戦後編 5 ~東原(あずまのはら)に風が吹く~
いよいよ完結です。
国府の街には、国庁を中心に東西、北方向の三本の大きな道が放射状に延びている。それぞれの道はやがて無数に枝分かれして、東国の隅々へとつながっているのだ。今、その内の、西へ通じる広い道を国庁へとゆっくり近づいてくる一団があった。
道の両側には、延々とひしめきあうように人々が居並び、ひざまづき、近づいてくる一団を出迎えている。よく見ると、老いも若きも、男も女も、皆涙を流し、両手を胸の前で合わせていた。
そして、国庁の前には、美しい衣をまとった三人の幼い少女たちと、それを取り囲むように、たくましい体の大勢の男たちが正装して待っていた。
今、人々は万感の思いを胸に国主の帰還を出迎え、八百万の神々への感謝を捧げていた。
極はそんな人々の思いは知らず、ただ、あまりに多くの群衆が出迎えてくれたことに、驚きととまどいを感じていた。
「兵助、なにゆえ皆我等が帰ることを知っていたのじゃ?」
不思議そうな顔で振り向いた極の問いに、兵助と真竜は馬上で顔を見合わせ、申し訳なさそうに微笑んだ。
「はっ…お許し下さりませ。実は、あの夜、殿のお許しを待たずに、耳目を報せに走らせておったのでござりまする」
「そうであったか…なれど、なにゆえ村の者たちまで、こんなに…」
「はて…それは、やはりうれしいからでござりましょう。国中の者が、殿のご無事なお帰りを喜んでおるのでござりまする」
そう言われて、極は困ったように苦笑し、前方に目を戻した。三人の少女たちの姿が、次第に大きくなっていく。
「真白姉ちゃん…」
ふいに道の脇から幼い女の子の声が聞こえてきた。
極は馬を止めて、声の主を探した。すぐ前を進んでいた真白が、すまなそうな顔で振り向き、頭を下げた。
「申し訳ござりませぬ」
「うむ、いや…そなたに妹がおったとは知らなんだ」
「あ…いえ、妹ではござりませぬ」
真白はそう言うと、馬から下りて大勢の人々の中に入っていき、やがて一人の幼い少女を腕に抱えて戻ってきた。その三歳くらいの少女を見て、極は思わず、あっと声が出かかった。
「この子は菊乃と申しまする。先の戦で、育ての父を亡くし、身なし子になりましてござりまする」
真白の言葉に、極は小さくうなづくことしかできなかった。菊乃というその少女の顔立ちが、出会った頃の綾にそっくりだったからである。
真白が菊乃と出会ったのは、全くの偶然だった。あの激しい戦が終わった後、彼女は何人かの耳目の者たちと手分けして、敵味方の区別無く、生き残って動けない者はいないか、戦場の隅から隅まで調べて回った。戦場は累々と横たわる死体で埋め尽くされ、戦がいかに激しいものであったかを物語っていた。
夕暮れが迫り、生き残った者も見つからず、そろそろ城に引き上げようとしていたとき、彼女の目は、遙か左前方にちらりと動く人影を認めたのである。真白は馬を下りて、用心しながらそこへ近づいていった。
そこにいたのは、まだ年端もいかない幼い女の子だった。
「これ、こんな所で何をしておるぞ?」
真白はつとめて優しく声を掛けたつもりだったが、幼女は突然死体の山から現れた人影にびっくりして固まってしまった。それでも、泣き声を上げたりはしなかった。震える唇を横に引き結んで、涙ぐんだ大きな目でじっと真白を見つめている。
「怖がらずともよい……我は久米の殿の御身番を務める真白じゃ。箱根の城より参った…そなたは、どこから参ったのじゃ?」
「は…箱根のお城…」
「おお、そうか……それでは城に親兄弟がおるのじゃな?」
少女はぽろぽろと涙をこぼしながら、首を振った。
「お父が……うう…う…お父…が…うわああ…あ…あ……」
少女は火がついたように泣き出して、その場にうずくまった。しかし、その言葉で真白は全てを理解した。
「そうか……そなた、お父と二人きりだったのじゃな…そして、そのお父も…」
真白は自然に少女を胸に抱きしめていた。
