の娘を極と結びつけ、極への影響力を強めようという目的を持った招待なのだ。


(今は大臣一派と対立せぬ方が良い)、それは極の直感に近かったが、彼は自分の判断を信じた。

「まあ、明日にござりまするか。それはまた急なお話でござりまするな」

「うむ…お誘いはだいぶ以前に受けておったのじゃがな…」


よもぎなどの干し草を詰めた布を敷いて、寝るための準備をしながら、極は妻たちと話をしていた。

「ふうん…何かにおうなあ。大臣はん、どんな用があるんやろ…」

極の上着を脱がせて、衣紋えもん掛けに掛けながら綾がつぶやく。


「綾、明日は供はせぬでもよいぞ」

「えっ、なんでや?」

極は敷布の上に寝転びながら、つとめて真面目な顔で言った。

「うむ、実はのう、都ではそなたは山姥の娘じゃと噂されておるのじゃ」


「な、あ、あたいが山姥の娘ぇ」

綾は真っ赤になって怒り、紗月は声を殺して苦しそうに笑った。

「あはは…そう怒るな。わしはうれしかったぞ。山姥の娘を家来にしておるのは、世の中広しといえども、わしだけじゃ。それに、こんなに可愛いもののけなら、何人でも家来にしたいくらいじゃ」

綾は今度は思わず笑みをこぼして、恥ずかしそうに頬を染めた。


「綾、お先に…ふふふ…」

「あー、ずるい、あたいも。」

先に小袖姿になった紗月が、極の横にぴったりとくっつくと、綾もあわてて狩衣を脱いでたたみ、灯りを吹き消して紗月の反対側に滑り込んでいく。


翌日、極は一人で蘇我の館に出向いた。飛鳥川の中州の壮大な館は、大きな橋だけで外と結ばれ、川が堀の役目をして外敵からの攻撃を防いでいた。


橋のたもとの衛士が、近づいてくる若者の前に立ちはだかった。

「名を名乗られよ」

「久米極でござる。大臣のお招きにあずかってまかりこしてござる」

「はっ、うかごうておりまする。役目とはいえ無礼を平にお許し下さりませ」

極は門の前でも同じことを繰り返さねばならなかった。

ようやく門の内に入り、家々が両側に立ち並ぶ広い石畳の道を進んでいく。やがて、正面に高床式寄棟造りの豪壮な館が見えてきた。


極が、その館の玄関への階段を上ろうとしていると、横合いから若い貴族の男が現われて彼の前にかしこまった。

「久米征東夷大使殿にござりまするや」

「いかにも、久米臣極にござりまする」

「お初にお目にかかリまする。それがし、東漢直子麿やまとのあやのあたいこまろ

と申しまする。よろしくお見知りおき下さりませ」


案内役の男に伴われて、極は中庭を通り、館の裏手に広がる桃や梅の果樹園の中へ入っていった。今が盛りに咲き匂う桃の木々を囲んで色とりどりの幕が張られている。その内側から優雅な管弦の音や人々のざわめきが聞こえていた。


「どうぞお入り下さりませ」

極は促されて、幕の内側に入った。

「おお、ござったか…久米皇子、さあさ、こちらへ、こちらへ…」

入鹿が、満面に笑みをたたえながら壇上から下りてきて極を迎えた。


「お招きいただき、身に余る光栄にござりまする」

「あはは…堅苦しきあいさつは抜きじゃ。今日はそなたのための宴じゃ、遠慮のう飲んで騒いで楽しんで下され」

「ははっ、ありがたき幸せ…」


入鹿は極を伴って壇上に上り、そこに居並んだ蝦夷をはじめとする一族の主だった者たちに引き合わせた。

「若いのに、えらい出世やのう、久米皇子…大王の覚えもえらいめでたいそうやないか」

「はっ…それもこれも蘇我様のお引き立てのおかげでこざりまする」

「ふふ…なかなか食えぬ男よのう」


蝦夷は太った腹をゆすって笑いながら、酔った赤ら顔を極に近づけた。

「皇子、真心を忘れたらあかんで…口先だけの男はいずれ身を滅ぼすんや…ええな?」

「ははっ、肝に命じまする」

「父上、若者をそう痛ぶられまするな。さあ皇子、一献差し上げよう」

極は主賓の席に座らされて、入鹿を手始めに、次々に訪れる蘇我一族の面々の盃を受けた。


うららかな光を浴びて、あでやかな衣をまとった女たちが舞い踊る。豪華な料理が次々に運ばれ、管弦の曲が強く弱く、心をとろかすように流れていく。

やがて宴は次第に乱れ始め、酔った男たちは女たちにからみつき、女たちも媚態をつくりながら、妖しい声で男たちを誘った。


「あはは…皇子、楽しんでおられまするや?大いに飲み、女たちと戯れなされ」

「はっ…このような席は初めてゆえ、いささか戸惑うておりまする」


入鹿はほろ酔い顔で極の側に座ると、楽しげに笑いながら檀下の人々の中の誰かに向かって合図した。すると、人々の中から若い女とまだ幼い少女が抜け出して、壇上に上がってきた。


「皇子、紹介いたそう…従兄の徳陀とくだ娘海速媛みはやひめと、その娘加波かなみでござる」

極は戸惑いながら立ち上がって、両手を前に合わせ、頭を下げた。

「久米極にござりまする」

「あはは…まあ、ゆるりとなされよ。皇子、今日そなたに妻合わせようと思うておったのは、わが従兄、赤兄あかえ娘石媛いわひめであった。なれど石媛はすでに佐伯の子息と婚姻をなしておってのう。わしだけが知らなんだのじゃ。されば、この加波を連れて参った。まだ十になったばかりじゃが利発な子じゃ、どうか可愛がって下され」


いわばこの日のメインテーマとも言うべき事柄を、入鹿はおもむろに切り出した。

蝦夷、東漢、阿倍の各面々もいつの間にか周囲に集まって極に注目していた。


「加波にござりまする。よろしゅうお願いいたしまする」

「こちらこそよろしくお頼み申す…。」


極は酒のためばかりでなく赤くなって、ぎこちなく返事をした。というのも、加波は小さく細い顔に、生き生きと輝く二重の円らな目、高く通った鼻筋の、実に魅力的な少女だったからである。極は思わず心をときめかせて彼女を見つめていた。まさか、入鹿が極の好みを調べた上で、この少女に白羽の矢を立てたとも思えなかったが、それにしても間人皇女の面影を彷彿とさせる少女だった。


「どや、皇子、加波を正室にしてくらはるやろうな?」

「は、はあ…」

「まあまあ、父上は何事も性急すぎまする。たった今会うたばかりでは、返事もすぐにはできますまい」

「何を考えることがあるかいな。蘇我の娘を娶るなら、正室に決まっとるやろ…」


蝦夷の言葉が、その時の一同の心を正直に代弁したものに違いなかった。言うならば、これは極に対する脅迫的な婚姻だったのだ。


「蘇我の姫君を妻にできることは、わたくしにとってこの上もなき幸せにござりまする。

されば、当然正室としてお迎えいたすつもりでおりまする。ただ、わたくしは五月には東国に下らねばなりませぬ。何事にも不自由なかの地に、加波様をお連れするは心苦しきこと…。されば、正式な婚姻はわたくしが東国より帰ってからにいたそうと思いまする。この儀、なにとぞお許し下さりたく、お願い申し上げまする」


「ふむ…それでええんやないか。まあ三年ぐらいのもんやろ…加波もちょうどよい年頃になるさかいにな」

蝦夷の言葉に他の面々もうなづいたが、今度は入鹿が反論した。

「いや、久米皇子、それでは今日加波を連れてきた意味がござらぬ。東国へ連れて行かぬにしても、館には置いておけましょう。ぜひ今日にでも連れていって下され」


入鹿は是が非でも、東国における権益を強化したかったに違いない。そのためには、極が東国に下る前に、何としても加波と結びつけたかったのである。


結局、入鹿の意見が通って、加波は七日後の二月二十四日に入館することが決まった。

「朝廷に届け出るは、皇子が帰られた後の方がよかろう。なにかとうるさいでな」

「ははっ…」


入鹿はもくろみどおりに事が運んで、いよいよ上機嫌だった。ところが、この極と加波との婚姻がやがて中大兄皇子の知るところとなり、極に対する皇子の不信を高めることになったのである。


蘇我の館から帰って三日後、極のもとへ朝廷からの使いが来て、皇極帝が彼に会いたがっているという旨を告げた。

極は心中予想していたことだったので、平静に承知した旨を返事し、翌日実家から送ってきた山芋を手土産に都に向かった


その頃、板葺宮の御息所みやすどころでは、皇極帝と中大兄皇子が極の処遇について意見を闘わせていた。

今回の極と蘇我の血をひく娘との婚姻は、大王家にとってゆゆしき事態であるという点では二人の意見は一致していた。しかし、中大兄皇子はこれを機に、極の征東夷大使と全権使の任を罷免した方が良いと主張した。それに対して、帝は事を大げさにすれば、蘇我氏との対立が深まり、国そのものが危うくなると反論し、平行線をたどっていた。そこには、表面には出てこなかったが、間人皇女をめぐる二人の思惑の決定的な違いが横たわっていたのである。


帝は極そのものの人間的な魅力に惹かれていたし、娘の愛しい人でもあったので、できれば大王家の柱石となってほしいと望んでいた。

一方、中大兄皇子は極の才能を認め、人間的にも惹かれるものを感じていたが、妹間人が彼に恋をしていることを知るに及んで、激しい嫉妬を感じるようになっていたのだ。


「申し上げまする。久米征東夷大使殿、おいでにござりまする」

「おお、来たか…すぐにこちらへお通しいたせ」

舎人に案内された極が、入り口の所にひざまづいて挨拶をする。

「お呼びと聞き、極まかりこしましてござりまする」

「おお、よう参られた…ささ、中へ…」

頭を下げたまま極は部屋の内に入り、両手をつく。


「ここはわれらだけじゃ、そのような堅苦しいことは無用ぞ。さあ、顔を上げられよ」

「ははっ…」


皇極帝は、いかにも嬉しげに微笑みながら極を見つめた。

「久しぶりでありましたのう、極殿…。また少し背が高くおなりか?」

「はっ、大王にもお健やかなるご様子、祝着に存じまする。わが背丈、自分ではわかりませぬが、衣がすぐに小さくなりますれば、恐らく伸びておるものと…」

帝は楽しげな笑い声を上げる。


「極、蘇我の娘と婚姻を交わしたそうじゃのう。われらに相談もなく、なにゆえにそのようなことをしたのじゃ?」

帝と極の細やかな交情に、またも嫉妬を感じた中大兄皇子は、いきなり刃を突きつけるような言葉と表情を極に向けた。


「皇子、そのようなとげとげしき物言いを…極殿は臣下に下った身じゃ。されば、今回の婚姻は豪族同士のもの、朕が口出しすべきものではない」

「それはわかっておりまする。されど、他の豪族たちへの影響、少なからぬものがござりまする。そこのところをよくよくお考え下さりませ」


急に険悪になった空気に、極はおもむろに中大兄皇子の方を向いて、頭を下げながら言った。

「皇子様のお言葉、まことにその通りにござりまする。されば、わたくしも大臣よりお話があった折、お断わりいたそうと考えましてござりまする。されど、断れば、わたくしの心が大王と皇子様の方にあることをみすみす教えるようなもの。されば、いったんお話をお受けして、正式な婚姻は東国より帰ってからということを認めていただいたのでござりまする。何年になるかわかりませぬが、そのうちにうやむやになりはせぬかと、期待しておるところでござりまする。」


極の答えに、帝は満足して微笑みながらうなづいたが、中大兄皇子はくやしげに唇をひき結んで、鋭い視線を向けた。

「そなたは言葉はいかにも巧みなれど、どうもわしにはそなたが、大臣一派とわれらとを天秤てんびんにかけておるように思えてならぬ。そうではないと言い切れるか?」


「はっ、大王に対するわが一族の誠忠、父祖代々一片の偽りもござりませぬ。それでもお疑いならば、どうか征東夷大使ならびに東方全権使の任をお解き下さりませ。」


「おお…ようわかりましたぞ、極殿…。皇子これでわかったであろう。前言の非礼、極殿に詫びられよ」

母帝の言葉に、中大兄皇子は悔しげにうなりながら、膝の辺りをこぶしで叩いた。

「ううむ…それほどの覚悟であると申すか…。そなたが婚姻を断れば、それですむことではないか。」


「お言葉ではござりまするが、わたくしが蘇我に楯突きますれば、大臣たちがこの後大王にいかなる無礼な仕儀に及ぶか知れませぬ。それを恐れまする。さらに、大臣たちがわたくしに娘を結びつけようとしておるのは、東国に対する権益を強めたいからだと考えまする。わたくしが無官になれば、大臣たちも興味を失うことでござりましょう」


中大兄皇子は、それ以上の言うべき言葉を失った。極が言ったことは、そのまま彼の思いだったからだ。

皇極帝はあらためて極の才気に感嘆し、できるなら彼を自分の側に置きたいと思った。

「極殿、嫌な思いをさせてすまなんだのう。許して下されよ…」


「何をおおせられまするや。国を思い案ずる心はわたくしとて同じ。大王や皇子様のお心はわかっておるつもりでござりまする」

極はそう答えた後、中大兄皇子の方を向いて続けた。

「ただ…むやみに大臣たちと対立していては国を危うくするばかり…。是は是、否は否として国政に当たられるよう、お願いいたしまする」

「む…そ、それはわかっておる。わしとて国事にあたって、大臣たちと手を携えていく度量は持っておる。案ずるな」

極はにっこり微笑んで頭を下げる。


「はっ…では、わたくしのことは大王と皇子様にお任せいたしまする。いかようにも御裁断下さりますよう…」

「あっ、いや、それはもうよいのじゃ。のう皇子…?」


「は、はあ…」

中大兄皇子は苦々しげに床をにらんで瞬時ためらった後、極に向かって言った。

「先ほどの言、わしの考えすぎであった。許せ…。そなたは今の役目、大王のために身命を尽くして果たしてくれ」


「ははっ、ありがたき幸せ…。極、命に代えてやりとげまする」

こうして、極は一つの窮地を脱することができた。しかし、中大兄皇子は、極と蘇我が結びつくという事実に対する恐怖を拭い去ることができなかった。それは、彼が誰よりも極の力を認めていた証拠だった。

その結果、皇子は一つの賭けに出たのである。


明日は、蘇我加波が葛城の館に来るという日のことだった。宮中での出仕を終えた田彦麿が、ひどく慌てて極の部屋へ駆け込んできた。

「殿…殿はおいでで…やっ、こ、これは失礼つかまつりました…」


ちょうど夕食の支度も終わって、紗月と綾は極の膝にしどけない姿で甘えているところだった。二人はあわてて身づくろいをして極から離れる。

「あはは…かまわぬ、入れ。いったい何事じゃ…さようにあわてて…」

「はっ、実は今日、宮中でたいへんなことを耳にいたしてござりまする」

「うむ、いかなることじゃ」


田彦麿は極のそばに近づいてきて、声をひそめながら言った。

「されば…中大兄皇子が石川麻呂様の娘を后になさるということで、今日蘇我大臣が大王のもとへ呼ばれたそうにござりまする」


「まあ、それは不思議なこと…そのようなことがあるのでしょうか…?」

紗月と綾も田彦麿の話を聞いて、びっくりしたように顔を見合わせた。


ただ、極はなにやら笑みを浮かべて、小さく何度もうなづいていた。

「殿、あれほど蘇我の力を抑えようとなされていた中大兄皇子が、なにゆえにこのようなことを…?」

田彦麿も二人の妻たちも、極にわけを教えてほしそうに注目した。


「うむ…恐らくじゃが…皇子は加波によってわしと蘇我が結びつくのを恐れたのじゃ。それと、蘇我の本家と分家の対立をあおり、大臣家を孤立させようとのねらいもあるやもしれぬ」


田彦麿も妻たちも感嘆の声を上げてうなづきあった。

「なるほど…ふふふ…」

「なんや、田彦麿のおじちゃん、変な笑い方しはって…」

「ふふ…いや…何かぞくぞくしてきてのう…。殿がそれほどの大物になられたかと思うと、うれしくてなあ…ぐふふ…」


田彦麿の喜びを抑え切れぬ笑いに、紗月と綾も思わずつられて笑いだす。


極は綾を抱き寄せて、再び愛撫を始めながら、田彦麿に言った。

「そう喜んでばかりもおられぬぞ。わしがへまなことをすれば、皇子にも蘇我にもにらまれることになるでのう」


「ふふ…大丈夫え…」

極の膝の上に身を横たえ、うっとりと彼の腿を触りながら綾がささやく。

「皇子様はへまなんてせえへん…。少しはしてくだはるほうがええくらいや…」


翌日、蘇我の館から使いが来て、入鹿からの手紙を極に手渡し、加波の輿入れが都合により延期になったことを告げた。その詳しい理由は手紙に書かれていた。

文面からは、入鹿の無念の思いが切々と伝わってきた。皇族との婚姻が決まったからには、豪族間の婚姻は後回しにせざるを得なかった。入鹿は、これは中大兄皇子の策略であると断じ、これによって自分と極の絆が損なわれることはないこと、極が東国から帰ってきたあかつきには、二人で新しい国造りをしたいことなどが綿々と綴られていた。そして、最後に一つの謎かけのように、加波が駿河の富士の山を見たがっている、と付け加えられていた。つまり、正式に加波を輿入れさせることはできないが、こっそり奪い去るのはかまわないという意味なのである。


極は手紙を読み終えると、木剣を持って庭へ出た。

「綾、勝負じゃ。参れ。」

井戸の傍で、紗月と一緒に洗い物をしていた綾は、その声にうれしげに立ち上がった。手拭いで手を拭くと、極が放り投げた木剣をつかんで進み出る。


「遠慮はいらぬぞ。わしも本気で参る。」

「ふふ…うん。」

極は木剣を中段に構え、腰を下ろして綾を正面からにらみつける。これまで何度も稽古で手合せをしたが、極は一度も綾に勝ったことがなかった。


綾はにこにこしながら、だらりと木剣を下げて無造作に立った。その姿は野に咲くユリのように、あくまでも静かでしかも凛としていた。


紗月も手を休めて、二人の立ち合いを一心に見守っている。衛士たち、下人たちも遠巻きに見守っていた。


極は慎重にすり足で間合いを測りながら、打ち込む隙をねらう。しかし、小さな少女は微笑みを浮かべたまま、まったく動かなかった。極の顔には明らかな苛立ちの色が見えはじめた。しかし、どうしても打ち込むことができないでいる。


「やあああっ…」

ついに極が気合いもろとも突進し、綾の頭上に目にも止まらぬ速さで木剣を振り下ろした。見物していた者たちはあっと叫んで、思わず目をつぶった。綾が脳天を打ち砕かれたと思ったのである。


