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東原~あずまのはら~ Remake版  作者: 水野 精
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爛漫編 ~少年皇子の青春~

9 けものの姫



二月一日、葛城の館に朝廷からの使者が訪れた。詔勅によって、極に正二位臣の位階が正式に授けられ、五日の朝議に出席するように告げられた。


「これは衣服調達のたしにせよとの大王からの心付けにござる。ありがたく受け取らせられませ」

使者は帰りぎわにそう言って、銀粒入りの袋を極に手渡した。極は帝の格別な配慮に深謝する旨を告げた。


使者を見送った後、極はそそくさと着替えを始める。

「殿、今日もお出かけでござりまするか」

「うむ…天気のよき日は休まず行こうと思うておる」


実はこの館に移り住むようになった直後から、極は衛士えじ丙助へいすけ

の世話で武術の鍛練をするようになっていたのである。

丙助の一族は吉野川の川原に住む〝川原者〞で、父の代から蘇我石川麻呂の部民べのたみとして、皮なめしや魚の干物作り、死体の始末などの仕事をしてまかない物を得ていた。しかし、彼らはもともと吉野山に住む山の民で、山を獣のように走る足と各種の格闘術を身につけていたのだ。


極は早めの夕飯をとると、木刀を手に丙助とともに出かけていく。

「春通、案ずるな。殿はもう立派に独り立ちなされておるのじゃ」

井戸端で米を研ぎながら、心配げに門の方を見ている春通に田彦麿が声をかけた。

「う、うむ…そうじゃな…」

手元に目を戻しながらも、まだ春通の声は不安げだった。


吉野神社の背後から吉野山にかけてうっそうと広がる巨木の森が、極の鍛練の場であった。たくさんのかがり火を持った老若男女が楽しげにざわめきながら、若い皇子の姿を眺めていた。


「ほれ、気張りなされ、皇子様、もう終わりでござるか。童女に負けて、悔しうはござらぬのか?」

「うぬ…ま、まだじゃ…とやあああっ…」

極はようやく立ち上がると、木剣を構えて杉の巨木の間を駆け抜けていく。駆け抜けながら、左右に並んだ杉の幹を木剣で叩いていくのだ。それをもうかれこれ一刻半近く、二百回をゆうに越えるほど続けていた。


彼の傍を付かず離れず一緒に走っているのは、まだ十歳になるかならないぐらいの幼い少女であった。息も絶え絶えの極の横を、全く涼しい顔で楽しげに走っている。


極のうわさは丙助の口から吉野川原の人々へ、そして葛城の地の賤民たちの間へ一気に広がっていった。まだ若いが、今までの豪族とはまるで違い、賤民と分け隔てなく接して下さる。それどころか、賤民の男を師として熱心に武芸を学び、彼の小屋で湯づけをうまそうに食べて帰るらしい。そんなうわさにいろいろと尾ひれが付いて、人々の好奇心を駆り立てたのである。今では吉野川原の住民ばかりでなく、飛鳥の各地から極を一目見ようと大勢の人間が集まっていた。


やがて子の刻を過ぎた頃、極は力尽きて倒れこみ、ようやくその夜の鍛練は終わった。

倒れた極を吉野川原の男たちが、組み木に乗せて丙助の小屋まで運んだ。


「わしはまだまだ鍛練が足りぬのう。須恵女すえめにさえ勝てぬとは……自分が情けない」

極はまだ板の上に寝転んだままぽつりとつぶやいた。かたわらで付きっきりで世話をしている少女は、少し頬を染めてはにかむ。


「あはは…いやいや、若殿はずいぶんと強うなられましたぞ。世辞ではござらぬ。初めの頃と比べたれば格段の進歩じゃ。この須恵女にはたいていの男は勝てませぬのじゃ。なにしろつい半年前まで吉野の山奥でましらや猪たちと暮らしておりましたからのう」


極は横ではにかんでいる少女を見つめながら、少女が猪の背に乗って野山を駆け巡っている姿を想像して微笑んだ。


「のう、丙助…」

「へい」

「わしはおそらく夏になる前に東国に行かねばならぬであろう…」


丙助も須恵女も身を乗り出すようにして、極の話にうなづく。須恵女はもう泣きべそをかく寸前だった。


極は体を起こして、あらたまった顔で丙助を見つめた。

「向こうで最も必要になるのは〝報せ〞じゃと思うておる」

「はあ…報せ、にござるか…」

「うむ、何事も早く事情が分かれば、早く手を打てるし、早く解決もできよう」

「なるほど…そうでござりまするな」

「そこでじゃが…どうであろう、そなたたち、わしとともに東国に行ってくれぬか?そなたたちの助けをぜひ借りたいのじゃ」


丙助はしばらく目を大きく見開いたまま、あっけにとられていたが、次の瞬間、小屋の入り口近くまで飛びすざって平伏した。まるで、ようやくお互いの身分の差に気づいたような態度だった。


「わ、我らのような下賎の者をお使い下さると言われまするか」

「何を言う、わしはそなたたちを下賎の者などと思うたことは一度もないぞ。わしはな、

かの地を民の国にしようと思うておる。皆が手を携えて、共に生きる国にしたいのじゃ。

ぜひ、わしに力を貸してくれ」


丙助は今にも泣きだしそうな顔で、土に額をこすりつけながら答えた。

「へへえっ。もったいなや…この丙助、たとえ他の者が行かぬと言うても、一人ででもお供をして若殿のために命を捨てて働かせていただきまする。さっそく明日にでも村の者を集めて合議をいたしまする」


「おお、よかった…じゃが、そなたたちは石川麻呂様の部民じゃ、石川麻呂様にお許しを得ねばならぬ。明日にでもお願いに参ることにしよう」

丙助は感涙にむせびながら、何度もうなづく。極の横では須恵女が、やはり涙を手で拭っていた。


「丙助、衛士の務め、明日は休んでよいぞ。では、帰るとしよう。明日の夜また世話になるぞ」

丙助はあわてて戸口のこもを上げる。


外に出ると、身を切るような冷たい風が吹き、空には満天の星が美しく輝いていた。

「若殿、今宵は須恵女に送らせまする。この子は闇夜でも目がききまするゆえ…」

「そ、そうか…では、須恵女参ろうか」

極はやや不安げにそう返事すると、丙助に別れを告げて夜道を歩きだす。


須恵女はうきうきと極の前を歩きながら、水溜まりや小石があると極を振り返って注意を促した。しばらくすると、極もようやく目が慣れてきて、ぼんやりと辺りの様子が分かるようになった。