「お父は見つかったのか…?」
少女はとまどいながらも、初めて感じる温かさと柔らかさ、そして甘く優しい香りに包まれて、自然に心を開いていった。
「ううん…お父、どこにいるのかわからないの…」
「そうか……では、二人でお父を捜そう…」
真白は少女を抱いて馬に乗り、もう一度、黄瀬川沿いから箱根の城までをゆっくりと見て回った。
「そなた、名は何と申すのじゃ?」
「菊乃…」
「おお、きくのと申すのか。良い名じゃ…」
菊乃は張りつめていた心が緩んだのか、ぽろぽろと涙をこぼしはじめる。
真白は、この少女との何か不思議な運命の結びつきを感じていた。多くの死体の中で見つけた小さな命が、これほどいとおしく感じたことはなかった。
結局、その日は菊乃の父の遺体は見つからなかったが、翌日、箱根の城にぞくぞくと運び込まれてきたたくさんの遺体の中に、変わり果てた父の姿があった。
菊乃は義父の遺体に取りすがり、長い間泣き続けた。
わずか三歳の少女に、他に何ができよう。
真白はその時すでに赤城へ向けて出発していたが、菊乃のことを相模御主に頼んでおいたので、すぐに彼からの報せが耳目の者によって届けられた。
御主はその報せの中で、菊乃の義父穂村について領民から聞いたこと、そして彼自身が調べさせたことも伝えてきた。
穂村が、駿河の小豪族の生まれで、一時期国府の役人だったこと、菊乃が彼の実の娘ではなく、猿にさらわれて育てられていたのを偶然見つけ、我が子として大切に育ててきたことなど、真白にとって信じがたい事実が次々と語られていった。
御主は、菊乃を普段からよく世話していた村人を捜し出して、里親が見つかるまで預かってくれるよう頼んでいた。そして、この日、真白と菊乃は一ヶ月ぶりに再会したのであった。
「そうか……それは辛かったのう。じゃが、菊乃、そなたの父は必ずや神の御許に召されて、今はあの空の上から、そなたとこの国を見守ってくれておるぞ」
極は愛らしい少女の頭に優しく手を置いて、そう言った。
菊乃は父のことを思い出して泣きそうになったが、懸命にこらえて極を見つめていた。
「殿、勝手なお願いにござりまするが、この子を鎌倉の耳目の里に連れて参りたいのですが…」
「うむ、それは構わぬが…真白、この子を耳目にするというのか?」
「はっ。いずれは我等の後を継ぐべき御身番を育てねばなりませぬ。この子を我が手で育ててみとうござりまする」
極は、真白の母性が、もうこの幼な子を手放せなくなっていることを見抜いた。
「真竜、いかがじゃ?」
「はっ。真白の申すこと、もっともと考えまする。早速取りかかるべきかと…」
「御身番は…」
兵助が、慈父のような優しい目で菊乃を見つめながら言った。
「綾が残してくれた宝にござる…この兵助も及ばずながら、真白の手助けをさせてもらいましょうぞ」
桃井ももちろん異存はなく、菊乃の身寄りがこうして決まった。
当の本人は耳目番とか、御身番とかは何のことか分からなかったが、真白と一緒にいられるらしいと知って、いかにも嬉しげに愛らしい笑顔を見せた。
真白は、菊乃の世話をしてくれていた村人の一家のところへ行き、丁寧に礼を述べ、自分が引き取ることを告げた。
「菊乃ちゃん、達者でね…幸せになるんだよ…うう…う…」
「うん。おばさん、おじさん、永らくお世話になりました。ご恩は忘れませぬ」
菊乃の大人びた言葉と地面にひざまづいて頭を下げる仕草が、周囲の人々の新たな涙を誘った。
「馬津目たちが待ちくたびれておろう。さあ、行くぞ」
極の言葉に、一同は思わず笑いながら再びゆっくりと進み始める。秋の終わりの柔らかな日差しが天から降り注いでいた。
「殿、お帰りなさりませ。方々、お役目ご苦労にござった」
留守居役の長である磯部式仁が、先に迎えに出てきてねぎらいの言葉を述べた。
「うむ。そなたにも気苦労をかけたのう」
「ははっ。ありがたきお言葉…ささ、お疲れでござりましょう。早う中へ…」