ところが、次の瞬間、彼らは驚くべき光景を目にして、立ち尽くしたのだった。

極は呆然とした顔で、地面に木剣を突き立てたまま前のめりになっており、綾は涼しげな顔で極の斜め後ろに立ち、極の首の後ろを木剣でぴたりと押さえていたのだ。


「ううむ…なぜじゃ…」

どうにも不可解という顔で、ようやく極は顔を上げた。


「ふふ…前に比べたら、皇子様ずいぶん速うおなりになったえ。けど…」

「うむ、けど、何じゃ」

綾はちょっと考えてから、愛らしい顔を微笑ませて続けた。

「皇子様の動きは、猪と一緒なんよ」

「なんと、わしが猪と一緒じゃと…」


紗月と遠巻きの下人たちは、思わず吹き出して口を押さえながら笑った。

「ふふ…気ぃ悪うせんといてや。あたい、山にいるときは、いろんなケダモノたちと遊んだり喧嘩したりしてたんよ。喧嘩してみて、一番強かったんはましらやった。次が狼や。ほいで山犬…。熊と猪は一番弱かったえ」


極は地面に座って、真剣に綾の話に聞き入っていた。綾は次第に頬を赤くしながら極の傍に座り込む。

「ううむ…なるほどのう…。わしは猪か…」

極は何か得るところかあったように、小さくうなづきながら立ち上がった。

「よし、綾、もう一度頼む」

「うん」

二人は、もう一度木剣を持って向かい合った。今度も極は中段の構えで、綾はだらりと手を下げていた。


ふいに、極がつつっと綾に近づいていったかと思うと、上段から軽く打ち込み、そのまま横なぎに綾の胴を払ったのである。


綾は今度もなんなく剣先をかわしたが、その顔には驚きと喜びが溢れ、大きな目がきらきらと輝いて極を見つめていた。

「それや、皇子様。あはは…ウソとホント、その繰り返しなんよ」


「うむ…なるほどのう。嘘と本当の繰り返しか…」

「ふふ…うん。ホントばかりやったら、みんなわかってしまうえ」


極も目を開かれた思いで何度もうなづく。そして、木剣を空に向かって掲げ、その先のどこまでも青く澄んだ空を楽しげに見つめるのだった。



 14 東国事情



三河より東のいわゆる東国と呼ばれる地域は、小さな部族が独立した社会を造り、小ぜり合いはしながらも長らく平和な生活をしていた。そこへ大和政権が誕生し、武力によって諸部族を従属させ始めた。平和に慣れていた人々は、ほとんど抵抗することもなく、次々に軍門に下ったのである。

ところが、このころになると、ようやく人々の中に部族の誇りが芽生え始め、大和政権に対抗するためのゆるやかな大同団結が形成されていった。


その中で最も大きな勢力を持っていたのが、「毛野」の一族だった。彼らの抵抗の仕方は、表立った武力闘争というより、朝廷から任命された国造の命令に従わないというものだった。というのも、国造はほとんどが地方の有力豪族であり、抵抗勢力とのつながりが深かったのである。いわば官民一体のストライキのようなもので、朝廷としても手を焼いていたというわけである。


極が征東夷大使に任ぜられたのは、そんな時代だった。

前任の大伴金村は、残虐なやり方で抵抗勢力を制圧し、しばらくは関東以西を朝廷の意に従わせることに成功したが、彼が大和に帰った後は、再び元の状態に戻ってしまっていた。


狭津彦さつひこ、噂に聞いたが、新しい将軍がやってくるそうじゃなあ。どんな奴じゃ?」

「さあ、詳しいことはわからねども、まだ若い男じゃそうな…」

下総の国造笠原狭津彦の館を訪れていたのは毛野一族の一つ、賀谷律かやり当主黒丸くろまるだった。


「ふっふっ…都の奴らもこりねえなあ。今度は兵士さようけ連れてくるつもりかのう?」

「いや、そげな余裕はねえはずじゃ。いつもどおり土地の男たちを使うんじゃろうて」

こんな会話が、東国のあちこちで交わされていた。彼らは朝廷の使者に対しては、口をきわめて恭順の意を表し、民を教化することを約束する一方で、実は少しもそれを実行してはいなかったのである。


さて、ちょうどその頃のことだった。

「おや…おい、ややはどこさおる。」

「えっ、今までそこに…」


上総の国のとある海べたの小さな村。山の斜面を削ったわずかな畑が点在し、アワ、ヒエが植えられている。

そんな畑の一つで草取りをしていた若い夫婦は、篭の中から姿を消した赤ん坊を捜して辺りを駆けずり回った。しかし、どこにも我が子の姿はなかった。若い夫婦は悲嘆にくれたが、周囲の人々から、きっと海に落ちたのか、あるいは「神隠し」か、いずれにしてもあきらめるより他にないと言われ、泣く泣く捜すのをやめたのだった。


ところが、この赤ん坊は思いがけない形で生き長らえていたのである。実は赤ん坊を連れ去ったのは、一匹のはぐれ猿だった。この猿は近頃子供を失った雌猿で、死んだ子猿を抱えたまま群れから離れて暮らしていた。そして、この日たまたま餌を探しているうちにこの赤ん坊を見つけ、母性本能のおもむくままに赤ん坊を抱いて近くの森に帰っていったというわけだった。


しかし、この赤ん坊の数奇な運命はこれで終わりではなかった。

母猿は数日間、この赤ん坊に乳房をふくませ、大切に抱いていた。ただ、彼女にとってこの子は余りにも重すぎたのだ。その日彼女は空腹を感じ、餌を探しに行こうと思った。

赤ん坊を抱いて数歩歩いたところで、彼女の耳に恐ろしい声が聞こえてきた。犬である。

彼女はパニックに陥った。赤ん坊を抱えて逃げたかったのだが、重すぎてとうてい逃げられないことは明らかだった。かといって、赤ん坊を置き去りにして逃げることも、本能が許さなかった。

ついに、恐ろしい歯をむき出しにした犬が姿を現した。母猿は悲鳴のような声を上げて懸命に威嚇しながら、赤ん坊を守ろうとした。しかし、とうとう恐怖に負けて、赤ん坊を置いたまま逃げ出したのだった。犬はなおも木に駆け上がった彼女に、下から吠えかかった。


そこへ現われたのが、犬の飼い主である猟師だった。この男、名を穂村といい、駿河の生まれで、歳は三十を過ぎたぐらい。もとは駿河の国府に出仕する下役人だった。しかし、朝廷から派遣された役人たちの強欲と不正に嫌気がさして、仕事も故郷も捨て、鎌倉の近くの山中に隠れ住んでいたのである。


さて、男は赤ん坊を見つけたが、どうにも始末に困り果ててしまった。きっと近在の村から猿が盗んできたものだと考えたものの、親を捜してやることなどとんでもないと思った。かといって、このまま置き去りにすることはさすがにできなかった。しかたなく、彼は赤ん坊を自分の山小屋に連れ帰った。


「ふむ…おまえも哀れなことよのう。よりによってわしのような男に拾われるとは…。まあ、そのうち噂を聞くやもしれぬ。そうしたら、こっそり親たちのもとへ帰してやるでな……。しかし、泣かぬ子じゃのう」


男は、自分の古くなった小袖をおむつ用に脇差で切りながらつぶやいた。赤ん坊は、ようやく目が開いたばかりで生後間もなかったが、自分の指をしゃぶりながらおとなしく寝転んでいた。


「ん…おまえは女じゃったのか…。ふっ…そうかそうか…色白じゃし、少々鼻は高すぎるが美人になるかのう…。あはは…」

慣れない手つきでおむつを当てながら、男は楽しげに笑った。


こうして、その不思議な運命に操られた女の子は、男の手で育てられることになった。

男は近くの村へ行き、鳥獣と交換に米や味噌、塩、酒、そして牛の乳をもらって帰っていった。怪しがる村人には、自分が飲むのだと言って、目の前で飲んで見せた。そして、それとなく「神隠し」や子を何者かに連れ去られた親の噂などをさぐるのだった。


実はこの不思議な運命の女の子は、やがて極と深く関わることになる。それはまさに、神が初めからこの子を選んで与えた運命としか思えなかった。ただ、その時まであと十年の月日が必要だった。


さて、四月になり、極の身辺はにわかに慌ただしくなった。朝廷に何度も呼び出されて今回同行する役人たちと細かい打ち合わせをしなければならなかったのだ。


今回、極に同行するのは佐伯広麻呂さえきひろまろ紀古麻呂きのこまろの二人だった。佐伯広麻呂は言うまでもなく佐伯連の一族で、まだ二十一の若者である。


実は彼は、当主阿津麻呂が境部磨理勢さかいべのまりせの娘に生ませた息子で、境部一族が蘇我氏に滅ぼされたおり、本来なら殺されるはずのところを、阿津麻呂のたっての願いで許され、以後佐伯の息子として育てられたのである。

幼い頃から知勇ともに優れた俊才として誉れ高かった。だが、彼はあくまでも義兄弟たちより一歩も二歩も後ろに控え、右兵衛のじょうという低い官職に甘んじていた。もちろん蘇我大臣家とは深いつながりを持ち、言うならば蘇我の耳目として、今回の東征軍の一将に抜擢されたのである。


一方、紀古麻呂は若くして中大兄皇子の信任厚い側近の一人だった。つまりここでも両陣営の対立がそのまま持ち越された人選になっていたのだ。


「今日も極兄様はおいでになったのかえ」

「は、はい…ついさきほどまで…」

「そう…」

内裏の中庭で、蕾のふくらみ始めた橘を眺めていた幼い皇女は、無表情に体の向きを変えて部屋に戻っていく。

「イモ虫がたくさんついておる。なれど、そのままにしておきやれ…」

「は、はい…」

侍女たちは、皇女の傷心を見るのが辛く、隠れてそっと涙を拭いていた。


すぐそばに愛しい人がいるのに、顔さえも見ることができない辛さを、しかし間人はじっと耐えていた。部屋に戻った少女は、再び机に向かって手紙を書き始める。もう何通目になるのかわからなかったが、出せずにたまった手紙の束が引き出しの中にいっぱいになっていた。

今の間人は、愛しい従兄が自分を思ってくれているという、微かな温もりだけでやっと支えられていた。手紙を書きながら、少女はいつものように狂おしい妄想に耽り始める。

「ああ…従兄様…従兄様ぁ…うう…う…」

佐伯の館を出るとき、大切に持ってきたなつかしい従兄の衣を抱き締めて床に寝転び、

思い出の世界に浸ってゆく。しかし、それは逆にいつも、彼女の心と体に火と油を同時に注ぐことになった。

泣き疲れた皇女は、虚ろな目でじっと部屋の中の暗がりを見つめる。その目は暗い絶望だけに覆われていた。


「殿、何をお考えでござりまするか?」

「ん…いや、特に何ということはない…」

「ふふ…わたくしが当ててみましょうか…?」


紗月は、庭を眺めていた夫の背中にそっと覆いかぶさりながら、耳元でささやいた。

「きっと、間人皇女様のことでござりましょう…。ふふ…違いまするか?」


「そなたには隠し事はできぬな…。その通りじゃ」

「殿…きっと、皇女様の方がもっと辛い思いをなされておられましょうことに…」

「うむ…そのことよ…。間人は人一倍寂しがりやで甘えん坊じゃ…」


そう言った後で、極はやや自嘲気味に笑いながら続けた。

「よけいな心配かもしれぬな…。もう、わしのことなど忘れておるやもしれぬ。良き人を見つけて…宮中には、若く立派な男がいくらでもおるから…」


極の言葉は、途中で紗月にそっと口をふさがれたために途切れた。

「殿…女は男とは違いまする。一度好きになった相手を、すぐに忘れられるものではありませぬ。ましてや皇女にとって、殿は初めての愛しいお方…忘れられるはずがござりませぬ」


「そういうものか…?」

「はい、そういうものでござりまする」

紗月の腕が極の首に柔らかくからみつき、かぐわしい息が頬にかかる。


「ああっ、ずるい、姉様ったら…」

厠から出てきた綾が、ばだばたと走ってきて極にからみつく。


春通と丙助が葛城の館を発つときに極から受けた使命は、まず、朝廷側の主な役人の人となりと兵力の調査であり、二つ目は民意の把握と懐柔であった。そのために、極は自らがしたためた趣意書を春通に預けた。決して朝廷側の人間に見られぬようにと念を押し、反乱勢力の中心人物たちだけに見せるよう指示していた。


「うははは…今度の将軍殿は若いと聞いておったが、いかい年寄りのごとき策を使われるようじゃのう?」

毛野一族の一つ、馬津目まづめ当主丙地へいじは書状を読む前から全く興味が無さそうに、笑いながらそう言った。


「さて、笑うもけなすも読んだ後にしていただきたい。まずは目を通して下され」

春通の言葉に、丙地はむっとしたように笑顔を消して、ぎょろりと春通をにらんだ。


「わしは東えびすで、字なぞ読み書きできんでのう…そなたが読んでくれぬか」

春通も丙地をじっと見据えながら、前に進み出て丙地の差し出す書状を受け取った。


「では、読みまする。『東の方の大人方に謹んで言上つかまつる…』」

春通は朗々とした声で、極の書いた手紙を読み始めた。その中身はおおよそ次のようなものだった。


まず、自分は東国の民を征服するためではなく、救うために行くのだということ。

ただそのためには、東国の民が互いに手を取り合っていく必要があること。

次に、自分は朝廷の意のままに動くつもりはなく、もちろん蝦夷たちに迎合するつもりもないこと。民のための国を造ることが、自分の方針であること、などであった。


初めは退屈そうに聞いていた馬津目丙地もやがて驚いたような表情になり、ついには呆れたように口を開けて春通を眺めていた。

「ちょ、ちょっと待たれい…。今度の将軍は朝廷より遣わされる者ではないのか?」


「もちろん、朝廷より征東夷大使の勅命を受けておられる…」

「されば、朝廷の命に従わぬとはいかなるわけぞ?」

「さて、それがしの役目はわが主人の意向をお伝えすること。疑念あらば、主人に直に聞かれよ」

「むうう…あいわかった。楽しみに待つといたそう」


「最後に言い置くべきことがござる。この書状のこと、決して朝廷に通ずる者にはもらさぬようお願いいたす。もし、これが朝廷側にもれるときは、わが主人の命は危うくなり、そなた方の頼みの綱も絶たれるのでござる。このこと、くれぐれもお願いいたす」


こうして、春通は短期間の間に反対勢力の有力者たちのもとを回り、極の意向を伝えていった。

長年朝廷軍に痛めつけられてきた東夷たちは、極の考えをにわかに信じることはなかったが、驚きと興奮は潮が満ちるように次第に東国の全土に広がっていった。


一方、丙助も、極から託された使命を精力的に果たしていた。

「はああ…そげな話、すぐには信じられねえけんど…なあ、皆…?」


常陸の国筑波山のふもとに、過激な反逆集団として恐れられている倶知安左内クチアンサナイの本拠地があった。

丙助はこの地に潜入して、サナイの支配を受けている村人たちと話をしていた。


「まあ、そやろな…けどな、わが殿はそこいらの領主とはわけが違うんや。わしら民のことを…いや、今は言うてもわからへんやろ。そやけど、このままやったら、お前さんらもいずれは罪人として、首切られるか、北の果てに追いやられるか…あんまりいいことはあらへんで…」


村人たちも内心では、乱暴なサナイの支配に不満を溜めていた。もし、今度の将軍が本当に民のための国造りをするのなら、こんなにうれしいことはなかった。


「ま、すぐには決められへんやろ。もし、わしらと手を組む気持ちが固まったら、武蔵の国府近くに酒造部さかつくりべの村があるさかい、多仁丸たにまるちゅう親方を訪ねてくれや」

丙助は立ち上がった後、村人たちを見回しながら付け加えた。

「わかってると思うけど、この話は決して外にもらしたらあかんで。特に、サナイには気づかれんように…ええな?」


丙助は、最下層の人々に対する感化を進めていった。日々飢餓の苦しみにあえいでいる東国の民衆は、何にでもいいからすがりたいという思いを持っていた。だから、丙助の語る夢のような話に、丙助の予想をはるかに越える反応を見せた。


武蔵の国府の近く、多摩川沿いにある酒造部の村には、連日各地の村からやってきた使いの者たちが何人も訪れていた。そのほとんどが、まだ丙助が訪ねたこともない村の者たちであった。つまり、丙助の話は大きな反響とともに、人々の口から口へ急速に伝わっていたのだった。


「ちいとばかし話が大仰すぎたかいのう…役人たちに気づかれなんだらええが…」

丙助は多仁丸から受け取った名簿を眺めながら、苦笑してつぶやいた。


「なあに、気にするこたぁねえで…。役人が気づいたところで人の口にゃあ戸は立てられねえし、誰が言い出したかも分かるもんではねえだ」

太いしゃがれ声でそう言ったのは、赤ら顔のたくましい体つきの男多仁丸であった。

この壮年の男は、多摩の酒造部の長を務めていたが、国府から春通と丙助の世話を命じられた。そして、二人から今度やってくる若い将軍の話を聞くと、すっかり魅了されてしまい、自らすすんで二人の手伝いをかって出たのである。


こうして春通と丙助の仕事は、予想以上の成果を収めて順調に進み、四月の半ばを迎えた。

しかし、かねて丙助が心配していた通り、人々の大きな反響は当然各地の国造たちの耳にも入ることになった。朝廷に任命された国造たちは、初めのうちはたわ言と聞き流していたが、いろいろな場所で同じ噂を聞くうちに不安を感じ始めた。やがて、隣国同士で集まり、相談を重ねるようになったのである。


「やはり、朝廷に報告するべきかのう…?」

「報告するというても、まだ噂にすぎぬからのう。誰が広めたのかも分からぬし…それに誰に報告するかもよう考えぬと…」


武蔵の国造笠原直使手かさはらのあたいつかての館に集まったのは、常陸の国造筑紫直県麿ちくしのあたいあがたまろと上総の国造佐伯直尾人さえきのあたいおひとであった。


三人の中で一番年長の県麿は、腕組みをして低くうなってからおもむろに口を開いた。

「もし、これが…毛野や蝦夷を平らげるための策じゃとしたら、こたびの将軍、ただ者ではないのう」


「おお…わしもそれを思うておった。民の国を造るとは、よう言うたものよ。これまの将軍が誰一人言うたことのないことじゃ」


「実はのう…」

それまで二人の話を黙って聞いていた佐伯尾人が、困ったような表情で口を開いた。

「都の伯父から、文が届いたのじゃが…」

尾人はふところから手紙を取り出して、県麿に渡した。


「書いてあることがよう分からぬのじゃ。とにもかくにも、征東夷大使の意のままに動けと、その繰り返しでのう…」


県麿は手紙を開いて一字一句もおろそかにせず、真剣に読んでいった。

「ううむ…佐伯殿、この文、間違いなく伯父御殿よりのものでござるか?」

「おお、それは間違いござらぬ。字も伯父のものじゃし、届けたのも長年伯父に仕える家人であった」

「ふむ…じゃとすれば、佐伯連殿はこの文が朝廷側の目に触れたときのことを考えて、はっきりとは書かれなかったのじゃ。つまりはここに書かれたそなたへの厳命は、それだけの重みを持つものと言えようのう」


三人は顔を見合わせて、暗黙のうちに一つの合意を得た。

「すべては新将軍が来てからのことじゃな。よくよく見極めることよ」

「うむ…では、民の噂のことはこのまま知らぬふりを通すか…」

この三人の合意がその後、下総、甲斐、駿河、越後の国造たちにも伝わった。反朝廷勢力と国境を接しているこれらの国では、そうした勢力とも融和を図りながら、じっと五月を待つことになったのである。