ふいに遠くから狼らしい遠吠えが聞こえてきて、極はびくっとして立ち止まった。

「のう、須恵女…そなた恐くはないか?」

少女も立ち止まって極の方に戻って来ながら、愛らしい声で元気に答えた。

「ううん、恐いことあらへん。皇子様が一緒やもん」

「そ、そうか。わしはあまり頼りにならんがのう。わしはそなたがいるから心強いぞ」


少女は極の前に立って、何やら言いたげにじっと見上げていた。

「ん…いかがいたしたのじゃ?」

極はかがみこんで、星の光を映した少女の澄んだ大きな目をのぞきこんだ。


「なあ、皇子様…あたいも東国に一緒に行ってええか?」

「ああ、よいとも。そなたが一緒に行ってくれれば心強いし、楽しい…」


須恵女は小さな歓声をあげると、そのまま極の首に両腕を巻きつけて抱きついた。そして、少女の温かい息が鼻先をくすぐったと思うや、小さな唇が極の唇にねっとりと

重ねられ、可愛い舌がおずおずと口の中に入ってきたのだった。


極は思いがけない少女の行動にとまどいながらも、少女が離れるまでじっとしていた。

須恵女はふうっと小さなため息をついて極から離れると、恥ずかしそうにうつむいてもじもじと手足を動かす。

「あ、あたい、皇子様が好きや、大好きやのんえ。」

「うむ、わしも須恵女が好きじゃ。」

須恵女は暗闇の中でも分かるほどうれしげに小さく跳びはねた。


極は笑いながら須恵女の小さな体をひょいと抱き上げて、片腕に座らせた。少女は極の首に腕を回し、うっとりと肩の上に頭を乗せてため息をつく。

「道はどっちの方向じゃ?」

「ふふ…あっちの方や。ほら、都の灯りが遠くに見えはるやろ、あの灯りを右手に見ながら行けばええんよ」

そう言われても、極にはかすかに幾つかの灯りらしきものが見えるだけだった。星明かりを頼りにゆっくりと葛城の館へ向かう。


「のう、須恵女…そなた、もう男とまぐおうたことがあるのか?」

沈黙を破って極がつぶやいた。


うっとりと幸福に浸っていた幼い少女は、大きな目を見開いて極を見つめ、激しく首を横に振った。

「ううん、まだしたことあらへん。でも、どうやるかは知ってるえ。村の中でいつも見てるもん」

「そうか…あはは…。」

極はなぜかは分からなかったが、少しほっとした。左の腕に抱えた少女のむき出しの腿とお尻が、ふいに 温かく、しっとりとしたものに感じられた。


その後、二人は何もしゃべらなかったが、十分に楽しい気分で歩き続け、やがて葛城の館にたどり着いた。

「今帰った。遅うなってすまなんだの」

「おお、お帰りなさいまし…おや、丙助の姿が見えませぬが…」

「うむ、わしがちょっと用事を申しつけたでな、村に残ったのじゃ。明日は衛士の務めを休ませるぞ」

「はっ…」


迎えに出てきた春通は、承知してうなづいた後、やや眉をひそめて極に抱かれた少女を見つめた。

「して、その娘は…?」

「おお、この子は須恵女というてな、丙助の一族の者じゃ。夜でも目がきくゆえ、丙助の代わりにわしを送ってきてくれたのじゃ」


「はあ、さようで…」

春通はうなづくと、須恵女に向かって言った。

「ご苦労であったな。もう、帰ってよいぞ」


「いや、この夜道を一人で帰すわけにはいかぬ。今宵はここに泊むるぞ」

「と、殿、それはなりませぬ。かような汚き下賎の娘を…」

春通は吐き捨てるようにそこまで言ったが、極の表情が急に険しくなったので、後の言葉をごくりと飲み込んだ。


「春通、よい機会じゃから言うおく。わしが東国で共に手をたずさえていこうと思うておるのは、丙助やこの須恵女のような者たちじゃ。それが嫌なら、そなたは都に残れ。わしもそなたを必要とはせぬ」


春通は青ざめて、今にも卒倒しそうな表情で茫然と立ちすくんだ。しかし、どんなに大きな失敗をしても、それをすぐに反省して素直に改めるのが春通の良いところだった。


「と、殿おおっ」

春通は這いつくばって極の前に回り込み、地面に頭をこすりつけた。

「どうか、どうかお許し下さりませえぇ。人を見かけで判じてはならぬと、頭では分かっておるつもりが…いや、こと女子については殿の身にじかに関わることゆえ、つい、いらぬさし出口を…あの、つまりでござる…」


しどろもどろに必死に言い訳をする春通に極も思わず苦笑して彼を許した。

「もうよい。かようなことを二度と言わせるでないぞ」

「ははぁっ」


地面に這いつくばった春通を見て、いかにも気の毒そうな表情で須恵女が言った。

「おじちゃん、かんにんえ。今度来るときはきれいに体洗うてくるさかい…」


春通は思わずほろりと涙を落としそうになって、あわてて袖で鼻をすするのだった。


極は須恵女を腕に抱いたまま、ゆっくりと館の中に入っていった。

「人は見かけではないのう。のう、春通?」

田彦麿が、春通の肩を叩きながらつぶやいた。


その夜、極は須恵女を腕の中に抱いたまますぐに安らかな寝息をついて眠った。須恵女も極の脇にうずくまるようにして、微笑みを浮かべながら幸福な眠りについたのだった。


次の日、部屋に差し込む朝日で目を覚ました極は、しばらくぼんやりと小鳥の声に耳を傾け、早春の光に照らされた庭を眺めた。すでに須恵女の姿は無かった。

そのとき、水をくみに庭を横切る春通の姿が映った。

「良い天気じゃのう、春通…」

「あっ、殿、お早ようござりまする」

「須恵女はもう帰ったようじゃな?」


「はい、それがしが起きてすぐに…。何やらうれしげな顔であいさつをして、恐ろしき速さで走り去ってござりまする。あれはとうてい人間の速さではござりませなんだ」

「あはは…さもありなん。実はのう、須恵女はつい半年前まで、吉野の山でましらや猪とともに暮らしておったのじゃ」


「ははあ、なるほど…それで合点がゆきました。あれは確かにけものの姫でござる。」

春通は納得したようにうなづきながら井戸の方へ去っていく。



10 極、妻を迎える



その日、極は宮中の服部はとりべに出向いて、御前会議に着る衣の採寸を行ない、その後、初瀬の佐伯連阿津麻呂の館に招かれて出向いていった。


間人の養父は自ら門の前まで出てきて極を迎え、一族郎等が整然と居並ぶ間を館の奥へといざなった。

極を広間に迎え入れ、上座に座らせると、この武骨の老当主は真剣な面持ちで少年皇子の前に両手をついた。

「皇子におかれましては、こたびの任官さぞやご心労のことと拝察いたしまする…」


極が答えようとする前に、阿津麻呂は顔を上げてにやりと笑みを浮かべながら続けた。

「されど、災いを転じて幸いと為す皇子のご器量、阿津麻呂ほとほと感心いたしましてござりまする」


「どうか、お手をお上げ下さりませ。わたくしはもはや臣下に下された身にござりますれば…」

「ははっ。されど、我が佐伯の一族は、皇子はあくまでも皇子と思うておりまする。ご迷惑やもしれませぬが、どうか我らが心中お察し下さりますよう…」


極は阿津麻呂の誠意に深く感謝する旨を述べ、さらに続けて言った。

「…はて、どうやら久米の爺様は、殿に何もかもお話しなされておるようでござりまするな?」


老当主は楽しげに笑いながらうなづいた。

「あはは……いかにも、聞きもうした。されば、我らも及ばずながら何か皇子のお手伝いはできないかと考えておりました」

阿津麻呂が語っている間に、佐伯の一族の主だった人々が静かに広間に入ってきた。


「皇子、本来なら我らも久米の者たちと共に東国へお供いたしたきところなれど、大王をお守りする立場ではそうも参りませぬ。されば、上総の国に、ご料地を預かるわが一族の尾人なる者がおりまする。この男、いささか粗忽そこつなところもござりまするが、正直な男でござりまする。どうか手足として使うて下さりませ。事情は文にて知らせおきまする」


「重ね々々のご厚情、痛み入りまする。ありがたくお言葉に甘えさせていただきまする。実は、殿にもう一つお願いしたきことがござりまする」


「おお、何でも言うて下され」

「かたじけのうござりまする。されば…」


極はやや言いにくそうに瞬時ためらった後少し前に身を乗り出して低い声で言った。

「今、わが館には下人が七人おりまするが、いずれも男ばかり…。洗い物や食事は春通と田彦麿が交替でやってくれまするが、慣れぬこととて苦労しておりまする。ことに、飯は時折、えも言われぬしきものにて、ほとほと困っておりまする。されば、どなたか、わが館に来てもよいと言われる女人がおられますれば、ぜひおいで願いたいと…」