15 皇女誘拐逃避行



すでに出立の準備は万端に整っていた。

極はこの数日間、山背大兄王や蘇我石川麻呂などの親しい人々や、主だった豪族の館へのあいさつ回りに忙しかった。


「今日はお出かけはあらへんの?」

「うむ…後ほどそなたの刀を取りに行こうかのう…そろそろ出来上がっておろう」

生まれたままの姿で、極の上に寝そべっていた綾が愛らしい微笑みを浮かべる。そして向かい側で、さっきからずっと極の体にしがみついている義姉を叱るように呼んだ。

「姉様…姉様ったら、もう…」

こちらも粉雪のような白い裸体をあらわにした少女が、うっとりとした顔を上げて振り向いた。


紗月は乱れた髪を整えながら、その伸びやかな体を反らせて背伸びをする。

「んん…ふう…ああ、よい天気だこと…」

春の明るい朝日が回廊の床に反射して、二人の少女を夢のような美しさで照らしだしている。

「あと六日でこざりまするな…」

「うむ…いよいよじゃ」


紗月は小袖をはおると立ち上がった。この時代の少女としては、紗月も綾も非常に背が高かった。

「間人皇女様のもとへは、いつ行かれるのでござりまするか?」

紗月も綾も、東国での暮らしの心配よりもそのことが気に掛かる問題だった。しかし、愛する夫は、これまではっきりとした返事をしていなかった。


極は小さなため息をついて、綾の髪を撫でながらじっと天井を見つめている。

「会うてどうなる…。互いに苦しむだけではないか…」

「でも…会わへんかったら、もっと辛くないんけ…?」

「会うて、帰りを待っていてくれと…それだけで、皇女様はどんなにか心強くお思いになられましょうことに…」


極はやおら起き上がって、二人の愛妻を交互に見つめてからおもむろに口を開いた。

「これからわしが何を言うても、決して取り乱さぬと約束するか…?」

二人の幼い妻たちは、ごくりと息を飲み込んでうなづく。

「わしは五月の一日に都を発つ。いったん三河まで行き、理由を作って夜のうちに都へ戻ってくる。間人を宮中より盗みだして、再び一行と合流する…」


「あ、あの…」

「これ、約束じゃぞ…。最後まで黙って聞くのじゃ」

綾も紗月もすでに涙ぐんで、小さく体を震わせ始めている。

「つまりは、わしは罪人となるのじゃ…。よしんば、見つからずにうまく盗みだせたとしても、いずれはわしがやったことだと分かる。その時は、朝敵となって命を狙われよう」


極はそこまで語ると、泣きだした妻たちを優しく抱き寄せた。

「わし一人なら…迷わず今申したことをやり遂げるであろう。じゃが…今は、わし一人の命ではない。そなたたちを置いては死ねぬ。そなたたちが、やめよと申さば、わしは間人のことを永遠に忘れる…」


少女たちは声を上げて泣いた。夫の体をかき抱いて、その凍った心を少しでも温めてやることしかできなかった。

しかし、少女たちはこのわずか数か月の間に、愛することの喜びも悲しみも十分に知ってしまった。極を愛する間人の悲しみを十分すぎるほど理解できたのである。


「殿…わたくしたちは、罪人になることなどかまいませぬ。どうか間人様を…」

紗月が涙に濡れた顔を上げて訴えた。綾も胸を震わせながら、うんうんとうなづいている。


「なれど…その方法しか無いのでしょうか?大王にお願いして、なんとか…」

「うむ…わしもいろいろ考えてみたが、やはり皇女は、今の大王にとって唯一の宝じゃ。次の代を受け継ぐ者にこそ与えられるべき宝なのじゃ。それは、山背大兄王かもしれぬ、わが父軽皇子かもしれぬ、あるいは中大兄皇子かもしれぬ…。いずれにしてもわしでないことだけは確かじゃ」


綾はあからさまに嫌悪の表情を浮かべて、思わず口を手で押さえた。

「うう…吐き気がする…みんな血のつながった人ばかりやんか┅」


極は綾の体に衣を着せかけ、優しく抱きしめながら続けた。

「それが、大王の一族に生まれた者の宿命なのじゃ…」


綾も紗月も、あまりに悲しい皇女の運命に言うべき言葉もなく、ただ涙を流した。が、やがて紗月が涙を拭きながら顔を上げて、極を見つめた。

「殿…わたくし、一度皇女様のご様子を伺いに参ります。よろしゅうござりまするか?」

「うむ、そうじゃの…。どうするかは、その後考ゆることにいたそう。頼んだぞ」

「はい。さっそく、今日にでも行って参りましょう。里の祖父の使いだと申せば、皇女様にもお会いできましょう」


紗月の顔には強い決意のようなものが浮かんでいた。彼女はさらに夫に短い手紙を書いてくれと頼んだ。それを懐に入れて、少女は昼前に宮中へ向かった。


五月が近づくにつれて、間人の苦しみはいよいよひどくなっていた。食事もほとんど食べられず、一段と無口になって部屋に閉じこもるようになった。

皇極帝は、そんな娘の心中をよく理解していただけに、なおさら娘が哀れでならなかった。このままでは、いずれ娘が病に倒れるに違いないと分かっていた。帝の心にはいつしか一つの決意が固まりつつあった。

紗月が宮中を訪れたのは、ちょうどそんな折だった。


「皇女様、大王がお呼びにござりまする」

死んだような目でじっとあらぬ方を見つめていた間人は、侍女の声に魂を現実に呼び戻された。

「わかった…すぐ参る」

間人はけだるい体を起こして、侍女とともに御息所に向かう。心の片隅に、もしや極が訪ねて来てくれたのでは、という虚しい期待があったが、それを自分で打ち消しながらこみ上げてくる涙をぐっと飲みこむのだった。


「間人にござりまする」

「おお、参ったか。早う入りやれ」

間人は、やつれた顔を母に見せて心配をかけないように、うつむいたまま部屋の中に入った。


「間人、顔を上げて見やれ。そなたにはなつかしき人ぞよ」

楽しげな母の声に、間人ははっとして顔を上げた。

「あっ…さ、紗月姉様…紗月姉さまああ…」

「皇女様、おなつかしゅうござりまする…」


間人は堰を切ったように泣きながら、一番好きだった義姉の胸に飛び込んでいく。今の間人にとって、極につながるものは何よりも大切な存在であった。

二人はしばらくの間、しっかりと抱き合って涙を流し、互いを思う心を伝え合った。


「さあさ、二人とも…いつまでも泣いておっては分からぬ。紗月とやら、間人に伝えたきこととはいかなることぞ?」

「はい…申し訳ござりませぬ。されば、どうか大王にもお聞き下さりますよう、お願いいたしまする」


紗月はあらためて姿勢を正すと、帝と傍らでまだひくひくと胸をふるわせている皇女を交互に見つめて言った。

「わが義兄極は、六日後東国に下りまする。身命を賭して大王の君命を果たす覚悟でおりまする。ただ…」

紗月はいったん言葉を切ると、間人の方を向いて続けた。間人はもう、極の名前を聞いただけで声を殺して泣きだしていた。


「ただ、義兄のただ一つの気掛かりは、皇女様のこと。自分がお側にいて皇女様をお慰めできぬことが心残りなのでござりまする。されば、皇女様には早う義兄のことはお忘れになり、よきお方を見つけて下さりまするようにと…。それを皇女様がお約束になるのをしっかと聞き届けてくるようにと、わたくしを遣わしたのでござりまする」


もう、間人は辺りをはばからず声を上げて泣き悶えた。ただ狂ったように泣くことしかできなかった。


「紗月、さようなむごきことをよくも…」

「はい…酷きことにござりまする。されど、それが宿命なのだと、義兄は申してござりまする」


皇極帝は顔を袖で覆って涙を隠しながら、何も言い返すことができなかった。まさしく紗月の言う通りなのだ。しかも、その酷い宿命を娘に強いているのは、紛れもなく自分なのだった。


「間人…間人よ、もう泣くでない。そなたはたとえ殺されても、極以外の男の妻になる気はないのであろう?」

間人は涙に濡れた顔を上げて、何度もうなづく。

「ふふ…困ったものじゃ…間人、この母も一人の女、そなたの心はよう分かっておる。娘の幸せを誰よりも願うておる…」


女帝はそう言って深いため息をつくと、静かに言葉を続けた。

「朕にしばらく考ゆる時をくりゃれ。紗月、帰って極に伝えよ。明後日、ここへ参るようにとな」


「はい、確かにうけたまわりましてござりまする」

紗月は平伏して返事をしながら、胸元にひそませていた極の書状を取り出して、間人の方に体を向けた。


「皇女様…わたくしの無礼なる言葉の数々、どうかお許し下さりませ」

涙にくれていた間人は、まだ紗月を恨む気持ちの方が強く、顔を背けて返事をしなかった。

「義兄は近頃とみに幼き頃の事を思い出すようで、皇女様とその頃の話をしたいと思うておりまする。これは、義兄から皇女様への文にござりまする。お目通しいただければ義兄も喜びましょう」

紗月はそう言って、極の書状を間人の方へ差し出した。


本来なら皇女への私的な手紙は、いったん帝が目を通すべきものであったが、皇極帝は極にあまりにも心を許しすぎていた。むしろ傷心の娘にとって、その手紙が慰めになってくれればと思うのだった。


「それでは、これにて退出させていただきまする。大王にも皇女様にも、どうかお健やかにあらせられますように…」

「うむ、ご苦労であったのう。極にくれぐれもよしなに…の…。」


紗月は平伏したまま後へ下がり、部屋を出る前にちらりと間人の方を見た。間人はまだ悲しげに顔を背けたままだった。


紗月は宮中を出ると、その足で実家の佐伯の館へ向かった。極から当主阿津麻呂への言伝を直接伝えるためであった。


一方、間人は死人のように青ざめた顔で自分の部屋に戻ってきた。手には紗月から渡された極の手紙が握られていたが、すぐに読もうとはせず、ぐったりと床に座り込んで、しばらくの間新たな涙を流した。彼女はもう極に見捨てられたような気持ちになっていた。


これ以上生きていても何の希望もなかった。 不意に、幼い少女の心に激しい怒りが燃え上がった。なにもかもメチャメチャにしたいという抑えがたい衝動に、小さな体がぶるぶると震えた。


間人は懐剣を取り出し、鈍く輝く刃をゆっりと鞘から引き抜いた。自分の体を切り刻む前に、彼女は自身より愛しい従兄を殺したいと思った。従兄をこの世から消し去れば、自分はこの地獄の苦しみから解放される。その後、心置きなく死ねるのだ。しかし、それは従兄と媾合するよりも、さらに困難な望みであった。哀れな少女に残されたものは、自分をこの世から消し去ることだけだった。


手に握り締めた愛しい従兄の手紙……もう読まなくてもそこに書かれていることは分かっている。手紙を床に置いて、ゆっりと剣先を手紙の中央部に突き立てていく。

間人の心は激しく痛んだ。涙がぼろぼろと頬を流れ落ちていく。刃が紙を切り裂いていく…。

「あああ…兄様あぁぁ…うう…う…」


しかし、絶望と死しか残されていない状況にあっても、間人は優しさを捨て切ることはできなかった。懐剣を放り出すと、手紙を激しく胸に抱き締めて泣きじゃくった。

やがて、少女は涙に霞んだ目で力なく手紙を開き、剣で切れた部分をそっと裏から手をあてがいながら読み始めた。


「えっ…こ、これは…」

間人はあわてて涙をこすると、食い入るように文面の文字を一字一句たどっていく。そこには驚くべきことが書かれていた。みるみるうちに間人の顔に赤みがさし、生き生きと輝き始める。


「ああ…極兄様…ふふ…」

何度も文面を読み返しながら、間人は天を仰いでため息をつき、床に寝転んで狂おしく手紙に顔を埋めていった。


二日後、極は宮中に出向いていった。

朝見の間に通された極は、静かに目をつぶって帝が現われるのを待っていた。


「久米征東夷大使…」

不意に呼ばれて振り返ると、そこには正装をした蘇我入鹿が立っていた。

入鹿はにこやかな顔で近づいてくると、平伏した極の傍に座った。


「いよいよでござるな。占いでは方位も日もこの上ない吉日でござる。そなたには生まれついての強い星があるようじゃのう」

「ありがたき幸せ。大臣には陰ながらの様々なご尽力、極、生涯ご恩は忘れませぬ」


入鹿はいかにもうれしげに首を振りながら極の耳元に顔を近づけてささやいた。

「当然のことじゃ。そなたは、いずれわしの甥になるお方じゃ。加波は今か今かと待っておるぞ。早う、奪いに来られよ。ふふ…」

「はっ…」


極が言葉を続けようとする前に、入鹿は扇で口元を隠しながらささやいた。

「今宵は飛鳥寺の法要がある。一族の主立った者は出かけるでな…」

入鹿はまだ話を続けたいようだったが、舎人の先触れの声が聞こえてきたので、目で念を押してからおもむろに立ち去っていった。


皇極帝は玉間に入って、御簾越しに平伏している極を見つめた。

「極殿、よう参られた。近う…近う」

「ははっ」


極は前かがみのまま、玉座の前に進む。

「もそっと近う…」


それ以上近づくことは臣下の礼を破ることになるが、極はあえて帝の言葉に従ってさらに前に進んだ。もう、女帝の息遣いまで聞こえるほどの近さだった。


「いよいよじゃのう…苦労をかけるが、くれぐれも体を大事にの…」

「はっ…ありがたき幸せ…大王のためならばたとい火水の中へさえ喜んで飛び込む覚悟にござりまする」


女帝はうなづきながら、小さなため息をついた。

「先日、佐伯の娘がそなたの使いとして参った。さすがにそなたが選んだ娘じゃ。賢うて肝もすわっておる…]


「はっ…非礼とは知りつつ、わが思いを皇女様にお伝えいたしたく義妹を遣わしてござりまする。今日はどのようなお叱りも覚悟してまかりこしてござりまする」


「うむ…」

「そなたの心も皇女の心も、朕は十分分かっておる。朕がただの親なら、すぐにでも間人をそなたの妻にやろうものを…」

女帝は舎人が側に控えていたので、よそよそしい言葉づかいだったが、その声には極への抑えがたい情がこもっていた。


「されど、朕はあえて非道の母親にならねばならぬ。そなたに間人をやるわけにはいかぬ…よいな、極殿…」

「はっ…。」

帝の言葉の端にある思いは、極の胸に伝わってきた。二人は御簾を隔てて、じっと見つめ合った。


「昼は固く閉じる夕顔の花も、夜は花びらをゆるめて開くもの…。そなたと間人にも闇ばかりは続くまい」

「はっ。お言葉肝に銘じて忘れませぬ」

帝はおもむろに立ち上がって、去っていった。

極は平伏したまま、しばらくの間じっと目をつぶっていた。そして、ゆっくりと体を起こした彼の顔には、生き生きとした喜びと決意がみなぎっていた。


皇極帝の心は娘のことよりもむしろ、飛鳥の都の造営と自分の後の大王を誰にするかという二つの大きな問題で煩わされていた。


都の造営のためには莫大な資金と労働力が必要である。ただ、そのためには豪族たちの協力が不可欠だった。しかし、その豪族たちの束ね役である蘇我大臣一族があまり乗り気ではなかったのだ。


一方、後継問題も厄介だった。

最も人望があり、最有力候補である山背大兄王は斑鳩いかるがの里に隠棲し、蘇我氏との関係もぎくしゃくし始めていた。

後の三人、帝にとって義理の息子である古人皇子、実の弟である軽皇子、そして実の息子中大兄皇子はいずれも決め手がなく、横一線状態だった。


皇極帝がこうした頭の痛い問題に思い悩んでいた新年四日の昼のこと、弟の軽皇子がふらりと一人で訪ねてきた。


皇子はあらためて新年の挨拶を済ませると、真面目な顔で意外な話を持ち出したのである。それは帝が思い悩んでいた新都造営に向けての大胆な解決策だった。

『公地公民』、豪族たちから土地と人民を差し出させ、中央集権の国家を作ろうという構想である。もちろん、軽皇子一人で思いついたことではない。中臣鎌足と中大兄皇子が練り上げ、鎌足が軽皇子に吹き込んだものだった。


皇極帝はこの構想に飛び付いた。これが実現すれば、新都造営はスムースにいく。しかも、今のように蘇我氏や他の豪族たちの顔色を伺いながら政事を行なう必要もなくなるのだ。

帝は弟と密約を交わした。この構想を実現させるために、障害になることを取り除いていくことを…。

それから四ヵ月の現在、帝の頭には多くの計画、やるべき準備、そして夢のような未来が渦巻き、心はここにあらずという状態だった。


そんな中で、極の東国出征の儀式は、極めて簡素に執り行われた。

極が奏上文を読み上げた後、皇極帝の詔があり、太鼓や銅鑼の音が鳴り響く中を東征軍がしめやかに宮中の門を出ていった。


見守る者も帝と蘇我入鹿、中大兄皇子、軽皇子、古人皇子以下、十人足らずという寂しさだった。つまり、この時点では誰も東国遠征に対して期待をしていなかったというのが正直なところだったのだ。


極の征東夷大使任官も、皇極帝の極への私的な思い入れである、と皆が思っていた。だから、これから日本を揺るがす変革が始まろうとしていることなど誰も予想だにしなかったのである。


東征軍の行列は飛鳥から近江への道を北上していく。

先頭に佐伯広麻呂が立ち、その軍が後に続いた。その後に極の部民となった吉野川原の男たち、極と妻たち(その中には、二日前の夜、ひそかに多くの品々と共に嫁いできた加波の姿があった)、吉野川原の女・子供老人たちと続き、後詰めは紀古麻呂とその軍が務めた。


「ああ…もう都も見納めやなあ…」

綾が牛車の荷台から葛城の館のある西の方を見やりながら、ぽつりとつぶやいた。


「新しい都に行くのよ、綾…」

紗月の言葉に綾も加波もにっこり微笑んでうなづく。

「ほんとやね。ふふ…なんや急に楽しくなってきたなぁ…」

明るい五月の日差しの中を、楽しげな少女たちの声を乗せて、牛車はゆっくりと進んでいった。


その日の昼近く、御息所で休んでいた皇極帝もとへ軽皇子が訪ねてきた。一通りの挨拶が済むと、皇子は笑みをたたえながら言った。

「聞くところによると、こたびの東征、賄まかない物は現地にて調達するとか…。はて、無事に武蔵国までたどり着けるかどうか…」


「そは朕の命ではない。久米大使のたっての願いであったのじゃ。朕に余計な負担をかけまいという大使の心遣いなのじゃ」

「これは余計なことを申しました。お許し下さりませ」


皇極帝はため息をついて立ち上がり、窓から明るい戸外の景色を眺めた。

「行く先々の豪族たちが、大使の命に従うてくれることを祈るのみじゃ…」


軽皇子は姉の背中に向かって小さく首を振りながら、哀れむように微笑んだ。彼は東征軍が途中で引き返してくることを信じて疑わなかった。いや、彼ばかりでなく、主だった指導者たちは皆、極の考えを甘すぎると思っていたのだ。


「時に姉上、私も早四十の半ばとなり、このまま正室も持たずに年老いてゆくのは心残りでなりませぬ。なにとぞ、間人皇女をわが正室に…お願いいたしまする」


間人を見て以来、なんとしても自分のものにしたいと願っていた皇子は、真剣な態度で訴えた。

皇極帝は戸外に顔を向けたまま、嫌悪の色を浮かべた。

「間人はまだわらわぞ。そなた、月のものとて無い童女わらわめにことを為すつもりか?」


「あ、いや…それは…」

帝はつい、間人が恋焦がれている相手こそ皇子の実の息子、久米極なのだと口に出かかったが、やっとの思いで我慢した。


「朕の願いがかなえられた暁には、次の大王に道を譲ってのんびりとしたい。もし、そなたが朕の後を継ぐ者とならば、その時こそ間人を正室とするがよい」

「は…はっ…承知いたしました」

軽皇子は唇を噛みながら頭を下げると、あたふたと立ち去っていった。


その夜、宮中はいつもと変わらず静かであった。衛士たちが焚くかがり火だけが、風にゆらめいて、時折ぱちぱちと火の粉を散らしていた。


「皇女様…こちらへ…お早く…」

その静寂を破って、内裏の片隅から闇の中を移動する人影があった。一人は三十を過ぎた美しい女官であり、その女官に手を引かれているのはまだ幼い十一、二の少女だった。


少女は暗闇の中でもわかるほど体を震わせて、荒い息を吐いていた。

「玉比女…従兄上は本当に来て下さるのかしら…」

「姫様…姫様がお信じにならなくてなんといたしましょうぞ」

「う、うむ…まことにそうであった…」


二人は衛門府の衛士たちに見つからないように、回廊の片隅の小さな隙間から建物の裏に回り、宮中を囲む高い柵の所までたどり着いた。ここが、極の文に書いてあった約束の場所だった。そこは、衛門府の建物の裏にあたり、本来なら最も警備が厳重な場所のはずだった。


間人と玉比女は暗闇の中で息をひそめ、しっかりと抱き合ってその時を待ち続けた。虫の声と衛士たちのざわめきが異様に大きく聞こえ、わずかな時間がひどく長く感じられた。


間人は小さな胸を痛めながら、めまぐるしくいろいろなことを考えていた。自分はこうして、母や兄の期待を裏切って都を出ていこうとしている。すべてを捨てて、愛しい人のもとへ行くのだ。寂しさ、悲しみ、そしてしびれるような陶酔…。それらすべてが渦のように幼い皇女を包んでいた。


突然、衛士たちのざわめきが大きくなり、幾つもの足音が聞こえてきた。

「怪しい者がおったぞおお…門を固めよ、残りの者は南大門の方へ回れえ」

大夫の声が響き渡り、衛士たちは一斉に動きだした。

間人と玉比女はいっそう強く抱き合って、恐ろしさに震えた。


その時だった。高く頑丈な柵の上で、物音が聞こえ、人のささやきが聞こえてきたのである。

「間人…わしじゃ…」

「あっ、に…」


間人の叫び声は玉比女の手によってふさがれ、うめき声だけがもれた。

もう、間人はとめどなく涙を流しながら、柵の上から降りてくる太い麻縄と、その先にいるはずの愛しい従兄に向かって必死に手を伸ばしていた。


「では、皇女様…今生の別れでござりまする…。くれぐれも…くれ…ぐ…れも…お体…をおいとい下さ…ませ…」

「玉…め…ううう…う…」

「さあ、お行きなされ…。くずぐすしてはなりませぬ」

玉比女は溢れる涙を拭こうともせず、麻縄を皇女の体にすばやく、しっかりと巻き付けていった。

「姫様を…姫様をよろしゅうお願いいたしまする」

「うむ…かたじけない…」

間人の体は地上を離れ、ゆっくりと上に上がっていく。


「玉比女…きっと…きっと…文を書きますから…」

「はい…はひ…姫さ…ま…う…うう…」

ついに暗闇の中に間人の姿は消えた。


間人がいなくなったことを帝や中大兄皇子が知ったのは、翌朝の食事の時であった。玉比女から報せを受けた舎人が、慌てふためいて帝に報告したのであった。


帝は驚いたが、もちろんそれは表向きの演技であった。母親として、これしか娘にしてやれることはなかった。ただ、ただ娘の幸福を祈るだけだった。


一方、その報せを聞いて天地がひっくり返るほどの衝撃を受け、茫然自失となったのは中大兄皇子であった。

彼の妹への秘めた思いは、隠せないほどに高まっていた。つい昨日、憎むべき恋敵である久米極が東国へ旅立ったことで、いよいよ秘めた思いを行動に移そうと狂喜していた矢先の出来事だった。


皇子は怒り狂って、宮中警備の責任者である佐伯連子麻呂を呼び出し、昨夜のことを厳しく詰問した。

子麻呂は、昨夜子の刻近くに、不審な一団が目撃されたことを報告し、その装束や身のこなしなどから、恐らく「犬神8いぬがみ」」ではないかと思われることなどを釈明した。


「犬神」と聞いて、中大兄皇子の顔から血の気が引き、愕然となった。

この当時、人々の間で密やかに語られ恐れられていたものの一つに「犬神」があった。

その昔、日本列島には「隼人はやと」「土蜘蛛つちぐも」「出雲いずも」「蝦夷えぞ」と呼ばれる土着の人々が、原始的な生活を営んでいた。そこへ大陸の文化を携えた天孫族の祖先たちが、次々と海を渡ってやって来た。土着の人々は土地を追われ、反抗する者は容赦なく殺された。


やがて一部の隷属した部族を除いて、ほとんどが根絶やしにされ、歴史の闇の中に葬り去られたのである。彼らの共通点として、船を巧みに操ること、刺青いれずみを風習としていること、そして犬を大切に飼っていたことが挙げられる。

こうした凄惨な歴史の記憶は、人々の間に密かに語り伝えられ、何か災害や事件がこるたびに、滅亡した部族の怨霊の仕業だろうと噂し合ったのである。


それはまた、仏教を広めようとしていた蘇我氏に対する、忌部氏や中臣氏などの神道勢力の抵抗とも重なっていた。そして、「犬神」はこうした怨霊伝説の中でも、最も恐れられていたものの一つだった。


「と、ともかくも、皇女の行方をなんとしても探り出すのじゃ。よいな。犬神などと称して朝廷に害を為す者どもも、この際見つけ出して、見せしめに八つ裂きにするのじゃ」

「ははっ」

佐伯子麻呂はかしこまって退出していったが、部下たちには次のように命じた。

「よいか…この件にあまり深入りしたれば、必ずや犬神の祟りに触れよう。それは、大王の身にもよからぬ災いをもたらすことにもなる。下人を交替で各地に遣わし、手がかりを探させるだけでよい」


もちろん、子麻呂は皇女がどこにいるかを承知していた。それは、あらかじめ父から極秘に知らされていたことだったのだ。


さて、話は深夜に戻る。

間人にとって、とうてい現実とは思えない時間が続いていた。

温かい胸に抱かれ、夜の闇の中を馬でひたすら走っていく。時折、激しい馬の息遣いと衝撃に体が大きく揺れる。しかし、もう少女は何も恐れなかった。一年前までの、あの絶対的な信頼感と歓喜がよみがえっていた。


自分をしっかりと抱いて馬を走らせている愛しい人は、夜目でもはっきりと分かるように極度に緊張し、険しい顔で辺りをうかがいながら進んでいた。


「殿、野営の火が見えましてござりまする。この先の林にて馬より降りられませ」

先駆けをしていた従者が戻ってきて、ひどくうれしげな声で告げた。


極はふうっと一つ息を吐き、間人を抱いていた手の力を緩めた。

そして、馬を止めた愛しい従兄が、微かな星明かりの中で改めて間人を見つめた。

間人は精一杯の愛をこめて従兄を見返す。

「間人…まことにそなたなのじゃな…」

「はい…兄様…やっと…やっと会えた…」

間人は必死に涙をこらえようとした。涙で従兄の顔が見えなくなるのが嫌だった。でも涙はとめどなく皇女の小さな顔を濡らして流れ落ちていった。

「もう、決してそなたを放しはせぬ。死ぬまで一緒じゃ」

「ううぅ…う…はひ…はひ…うう…」


「ほら、泣くな…あはは…相変わらず泣き虫じゃのう」

極は再びゆっくりと馬を走らせ始める。


この夜のことは一生忘れない、と間人は思った。ひんやりとした夜風、美しい夜空の星々、そして温かい従兄の胸、匂い…。


「さあ、ここからは歩いてゆくぞ」

小さな林の中で馬は止まり、夢心地の間人の耳に従兄の声が聞こえてきた。


間人を馬から下ろすために、従者が駆け寄ってきた。

「皇女様、お久しうござりまする。田彦麿にござりまする」

「あっ…田彦麿の伯父様…ああ…」

ようやく従者の正体を知った間人は、また涙を溢れさせて、馬の上から両手を差し伸べる。田彦麿もうれしそうに皇女を馬から抱き下ろした。

「伯父様も一緒に東国へ?」

「ははっ。ご一緒させていただきまする」

間人は大喜びで手を叩く。


「では、わたくしは一足先に馬を連れて帰っておきまする。皇女様、また後ほど…」

田彦麿はそう言うと、二頭の馬を引いて林から出ていった。


「さて、これよりは、そなたは吉野川原の村娘にならねばならぬ。武蔵の国に着くまで、皇女であることを悟られぬようにするのじゃ。できるか?」

間人は、うっとりと従兄を見上げながらうなづいた。


「うむ…では、これを頭から被るのじゃ」

極はそう言うと、麻布で作った貫頭衣と頭巾を手渡す。


「兄様…これは脱いだ方がよろしゅうござりまするか?」

間人は自分が着ている美しい絹織りの衣を見ながら尋ねた。

「う、うむ…脱がねばならぬ」

「はい…では兄様…脱がせて下さりませ」


もう、間人の心は燃え上がっていた。どうせ、明日は朝廷の兵士に捕らえられ、兄共々白刃の露となって消えるかもしれないのだ。せめて今夜だけは、夜が明けるまで身も心も従兄と一つになりたかった。


「これ…わしを困らせるでない」

極ももちろんすぐにでも間人と契りたかった。しかし、間人と違って、彼は決して朝廷の兵士に捕まるつもりも、殺されるつもりもなかったのだ。だから、間人を愛する時間はこれからいくらでもあると考えていた。


従兄の拒絶の言葉に、間人は自分への恥ずかしさに消え入りたい気持ちになった。

少女は、愛しい人に背を向けると、そそくさと着替えを始める。


「間人…」

「……」

ふいに従兄の手が、背後から間人の細い体を抱き締めた。

「兄様…」

「間人…わしは今すぐにでも、そなたを抱きたい…いや、食い尽くしたい。愛しうて、愛しうて…永遠にわしの体の中に閉じこめてしまいたいほどじゃ…。いや、何も言わずともよい。そなたの思いはわかっておる。ずっと前からわかっておった。わしが意気地がなかったばかりに、辛い思いをさせてしもうた…」

もう、途中から間人は声を上げて泣き始め、極の手に温かい涙がぽとぽとと落ちて濡らしていた。


「じゃが、これからは、もう決して辛い思いはさせぬ。死ぬまで決して離れはせぬ」

「あああ…はい…はひ…うう…う…」

しばらくの間、極は優しく従妹を抱きしめていた。そして、間人が落ち着くのを待って言った。

「さあ、行くぞ。われらにとって新しい旅立ちじゃ」

「はい」


星が降るように煌めく夜空の下を、極と間人は手をつないで歩いてゆく。時折吹き抜ける夜風はまだ冷たかったが、二人の心は温かく、幸福に満たされていた。

間人はこのまま夜が永遠に続いてくれればと思う。愛しい従兄と二人だけで、いつまでもこうしていられれば、他には何も望まなかった。


「寒くはないか?」

「はい…足が少し…」

慣れない衣を着て、腕や足の素肌を夜風にさらしている間人を哀れに思い、極はしばらく思案してから言った。

「営所の近くまでわしが背負うてゆく」

「い、いえ、そのような…わたくしなら大丈夫でござりまする…」

「いや、なるべく早う着かねばならぬ。怪しまれてはならぬのじゃ」


そう言われては、間人には返す言葉がなかった。確かに自分を連れていては足手まといに違いない。

しかし、従兄が決して本気でそう思っているのではないことを、彼女は知っていた。従兄は自分のことが可愛くてしかたがないのだ。そう、初めて会ったあの日からずっと……。


間人の衣服をたたんだものを尻当てにし、帯でしっかりと従兄の背に縛り付けられる。

間人は従兄に申し訳ないと思いながらも、幸福にうっとりとなる。従兄の体の温もりが、じかに伝わって小さな体を優しく包み込む。


「兄様…」

「う、うむ…」

「こうしていると、橿原でマツ虫とりをした頃に戻ったようでござりまする…」

「ああ、そうじゃな…」

まだ、実際に虫の声は聞こえなかったが、草原を渡る風は懐かしい匂いがした。二人はお互いが、この世に二人といないいとおしい存在であることを、今改めて確認し合っていた。

春の夜空の星々は若い二人を優しく見守るように、きらきらと美しく瞬いていた。


「おお、やっとおいでになられた」

野営地から離れた丘の麓で、極と間人の到着を待っていた田彦麿は、ほっとしたようにつぶやいて駆け出した。彼の後ろから、佐伯広麻呂もゆっくりと近づいていった。


「殿、皇女様ご無事で…。遅きゆえ、心配しましたぞ」

「ああ、すまぬ。少々道に迷うてのう」

極は背負っていた間人を地面に下ろした。皇女は何やらひどくはにかみながら、極の背に隠れるようにして立っていた。


「皇女様、お久しぶりにござりまする」

「まあ、広麻呂、そなたも……」

間人はうれしげな声を上げて、前に出てきた。広麻呂とは、ものごころついた頃からの旧知の間柄である。


「広麻呂は今回、一軍を率いる大将として参ったのじゃ」

極の言葉に、間人はますます頼もしげに大きくうなづく。


「皇女様にはしばらくの間、部民の娘として暮らしていただきまする。何かと不自由をおかけいたしまするが、なにとぞご辛抱下さりますよう……」

広麻呂の言葉に、間人は微笑みながら首を振って答えた。

「いいえ、そのような心配はいりませぬ。これから何かと世話をかけまするが、よろしゅう頼みまするぞ」

「ははっ。広麻呂、身命を賭して皇女様をお守りいたしまする」


「さて、それでは参りましょうぞ」

田彦麿がそう言って、皆を促して行こうとするのを極が引き止めた。

「待て…」

極は間人の方へ顔を向けて続けた。

「間人、髪を切らねばならぬ…」


「と、殿、それはあまりに酷きことにござりまする。布で隠せば…」

「いいえ…伯父様、よいのです。兄様、切って下さりませ」

間人はきっぱりとそう言うと、道の端にきちんと正座した。そして、自らの手で美しく結い上げた髪の元結を解く。


極はおもむろに懐剣を引き抜くと、間人の背後に歩み寄ってかた膝を着いた。そして、背中の中ほどまで伸びた間人の髪を、一束ずつ手にとって切り落としていった。


やがて、部民の娘のように前髪を切り揃え横と後ろの髪をまとめて麻縄で束ねた間人がはにかみながら皆の前に立った。

「ああ……皇女様、おいたわしや…」

田彦麿は見るに忍びず、袖で涙を拭きながらつぶやいた。


「もう、伯父様ったら…ふふ…間人はもう今までのような泣き虫ではありませぬ。これからは、皆と共に働きまするぞ。田畑も耕し、洗い物をし、何でもできることはいたしまする」

極も広麻呂も皇女のけなげさに、思わず胸を詰まらせた。田彦麿はいっそう感動して泣いた。


「では、参ろうか」

極の言葉に一同はうなづいて歩きだす。


その夜から、間人は部民の中で暮らすことになった。紀古麻呂に悟られないよう、極もいっさい彼女には近づかなかった。


東征軍が都を出発して四日後、皇極帝のもとへ中大兄皇子が訪れていた。

「間人の行方は杳として知れませぬ。怪しき者の姿を見た者は、都の内にも外にも誰一人おらぬのでござりまする…」


皇子は焦りと苛立ちを隠せず、扇を折ってしまうのではないかと思えるほど力を込めて握り締めていた。

「これを考えまするに、賊は都の内に間人を隠しておるか、あるいは一夜のうちによほど遠くへ連れ去ったか、そのどちらかだと思いまする」


「うむ…」

皇極帝はため息混じりに返事をすると、立ち上がって窓の方へ歩み寄った。

「間人はいずこかで無事に生きておる。朕はそう信じておる。なれど、もはやこれ以上皇女の不在を隠し通すこしもできぬ。このうえは、一刻も早くわれらと血を分けた一族の娘を身代わりに立てねばなるまい」

「はっ…」


中大兄皇子は、母があまりにも冷静すぎると思う。いくら立場を重んじているとはいえ実の娘を奪い去られた母親の姿ではない。


その時、ふいに彼の脳裏に一つの仮説がひらめいた。それはずっと彼の心の奥に潜在していたシナリオだったが、無意識に否定し続けていたものだった。しかし今、目の母親の姿が、妙にそのシナリオと符合するように思えたのである。

「ま、まさか、間人は…極の後を追って行ったのでは…」


帝は息子の方を振り返ると、厳しい表情で言った。

「愚かなことを…。もし、そうであるなら、とおに間人は連れ戻されていようものを」


「な、なれど、極めが間人を隠しておるやもしれませぬ…」

「そなた、東征軍の者たちがすべて盲目めしいとでも言うのかえ?」

「い、いえ、それは……なれど…」

「もうよい…。間人のことを考えていると、切のうてならぬ。どこかで無事に生きておれば、会える日も来よう。今はそれを祈るばかりじゃ」


中大兄皇子はそれ以上何も言えず、その場から退出するしかなかった。だが、どうにも最悪のシナリオが頭から離れなかった。


彼は中臣鎌足を呼んで意見を求めた。するとたちどころに明快な答えが返ってきた。

「いや、まずそれはあり得ませぬ。皇女様がいなくなられたのは、東征軍が出発した次の日の夜。すでに軍は近江と三河の国境あたりまで到達していたはずでござりまする。幼い皇女様の足では、到底一晩のうちに軍に追いつけるとは思えませぬ。

また、久米大使が軍を抜け出して、皇女様を盗みだしに来ることも考えられませぬ。なぜなら、紀古麻呂と佐伯広麻呂が目を光らせておるからでござりまする。彼らの目を盗んで、軍を抜け出し、しかも皇女様を連れ戻るなど、不可能にござりまする。…もちろん、紀か佐伯のどちらかが大使に丸め込まれておるなら可能やもしれませぬが…。臣の見ますところでは、どちらもそのような陰謀に加担するような者たちとは思えませぬ」


「うむ…いや、古麻呂も広麻呂も武骨一辺倒の硬骨漢じゃ。それはあるまい」

確かに、鎌足の言うことは至極当然のことのように聞こえた。


鎌足はさらに、自分なりの推測を語って言った。

「皇女様はさほど遠くない場所にかくまわれておられるものと考えまする。おそらくは、佐伯連の館…」


「何と…佐伯の、とな…?」

「はい。佐伯は、われらと蘇我大臣一族とがいずれ戦になると考えておるのやも知れませぬ。いずれが勝つにしても、皇女様を無事に守りおけば、己れの家は安泰にござりましょう」