阿津麻呂は、得たりといわんばかりの顔で笑いながら、扇で膝を叩いた。できれば一族の娘と極を結びつけたいと、ずっと念願していたのだ。

「おお、それはお困りでござりましょう。されば、わが一族には多くの若い娘がおりまする。皇子のお目にかなう者がおれば、何人でも連れていってくだされ」


老当主はそう言うと、席を外し、後ろに居並んだ一族の人々に何やら指示してから戻ってきた。

「今、館におります未婚の娘たちは二十人ほどでござりまするが、ご覧いただければ幸いに存じまする。もし、気に入る娘がおらぬなら、また日を改めて他の娘たちをご覧下

さりませ」

「恐れ入りまする」


やがて、そこへ年増の侍女を先頭に、美しく着飾った若い娘たちが二十人あまり入ってきた。一番年上でも十七、八、ほとんどが十五前後の少女たちだった。


「皇子、いかがでござる。目に留まった娘がおりますれば、遠慮のう言うて下され」

極は目の前にずらりと並んだ若い娘たちをまぶしげに見やりながら答えた。

「はっ…あまりのあでやかさに目がくらんでおりまする。どの娘御もお美しうござりますれば、目移りいたしまする。されば、殿、わたくしがこれから申す条件に当てはまる娘御に残っていただいてよろしゅうござりまするか?」


「うむ、それは良きお考えじゃ。して、その条件とは…。」

「はっ、されば、わたくしは近頃、間人皇女をなつかしく思い出しておりまする。皇女と親しかった娘御がおられれば、ともに思い出話ができてよいかと…」


「おお、なるほど…さればごく近しかった娘は数名しかおりませぬ」

阿津麻呂は極の出した条件を娘たちに告げた。多くの娘たちはひどく落胆した様子で立ち去っていった。

残ったのは三人の少女たちだった。


「皇子、これなる三人が間人皇女と姉妹のごとく育った者たちでござる。右から、長男子麻呂が三女にて津和女、次が、わが妻の妹志摩媛しまひめが末娘にて紗月、最後に、次男久仁麻呂が娘にて美速にござりまする。」


極は初めからこれはと目にとまった娘がその中にいることに喜んで、もうその娘にしようと心に決めていた。

「されば、うるわしき娘御ばかり…どなたに来ていただいてもこの上なき幸せに存じまするが……紗月殿、そなた、幾つにあいなられまするや?」


指名された少女は、ぱっと頬を染めていかにもうれしげにはにかみ、他の二人はがっかりして肩を落とした。

「は、はいっ、あの、この五月で十三になりまする」

「さようか。さほど幼き身で洗い物とか食事の支度をしてもらうは気の毒じゃのう」


紗月は顔を上げ、利発そうな目を極に向けた。極はこのあどけない少女の、小さな顔と広い額、二重の黒眼がちの大きな目が気に入っていた。

「皇子様に申し上げまする。あの、わたくしできまする。いえ、できるようにこれから習いまする」

少女は必死の表情で訴えた。


「そうか。では、そなたにお願いしよう」

「は、はいっ、ありがとうござりまする」

紗月は、今にも飛び上がらんばかりの喜びようだった。後ろの方では、人々がざわめき合って幸運を射止めた娘を見守っていたが、特に紗月の両親は、周囲からの祝福に涙を流して喜び合っていた。


阿津麻呂もにこにこしながら、何やら感心したようにしきりにうなづいていた。

「あはは…いや、めでたいことじゃ。よかったのう、紗月…。そなたの心根のよさは皆が知っておる。不思議なのはそのことよ。皇子にはなぜに紗月をお選びになったのか。三人の中で一番幼い、それに、こう言ってはそなたに気の毒じゃが…決して見目うるわしいとは言えぬ娘じゃ。されど、皇子はそなたをお選びになった…」


「あ、いや、わたくしはまず紗月殿の美しさに惹かれましてござりまする」

阿津麻呂も紗月も驚いて、極を見つめた。この時代の美人の基準から見ると、紗月はむしろ醜女と言ってよかったからだ。やせて顔が小さく、額が広く、目が二重で大きく、鼻筋も通って高い、これらはすべて醜い女の条件だった。色白なことと、ふっくらとしたおちょぼ口のところだけが美人の条件にあてはまっていた。


「紗月、皇子のお優しき心、忘れるでないぞしっかりお仕えいたせよ」

「はいっ。」

阿津麻呂も紗月も、極が紗月を気遣っているものと思い込んでいるようだった。しかし極はあえて訂正しなかった。自分が美しいと思えばそれでよいのだ。


「では、皇子、いささか準備をいたさせまするゆえ、十日の日に紗月をお館へ向かわせましょうぞ」

「はっ、楽しみに待ちまする」


こうして、実質上極の最初の妻となる紗月が、一週間後館に来ることが決まった。

ただし、表向きには紗月は久米家の養女、つまり極の義妹として届け出がされた。豪族同士の結びつきには他の豪族や朝廷の目が光っていたからである。


御前会議を明日に控えた二月四日の朝、極は春通、田彦麿らとともに飛鳥の地へ向かった。病の床に伏せっているという山背大兄王を見舞うためであった。


王はすっかりやつれて、気も弱くなっていた。極が見舞いの品として持参した葛湯を手ずから入れて飲ませると、王は涙を落としながら極の手を握りしめた。


「極、許せよ。わしに力が無いばかりに、そなたには苦労をかけるのう…」

「何を仰せられまする。これまで、王には口では表せぬほどの恩義をいただいておりまする。都に帰ってきたあかつきには、きっと恩返しをいたしまするゆえ、どうかお心安くお体をおいとい下さりませ」

王は流れる涙を拭こうともせず、何度もうなづくのだった。


鉛色の空から今にも雨が降ってきそうであった。極も春通も田彦麿も口をつぐんだまま歩き、時折空を見上げていた。


「皇子さまああ…」

葛城の地に入って間もなく、極たちの重く沈んだ心を吹き飛ばすような、明るく弾んだ声が聞こえてきた。


「おお、須恵女ではないか。いかがいたしたのじゃ、見違えたぞ」

少女はいかにもうれしげにはにかんで極の前に立ち、きれいにくしけずって束ねた髪を見せながらうつむく。衣服はそのままだが、手足はこんなにも白かったのかと思うほど、泥を落としてさっぱりしていた。


「何かあったのか?」

「う、うん…あんまりええ報せやないて丙助親分が言うてんけど…蘇我のおとどはんが大王さんにことわらへんで、祈年祭の舞いを蝦夷はんにさせはったんやて…。それで、大王さん怒らはって、式の途中で出ていかはったらしいえ」

「またか…。蘇我大臣にも困ったものよ」

春通が、ため息をついてつぶやいた。


極はにこにこしながら須恵女を見つめていた。心の中で、丙助がさっそく『報せ』の試しに少女を走らせたのだと思っていた。

少女は、彼の視線にもじもじして頬を赤らめ、背中を向けて前を歩きだす。

「しかし、見事に長き肢じゃのう…。鹿じゃな…須恵女は鹿の子じゃ」

極は、少女の気持ちが良いほど細く伸びた肢体を眺めながら、感嘆の声を上げた。

「も、もう、皇子様ったら…恥ずかしいやん…」

須恵女は真っ赤になってそう言うと、極の背中に回ってしがみついた。


「あはは…よし、館まで速駈けじゃ。わしが勝ったら、何でも言うことをきくのじゃぞ。

よいか?」

「ふふ…ええよ。どうせあたいが勝つに決まってるもん。あたいが勝ったら、何でも言うこときいてくれはるかえ?」

「おお、何でもきくぞ。春通、くつを持っていてくれ」

極は木製の沓を脱いで春通に手渡すと、足袋のまま指貫さしぬきの裾をまくり上げた。


「殿、お怪我などなされませぬよう…」

「案ずるな。それより、掛け声をたのむ」


極と須恵女は道に並んで身構える。

「では、いきまするぞ。やれ、行けっ。」


春通の掛け声とともに、二人の野生児は脱兎のごとく走りだした。しかし、やはり須恵女は余裕を持って極の横を走った。楽しげな笑い声を上げ、真剣な顔の極をちらちら見ながら速さを調節している。