「ううむ…なるほどのう。されば、間人が騒がずに内裏から出ていったのも納得できる。あはは…そうであれば、間人は最も安全な所に隠れておるということじゃ」


中大兄皇子はすっかり鎌足の説に納得して、久々に安堵のため息をついた。確かに、これから蘇我打倒の兵を挙げるにしても、また、軽皇子の欲望を考えても、間人の安全のためには、養家である佐伯連の館は最も安全な隠れ家だった。


こうして、翌日から極秘の捜索は打ち切られ、間人皇女の失踪という前代未聞の大事件は、ごく一部の者しか知らないうちに闇の中へ葬り去られた。

その後数日を経ずして、一人の幼い少女が極秘裏に宮中に連れてこられた。少女は息

おきなが氏の娘で、皇族の血をひいていた。以後、彼女は間人皇女として暮らし、やがて帝となった軽皇子の皇后となるのである。



 16 新将軍と春の風



さて、東征軍は順調に旅を続け、予定通り十二日後には武蔵の国府に到着した。途中、誰もが心配した兵糧の調達も、まったく杞憂に終わった。三河の国に入るやいなや、行く先々の道の脇に村人が出迎え、わずかずつだが食料を供給してくれた。それが武蔵国まで途絶える事無く続いたのであった。


荷車に積み込まれる兵糧を見ながら、紀古麻呂は何度も考え込んだ。どうにも訳が分からなかったのだ。なぜ、これほど多くの兵糧が容易に集まるのか。


彼は考える。

『おそらくは、蘇我大臣から各地の豪族たちへ、兵糧を差し出すように文が出されていたに違いあるまい。ということは、久米大使と蘇我とは通じ合っていると考えてよい』


中大兄皇子から極の監視を命じられていた古麻呂にしてみれば、皇子への良い手土産ができたとほくそ笑んだのだった。


しかし、極にとってはすべて予定通りの経過だった。というのは、すでに四月の半ば過ぎに春通から文が届き、そこには各地の豪族や首長から兵糧供給への協力の申し出が殺到していると書かれていたからだ。ただし、集まった兵糧は、極の予想をも大きく上回っていたのも事実だった。


『東国は思うたよりも豊かな土地なのかもしれぬ……』

極の期待はさらに高まった。


武蔵の国府は、国造笠原直使手の館の中にあった。

国府と言っても、都から派遣された下役人の住居兼事務所であった。ここに東征軍の本陣が置かれることになった。


極と妻たちの住居は、かつて大伴金村が東征のおりしばらく滞在したもので、今は笠原氏の祖先を祀る場所になっていた。高床式寄棟造りの大きな建物である。


きれいに掃除され、片付けられた館に入った紗月、綾、加波と紗月の乳母成女は、これから当分の間住まいとなる館の中を見て回った。

「暗くてええなあ…ここを寝所にしよ」

「まあ、ここは護衛の衛士の控え部屋ではありませぬか」

「えっ、そうなんけ…?でも、ここやったら外から見えへんし、声も漏れへんから、ええと思たんやけどなあ」

「まあ、うふふ…綾ったら、考えることはそのことばかりね」

女たちの楽しげな笑い声が、殺風景な館に華やぎを与えるように響き渡る。


本殿と内廊でつながった奥殿が、女たちの部屋兼寝室ということになった。

「皇女様の御座所を作らねば…」

紗月はつぶやいて、仲間たちと目を見交わし、悲しげなため息をつく。


極から、皇女が無事に宮中から脱出し、吉野川原の部民たちの中にかくまわれているということは聞いていたが、それ以外のことは一切極は話さなかった。ただ、時が来るまで決して皇女のことは口にしてはならない、会いに行ってもならないと命じていたのだ。

「皇子様、どうなさるおつもりなんやろ…」

綾の問いに、答えられる者は誰もいなかった。


「殿にすべてお任せするしかありませぬ。われらはいつでも皇女様をお迎えできるよう、準備をしておけばよいのです」

紗月の言葉に、一同はしっかりとうなづいた。


その日の夕暮れ、大広間で部民の女たちと一緒に夕食の膳を調えていた妻たちのもとへ極が二人の男を伴って帰ってきた。


「おお、奥方様、お久しゅうござりまする」

「まあ、春通様、丙助殿も…ああ、よかったお元気そうで…」

妻たちは一斉に二人の男のもとへ駆け寄り互いの無事を喜び合う。

春通も丙助も日焼けして少し痩せていたが元気で、以前よりたくましく見えた。


「おお、綾、また背が伸びたかのう。すっかり色が白うなって…見違えたぞ」

「まあ、相変わらず口悪いなあ、親分は」

楽しげな笑い声が広間に響き渡る。


一同はにぎやかに語らいながら、新天地での最初の夕食の席に着く。膳には海山の幸が所狭しと並び、東国の豊かさがしのばれた。

「久しぶりに家族が皆揃うた。今後も皆にはいろいろと難儀をかけるが、よろしゅう頼むぞ」


極の言葉に、一同は姿勢を正して一斉に頭を下げる。

「では、いただきまする」

「いただきまする」


静かに夕食が始まった。誰もがにこやかで満ち足りた表情だった。ただ一人、綾が何か言いたげな顔で、極をちらちらと見つめていた。

極はそれに気づいて、微笑みながら傍らの少女に尋ねた。

「何じゃ、綾。言いたきことがあれば、遠慮はいらぬぞ」

「う、うん…」

綾は頬を染めてあいまいな返事をすると、紗月や加波の方に目を向けた。二人は口には出さなかったが、非難するような目で綾を見ていた。

「ううん…なんでもあらへん…」

目を伏せて小さく首を振る綾に、極はため息をついて他の一同を見回した。気まずい空気が流れ、誰もが下を向いて箸をとめた。


「分かっておる。間人のことであろう?」

極の言葉に、皆一斉に顔を上げ、真剣な表情で極に注目した。

「明日、皆には紹介しようと思うておる。心配せずに待っていてくれぬか」


その言葉を聞いて、誰もがやっと晴れ晴れとした顔で微笑み合った。

「はいっ。いらぬお気を使わせて申し訳ありませぬ」

「うむ…いや、何も話さなかったわしが悪いのじゃ。ただ、よくよく外部の者に悟られぬようにしなければならぬのでな…」

皆真剣な顔でしっかりとうなづく。


「さあさ、では冷えぬうちにいただきましょうぞ」

紗月の言葉に、一同があらためて食べ始めようとした時、この館の主笠原使手と正室、二人の息子たち、使手の弟が挨拶に現われた。


「お食事のところへおじゃまして、誠に申し訳ござりませぬ。遅ればせながら、皆様方にご挨拶ばかりをと…あ、いやいや、どうか、そのまま、そのまま…」

使手はそう言うと、広間の入り口のところに家族ともども正座して頭を下げた。

「それがし、武蔵国造をおおせつかりおりまする笠原直物部使手にござりまする。これに控えまするは、わが妻衣児媛いこひめ、弟の真木使まきし、息子の使守つかもり阿鹿使あかしにござりまする。以後、お見知りおき下さりますよう」


「これは使手殿、丁重なる挨拶痛みいりまする。せっかくの折じゃ、われらと共に食事をして下さらぬか。いろいろと話を聞きたきこともござれば…」

「あ、いや、それは恐れ多きことにて…」


とまどう使手とその家族を尻目に、紗月が率先して膳を持って移動し、他の者たちもそれにならって順次移動した。

一方では成女が厨所くりやどころの部民の女たちのもとへ、五人分の膳を持ってくるよう言いに行く。


「さあさ、方々どうぞこちらへ。」

「は、はあ…では…」

使手とその家族たちは、極の近くの向かい合わせの席に、いかにも申し訳なさそうに前かがみで歩いていった。

「せっかくじゃ、紗月、加波、皆に酒をついでくれ。綾はわしにの…」


極と春通、丙助の膳には小さな酒壷と土器の杯が置いてあったが女たちにはなかったので、紗月と加波はもう一度厨所へ行き、杯と大きな酒壷を抱えて戻ってきた。


「さあ、では方々、新しい土地での皆の健康と幸いを祈って杯を上げようぞ」

全員に酒が回ったところで、極が音頭をとり、一同は一斉に杯を上げた。紗月、綾、加波も恐る恐る初めての酒を口にした。


「なんや、甘くておいしいなぁ。ふふ…」

「ああ、こらっ、綾、そないいっぺんに飲んだら…」

にぎやかな声が絶え間なく響き、誰もがにこやかだった。美しい夕日が差し込む広間を心地よい春風が流れていく。


翌日、極は二人の将軍と春通、半数の兵士を伴って、下総の国造笠原直狭津彦の館に向かった。

下総は毛野と国境を接する、言わば前線基地だった。しかし、春通の調査によると、どうも国造笠原狭津彦は頼りにならない男のようであった。


頑丈な柵に囲まれた高床式の壮大な館が見えてきた。ところが、大きな門の前には出迎えの者の姿はなく、荷車を牽いた農夫たちがしきりに出入りしている。


この日訪れることは、紀古麻呂が配下の者を使って知らせてあった。

「何をしておるのじゃ。誰ぞ、われらが来たことを告げてこい」

古麻呂は怒りに青ざめながら、兵士を門の中へ向かわせた。


「あれは、麦じゃな?」

「はい。ちょうど収納の日にあたったようでござりまするな」

極は馬上から、道の脇を恐る恐る通っていく農夫たちを眺めながら、春通と言葉を交わした。


「来る途中気づいたのじゃが、この辺りにはほとんど田はないようじゃな?」

「はい。水の便が悪うござりますれば、粟やひえを主に作っておりまする。近年、麦が増えておるとのことでござりまする」

「なるほど…水のう…」

極がつぶやいて考え込んだとき、兵士に連れられて一人の壮年の男が門から現われた。


「遠路はるばるようこそおいでくださりました。それがし笠原の家人にて磯部首式仁いそべのおびとしきひとにござりまする」

極以下の者たちは、当然主人である笠原狭津彦が現われるものと思っていたので、肩透かしを喰ったような思いを抱いた。


「征東夷大使久米極と申す。こたびは世話をかける」

「ははっ。さぞやお疲れでござりましょう。ささ、どうぞ中へ」

「しばし、待てい」

紀古麻呂が怒気を含んた声で磯部を呼び止めた。

主人あるじはどうした?」


磯部は困ったような顔で頭を下げ、歯切れの悪い口調で答えた。

「はっ…あ、主人はちょうど手を放せぬ所用がござりまして…」

「われら大王の軍を迎ゆるよりも大切な用とは、いったい何じゃ?」

「あ、いや、それは…」

「ええい、らちが開かぬわ。どけっ」

古麻呂は叫ぶが早いか馬に鞭を当てて、館の中に入っていく。


磯部があわてて後を追いかけようとするところを、極が引き止めた。

「磯部殿」

「あ…は、はっ」

「兵たちと馬を休めたいのじゃが…」

「あ、はい、右手に裏庭と厩がござりますれば…」

「うむ。では、春通、そなたは兵たちを連れて休ませてくれぬか。わしの馬も頼む」

「ははっ、承知つかまつりました」


極は馬を降りて春通に手綱を渡すと、今度は広麻呂を呼んだ。

「広麻呂、すまぬが紀殿を追いかけてくれ。ちと心配なのでな」

「はっ、おまかせあれ」

広麻呂はさっと身をひるがえすと、馬を飛ばして門の中に消えていく。


広麻呂の背中を見送った後、極は門の内へ入って、中庭で行なわれている倉入れの作業を何気なく眺めていた。


農夫たちに指示しているのは笠原の部民であろう、三十前後の精悍な顔の男だった。その後ろであくびをしながら、木札に記帳しているのは朝廷から派遣された下役人に違いなかった。


とその時、小さな出来事が極の目に入ってきた。

数人の農夫が役人の前にひざまづいて、何やら必死に訴え始めたのである。役人は相変わらず眠たそうな顔で、農夫たちの方に目も向けないまま訴えを聞いていたが、やがて、まるで蝿でも追い払うように手を動かした。それが合図だったように、家人の男がまだ必死に訴えている男たちを馬用の鞭で叩き始めたのだった。


極は決然として、その現場へ向かって歩きだした。

兵馬を中庭へ連れて行って戻ってきた春通は、遠くから極の姿を見つけて走ってくる。


「ひいい…か、堪忍してくだせえぇ…」

哀れな農夫たちは地べたに這いつくばって牛馬のように体中を鞭で叩かれていた。


極はすたすたと、鞭をふるっている男に近づいていく。

男もそれに気づいて、振り上げた手を止め、ぎろりとした目を極に向けた。

「いかなる理由か知らぬが、人を鞭で叩くなど許しがたい所業。見逃すことできぬ」

男は無言のまま手を下ろすと、責任を逃れるように、自分に命じた役人の方へ目を向けた。


「あ、いや、これはこれは…お初にお目にかかりまする。それがし、大王の命をうけて御料物の監視をおおせつかりました巨勢臣…」

「知っておる。巨勢臣吉麻呂…。わしが来ておるのを承知の上で、出迎えにも参らなんだのか?」


巨勢吉麻呂は、極が自分の方を見ていないのを確かめると、薄ら笑いを浮かべながら、いかにも反省した様子で、やおら地面にひざまづいた。

「ははぁ。これはご無礼をいたしました。なにしろ、国の広さに比べ、役人の数の少なきゆえ、日々多忙を極めておりますれば…」


「そうか。ならば、今日よりそなたは仕事をせずともよい。都へ帰れ」

「は…?」

吉麻呂は唖然として、口をぽかんと開いていた。

「そなたを解任すると言うておるのじゃ」

「あ…おほほほ…これはまたおもしろき戯言ざれごとを…」


極はようやく彼の方へ目を向けた。

「戯言などではないわ」


吉麻呂の顔つきが変わり、怒りを必死に抑えながら陰険な目で極を見上げた。

「これは異なことを…。かりにもそれがしは大王の命によってお役目を果たしおる者。大使殿は、よもや大王の命をないがしろになさるおつもりではありますまいな?」


いつしか周囲には、遠巻きに固唾を飲んで見守る人の輪ができていた。その中には、紀古麻呂と佐伯広麻呂、そして彼らの忠告に応じて極に詫びを入れようと足を運んだ笠原狭津彦と、一人の浅黒い肌でたくましい体の男がいた。


「そう思うか?わしが、大王をないがしろにしておると…」

「いかにも。何のとがもなきそれがしを解任するとなれば、それがしが拝命たてまつった大王に背くことでござろう」


極はふいに口元に笑みを浮かべて、楽しげに言った。

「よし、そう思うなら都へ帰り、思うさまわしを訴えるがよい。すぐにここを立ち去れ。もし明日、わしの前にその顔を見せたるときは、即刻首をはねるゆえ、覚悟せい」


吉麻呂は今にも怒りのために失神しそうなほどだった。しかし、もうこれ以上彼にはあらがう手段は無かった。彼は最後に、極に恨みを込めた一瞥を投げると、憤懣ふんまんやるかたない様子で去っていった。


周囲の人々はまだ唖然とした顔で、この若い将軍の大胆さにとまどいを隠せなかった。

「その方、名を何という」

極は傍らで茫然と立っている男に目を向けて尋ねた。


男はびくっとして、さっきまでとは打って変わった態度でかしこまった。たぶん、今度は自分の首が飛ぶと思い込んだに違いない。

「ははっ。それがし、磯部首の家人にて名を石丸と申しまする」

「うむ…石丸、その鞭を渡せ」

「は…はっ…」

石丸はおびえた顔で震えながら鞭を差し出した。

極はそれを手に取ると、うむと力を込めて二つに折ってしまった。

「よいか、今後民を鞭打つことあらば、そなたにもわしが自ら鞭打ってくれる…。二度とするでないぞ」

「へっ、へへえぇ…」

石丸は地面に這いつくばって、頭を土にこすりつける。


「春通、春通はおるか?」

「はっ、ここに…。」

周囲の人垣を押しのけて、春通が誇らしげに極の前に駆け寄ってくる。

「残りの麦の倉入れと記帳、そちが指図してくれぬか?」

「ははっ。おまかせあれ。」

「うむ…石丸、そちはこの春通の手助けをいたせ」

「はっ、ははぁ。ありがたき幸せ…」


極はうなづくと、平然とした様子でゆっくりと館の方へ歩きだした。

周囲の人々は、ようやく息をついたようにざわめき合いながら四方に散っていった。


「殿、お待ちを。」

極の背後から広麻呂が追ってきて声をかけた。極が立ち止まると、彼はそばへやってきてかしこまりながら小声で言った。

「笠原が殿に無礼のお詫びをと…。それと彼の後ろにおるのは、毛野の家人、馬津目丙地と申す者にござりまする」


極はちらりと、向こうからやってくる男たちを見てからうなづいた。

「そうか。ご苦労であった」

広麻呂は頭を下げると、極の脇に控えた。紀古麻呂を先頭に、笠原狭津彦と馬津目丙地が後ろから並んで歩いてきたが、丙地は途中で、すでに顔見知りになっていた春通と言葉を交わし始めた。


古麻呂は極の前まで来ると、さも誇らしげに胸を張って言った。

あずまの田舎人に都のしきたりを教えてやるのも、われらの大切な務めでござる」


古麻呂の後ろで、狭津彦が小馬鹿にしたような笑みを浮かべるのを、極は見逃さなかった。

彼はしおしおと極の前に進み出ると、腰を曲げて頭を下げながら言った。

「東の田舎人ゆえ、とんだそそうをいたしました。どうか平にお許し下さりませ」


「いや、わしは何とも思っておらぬ。されど紀殿の申されることはもっともじゃ。あのような非道のやり方で民を苦しめるのが東人あずまびとのやり方ならば、早々に正さねばならぬ」

極の言葉に、狭津彦はやや驚いたように、上目使いに極をちらりと見た。


「やっ、これは手厳しいお言葉、恐れ入りましてござりまする。されど、あれくらい厳しくせねば、都への御料物なかなか集まらぬのでござりまする。されば、民はうそをつきまする。また、ごまかしまする。それを見逃してはわれらの食う物さえなくなりまする」

「民は、苦しきゆえにうそをつく…自分たちの食うものさえ奪われるゆえにごまかすのじゃ…。食い物が欲しければ、民と同様に田を作り、畑を耕せばよい」


狭津彦もこれには返す言葉もなく、まるで極を狂人でも見るかのように呆れ果てて見つめるばかりだった。


「うははは…なるほど変わった大将軍じゃわい」

突然、豪放な笑い声が上がり、狭津彦を押しのけるようにしてたくましい壮年の男が現われた。

「お初にお目にかかる。わしは、あなた様にとっては憎き仇の、毛野の宿将馬津目丙地と申す者にござる」


極はじっと男の目を見つめてから、ふっと柔らかな表情になって頭を下げた。

「久米極でござる。この度はなにかと世話をかけ申す」

「ん…世話とは、また異なことを…。ふふ… いくさとはっきりおおせられてはいかがか?」


「あはは…いや、戦はせぬつもりじゃ。せずとも国は変えられる」

馬津目は心底呆れたように、小首をかしげながら低くうなった。

「むうう…分からぬ…わしにはまったく分からぬわい。つまりじゃ、戦になれば勝ち目はないゆえ、都に帰る日までわれらにおとなしくしておれ、ということか?」


「あはは…うむ、そう思うてくれてもよい。のう、馬津目殿、帰られたらば主人に伝えて下され」


極はそう言うと、笑みを消して鋭い目で馬津目を見つめながら続けた。

「心ならずも戦になりたるときは、われらも最後の一兵まで戦う覚悟じゃ。が、その前に戦をせねばならぬかどうか、わしの話を聞いて欲しい、とな。はかりごととお疑いならばわしの方から出向いてゆこう。いつでも呼んで下され、と、そうお伝え下され」


馬津目はじっと話を聞いていたが、何やら楽しげににやりと笑ってうなづいた。

「あい分かりもうした。必ずや伝えるでござろう。ふふ…それにしても…」

彼は笑いながら口の周りの髭を撫でた。

「変わったお方じゃ。さきほどの役人の件にしても…それに笠原に言われたことにしてもこれまでの将軍どもには考えられぬことよ。よく分からぬが…うむ…何というか…」


考え込み始めた大男を尻目に、極は再び館の方へ向かって歩き始めていた。

「あはは…では馬津目殿、また近々お目にかかろうぞ」

そう言って去っていく若い将軍の姿を見送りながら、馬津目はいかにも楽しげに目を細めた。


彼の横にいた笠原は、逆に憎々しげに極の背中をにらみつけながらぽつりとつぶやいた。

「ふん…わしに田畑を耕せじゃと…若造が…よくも言うたものよ…ひいっ!」

その時、ふいに笠原は首の後ろをぐいとつかまれて悲鳴を上げた。


「おい、狭津彦…」

馬津目が、笠原の細い首をへし折らんばかりにねじって自分の方へ向けながら、恐ろしげな表情で顔を近づけた。

「ぬしは、まっこと田畑を耕せ」

「ひい…な、なにを…」

「今後、わしの前でかの将軍の悪口を言うでないぞ。よいか、ん…?」

笠原は怯え切った顔で必死にうなづく。


馬津目は笠原を傍らに放り出すと、極の去った方を見やりながらつぶやくのだった。

「あれは…まっこと東国の救い主なのかもしれぬて…」


その日の夕暮近く、極たちは武蔵の国府に帰ってきた。心配して帰りを待ちわびていた妻たちが迎えに出てくると、すでに極の姿はなかった。

「春通様、お帰りなさりませ」

「おお、これは奥方様。ただいま帰りましてござりまする」

「殿はいずれに…」

「はて…使手殿と館の方へ行かれましたが…すぐにお戻りになると思いまする」

「そうですか。では、夕食の支度をして待つことにいたしましょう。春通様もお早くおいでなされませ」

「ははっ。馬どもにまぐさを食わせたらすぐに参りまする」


紗月たちはそのまま厨所に行き、部民の女たちに混じって夕食の膳を調えていった。それは別に極に言われたわけではなく、ごく自然に彼女たちが始めたことだった。極を愛し、彼と暮らすうちに、少女たちはいつしか身分やしきたりにとらわれない考え方をすっかり身につけていたのである。


大広間に人々が集まり、夕食の膳が次々に並べられていく。なごやかな話し声と笑い声が、夕日の差し込む部屋を満たしていた。


「待たせてすまなんだのう」

いつもより弾んだ主人の声が聞こえ、一同は話を止めて一斉に頭を下げる。

「皆に紹介したい者がおる」


極の言葉に、一同は期待に満ちた顔を上げて一斉に入り口の方に注目する。紗月はもうこらえきれずに涙を流し始めていた。


初めに入ってきたのは笠原使手だった。そして、その後から使手の妻に手を引かれ、美しい衣に身を包んだ幼い少女が、はにかむようにうつむきながら現われた。

「笠原の姫で多摩媛たまひめじゃ。このたびわしの正室として共に暮らすことになった。皆の者、よろしゅう頼むぞ」


一同は晴れやかな顔で一斉に頭を下げる。

誰もが涙をけんめいにこらえていた。だが、とうとう紗月が、丙助が、綾が、こらえきれずに声を洩らして泣きだした。

「多摩にござりまする。どうか…ううっ……ど…うか…よろしゅう…うう…う……」


笠原の娘に身をやつして、ついに皇女間人は正式に極と結ばれた。

そこに集まった者たちにとって、この上もなく幸福な、この上もなく温かで心地よい五月の夕暮れであった。



17 新将軍と毛野の宿将たち



「うははは…おもしれえのう…。狭津彦の顔を見たかったわ。ふむ……そいで、いかほどの兵が来ておるんじゃ?」

「狭津彦の話によると八百ほどじゃそうな。紀古麻呂と佐伯広麻呂という二人の大将が率いておる…」


上毛野、赤城山麓の西に壮大な山城を構える賀谷利一族は、毛野の家人の中でも武闘派の筆頭だった。現在の当主は黒丸、上毛野を支配する毛野別日垂子王けののわけひのたらしこのきみが、賀谷利の伊奈津媛に生ませた子だった。


馬津目丙地から笠原の館での出来事を聞いた黒丸は、大いに興味をそそられて酒をあおっていた。

「王に会わする前に、われらが先ず話を聞こうでよ。佐代野さよのこまも呼ぶべや」

「うむ…」

「なんでぇ、浮かねえ顔して…」

「いや…考えておるのよ。かの大将軍が言うたのじゃ。戦はせずとも国は変えられると

な…。どういうことかのう?」

「さあ、わからねえな…。馬津目の、おめえずいぶんと今度の将軍に入れ込んどるんでねえか?」

馬津目はあえて否定もせず、黙々と酒をあおるのだった。


それから二日後、賀谷利の館には上毛野、下毛野の主立った領主たちが集まった。いずれも毛野の宿将として、朝廷の軍と戦った経験を持つ者たちだった。


この猛者たちの中へ、新任の朝廷軍の指揮官が単身訪れるという。

「どうせ、兵を百人ぐらい連れてくるに決まっておるわ。われらを一度に捕らえる罠かもしれんでな」


賀谷利の城は、領主たちが引き連れてきた兵士たちで溢れんばかりだった。中にはこの機に新将軍を殺して、朝廷の野望を打ち砕いてやろうと息巻いている荒くれ者たちも多くいた。


「おっ、来たでよ。親方へ知らせてこい」

見張り台の男の声に、荒くれ男たちは一斉に立ち上がった。


「軍はいかほどじゃ?」

その問いに、見張りの男は目をこらして遠くをにらんでいたが、やがて不思議そうに首をかしげながら叫んだ。

「軍は見当たらねえでよ。供が二人、いや三人……それだけじゃ」


「そげなことがあるか。よく見んかい」

「いや、まことじゃ。一兵たりとも見当りゃせんわ」


男たちは不審な顔で、ぞろぞろと城門の外へ出ていった。高台にある城からは遥か彼方の地平線まで見渡すことができた。

城へ登るくねくねとした坂道を、確かに三頭の馬と四人の人物がゆっくりと登ってくる。しかし、その背後や周囲のどこにも兵士の姿はなかった。


「わあ、大きな城やなあ…。だいじょうぶやろか…?」

「ん、何がじゃ?」


極に抱かれて馬に揺られながら、綾は不安げにつぶやいた。

「だって、蝦夷の城どすやろ…捕まったりせえへんかな?」

「うむ…そうなるやもしれぬ」

「そんな…あたい、嫌や、なにされるかわからんえ…」


極は笑いながら、綾の髪に優しく唇を押し当てる。そして、そっと耳元でささやいた。

「わしは、そなたと共に死ねるのなら本望じゃ。何も悔いはないぞ」

とたんに、綾の顔はとろけて赤くなり、目は生き生きと輝き始める。

「うん。ふふ…あたいもえ。このまま死ねるんやったら何もいらん…」


「うおっほん……これこれ、独り者を目の前にして、さようにのろけられては困る。のう、広麻呂殿?」

「あはは…はい、さようで」


春通と広麻呂に冷やかされて、綾は真っ赤になって極の胸に顔を埋め、極も照れて赤くなりながら、伸ばし始めた口髭をしきりに触るのだった。


やがて四人は、たくましい東夷の男たちが居並ぶ中を山城の巨大な門を通り、幾重にも重なった柵の向こうに見える大きな館の方へゆっくりと進んでいった。

綾は周囲の恐ろしげな男たちの視線を浴びて、今にも泣きそうな顔になっていた。


男たちは極たちをじっと見つめながら、無言でぞろぞろと後についていく。何か不審な素振りでも見せようものなら、一気に襲いかかってなぶり殺しにしてやるといった、激しい殺気が感じられた。耐えられないほどの緊張感が、四人を包んでいた。


ようやく館の前まで来ると、極は馬を止めて、一つ大きく息を吸い込んだ。

「征東夷大使久米極、東の大人おとなたちに申したきことがあってまかりこした」

極の声はぴんと張り詰めた空気を引き裂くように、城内に響き渡った。


「おうっ」

館の中からそれに応えるように、野太い声が聞こえてきた。

やがて館の内から賀谷利黒丸を先頭に、毛野の宿将たちが現われた。そのとたん、極たちの周囲を埋め尽くした東国の兵士たちが、矛や槍を空に向かって差し上げて「おうっ」というどよめきにも似たときの声を上げた。いつまでも静まらないざわめきに、黒丸は片手を上げた。


「静まれい」

その声に辺りはしーんと静まり返った。

「わしはこの館の主、賀谷利黒丸でござる。まずは中へ入られい」


極は綾とともに馬から降りた。

黒丸は手下に合図して極たちの馬を牽かせていく。

「剣は預からせていただこう」

極は予想していたように、脇差を抜いて賀谷利の家人に渡した。春通、広麻呂も極にならい、綾もしぶしぶと太刀の下げ紐を解いて家人の男に差し出す。


「ほお…なかなか見事な太刀じゃ。ふむ…いや…これは…」

黒丸は何気なく家人が持ってきた太刀を眺めていたが、綾の太刀に目を留めてうなり声を上げた。それは極が綾のために、飛鳥戸あすかどの刀鍛冶西吉磨世(かわちのきませ、後の相模の長年)に特別注文で造らせたものだった。


青く輝く刀身に見惚れていた黒丸は、改めて幼い少女に目を向けた。

「わっぱ、ぬしは一体…」


「わしの護衛の衛士じゃ」

極の返事に黒丸は思わず吹き出しそうになり、周囲の男たちも一斉に笑い声を上げた。


綾はかーっと赤くなり、黒丸と周囲の男たちをにらみつける。

「わはは…なかなかよき面構えじゃ。しっかと大使殿をお守りいたせ」

黒丸はそう言うと、まだ高笑いをしながら館の中へ去っていった。極たちもその後に続く。


「ようがまんしたな。それでよい」

極のささやきに、綾は目にいっぱい悔し涙をためたまま唇を震わせる。しかし、極の優しい眼差しに、ようやくふうっと息を吐いて弱々しく微笑むのだった。


広間には上座に向かって右側に毛野の宿将たちがずらりと並んで待っていた。普通なら下座に座るのが当然だが、これも彼らの極に対する試しなのであった。


広麻呂はむっとした表情で広間を見回し、極に上座に座るように促した。しかし、極は平然と宿将たちの向かい側に腰を下ろしたのだった。広麻呂と春通も仕方なく極の下手に並んで座った。綾は極の護衛のために、彼の背後に座った。


「初めてお目にかかる。久米極にござる」

極は微かな笑みを浮かべながら、軽く頭を下げて言った。


「わしはさきほど申した通り、賀谷利黒丸でござる。さらにこちらより、馬津目丙地、佐代野御主さよのみぬし駒真人こまのまひと駒斎こまのいつき大胡仁来おおごにらい木野出丸きのいずまるにござる」


男たちは一人一人じっと極を見つめながら軽く頭を下げていった。

「この他にも、まだ大小八十余りの将たちがおりまするが、今日はわれらが代表して大使殿のお話をうかがいまする」


「なるほど……こうして見ると、これまで大和の兵が東国を服従させられなかったことも納得できまする。まことに頼もしきかぎりじゃ」


男たちは互いの顔を見合わせて、満足気な笑みを浮かべる。

「当然じゃ。都の腰抜けどもに負くるわけがねえ。のう、皆」

駒真人の声に同意の声と笑い声が上がる。


「静かにせい」

一人、不可解な表情だった馬津目丙地が、下座の男たちをたしなめてから、極に目を向けた。

「大使殿、そなたは何をしに東国へ参られたのじゃ?」


「わはは……馬津目の、ぬしは何を言うておるのじゃ。戦に決まっておろうが…」

「ええい、黙れ」

「なんじゃと、ぬしはいつから…」


「こら、やめんかい」

賀谷利の声に、男たちは仕方なく矛を収めて座り直す。


極はにこやかな顔で、馬津目の方に体を向けてから言った。

「馬津目殿、そなたには先日少し話をいたしたが、わしははなから戦を考えて参ったのではない。東国の民を救いたくて来たのじゃ。そのために、そなたたちの力を貸してもらいたい…」

極の言葉に、馬津目以外の男たちは一斉に笑い声を上げた。


「うはは……なんとも困ったのう。われらは民を苦しむる大罪人じゃとおおせじゃ」

「われらが大罪人なら、都の偉い方々は大悪人でござるな。わはは……」

騒然となった場を、春通と綾は悔しげに歯噛みしながら見回していた。また、広麻呂はじっと目を閉じて座っていた。


極はおもむろに立ち上がると、まだ笑い続けている男たちの前にいって座った。

「方々にお尋ねいたす」

笑っていた男たちは、すっかり見下したような態度で薄笑いを浮かべながら極の方へ目を向けた。

「強き国とはいかなる国でござるや?」

「ん…強き国?…ふっ、それはこの毛野のごとき国じゃろうて、のう皆」

「ふむ、では、この国のどこが強うござるのか?」

「そ、それは…」


「それは…」

賀谷利が駒の後を引き継いで、強い口調で答えた。

「まず、強き兵じゃ。われらはどこの軍と戦おうとも決して負けぬ。それと、われら団結の強さじゃ。皆、この国のために命を捨てる覚悟でおる。それが何より、この毛野の強さでござる」

男たちは、口々にそうだと言ってうなづき合う。ただ一人、さきほどから難しい顔で黙り込んでいるのは馬津目丙地であった。


「なるほど。確かに戦に強きことも国の強さの一つでござろう。されど、ここにおられる方々だけで、幾千もの敵と戦うわけではあるまい。多くの兵たちは普段は田畑を耕す農夫であろう。彼らが腹をすかしていたり、戦を嫌がっていたれば、勝てる戦にも負けるのではござりませぬか?」


「さようなことはござらぬ。わが国の兵は、日頃より鍛練に鍛練を重ねたる強者ぞろい。三日やそこらは飲まず食わずとも戦えまする。戦を嫌がるような臆病者は、都ならいざ知らず、この毛野にはおりませぬわい」

「そうじゃ。大和の軍など、いつでも蹴散らして追い返してくれるわ」

毛野の将軍たちは、いよいよ息巻いてわめき始めた。


極はいよいよ楽しげに微笑みを浮かべながら、彼らを見回していた。その態度が気に食わないといった顔で、駒真人が極に向かって言った。

「もはや、話をすることもあるまい。兵を連れて早々に都へ帰られてはいかがか?」

男たちはどっと笑い声を上げた。


しかし、極は相変わらずにこにこしながら、駒に向かって言った。

「あはは…いやいや、話を聞いてますます東国が気に入りもうした。じゃがのう…この国の先行きにいささか心配なこともござる…」


笑っていた男たちは、けげんな顔で極に注目した。

「何が心配と申される?」

「うむ…わしは軍勢を使うてこの毛野を滅ぼそうとは思うておらぬ。なれど、もしその気になったれば、二月もかからずこの国を滅ぼすことができる」


「な、なんじゃと…」

男たちはすわと殺気立った。何人かは、今にも剣を抜いて、極に襲いかかる構えを見せた。

賀谷利と馬津目が、はやりたつ男たちを抑えて座らせる。極の後ろには、春通、広麻呂そして綾が、素手でも主人を守ろうと駆け寄っていた。


「これ、控えぬか。心配はいらぬ」

極の言葉に、三人は男たちをにらみながら元の場所に戻っていく。


「続きをうかがおう。なぜにこの毛野が二月もかからず滅びるとお考えか?」

「うむ…その前に賀谷利殿にお尋ねいたす。毛野および蝦夷の兵力をすべて合わせたればいかほどになりまするや?」

「さよう……わが国の兵は二千三百余、蝦夷は…」


賀谷利はそこでやや表情を曇らせて、大胡の方を見た。

「仁来、佐内と阿知世は…」


一瞬、男たちは目を見交わして無言のうちに一つの合意を得たようであった。

「まあ、ざっと見積もって二千余。先の二千三百余と合わせて、およそ四千五百がわが方の兵力となりまする」


「なるほど。されば、わしが都より連れて参った兵八百に武蔵、駿河、下総、上総、甲斐常陸の兵およそ八千余、合わせて九千…それだけでも毛野の兵力の倍以上、さらには、遠江と三河に援軍を命ずれば、およそ一万二千がわしの差配できる兵力となる。いかがじゃな…?」


男たちは悔しげに唇を引き結んで、極をにらみつけている。

「勝敗は、兵士の数だけとは限りますまい。現に、これまでも大和は毛野や蝦夷を屈伏させえなんだ…いや、まず、おおせの兵力が集まったためしがござらぬ」

賀谷利の答えに男たちはうなづき合う。


「さよう、兵ほどあてにならぬものはござらぬ。されば、わしが必要とする兵力は三千もあればよい。これまでの東征軍もそなたたちも忘れておる大切なことがあるのじゃ」

男たちは身を乗り出して、いつしか極の話に引き込まれていた。

「いったい、何でござる、われらが忘れているものとは」

「うむ、それは女子供、そなたたちの親、祖父母のことじゃ」


男たちはまるで肩透かしを食ったように、ぽかんとしていた。極はさらに続ける。

「わしが一軍の将ならば、まず村を襲う。城など後回しじゃ。村の女子供、老人たちを捕らえて隠しておく。するとどうなるか…。城に家族のいるそなたたちには分かるまいが家族を虜にされた兵士たちは、次々に逃げ出すであろう。さればとて、村人をすべて城の中にかくまえば、兵糧はあっという間になくなってしまう…」


さきほどまで意気盛んだった男たちのうち賀谷利と馬津目の二人は、やや青ざめた顔で床に目を落としていた。


「わが国の民は、男も女も年寄も子供も、皆国のために戦う。国のためなら喜んで死ぬ。それが毛野の誇りというものじゃ」

「それで…滅ぶのか?」

「おうよ。堂々と戦うて滅ぶなら、それもよしじゃ」

「愚かな…」

「何いぃ…」


極は、興奮した駒真人をにらみつけた。

「さほど滅びたければ、己れ一人で滅ぶがよい。何の罪も無き民を犠牲にして、何の誇りぞ…」


立ち上がろうとする駒を、両側の男たちが必死に押さえつけていた。

極はさらに続けた。

「まことの誇りとは、己れの命は捨ててでも、いとしい者たちを守りぬくことじゃ。国を束ぬる者は、民のことをまず考えねばならぬ。さすれば、民もまた主のために命を捨てて報いようとするであろう。まことの強き国とはそのような国じゃ。民を強くすることこそ、国を強くすることなのじゃ」