「ええい、悔しいのう…どうしても須恵女には勝てぬ…」

とうとう途中で極は音を上げて、はあはあと息をととのえた。須恵女はまったく息が上がった様子はなく、にこにこしながら優しく極の背中をさすり始める。


「こないにぎょうさん服着てはるさかい、走られへんのんや」

「うむ、そうじゃな」

極はそう答えると辺りを見回し、道の左手にある小さな林の方に向かってすたすたと歩きだす。

「どこ行きはるんえ…お館はもうすぐそこやのに…」

須恵女はけげんな顔で追いかけていく。


極は林の中に入ると、切り株を見つけて座り、衣服を脱ぎ始めた。須恵女は思わず顔を手で覆って横を向いたが、指のすき間からこっそりとのぞき見していた。

「ふう…ああ良き心地じゃ」

極は上着と袴を脱いで、小袖だけになると枯葉の積もった地面に寝転んだ。

「さあ、約束じゃ。須恵女、望みを言うてみよ」


少女は極が脱ぎ捨てた衣服を抱えて、うれしそうにはにかみながら極の傍に歩み寄る。

「あ、あの…あたい…あっ、な、なんえ?」

頬を染めて自分の望みを口にしかけた少女は、むきだしの太腿に伸びてきた極の手にびっくりして飛び退いた。


極は自分のやったことを恥じて赤くなり、怒ったように立ち上がった。

「す、すまぬ…」

極は頭を下げて謝ると、逃げるようにして足早に去っていこうとする。


「あっ、み、皇子様、待っておくれやす」

須恵女は赤い顔のまま、あわてて極を追いかける。

「あ、あの、あたい、びっくりして…あん、もう、待ってや、皇子様…」


とうとう林を出たところで、須恵女は極の衣をつかんで引き止め、頬をふくらませてにらみつけた。

「なんで逃げはるんえ?なあ、なんでや?」


「わしは…わしは悪い心を起こした。もはやこれまで。さらばじゃ」

極はそう言うと、少女が抱えていた自分の衣服を取って去って行こうとした。しかし、

少女はむしろ吹き出しそうになって、笑いをかみ殺しながら、衣服をしっかりと抱き締めて渡そうとしない。


「何をする、わしの服じゃ…返せ…」

「ふふふ…嫌や、返さへん。皇子様があたいを許してくれはったら、返すえ」

「な、何を言うておる…許してもらうのはわしの方ではないか」

「ううん、あたいが悪いんえ…」


極はため息をついて座り込む。

「皇子様…」

須恵女は頬を染めて、極の背中にささやいた。

「もし、皇子様の言わはる悪い心が…あたいがお願いしようて思てたことと同じなら、あたいの方が悪いんよ。あたいが早う言わんかったから…」


極は須恵女が何を言いたいのか分からず、眉をひそめて少女を振り返った。

「あ、あのな、あたい…み、皇子様に…」

「も、もうよい。さあ、帰るぞ、須恵女」


極はなぜか、それ以上聞くのが恐くなって立ち上がった。須恵女にそれ以上言わせてはいけないという気持ちもあった。

「あっ、ま、待ってえな、皇子様ったら…もう…」


二人はまるで鬼ごっこをしているかのように、早春の野道をもつれあって走っていく。

あたかも生まれたばかりの二匹の蝶が、春の日差しの中で戯れるように…。



 11 御前会議



板ぶきの宮の大門の前には、何台かの牛車が並び、正装した豪族たちがゆっくりと門を通って中へ入っていく。


その朝、極は大炊所おおいどころの官僚である田彦麿をお供に、初めて官人として出仕した。


御前会議が開かれる朝議の間には、すでに大勢の豪族たちが居並び、ざわざわと話をしていた。名前は知っていても、初対面の者が多かったので、極は広間の一番隅に行って静かに座った。


奥の方から大きな話し声が近づいてきた。やがて二人の人物が広間に姿を現すと、居並んだ豪族たちはさっと頭を下げて二人を迎えた。極は頭は下げなかったが、うつむいて目の前の床板の節目を数えていた。


「おお、これは久米征東夷大使殿、ようござったのう」

「ははっ。蘇我大臣にはご機嫌うるわしゅう祝着に存じまする」

「あはは…まあ、そう堅苦しくなされずともよい」


蘇我入鹿は東漢氏の子息とともに一番上の座に座った。

「方々、初めて顔を合わせる者もいよう。この度、征東夷大使に任官なされた近江彦皇子あらため久米臣極殿じゃ」


入鹿の紹介に、一同は一斉に極に注目してざわめき合った。

「おお、うわさには聞いておったが、なるほど凛々しき若者じゃ」

「わしもいろいろとうわさを聞いておりまするぞ。なんでも夜中に山中に入って、もののけどもを相手に剣の修行をなさっておるとか…吉野の山姥やまんばの娘が家来だとか…」

巨勢徳陀こせのとくだの言葉に、そこここから笑い声が上がり、一段とざわめきが大きくなった。


「若い時はそのくらいの元気があってよいのじゃ。久米大使、お気になさるなよ」

極が憮然とした顔で頭を下げた直後、奥の方から先触れの声が聞こえ、木鐸が打ち鳴らされた。やがて舎 人に先導されて、中大兄皇子と皇極女帝が姿を現した。女帝は御簾が掛かった玉座に入り、中大兄皇子は玉座の下に座った。


一同は二回拝礼し、蘇我大臣が奏上して会議の始まりが告げられた。

「では、まず百済よりの書簡に対していかなる返答をするか、合議いたそう」

極にとって退屈この上もない時間が果てしなく続く。発言を求められることもなく、彼は黙って話を聞いていた。

しかし、その日の最後の議題は極に直接関わるものだった。


「…では、次の議題でござる。今後の東国の経営をいかに進むるべきか。まずは現状について、巡検使より報告がござる」


別間に控えていた巡検使が呼ばれて、下座から奏上した。

「恐れながら申し上げまする。上毛野かみつけのより西の蝦夷は、朝命に従ってぞくぞくと常陸ひたち以北へ移住しておりまする。されど、常陸や越後の国境近辺では、いまだに御料物を運ぶ荷車が襲われることが度重なっておりまする。特に、左内の率いる一団には手を焼いておる状況にて…」


「国府の兵は何をしておるのじゃ?」

「はっ…それが…兵の大半は東国の農夫でござれば、なかなか意気が上がらぬようにて、筑紫、笠原、佐伯の面々も弱り果てておるように見受けましてござりまする」


「されば、いつ反乱が起きてもおかしくない状況であると申すのじゃな?」

「はあ…それがよく分からぬのでござりまする」


「何と…よく分からぬとは、一体いかなることぞ?」

「はっ、されば、土地の首長たちに聞くと、大王の御威光ありがたく、子々孫々に至るまで決して朝命に反することはいたさぬと、口々に申しまする。なれど、民たちに聞くと、もはや生きてゆく希望もなく、明日をも知れぬ毎日に恐れまどうておると…。これを考えまするに、首長たちには反乱の意志はなけれど、民の不満を抑え切れねば、あるいは…というところと見受けましてござりまする」