しばしの間、広間を静寂が包んだ。外のざわめきが、心地よい春風に乗って聞こえていた。


「久米大使…」

馬津目があらたまった態度で口を開いた。

「もう一度お尋ねいたす。そこもとは何のために東国へおいでになったのでござるか?」


極は穏やかな表情になって馬津目のほうに向き直った。

「わしはな…都で民の苦しみを嫌というほど見てきた。そして、このような国がまことの国であろうか、と長い間考えた。戦で苦しむのはわれらではない。一握りの者たちが、己れの欲のために戦をし、どれだけ多くの民を苦しめておるか…」


極はそこですべての男たちを見回した。

「わしは東国を民の国にしたいのじゃ」

「なんと…民の国にと…?」


男たちはようやく極の真意を聞いて、驚きに顔を見合わせた。しかし、それがどのような国なのか、彼らにはまったく見当もつかなかった。

「そなた様は大王の命を受けて、東国を大王の国にするためにおいでになったのではないのか?」


賀谷利の問いに、極は即座に答えた。

「東国を民の国にすることは、すなわち大王のためにもなる、とわしは考えておる。じゃが、大王の周りの者たちはそうは思わぬであろう。なぜなら、彼らは大王のためではなく己れのことを先に考えておるからじゃ。されば、後々、大王の名のもとに兵を差し向けてくるであろう」


いつしか、男たちの顔から極への憎悪は消え、何か心の内から湧き上がる熱い思いに紅潮していた。

「では、その時は、そなた様もわれらと共に大和の軍勢と戦うと言われるのか?」

駒の問いに、極はしっかりとうなづいた。

「もとより、その覚悟じゃ」

駒真人は呆然とした顔で、へなへなとその場に座りこんだ。


「し、しかし、国造どもが黙ってはおるまい。さきほどおおせの通り、周辺の国の兵が押し寄せて来たれば…」

木野の問いに、極はうなづいて答えた。

「国造たちも説き伏せねばならぬ。それがこの後の急務じゃ。できうる限りわが方の味方に取り込みたいが、すべてとはいくまい。やむをえぬ時は、戦になるであろう」


男たちはうなり声を上げて考え込んだ。あまりに意外な話の展開に、いったん頭を整理する必要があったのだ。


「ひ、一つおうかがいいたしまする」

佐代野がへり下った態度で尋ねた。

「民の国になったれば、われらはどうなるのでござりまするや?」


「うむ…。民の国というても、誰かが民を守り、導くことが肝要じゃ。方々には、これまで通りそれぞれの土地の首長となり、民を導いていただく。ただし…」

極もいつしか年相応の無邪気な少年の表情になって、これまで思い描いてきた自らの夢を熱っぽく語り始めた。

「何よりも民の暮らしを豊かにすることを考ゆる首長でなければならぬ。よいか、仮に、海の近くの首長と山の近くの首長がおるとしよう。海の近くは魚や貝は豊かに採れよう。じゃが、家を建つる木は少ない。また、山の近くでは木は豊かじゃが、魚や貝は採れぬ。

そこで、両方の首長は話し合い、互いの足らざる物を補い合うことにした。二つの土地の民は以前よりも豊かになった。さらに、この二つの土地の首長は、力を合わせて田畑を切り開き、どちらの民も自由に作物を作れるようにした。民はますます豊かになり、子を盛んに産み育て、良き首長と国を守るために心を一つにして働くようになった…。これがわしの考ゆる民の国であり、強き国じゃ」


馬津目がやっといつもの顔に戻って、豪放な笑い声を上げた。

「うはは…おもしれえ。わしは大使殿についてゆくぞ。久米大使、民が強うなれば、まっこと都の兵にも勝てるのでござるな?」

「うむ、勝てる」


「おうっ。なあ、皆の衆、大使殿の言われたこと、どれもこれもずしんと胸にこたゆることばかりでねえか。このお方がわれらを騙すようなお方でねえのは、こうして兵を一人も連れて来られなかったことでも分かるじゃろうて。ここは一つ、われらで大使殿に手を貸すようお館様に申し上ぐるべや」


「ううむ……確かに馬津目の言うとおりかもしれぬ。じゃが、それでまことに、何万という都の軍勢に勝てるものかのう」

佐代野の言葉に、他の男たちもうなづく。


極はここが勝負所とばかりに、身を乗り出した。

「もちろん、すぐに強うはならぬ。まずは三年をめどに、国を豊かにすることに全力を尽くすのじゃ。その間に各地の要所に山城を築き、川の改修を行なう…」


そこで極は後ろを振り返って、春通たちに声をかけた。

「春通、広麻呂、綾、そなたたちもここへ来て聞くのじゃ」

周りに集まった者たちを見回しながら、極は熱っぽく語り始めた。

「さらに武器をそろえねばならぬ。そのためには、なんとしても鉄が大量に必要じゃ。さらに、敵の様子をさぐり、それを常に知らせる役目の者たちを育てねばならぬ。これらの備えが、都に知られることなく進められたれば…」

極は楽しげな笑みを浮かべて、周囲の者たちを見回す。

「三年の内には、都に負けぬ国ができる」


春通たちはすでに極の考えを聞いていたので驚かなかったが、馬津目以外の毛野の男たちは話についてゆけずにとまどっていた。


「と、ともかくじゃ、まずはお館様のお考えを聞くのが先決じゃ」

賀谷利はそう言うと、極の方に顔を向けて改まった態度で両手をついた。

「知らぬこととはいえ、大使殿とお供の方々にはわれらが非礼、なにとぞお許し下され。大使殿のお話、必ずやわがきみにお伝えし、近々返答いたしまする」

他の男たちも賀谷利にならって、一斉に頭を下げる。


「よくぞ話を聞いて下された。では、よき返事をお待ちいたしまするぞ」

極はにこやかにそう言って一礼すると、春通たちを促して立ち上がった。


館の内の声に聞き耳をたてていた毛野の兵士たちは、いつでも武器を手に飛び込むつもりでいたが、なごやかな顔で出てきた一同にやや肩透かしを食ったように見つめていた。


「それにしても…」

賀谷利は預かっていた刀剣を一人一人に手ずから返しながら、感嘆の声を洩らした。

「見事な刀じゃ。わっぱ、ぬしは果報者じゃのう。大切にいたせよ」

綾は太刀を受け取ると、にっこり微笑んでうなづいた。


「では、方々、いずれまた…」

極は見送りに出た将兵たちに馬上から別れを告げると、きびすを返して風のように去っていった。

「ううむ…馬津目の…ぬしが入れ込むのもようわかったでよ。あれは、大した男じゃ。若えのに腹も据わっておるわ」

極たちが消えた城門の先を見つめながら、黒丸がぽつりとつぶやいた。


早々と毛野の主要勢力の懐柔に成功したことは、極の構想にとって大きな前進であった。しかし、まだまだ実現に向けては幾つもの困難な障害が立ちはだかっていた。

大王の軍を率いる軍司令官である極にとって、国造たちは本来なら忠実な手足となって働いてくれる存在である。彼らの兵力と財力がなければ、東国経営は不可能であった。


しかし今、極は大王に、いや大王を中心とした国家そのものに反逆しようとしている。大王に忠誠を誓った国造たちは、極にとって大きな敵として立ちはだかろうとしていたのである。



 18 新将軍と国造たち



「いよいよじゃのう…」

「うむ…しかと見定めねばならぬ」


武蔵の国府に、ぞくぞくと各地の国造たちが集まっていた。この日召集を受けたのは、常陸、上総、下総、安房、相模、駿河、甲斐、信濃の各国造たちであった。

笠原の館の内にも外にも、国造たちとその供や護衛の者たちが溢れ、ざわめきあっていた。彼らの関心の中心は征東軍がいつ、どのような経路で進軍するのか、誰が先陣の大役を受けるのか、であったが、もう一つの関心事があった。

それは、この二ヵ月ほどの領民たちの動揺や佐伯尾人への伯父阿津麻呂からの手紙、そして、つい最近の笠原狭津彦からの報告などがすべて、今回の征東夷大使をただ者ではないぞ、と思わせるものだったことである。一体どのような人物なのか、それを見極めることが国造たちにとって死活に関わる重要事項だったのだ。


合図の鐘鐸が鳴り響き、人々はそれぞれの持ち場へ移動を始めた。

合議の場となる大広間は、いつもは妻たちのにぎやかな声が聞こえるのだが、今日は緊張した空気が張り詰め、静寂が包んでいた。


回廊を歩いてくる足音が聞こえ、今日の議長役である笠原使手に先導されて、極が広間に姿を現した。その後ろから佐伯広麻呂と紀古麻呂が続く。国造たちは一斉に頭を下げて極が上座に着くのを待った。


「方々、遠路ご足労にござりました。これより合議を始めまする。まず、征東夷大使様よりお言葉をいただきまする」

使手に促されて、極は国造たちの視線を浴びながら口を開いた。


「方々、本日は誠にご足労にござった。久米臣極でござる。日頃より大王の地を安らげんとの方々のご尽力、極、心より敬意を表しまする…」


国造たちは、極の気さくなもの言いに驚かされた。これまでの将軍はおしなべて、くどくどともったいぶった言い回しで話すのが通例だったのだ。しかも、大王の前に「恐れ多くも」かしこくも」という修辞を付けなかったことが、いっそう彼らに奇異な感じを与えた。


極はにこやかな顔で続けた。

「さて、こたびの遠征にあたっては、大王より託された勅命が二つござる。一つは毛野、蝦夷の討伐。そしていま一つは、東国からの御料物を増やすこと。これについて、方々のお考えをお聞かせ下され」


これを聞いて、国造たちは愕然となった。すぐに一人の老齢の国造が極の方へ体を向けて言った。

「大使殿に申し上げまする。常陸国造筑紫宿禰県麿にござる。御料物を増やせとのお言葉にござりまするが、一体いかほど増やせよとのおおせにござりまするや?」


「うむ…されば、倍…いや三倍かのう」

「な、なんと…三倍……」

国造たちは、いよいよ驚いて顔を見合わせた。


安房国造玉速国津彦あわのくにのみやつこたまはやくにつひこにござる。わが国は小国にて、領民も少なく、今以上の御料物を収むることは甚だ難きことにて…」


極は冷ややかな目を向けて、崇神天皇の流れを汲む皇族の王に言った。

「新たに田畑を開き、粟、ひえ、麦…作れるものは何でも作ればよろしかろう」


玉速王は怒りに青ざめながらも、必死に感情を抑えながら答えた。

「お言葉ではござりまするが、新たに田畑を開くにも、苗を植え育つるにも、民の手を借りねばなりませぬ。今でさえ、食うや食わずで御料物を収めておる民に、これ以上の苦しみを与ゆることはできませぬ」


「ふむ…他の方々も玉速殿と同様のお考えでござるかな。大王の命には従えぬと…」

極の問いに、国造たちは動揺してうつむいたり、顔を見合わせたりして答えに窮した。


やがて長老の県麿が、苦渋の表情で口を開いた。

「恐れ多くも、大王の命に逆らうつもりなど微塵もござりませぬ。なれど、東国は領民の数とて少なく、また作物の出来はその年その年の天候に大きく左右されまする。されば、この後毎年これまでの三倍もの御料物を収むることは、甚だ難きことにござりまする」


「なるほど…できぬものはできぬ、と言うのじゃな?」

国造たちは黙って頭を下げた。当然、大王の勅命に従わない罪には、それ相応の罰を与えられるものと、誰もが覚悟していた。


ところが、極はそこで表情を和らげ、楽しげな声でこう言ったのである。

「もっともじゃ。わしもそう思う」


国造たちはまたまた驚かされて、若い将軍のにこやかな顔をまじまじと見つめた。


「玉速殿の領民を思うお心、極甚だ感服いたしてござる。玉速殿は必ずや、日頃も民とさほど変わらぬつましい暮らしをなされておるのでござろう……」


極はそこで表情を引き締めて、国造たちを見回しながら続けた。

「なれど、都では、東国の首長たちが民から搾り取るだけ搾り取って、それを己れの貯えとし、御料物を出し渋っておる、ともっぱらの噂になっておりまする。確かに国によっては、そのような噂もあながち嘘とは言えぬようにも思えるのじゃが…」


国造たちは互いの顔を見合わせ、それぞれの思惑を胸に、隣同士でひそひそと話し始めた。極はしばらくの間、黙ってその様子を見守っていた。

「た、大使様…さきほどのお話、この武蔵の国のことでござりましょうや?」

傍らで固唾を飲んでやりとりを見守っていた笠原使手が、心配そうに小声で尋ねた。

「あはは…いや、使手殿、どこの国にもあることでござる。さらばこそ、わしはここへ参ったのじゃ…」

使手は極の言葉の真意は理解できなかったが、ひとまずほっと胸を撫で下ろした。


「のう方々、この際、ここ三ヵ年ほどの収納物と御料物の記録を、大使殿に提出して見ていただくというのはいかがか?」

ややあって、信濃国造しなののくにのみやつこ若建豊日子王わかたけとよひこのきみが口を開いてそう言った。


「いや、それではどのような書き替えもできまする。ここは、それぞれの倉をすべて見ていただき、不正な貯えがあるかどうかを調べることが最善であろう」

相模国造相模武麻呂さがみのたけまろの言葉に、広間は騒然となった。倉を堂々と見せられる者は、ほとんどいなかったのだ。


頃合だと見て、極は手を挙げて国造たちの騒ぎを静めた。そして、おもむろに彼らを見回しながら静かに語り始めた。

「方々には余計な心配をおかけもうした。実は、御料物を増やせという勅命は受けてはおりもうさぬ…」


大使の意外な告白に、国造たちは怒りと疑惑に駆られて再び騒ぎだそうとした。しかし、極はそれを押さえ付けるように、強い口調で続けて語った。

「が、しかし…この五年の内には、今申した以上の…いや、恐らく方々の誰もが思いもしないほどの、苦難災難が国々を襲うことになろう」


極はそこで間を置いて、不可解な顔をした国造たちを見回し、わずかに微笑んだ。

「何のことやら、とお思いであろう。それを話す前に、方々にお尋ねいたす。この中で、唐の国の律令に詳しき方はおらるるか?」


極の問いに、国造たちは互いの顔を見合っていたが、下総の笠原狭津彦が自慢気に薄笑いを浮かべながら言った。

「さて、いかなることをお尋ねかは分からねど、およそ彼の国の政事についてはいささか学びおりまするが…」


「うむ。さらば、唐の国を支ゆる三つの御料物のことはご存じであろう?」

「いかにも。租・庸・調の三種にござる。」


極はうなづくと、さらに真剣な表情で一同を見回しながら言った。

「わしは、都で唐の政事を詳しく学ぶ機会がござった。そして分かったことは、二つのことでござる…」


いつしか、国造たちは身を乗り出すようにして、極の話に引き込まれていた。

「一つは、唐の政事をそのままわが国に取り入れたれば、この国に住むすべての民は、誰一人生きてその生涯を全うできぬということでござる。

さらに、二つ目は、その恐ろしき律令の政事を一刻も早う取り入れたい、と画策しておる者たちが、大王の身近に何人もおるということでござる。先程、この五年の内には、未曾有の国難が襲うてくると申したのは、まさにそのことでござった」


これを聞いて色めき立ったのは、国造たちばかりではなかった。

極の左脇に座って、ずっとけげんな顔つきで話を聞いていた古麻呂が、とうとう黙っていられずに口を開いた。

「あいや待たれよ。ただ今の大使のお言葉、いささか聞き捨てなり申さぬ」


「紀殿、控えられよ」

広麻呂の諌めにも耳を貸さず、古麻呂は極に詰め寄った。

「かしこくも大王のお側に仕えし者たちが、そのような画策をしておるとは、何をもって左様おおせられたるや?また、その者たちとは誰のことなるや、お答えいただきたい」


極は立ち上がろうとする広麻呂を手で制して、微笑みながら古麻呂に答えた。

「ふふ…紀殿、それはそなたが一番良う知っておられるはずじゃ。何しろ、南淵請安の塾では、もっぱら唐の律令をほめたたゆる者ばかりであったからのう。そなたとわしだけが反対派であったが…いつの間にか、そなたは賛成派になられたようじゃな?」


古麻呂はあっと叫んで青ざめた。かつての近江彦皇子が久米極と同一人物だということを、うっかり忘れていたことに気づいたからだった。

「あ…いや、そのようなこともござったが…し、しかし、中大兄皇子様は…あ、いや、何でもござらぬ…」

古麻呂はいよいよ混乱して、自ら口を閉ざし、すこすごと引き下がった。


広間はしいんと静まり返り、国造たちはあっけにとられたような顔で成り行きを見守っていた。そして、古麻呂の口走った人名を耳にするや、いよいよ極の話に関心を深め、早く続きを聞きたいと思った。

「大使殿、唐の律令というものは、さほどに悪しきものでござるのか?」


筑紫県麿の問いに、極は深くうなづきながら答えた。

「うむ…律令そのものにも問題はござるが、むしろ、それを誰がどう使うかが、大きな問題でござる」


極はそう言うと、眉間にしわを寄せて目をつぶった。しばらく何かじっと考え込んでいたが、やがて目を上げると国造たちを見回しながら続けた。

「唐の国にもわが国にも、わずかな数の強き者たちと、それよりはるかに多き数の弱き者たちがおる。わしも、方々も、ここにおる者たちは皆強き者たちじゃ。強き者は多くの弱き者たちを従え、守ってやる代わりに、かの者たちを使役して、さまざまなものを奪い、己れの財を貯ゆるのじゃ」


国造たちはけげんな表情で極の話を聞いていた。極の言うことは、ごく当たり前のことだったからだ。

「それはしきことなのでござるか?」


笠原狭津彦が皆の思いを代弁して尋ねた。

「いや、強き者が弱き者をも己れの大切なたからじゃと考ゆるなら、悪しきことではない。考えてもみられよ。方々の国の民が、あまりの貧しさに飢えて死に、あるいは苦しさに耐えかねて他国へ逃げ去るならば、国はどうなるか。国の民が豊かで、国と主を心から慕うておるならば、国はどうなるか。どちらが良き国であろうか?」


「たしかにおおせの通りでござる。われらにとって、民こそ何にも勝る財…」

玉速の言葉に、極は微笑みを浮かべてうなづく。


「うむ。されど、強き者は往々にして弱き者の苦しみを知らず、わが財を増やすことのみを考ゆるものにござる。日頃から民と交わりまことの姿を見ておる者だけが、民の苦しみを知ることができるのじゃ…」


そこで極は表情を険しくして続けた。

「もう、わしの言いたきことはお分りでござろう。民の暮らしを見たこともなく、ただ己れの幸いだけを思うておる者たちが、律令という武器を持ってわが国を治むるならば、どうなるか。もし、その者たちが、国の政事を執り行うことになれば、ここにおられる方々の大半は嫌でも今の領民たちと同様の暮らしをすることになろう。ほんの一握り者たちだけが、国中の財を集め、民の苦しみも知らぬ顔で暮らすのでござる…」


静まり返った広間の中で、何人かがごくりと唾液を飲む音が聞こえてきた。

「た、大使殿にお尋ねいたす」

若建豊日子が一歩前に出て、極に向かって両手を着きながら言った。

「大使殿の言わるることがまことになるのであれば、そのあかしを見とうござる。また、なぜにかようなことを我らにおおせらるるのか、そのわけを知りとうござる」


いよいよ核心に迫る質問が出たので、極はにこやかに微笑みながら一同を見渡した。

「うむ…あかしのう,それを今見せることはできぬが、あと五年待てば、方々が自分の目でそれを見ることができよう。わしは、ただその前に、少しでも多くの民を救いたいと思うておるだけじゃ」