一同は沈痛な面持ちでため息をつく。西国は、幾度かの血生臭い戦乱はあったものの、同じ言葉を話す大和民族だったので、朝廷への恭順は順調に進んでいた。ところが、蝦夷と呼ばれる人々の中には、言葉も風習も全く異なる者たちが数多くいた。しかも、未開の厳しい自然が広がっている。東国の平定は予想以上に困難なことだったのだ。


「お言葉である。」

中大兄皇子の声に、一同はさっと平伏ひれふす。


「大王におかれましては、ぜひとも征東夷大使の考えをお聞きなされたいとのお望みである。久米征東夷大使、謹んで奏上せよ」


「ははっ、されば申し上げまする」

極は帝の方へ体を向けて平伏し、よく通る声で自らの考えを述べた。


「臣、思いまするに、東国を安らぐること、思いのほか難しうはないと見ましてござりまする」


その言葉に、一同は目を丸くして驚き、理由を聞きたがった。

「ふっ…これはまた大きく出たのう。ここは御前会議の場であるぞ、軽々しく大言壮語を吐くでない。よいか、久米の…あ…は、はい…征東夷大使、大王はそなたがそう思うたわけをお知りになりたいとおおせじゃ」

中大兄皇子は苦々しげな顔で、極をにらみつけながら言った。


「ははっ、されば、東国はいまだ田畑少なく、何よりも民の日々の糧にこと欠きおりますること、これが反乱の種であると見まする。さらには、多くの部族が今日まで、相争うばかりで、共に手を取り合い田畑の開墾や治水に精を出すこともなかったのでござりまする。

蝦夷といえども人の子。子孫が安心して暮らせる世界になることを必ずや望んでおりましょう。されば、大王のありがたき御威光により、東国の民が手を握り、己れのため、子孫のために働くようになれば、必ずや良き国となり、多くの御料物を納めるようになりましょう」


極の言葉は、都で勢力争いに神経をすり減らしている豪族たちにも、痛烈な皮肉として胸を刺した。中大兄皇子は苦虫をかみつぶしたような顔で、極を見つめていた。


皇極帝は御簾の陰で不覚にも涙をこぼし、それを悟られぬようそっと指で拭ってから中大兄皇子に言葉を伝えた。

皇子は驚いた顔で何やら母帝に聞き返していたが、やがて不承々々頭を下げた。


「お言葉である。大王におかれましては、大使の言上ごんじょうにたいそうお心強うおぼしめされたるよし。されば、久米朝臣に詔勅をもって、征東夷大使に加え、東方全権使の任を与ゆるとのおおせである」


これには極ばかりか、入鹿をはじめ居並んだ諸豪族の当主たちも驚き、ざわめき合った。なぜなら、これによって極は兵事だけでなく東国経営に関するすべての権限を与えらることになったからである。


「いやあ、これはめでたい。のう、方々、これよりはわれらも久米大使に存分に働いていただけるよう、力添えをしなければなりませぬぞ」

入鹿の言葉に豪族たちもさっと平伏して承諾する。


このとき、中大兄皇子と蘇我入鹿は対立する立場でありながら、二人とも同じ事を考えていた。それは、どちらにとっても極が重要人物になったということであった。今後、彼をいかに自分の側の人脈に取り込むか、二人は少年皇子を見つめながら思案をめぐらすのだった。

会議は、極の東国への出立を五月の初めと決定して終わった。


極が、気疲れした顔で広間を出たところへ、蘇我入鹿が近づいてきた。

「おお、久米征東夷大使、今日は見事な言上にござりました」


「これは大臣、いたみいりまする。ひとえに大臣のお力添えのおかげにござりまする」

「あはは…いやいや、何にしてもめでたいことじゃ」

入鹿は笑いながら、さらに近づいて声を低くしながら続けた。

「久米大使、いや…久米皇子とお呼びいたそう。ふふ…そなたを臣下に下し、東国へ遣わすことを考えたのは、いかにもわしじゃ。されど、それは中大兄と中臣のせがれが、そなたを悪しき企みの一味に加えようとしていたからなのじゃ…」


驚く極に、入鹿は小さくうなづくと、真剣な目で見つめながら続けた。

「皇子、東国で一段と大きなる男になって帰って来られよ。その間に、わしは都の大掃除をしておきまする。皇子が帰られた暁には、共に手を携えて、まことの国造りをしてまいりましょうぞ」


それは、入鹿一流の言葉巧みな懐柔策だったかもしれない。しかし、極はこの時の入鹿の目に、一つの真心を見ていた。


蛇蝎だかつの巣のごとき都の中で生き抜いていくためには、己れは蛇蝎以上の毒を持っていなければならない。蘇我の家に生まれた者の、それは宿命であった。しかし、極はこの時、初めて入鹿の人間的な一面を感じて、自然に頭を下げていた。


「お言葉、心に刻んで忘れませぬ。大臣におかれましても、なにとぞお健やかにあらせられませ。ご無理はなさりませぬように…」

「うむ、せいぜい気をつけましょうぞ。あはは…されば、皇子、近きうちに一度わが館を訪ねて参られよ。出立の前祝いをいたしましょうことに…よいな、必ずでござるぞ」

「はっ、承知いたしました」


入鹿はにこやかにうなずきながら、極の肩を叩いた。ゆっくりと去っていく入鹿の背中がなんとなく寂しげで、極はもう一度頭を下げて彼を見送ったのだった。


東国へ旅立つまであと三月。さまざまな準備のことを考えると、さほど余裕のある日数ではない。極は心の中で計画を考えながら、大門の前までやってきた。


「お疲れ様にござりました。ご首尾はいかがにござりましたや?」

衛士の詰所から出てきた田彦麿が尋ねた。

「うむ、さしたるへまはせなんだが…。のう田彦麿、そなたか春通に少し動いてもらわねばならぬやもしれぬ…」

「はっ、なんなりと…。して、それは…」

二人は肩を並べて門を抜け、にぎやかな大通りに出た。


「殿、お帰りなさりませ」

「皇子様っ…」

「おお、なんじゃ、二人してわしを待っていてくれたのか?」


春通と須恵女も極の初めての出仕を心配していたのだった。極を囲んで、一行はなごやかに話をしながら早春の道を歩いていく。


「殿、さきほどのお話でござりまするが…、ちょうど春通もおりますれば…」

「うむ、そうであった。実はのう、わしの東国任官は五月ということになった」


春通と田彦麿は驚いて、思わず立ち止まった。

「さ、五月…もう三月足らずではござりませぬか。これはたいへんじゃ」

「うむ…まあ、そうあせることもあるまい。さしたる準備は要らぬでな。ただ、そなたか田彦麿のどちらかに、先に東国へ行ってもらい、少し調べておいてほしいことがあるのじゃ」


「はあ、それならそれがしが行きましょう。叔父御は宮仕えがござりますれば…」

「うむ、そうじゃな。では、春通、そちに頼もう。丙助に一緒に行ってもらおう。さすれば、わしも安心じゃ。では、くわしきことは館に帰ってからじゃ」


極はそう言うと、次に須恵女に笑顔を向けた。

「須恵女、これから衣を作りに行くぞ」

「えっ、誰の衣なん?」

「もちろんそなたのじゃ。東国へ共に行くには、わしの家人にならねばならぬ。今日よりそなたはわしの護衛の衛士じゃ、よいな?」


あっけにとられていた須恵女も極の言葉を聞くと、満面に笑みを浮かべて飛び上がらんばかりに喜んだ。

さっそく二人は春通と田彦麿に別れを告げて、畝傍山うねびやまの麓の久米の服部の集落へ向かった。

そこは小さな集落で、唐からの帰化人である秦安近はたのやすちかが指導にあたっていた。秦氏はこうした全国の機織部はたおりべを束ねる大豪族で、他の豪族たちに頼まれて、指導者を派遣していたのである。


「はああ…これが、あの須恵女でござるか。なんとも、驚きもうした」

帰ってきた須恵女を見て、丙助が驚きの声を上げ、それを聞いた春通と田彦麿も門のところにやってきた。

「ほお…変われば変わるものですな。しかしやや衣が大きいような…」


皆の注目を浴びて、少女ははにかみながらも、うれしくてしかたがないように真新しい狩衣かりぎぬ姿で飛び回った。絹織りで、袖と袴のすそにはなだ色のぼかしが入ったさわやかな狩衣だった。


「あはは…なかなか似合うであろう?できあいのものでは、これが一番気に入ったでな。

少しばかり大きいが、須恵女もすぐに大きゅうなろうしのう」

「はあ、確かに…。なれど、あの髪ではどうみても男子おのこにしか見えませぬな」


髪を白い元結いで後ろに束ね、前髪を分けて下ろした須恵女は、確かに可愛い男の子に見えた。

「まあ、皇子様まで、あたいのこと笑ってはるんかえ?」

「あはは…いや、笑っておるのではないぞ、須恵女。そなたがあまりに愛らしいのでな。

よう似合うておるぞ」


少女はとたんに赤くなり、極の背中の方へ逃げるように隠れてしがみついた。

「今日よりはわしの護衛役として、常に側におるのじゃぞ」

須恵女はしがみついたままうなづく。そして、すぐに声を殺して泣きだした。その小さな体が小刻みに震えるのを感じた極は、体の向きを変えてかがみこんだ。


「須恵女、どうしたのじゃ。なぜに泣く?」

少女はまだ赤い顔のまま、泣き笑いの顔をあげて、恥ずかしそうに小さく首を振った。

「あ、あたい…うれしくて…うれし……」

今度は本格的に泣き始めた少女をしっかりと抱きしめて、極は、周囲で微笑ましく見守る男たちを照れ臭そうに見回す。



12 分かち愛



明るい早春の朝であった。まるで日ざしの中に溶けるように、まぶしく輝く一人の少女が、出迎えに居並んだ人々の前に立った。


「ただいま参りました。佐伯連阿津麻呂が姪にて、鞠地首村彦きくちのおびとむらひこが娘紗月にござりまする。今日よりは、一身を賭して皇子様にお仕えいたしますれば、皆々様、以後よろしゅうお頼み申しまする」


少女は元気な声であいさつをすると、頭からかぶっていた布をそっと持ち上げて、夫となる少年をまぶしげに見上げる。


緊張して待っていた極は、少女の美しさに思わず胸を高鳴らせ、乾いた喉を唾液で湿らせてから言った。

「よう来てくれた。待っておったぞ」


極の言葉に、紗月は頬を染めてうれしげに首をわずかに傾けながらうなづく。


表向きは義妹として届けられることになっていたので、衣服も普段着のまま、お供も側仕えの乳母一人という寂しい輿入れだった。

しかし、門の前にずらりと並んだのは、米俵を積んだ荷車が三台、家具や衣裳箱を積んだ荷車が二台、そして、味噌、漬物、金銀を積んだ車が一台という豪華さで、いかに紗月が佐伯一族の期待をになって嫁いできたかがしのばれた。


紗月はさっそくその日から、乳母と手分けして家事のいっさいを引き受けて働き始めた。下男や下女たちにてきぱきと指示し、その労苦をねぎらう、という申し分のない仕事ぶりだった。


「はああ…殿もたいした奥方はんをおもらいやなあ。あのお歳で一分のすきもない見事なおかみさんぶりだえ」

丙助は、庭で下女たちと一緒に洗い物をしている紗月を眺めながら、感嘆してつぶやくのだった。


夕方、久しぶりにおいしい食事にありついた極、春通、田彦麿たちは、感激して何杯もおかわりをした。

紗月は給仕をしながら、いかにもうれしそうに男たちの食べる姿を見守っている。


「あの、そちらの可愛い従者様はおかわりはされぬのでござりますか?」

紗月が見ていたのは、極の横で食事をとっている須恵女だった。


「あ、い、いえ、もうけっこうどす」

「まあ、声まで愛らしい…。女子のように美しいお顔立ちだし…」

「あはは…紹介が遅れてすまぬ。この子は須恵女というて、正真正銘可愛い娘じゃ」


紗月は大きな目を見開いて驚き、口に手を当てながらすまなそうに頭を下げた。

「まあ、お許し下さりませ。狩衣に、その髪ゆえ、てっきりわたくしと同じ年頃の近侍

(きんじ)の従者様かと…。なぜにそのようなお姿を…?」

「うむ、須恵女は女子おなごなれど、剣と弓の腕はたいていの男はかなわぬほどでのう。さればわしの護衛の衛士をやってもろうておるのじゃ。」

紗月は感心したようにうなづき、須恵女は照れ臭そうにうつむいた。


こうして、一日目の夜は楽しく更けていったが、一つの問題が起きたのは皆が寝静まった深夜のことだった。


極は、いつものように須恵女を腕に抱き、一つの衣にくるまって寝転んだ。こうして寝るようになって四日目だった。毎夜、二人は眠りにつくまでの間、他愛のない話をし、時おり戯れに唇を合わせり、互いの体をくすぐっては声を殺して笑い合ったりした。須恵女にとっては夢のように幸せな四日間だった。

その夜はさすがに紗月をはばかってあまり極に甘えず、おとなしく眠りにつこうとしていたが、なかなか寝つけなかった。すでに極は安らかな寝息をついて眠りに入っていた。


ところが、この時、紗月は万全の初夜の準備を整えて、極が渡って来るのを待っていたのである。あまりの遅さに、乳母の成女なるめが極を呼びに行こうとするのを、何度も引き止めていたのだ。


「もはや、この期に及んでは今宵の殿のお渡りはないものと思われまする。姫様、どうぞお休み下さりませ」

「う、うむ…そういたそう」


紗月は今にも倒れそうなほどショックを受けて、夜着にくるまり、ついたての陰で声を殺して泣いた。そんな姫君の様子にいたたまれず、成女はそっと部屋を抜け出して極の部屋へ向かった。一言文句を言わなければ気がすまなかったのである。


暗い回廊を月明かりを頼りに奥へと進み、極の部屋の近くまで来たときだった。何やら部屋の中から押し殺したようなうめき声が聞こえてきたのだ。そっと近づいて耳をすませると、それは確かに若い女の声だった。


成女はあまりにひどい仕打ちに涙ぐみながら部屋へ戻り、紗月に訴えた。

「…姫様、こうなっては明日にでもお館に帰りましょうぞ」


紗月はショックに青ざめて乳母の話を聞いていたが、取り乱した乳母を叱りつけるようにしっかりとした口調で言った。

「何を申す。いったん夫婦の契りをかわしたれば、もはやここがわたくしの家、帰る場所はありませぬ」

「なれど、これではあまりにも姫様がお可哀想ではござりませぬか」

「殿はわたくしを妹としてお迎え下さったのです。確かに、お館様もそうおおせられました」

「なれど、それは表向きのことではござりませぬか。お館様も早う曾孫の顔を見せに来てくれと…」


紗月はむしろさっぱりとしたような表情で小さく首を振った。

「殿には殿のお考えがあるのじゃ。わたくしは殿のお側で暮らせれば、それだけで幸せじゃ。本当ですよ」

「ああ、姫様、おいたわしや…」


次の朝も紗月は早く起きて、朝食の支度を調え、にこやかな笑顔で皆を迎えた。しかし極と須恵女が仲むつまじく寄り添って現われたとき、思わずほろりと涙をこぼしたことは誰も気づかなかった。