「民を…救う…?」

国造たちは首をひねりながら顔を見合わせる。


「うむ。今日、方々に集まっていただいたのは、実はそのために力を貸してもらいたいと思うてのこと。これからわしが話すことに応か否か、よう考えて決めて下され」


極は一つ息をついて、真剣な顔の国造たちを見渡しながら続けた。

「わしが征東夷大使を拝命できたのは、人知の及ばぬ不可思議な運命に思えてならぬ。わしは幼き頃より、村々の民の苦しみを嫌というほど見てきた。そして、幼心に、きっといつの日か、この国の民を救う者となりたい、と強う念じてきた。その願いを八百万の神々が叶えて下されたに違いない…」


極はそこで目を閉じ、神々への敬意を込めて頭を下げた。

「さて、いかにして民を救うか、であるが…まずは何としても、唐の国のごとき律令の国にしてはならぬ、ということじゃ。そのためには都と手を切るより他にすべはない」


「な、何と」

国造たちは天地がひっくり返るほどの衝撃を受けて騒ぎ始めた。都から遠く離れているとはいえ、まがりなりにも大和政権の一翼を担い、受け継いできた一国の主としての地位を捨て、反逆に加担せよというのである。


「ふはは…いよいよ正体を現しましたな、大使殿…いや、久米皇子」

紀古麻呂が立ち上がって、国造たちの方へ移動しながら叫んだ。

「言葉巧みに国造たちを取り込み、大王への反逆を企てしこと明白。方々、この大罪人をひっ捕らえるのじゃ」


極は平然と目を閉じたまま座っていた。

広麻呂が極を守るために古麻呂の前に立ちはだかった。


国造たちは事態の急変にとまどって、互いの様子をうかがっていたが、まず上総の国造笠原狭津彦が立ち上がった。

「方々、何を迷うことがあろうか。われらは大王のために国を守る者ぞ。大王に逆らう者は敵じゃ。取り除くべし」


その言葉に、ためらいがちに甲斐国造土師比多別王はじのひたのわけのきみが立ち上がった。

だが、他の国造たちは皆、苦悶の表情で座ったまま動かない。


「広麻呂、そちが蘇我の犬であることは分かっておったわ。これで久米皇子が蘇我と手を結び、国をわがものにせんとしておること、明白になった」


古麻呂の言葉に、広麻呂は静かに笑みを浮かべ、太刀に手を掛けたまま答えた。

「われと蘇我は何の関わりもない。蘇我と中大兄皇子が戦になろうが、そのようなことはどうでもよきこと…」

「な、何ぃ?」

「われは久米の殿にわが命を預けたり。殿の大いなる望みが叶う日まで、殿をお守りするがわが務めなり」

「ぬうう…よくもぬけぬけと……」

古麻呂は歯噛みをして悔しがったが、戦えばかなわないことは分かっていたので、剣を抜けずにぶるぶると体を震わせるばかりだった。


と、その時、広間の異変に気づいた兵士や供の者たちが戸口に殺到してきたのである。

古麻呂はこれに勢いを得て叫んだ。

「大王に反逆を企てる大罪人久米極、並びに佐伯広麻呂、かんねんして縛につけ。者共、

二人に縄を打てい」

その声に、古麻呂の兵たちが数人、人混みを掻き分けて駆け寄ってきた。


「待てい。」

低く落ち着いた野太い声が、広間の中に響き渡った。じっと成り行きを見守っていた国造たちの中で、筑紫県麿が決然と立ち上がった。


「お二方ともお控えなされい。今ここで、われらが争うて何の得があろうぞ。それでも争うと言うなら、この県麿、敢えて大王に背きたてまつり、久米殿にご助勢いたす」


それは、少し大げさに例えるなら、その後の日本の運命を変えた大決断だった。

極は、この時の県麿の行動に深く感動し、生涯彼への恩義を忘れなかった。


さて、県麿の言葉は、葛藤に苦しんでいた他の国造たちに決断を促した。

「われも筑紫殿と同じ考えにござる」

玉速王が立ち上がり、極の側に移動する。


「まだ話は済んでおらぬ。方々、席に戻られよ」

相模武麻呂も筑紫、玉速側に移動しながら言った。


後の国造たちも全員筑紫を支持して、古麻呂と狭津彦、土師比多別王と対峙した。

「な、なんということぞ……恐れ多くも大王の臣たる国造が、反逆に加担するなどと…その方たち、この後己れがどうなるか、よくよく考ゆることじゃ」

「方々、ち、血迷うたか。そ、そこにいるのは大罪人でござるぞ」

古麻呂も狭津彦も、思いがけない展開にとまどい慌て始めた。


「よくよく考えてのこと…血迷うてもおらぬ。大使殿のお話にまことを見た、それが理由じゃ」

県麿が静かに答えた。


「うぬ…か、覚悟しておくがよい。すぐに都へ帰り、大王に報告いたす。いずれ、相応の罰が下されよう。皆首を洗うて待っておるがよいわ」

形勢不利と見た古麻呂は、精一杯の虚勢を張ってそう言い捨てると、足音高く広間から出ていった。その後を笠原狭津彦と土師比多別王があたふたと追い掛けていく。


「殿…」

「うむ。」

極と広麻呂の間で沈黙の会話とり交わされ、広麻呂は静かにその場を去っていく。


残った国造たちはふうっと息を吐くと、数歩後ろへ下がり、極の方を向いて座った。

「大使殿、われらは等しく大罪人となりもうした。もはや、後戻りはできませぬ。これから、われらの進むべき道をお示しくださりませ」


県麿の言葉に、極は一歩前に出ると、両手を前について深々と頭を下げた。

「よくぞ…よくぞ、わが思いを汲んで下された。極、感謝の言葉もござらぬ…」


国造たちは静かに頭を下げたが、顔を上げあらためて征東夷大使に目を向けたとたん、

皆一様に驚いた。顔を上げた征東夷大使は、とめどもなく涙を流し、それを隠そうともしていなかったからである。


「方々のお心、決して無駄にはせぬ。いずれこの決断が間違いではなかったと、必ずや思う日が来るであろう」

極はそう言うと、ようやく涙を袖でごしごしと拭き、晴れ晴れとした表情で続けた。

「実はここまでのこと、心を同じゅうする友を選ぶための試しであった…」


「なんと、それはいったい…」

国造たちにとっては驚きの連続だった。目の前にいる新任の将軍は、これまでの常識がまったく通用しない相手であり、しかも限りなく魅力的な若者であった。


極はにこにこしながら続けた。

「紀古麻呂とは、いずれたもとを分かつはずであった。さらに今日、民にとって悪しき領主が誰であるか分かりもうした。されば、これよりは心を一つにした者同士の話でござれば、方々に心強き友連れを紹介いたそう」


彼はそう言うと、後ろを向いて誰もいないはずの祭壇に向かって声をかけた。

「春通、出て参れ」


すぐに祭壇の脇の小さな戸が開き、春通と綾がまず姿を見せ、その後からたくましい体つきの三人の男たちが次々に出てきたのであった。


その三人の男たちを見て、国造たちはあっと驚きの声を上げ、立ち上がりかけた。

「方々に紹介いたす。わが家人の久米春通と衛士の綾にござる。さらに、もう紹介いたすまでもないようじゃが、毛野の三人の将軍、賀谷利黒丸殿、馬津目丙地殿、大胡仁来殿にござる。ささ、こちらへ…」


賀谷利たちと国造たちは、これまでに幾度となく戦ってきた敵同士である。特に、国造たちは、ふいに現われた敵の憎き大将三人に敵意を剥出しにしてにらみつけていた。


「久しぶりじゃなあ、筑紫の老大将…」

「ふん、ぬしに年寄り扱いされるほど老いぼれてはおらぬわ」

「わははは…相変わらずじゃのう。まあ、今日は戦にきたわけじゃねえで、そう恐い顔でにらむな」


国造たちと毛野の宿将たちは、極をはさんで左右に分かれて向かい合った。

「驚かれたのも無理はない。実は、これまでの一部始終を、衛士の控えの間で毛野の将軍たちに聞いてもらっておったのじゃ」


「大使殿、しばしお待ち下され。まさか、大使殿は、東国を毛野の国になさるおつもりでは…?」

玉速の疑問に、極は真剣な顔で答えた。

「まず、方々に申しておきまするが、この後われらが目指す国は、大和の国でも毛野の国でもござらぬ。民の国でござる」


双方の男たちは、ようやくにらみ合うのをやめて極の方を向いた。

極は一同を見回しながら続けた。

「国造の方々、実は毛野の将軍たちはすでにわしの考えに同意し、力を貸してくれることを約束してくれておるのじゃ…」


「なんと…とてものことに信じられぬ」

県麿のつぶやきに、極が答えようとするのを、賀谷利が引き取って先に答えた。

「もっともじゃ。実は、当のわれら自身さえまだ信じられぬ思いじゃからのう。されど

うそではない」

「されば、上毛野王も久米大使に従うというのか?」

「いかにも…」


賀谷利は深くうなづくと、万感の思いに胸を詰まらせたのか、目をつぶって大きく一つ息を吐いてから、おもむろに続けた。

「わが王におかれては、これまで長年の大和との戦による東国の民の苦しみに、いたくお心を痛めてこられた。されば、こたびもいずれ大和との戦になるであろうとおおせられ、その前に自ら大和にくだる旨を大王に伝え、しかる後、久米大使様の臣となりて、共に新しき国造りに励まん、とおおせられ…」


賀谷利はとうとうこらえきれずに涙を流してのどを詰まらせ、後の言葉を言えなくなった。

しばらくは毛野の男たちのすすり泣きの声だけが、静寂の広間を流れていった。


深い感動が、そこにいるすべての者たちを包んでいた。それは単に、上毛野王の気高い心に打たれたというだけでなく、自分が一つの大きな歴史の転換点に立ち合っているという、底知れない恐怖をも含む感動であった。

そして、一同の思いは、その大きな歴史の流れを作り出した一人の少年皇子への畏敬の念へと集約されていった。


「今日は何という日ぞ…」

県麿のつぶやきが、そこにいる国造たちの思いを代弁していた。


「この年になるまで生きて参ったが、今日ほど心震ゆる思いをしたことはなかった」

そう言うと、県麿は極の方へ向き直って、おごそかな声で言った。

「久米大使、これでわが心、はっきりと決まりもうした。これより後、この県麿、残りわずかな命ではござりまするが、大使の新しき国造りのために身命を賭してお仕えいたしまする」

「この玉速も同様にござりまする」

国造たちは次々に県麿にならって、自らの意志を表明した。


極はじっと涙をこらえるように、目を閉じてうつむいていたが、ふうっと一つ息を吐いて顔を上げた。

「この喜びを、どう言葉に表せようか。わが望みを家に例ゆるなら、今、どのような大風にも地鳴りにも揺るがぬ柱が立ったのじゃ。方々一人一人が、その大切な柱じゃ。この後いかなる時も、われら力を合わせ、良き国を作って参ろうぞ」

「「おうっ」」

「「ははっ」」

男たちの力強い声が響き渡った。それは、東国に新しく生まれる民の国の産声でもあった。


極はにこやかな顔で、傍らに座った綾に目を向けた。綾もさっきから感動のあまり、涙で顔をくしゃくしゃにしていた。

「あはは…これ、綾、何を泣いておる。めでたい日じゃ、紗月たちに酒を持って参るよう伝えてくれ」

「うん…」

綾は袖でごしごしと顔を拭くと、元気よく立ち上がって走っていく。


すでに妻たちは、合議がうまくゆくことを信じて酒肴の準備を進めていた。途中、紀古麻呂と二人の国造たちが、憤然として立ち去ったことを聞いて、少し心配になっていたところだった。


「まあ、それは良かったこと…」

綾から簡単に、広間の成り行きを聞いた妻たちは、手を取り合って喜んだ。

「さあ、われらも頑張らねば」

紗月の言葉に、幼い少女たちは生き生きとした顔でうなづく。


「綾、あなたは広間に戻って、殿の警護を。まあ、ひめ…た、多摩媛様、それはわたくしどもでやりますれば…」

部民の女と一緒に、酒肴の膳を運ぼうとしていた間人はきっぱりと首を振って、にこにこ笑いながら紗月 たちに言った。

「いいえ、これは殿の妻としての仕事。皆と同じことをいたしまする」

「さ、されど…」


紗月の乳母成女はまだ心配そうだったが、他の少女たちはすぐに納得してうなづいた。

「では、参りましょう。ふふ…」


広間はなごやかな空気に包まれていた。これまで敵同士だった両陣営の男たちが、極と春通という仲介を通して言葉を交わし、少しずつ胸襟を開いていったのである。


「お待たせいたしました」

「おお、来たか。方々、このめでたき日を祝わずになんとするぞ。ささ、もそっと近う寄らせたまえ」


まるで、戸外のさわやかな風と共に舞い込んできた蝶のように、あでやかな衣を着た妻たちが、男たちの 間を飛び回る。

やがて、酒宴の席は調い、妻たちは下座に並んで夫の晴れ姿をうっとりと、また誇らしい気持ちで眺めた。


「さて、もはや何も言うべきこととてござらぬが、わしはこの通りの若輩者にて、酒も慣れてはおりませぬ。ここは一つ、筑紫殿に取り仕切っていただきたく思いまするが、方々いかがでござるや?」

「おうっ、異義はござらぬ」


一同の同意を得て、極は上座を下り、毛野の男たちの中に入っていく。

「ささ、筑紫殿、そちらへ」


「はてさて…困ったことよ。大使殿はお若いが、知謀知略はかの大国主命おおくにぬのみことをもしのぐほどじゃて」

県麿の愚痴に、広間は笑い声に包まれる。


「わはは……よう言われた、老大将。まっことその通りじゃ」

「大国主か、はたまた妖怪変化か…末恐ろしきことよのう」

馬津目が下座の女たちの方を向いて、にやにやしながら言うと、大胡が肩でつついて真剣な顔でたしなめた。


「そげなごど言うけ、東夷あずまえびすと馬鹿にされるんじゃ」

「おっ、おめえ、何をむきになっとるがや。ん…赤うなっとるのう…ははん…」

「な、何言うだ。お、おらは別に…」

「おい、二人ともやめんかい。老大将が困っておろうが…」

「賀谷利、老をつくるのはやめんかい」

広間はいよいよにぎやかな笑い声に包まれていく。その中で、白髪でたくましい体つきの老人が、上座にすっくと立ち上がった。


「せんえつではござるが、不肖筑紫県麿、大使殿に成り代わり祝杯の儀をとり行なわせていただきまする」

県麿はそう言うと、さっと後ろに向き直って正座した。


「かしこくも雲の上にまします八百万の神々につつしみてもの申す…」

県麿に合わせて、全員が神々への拝礼をする。

県麿は、この記念すべき日の喜びを歌い、自分の土器かわらけに酒を注いでもらって、神前に捧げた。


それから彼は向き直って、一同を見回しながら言った。

「わが胸に迫る万感の思い、表す言葉もござらぬ。この後、幾多の苦難、嵐に見舞われるやもしれませぬ。されど、この東国の地に、新しき民の国の生まるるその時まで、われら心を同じうして共に戦うて参ろうぞ」

「「おうっ」」

地の底から沸き上がるような男たちの声が響き渡った。


「いざ、杯を上げたまえ」

一同はかわらけを手に一斉に立ち上がる。

「賀谷利、参らせい」

県麿は毛野のリーダーを呼んだ。二人は向かい合うと、杯を持った方の腕をからませて同時に酒をあおった。東国式の固めの杯であった。

他の者たちもそれにならって、向かい合った相手と腕をからませて杯を上げた。男たちの喚声と拍手が、嵐のように広間を包み込んだ。後は、入り乱れての無礼講だった。


国造たちと毛野の男たちは、すぐに百年の知己のようになり、肩を叩き合い笑い合って酒を酌み交わした。


極のもとへは次から次に男たちがやってきて、彼から杯を受けた。

「わはは…いやあ愉快じゃ。まさか、このようなことになるとはのう……誰が思いつこうか」

「いや、まことに賀谷利の言うとおりでござる。まだ、夢を見ているようで……されど、これからが難儀にござるぞ。大使殿のお考えを、東国のすべての者たちに分からせねばなりませぬ。中には厄介な者どももおりますれば、いささかてこずるやも…」


県麿の言葉に、賀谷利も笑顔を消して腕組みをした。

「うむ…そのことでござるが…」

彼はそう言うと、背後で相模武麻呂、若建豊日子らと酒を酌み交わしていた大胡仁来に声をかけた。

「仁来、例のことを大使殿に…」


仁来は、呼ばれてのっそりと立ち上がった。身の丈六尺余り、赤く縮れた髪を無造作に束ねている。鼻梁高く、深くくぼんだ目はわずかに青みを帯びていた。

極は彼のような異相の人間を、都ではついぞ見たことがなかったが、東国に来てからは時折見かけていた。


「大使殿にサナイとアチセのことをお話せねばならぬ」

賀谷利の言葉に仁来はうなづいて、その青みがかった目を極に向けた。

「大使殿に申す上げまずる…」

彼はひどい東国なまりで話し始めた。


「わだすどもはご覧の通り、大和の人間ではござりませぬ。こげなあさましき面相だもので、昔から鬼だの山姥だのど言われで追い立てられ、わずかな数の者でなんとか生き延びてめえったのでござりまずる。わだすどものような者たちが他にもおりますて…」


「うむ、それが具知安佐内くちあんさない加奴井阿知世かぬいあちせというわけじゃな?」

「へ、へえ…ご存じで…?」

「うむ、名前だけは知っておる。彼らがどうかしたのか?」


仁来はうなづいて、苦虫を噛んだような表情になった。

「かの者たちに大使殿のこどを話すたども、まっだぐ聞く耳もだねえ有様で…もどもど大和の人間を嫌って、信用もしねえ者たちだもので……」


「ふむ…さようか。大胡殿、造作をおかけいたしたのう。されば、造作のかけついでに

もう一つ頼まれてくれぬか?」

「へ、へえ、どのようなことで…?」

「佐内と阿知世に、わしが会いたいと言うていたと伝えてもらいたいのじゃ。 わしの方から会いに行くとな」

「そ、それは造作もねえことだども……」


「大使殿、それはおやめなされ」

その場にいた者たちは、誰もが口々に極を諌め始めた。

「かの者たちは、われら毛野とも手を組まず勝手に暴れ回っておる者たちでござる。話しを聞くどころか、大使殿のお命を奪おうとするに相違ござらぬ」

「賀谷利の言う通りにござる。かの者たちはいずれ兵をもって征伐せねばなりませぬ。話しをするだけ無駄でござる」


賀谷利や笠原使手の進言を、極はうなづきながら黙って聞いていたが、やがて穏やかな微笑を浮かべて言った。

「方々の言われること、いちいちもっともにござる。されど、これからの国造りには彼らの力も必要なのじゃ。特に北の地は、未だ未開の地が多く、土地に慣れておる者の手助けがぜひとも欲しい。ふむ…まあ、話をするだけはしてみようぞ」

一同は、静かに頭を下げて承諾する。


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