「おお、うまそうな味噌汁じゃな。ねぎに茄子に大根か…。やはり、春通が作ったものとは違うのう」

「はあ、確かに…。それがしが作ると、どうも味噌が多すぎて…ううむ、うまいっ」

「ふふ…たくさん作りましたので、どうぞおかわりをして下さりませ」


極はおいしい朝食を味わいながら、けなげに給仕をする幼い少女を見つめていた。

「のう、紗月、そなたには来た日から働きづくめですまぬと思うておる。今日は仕事は休んで、ゆるりと都見物にでも参ろうぞ」


思いがけない言葉だったが、紗月は涙が出るほどうれしかった。胸をつまらせて、すぐに返事ができない。


「おお、それはよい。ぜひ、そうなさりませわしらもたまには働かぬと、ただの役立たずの居候になってしまいますのでな」

春通の言葉に、居間はにぎやかな笑い声に包まれる。紗月もそっと袖で涙を拭きながら笑うのだった。


「ああ…ほら、殿はこんなにもお優しい気持ちでわたくしを見ていて下さったのですよ。ああ、うれしい…」

外出のための衣服を選びながら、紗月は喜びにうかれていた。


「はい…なれど、肝心なのは妻としてか、妹としてか、でござりまする。そこのところを殿にしっかりとお確かめにならねば…」

「わ、分かっておる…。のう、これは派手すぎるかのう…」


空は薄曇りで太陽は隠れていたが、まるでそこだけは日差しが当たっているように輝いていた。

「あ、あの…わたくし、何か変でござりましょうか?」


紗月は皆の驚いた顔を見て、思わず着替えに戻ろうかと思ったほどだった。

「い、いや、そなたがあまりに美しいゆえ、見とれてしまったのじゃ」

「ま、まあ、わたくしが美しいなどと…そのようなこと…うふふ…」

紗月は口に手を当てる独特のしぐさではにかみ、赤くなってうつむく。


「ううん、本当にきれいえ、紗月様…。あたいもこんなにきれいに生まれたかった…」

「まあ、須恵女様までそのような…。あなた様こそ、うらやましい…」

「えっ、あたいがうらやましい…?」


紗月は思わず口から出たつぶやきに、あわてて笑ってごまかしながら、極の側に駆け寄った。

「さあ、参りましょう、義兄上あにうえ様」


「う、うむ、義兄上か…そうじゃな。外ではわしとそなたは義兄妹であったな」

紗月は寂しげに微笑みながら、極の腕を抱いて歩きだす。


「行ってこられませ。須恵女、ちゃんとお二人をお守りするんやぞ」

「うん、まかしとき」

男たちに見送られながら、三人は春の景色の中へ出ていく。


「そうじゃ…。のう、須恵女、そなたの太刀も造らぬとな。帰りに、刀鍛冶のもとへ参ろうぞ」

「わあ、うれしいな。ふふ…これ、やっぱり少し重いんえ」


「殿は本当に須恵女様を大切になさっておられるのですねぇ」

紗月の言葉に、極は前を行く狩衣姿の小さな少女を眺めながら言った。

「わしには消そうにも消せぬ思い出があってな。まだわしが須恵女よりも少し幼い頃のことじゃ…」

極はそう言って、橿原での思い出の一端を語った。


「…じゃから、幼い子供には無条件で何かしてやりたくなる。この腕にしっかりと抱き締めてやりたくなる…ん、どうしたのじゃ?」

「い、いえ…殿があまりにお優しいゆえ…。」

紗月はそっと涙を袖で拭いた後、にっこりと微笑んだ。


「あーっ、だめやんか、皇子様、紗月様を泣かせはったりして…」

須恵女は後ろを振り返って、紗月が涙を拭いているのを見たのだ。

「かんにんえ、意地悪な皇子様で…」

「わ、わしは別に何も…」


須恵女は紗月の肩を優しく抱いて、極をにらみつける。

「ふふ…須恵女様、殿は何も意地悪をされたのではありませぬから」

「えっ、そうなん…。えへへ…あたい、てっきり皇子様が何か意地悪を言わはったんかと思うて…」

須恵女は照れ笑いをしながら、さらに続けて言った。

「もし、皇子様が意地悪しはったら、言うておくれやす。あたいはいつだって紗月様の味方え」

すっかり悪者あつかいされた極は、むくれてさっさと先に歩きだす。


二人の少女は顔を見合わせてくすくすと笑いながら、ゆっくりと後ろの方から歩いて行く。

「あの…須恵女様…」

「様づけはやめてや、あたいには似合わへんから…。須恵女と言うておくれやす」

「ええ…では、わたくしのことも紗月と呼んで下さいね」

「そんな…紗月様は皇子様の奥方はんやもん、呼び捨てになんかでけへん…」

「ま、まあ…あの、奥方様などと…そ、それは殿がおおせられたのですか」

「ううん、皆が言うてるえ」


紗月はうれしさに思わず顔がほころぶのをがまんする。

「あの…ねえ、須恵女…わたくしはうそをつくのが苦手だから、正直に言いますね…」

「うん、あたいもうそは嫌いや。正直に言うえ」

紗月はにっこり微笑んでうなづいた後、少し言いにくそうに口ごもりながら言った。

「あの…須恵女は…その…殿とま、まぐわいはいつ頃から…」


その問いに、須恵女はぎくりとして立ち止まり、すぐに涙ぐんでうつむいた。

「ああ、須恵女、泣かないで…。わたくしは怒っているのではないのですよ。ただ…わたくしは…」

紗月も泣きたい気持ちになった。もどかしさとみじめさに、自分が小さくなったような気がした。


「あ、あたい…あたい…してもろてへん…。あたいみたいな下賎の女は、してもらえへんのんえ…。うう…う…あたいは皇子様のお側におったらあかんのや…。かんにんえ、紗月様、かんにんえ…」

「須恵女、何を言うの…ああ…可哀想に…須恵女……」

二人は、抱き合ってしばらくの間涙にくれていた。


一人先を歩いていた極は振り返って、二人がずっと後ろの方に立ち止まっているのを見た。二人は抱き合って、どうやら泣いているようであった。極はため息をつきながら、傍らの土手に腰を下ろした。


少女たちはずいぶん長いこと抱き合って、何か語り合っていたが、やがて、今度はまるで百年来の知己のように、なごやかに談笑しながら極のもとへやってきた。

「お待たせいたしました」


「泣いたり、笑ったり…女は大変じゃな」

極が少し皮肉をこめてそう言うと、少女たちは顔を見合わせて笑いながら、どちらが言い返すか、目で相談する。そして、須恵女が口を開いた。

「そうや、女は大変なんえ。とくに、鈍感で、ぼぉっとした男を好きになってしもうたら、どうしようもあらへん」


「ん…それはわしのことか?」

二人はくすくす笑いながら、極を見つめている。

「むう…もうよい、勝手にいたせ」

極は、少女たちの心が全く分からず、いらいらしながら歩きだす。


「あん、待ってえな、皇子様…もう、すぐ怒らはるんやから…」

須恵女はあわてて極の袖を引っ張って引き止める。


「あの、殿、一つお尋ねしてよろしゅうござりまするか?」

今度は紗月が極の前に立って、切なげな目で見上げながら言った。

「何じゃ…?」

「はい…あの…殿はわたくしを妻としてお迎え下さったのでしょうか?それとも妹としてでござりましょうか?」


「もちろん、妻としてじゃ。そなたはその心積もりではなかったのか?」

紗月はもう喜びに満たされて、それ以上望みはなかったが、須恵女のこともあったので続けて言った。

「では、なにゆえに昨夜はお渡りにならなかったのでござりましょうや?」


極はようやく紗月の不満の原因を理解して小さくうなづいた。

「そうか…確かに昨夜は初夜であった。わしは、そなたのもとへ行くべきだったやもしれぬ。なれど、わしははなから、そなたとまぐわうのはずっと先のことじゃと思い込んでおった」


「まあ、わたくしはもうできまする」

「やったことがあるのか」

「い、いえ、あろうはずがござりませぬ」


極は小さなため息をついて、二人の少女を交互に見つめながら土手に座った。

「正直言うと、わしは恐いのじゃ…。それに泣かれたれば面倒だという思いもあった。乳母殿に、幼いそなたを血まみれにする悪漢だとののしられはせぬかと案じてもおる…」


少女たちはあきれたような表情で互いの顔を見た後、少し怒ったように極の両側に座った。

「殿…われらは確かに、まだ一人前の女ではござりませぬ。なれど、殿はあまりにもわれらを子供扱いなさっておられまする…」

「うむ…そうかもしれぬ…。されど……」

須恵女が極の袖を引っ張って、悲しげに見つめる。

「あたい、この頃は毎日体洗うてるえ…。あたいのこと、汚いと思わはる…。やっぱり、

下賎の女だから、嫌なんけ…」

「ばかな…わしがそのような男だと……」

須恵女は首を振りながら、極の胸に飛込みうめくように泣き始める。

「もっと先では、なぜいかぬ。あと三年か四年の辛抱ではないか…」

極は須恵女を抱き締めながら、反対側に座った紗月に尋ねる。

「それでは蛇の生殺しにござりまする。我慢できずに、他の男とまぐおうてもよいのでござりまするか?」

「な、何をばかな…。よし、そうまで言うならわしはもう我慢せぬぞ。泣いて許しを請うても知らぬからな、よいな?」


とうとう極を追い詰めて、その気にさせた二人の少女は心の中で狂喜しながらも、しおらしい様子でこくりとうなづく。

「もう都見物の気分ではなくなったのう。」


極のつぶやきに、須恵女は涙を拭くと、はにかみながら立ち上がって言った。

「誰にも邪魔されへんとこ行こ。あたいの秘密の場所があるんよ。こっちや…」

三人は田畑のあぜ道や野原を通って、遠くに吉野の山並みが見える方へ歩いていった。


少女たちは楽しげな声を響かせながら、花を摘み、蝶を追いかける。

「わあ、大きな川でござりまするなあ」

「吉野川や。ふふ…あたい、ここで水浴びや魚捕りをしていたんえ」

須恵女は紗月の手を引いて、土手を駈け下りていく。極は二人を眺めながら、草の上に腰を下ろす。


やがて、楽しげな笑い声を上げながら少女たちが戻ってくる。

「殿、たくさんの魚が目の前を…わたくし初めて見ました」

深窓の姫君である紗月には、何もかもが珍しく、美しく見えるようだった。


三人は再び早春の野道を歩き始める。吉野川の岸を上流へ向かって半里ほど行くと、吉野神宮の入り口に架かる大きな橋のたもとに出た。

「こっちや…。この先にあたいの婆ちゃんのお墓があるんえ」


静かに澄みきったやしろの森の空気の中を、奥へ向かって進んでいく。そこはもちろん吉野神宮の境内である。こんな場所に墓を造るのは、神社に深いゆかりがある者か、皇族以外にはない。極は不審に思いながら、須恵女の後についていった。


「ほら、ここや」

確かにそれはこんもりと土を盛り上げ、入り口を大きな岩で塞いだ墳墓ふんぼであった。


極は驚いて、入り口の大きな岩に近づいていった。

「ん、何か書いてあるぞ…。あめのしたしろしめす、みずはのわけのおおきみのみよに、

いんべのくにおしひめあいおうて…」

極は苔に覆われた墓碑銘をけんめいになぞって読んでいった。


「おお、なんと…須恵女、そなたの祖母殿はミズハノワケの大王と忌部いんべのクニオシ媛の御子の末裔、つまりは皇族なのじゃ。そなた、もしや別の名前を持っておるのではないか?」


「えっ、なんで知ってはるん?…須恵女という名は丙助親分に付けてもろたんえ。本当の名は、忌部忍日漢人媛いんべのおしひのあやひとひめって言うんよ。長ったらしいえ?」


極と紗月は驚きとともに、深い感動を覚えながら須恵女を見つめた。

「アヤヒトヒメ…ふむ…もしかすると、そなたの父御は、もろこしの国から移り住んだ者か、その子孫やもしれぬな。そして忌部の娘、そなたの母御と結ばれて、そなたが生まれたのじゃろう。何か、そのあたりのことは聞いておらぬのか。」


「ううん…母様はあたいが赤ん坊の時、死んだって、婆ちゃんが…。父様のことは何も話してくれへんかったんよ…。婆ちゃんはあたいに、世の中というもんをしっかり見ておいでって…。そいで、辛くなったら、いつでもこの山に帰っておいでって、そう言うて、あたいを丙助親分に預けたんよ。けど…すぐに死んでもうてん…」


そう言って涙ぐむ須恵女を、極は優しく抱き締めた。

「そうか…須恵女は、この吉野の山の姫だったのじゃなあ」

「ええ、やはり、どことのう品があって美しいと思うておりましたが…」


極と紗月は感慨深気にうなづきあってつぶやいたが、当の須恵女は少しもうれしくなさそうに、唇を尖らせて言った。

「あたい、姫様なんか好かへん。あたいは今のまま、皇子様にお仕えできれば、それでええんよ」


「そうか、うむ…。わしもそなたが側にいてくれるとうれしい。これからもよろしく頼むぞ」

須恵女はうれしそうに大きくうなづく。


「じゃが、せめて名前だけでも姫らしゅうしようかのう。どうじゃ、アヤヒト姫のアヤを名前にしては…?」

「アヤ…んん…なんか変やけど、皇子様がええなら、あたいもええよ」

「アヤ…可愛い名だこと…とてもいいわ」

「よし、では今日よりそなたはアヤじゃ。実は、わしの亡くなった母上の名は綾女というのじゃ。その綾という字を使うてくれれば、わしもうれしい」

須恵女改め綾も感激に涙ぐんで、しっかりとうなづいた。


「今日は何か不思議な日じゃな…きっと、綾の亡くなった祖母殿が、われらをここへお招きになったのであろう」

極の言葉に、二人の少女も感慨深気にうなづきながら森の木々を見上げる。


「あっ、そうや、忘れてた」

突然、綾が叫んで極を見上げた。


「あたい、お婆ちゃんのお墓参りにきたんやないえ。さあ、行こ、この先や」

綾に引っ張られて、極と紗月も小走りに森のはずれの方へ向かった。そこは木々に囲まれた小高い丘で、遠くに飛鳥の都や大和の山々を見渡すことができた。綾が幼い頃からよく一人で訪れていた思い出の場所だった。


「まあ、よい眺めだこと…」

「んん…気持ちがよいのう…」

三人は草の上に並んで座り、しばらくは景色にみとれていた。

「皇子様…」

綾がじれったそうに極の袖を引っ張って、その大きな澄んだ目で見つめる。

「う、うむ…ここでか…?」

極は少し赤くなって、まぶしげに二人の少女を見る。少女たちも頬を染めてはにかみながら、返事もできずにうつむく。


早春の太陽もこの幼い恋人たちのために、柔らかな光で照らし、気の早い春告鳥の声がすぐ近くで聞こえていた。


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