「うむ。では、ここで散会することにいたそう」
極はそう言うと、後ろを振り返った。
「皆、ご苦労であった。ここで解散する。各々ゆっくり体を休むるがよい」
一同は一斉に頭を下げた。そして、隊列は静かに崩れて、それぞれの場所へ別れていく。
極は馬を下りた。桃井がその馬を引いていく。極は妻たちのもとへ近づいていった。
「今帰った…」
「お帰りなさりませ…ご苦労様にござりました…」
三人の少女たちは、懸命に微笑みを浮かべて頭を下げる。
その時、極はふと気づいた。間人の桃の蕾のような唇が、泣くのを懸命にこらえて震えているのを見たときだった。
『ああ、わしはこれほどまでに、間人たちに我慢をさせていたのじゃなあ。泣くことさえできずにおるではないか…』
極は頭を下げた少女たちに向かって、黙って両手を差し伸べた。
ゆっくりと顔を上げた少女たちはそこに見た、自分たちに向かって両手を広げ、限りなく優しく微笑んでいる夫の姿を。
「もうよい…我慢せずともよいのじゃ…間人、泣いてもよいのじゃ…」
「殿…」
三人の少女たちの目から大粒の涙が溢れ、ぽろぽろと頬を伝って流れ落ちていく。それとともに、張りつめていたものが体から抜けていくようであった。
「従兄さ…ま…ああ…従兄様ああぁ…」
間人が先ず極の腕の中に飛び込み、続けて紗月と加波も泣きながら夫の胸にぶつかっていった。
後ろに居並んだ武骨の男たちが、目のやり場に困り、赤い顔で頭や口ひげに手をやるのを、兵助は笑いをこらえて眺めている。
武蔵野は桔梗、女郎花、萩などが咲き乱れ、心地よさそうに風に揺れていた。
「では、また来るでな…」
祖父、綾、広麻呂、佐代野御主たちが眠る大きな墓に花と供物を捧げた極は、妻たちとともに草原の道を歩き出す。
「明日にでも、皆で大胡に参ろうぞ」
「はい。仁来様も安里様も、きっと待ちかねておられましょう」
「うむ…天来の元服の儀もせねばのう…」
戦が終わって十日が過ぎようとしていた。東国は『東原国』として、歴史の中にその第一歩を記した。しかし、それはまだ極たちの知るところではなかった。
極はただ、生きることに苦しむ多くの民を救いたい一心で、この独立という難事業に立ち向かったにすぎない。だから、今や一国の王になったにもかかわらず、彼は全く今までと変わらなかった。
国の基本的な機構は、すでにこの三年間で出来上がっており、変える必要も感じていなかった。重要な政策は全て合議にはかられ、そこで決定される。ただ、どうしても意見がまとまらない時に限り、極が最終決定を下すのである。
しかし、この三年の間に、極が決定を下さねばならなかったのはただ一度だけ、都との戦を決めた時だけだった。指導者たちはすべて極に心服し、彼の望むこと、望まないことをよく知っていた。だから、ほとんど意見が対立することなく、合意に達したのである。
一陣の風が、音を立てて極と妻たちを追い越し、果てしなく広がった武蔵野の草原を駆け抜けてゆく。
「風が強うなってきたのう…」
極はふと足を止めて、独り言のようにつぶやいた。
草をなびかせて前方に去って行く風に、綾の、広麻呂の後ろ姿を見たような気がしたのである。
「殿、どうなされました…?」
「うむ…いや、ふと思うたのじゃ。皆、己の生きる道を、懸命に駆け抜けていったのじゃなあ…我等も、今その道を歩いておる…」
妻たちは、夫の言葉を深い感慨とともに、それぞれが実感として受け取った。
「はい…なれど、殿、どうかゆっくり歩いていって下さりませね。我等がついてゆけるくらいに…」
紗月の言葉に極は思わず苦笑し、間人と加波はくすくすと楽しげに笑った。
「あはは…そうじゃな…綾が怒るかもしれぬが、もうしばらく待ってもらわねばならぬのう」
極と妻たちは再び歩きだした、ゆっくりと……。やがて、その姿は草原の向こうへ小さくなって消えてゆく。
誰もいなくなった草原を、果てしない彼方をめざして、風が吹き抜けていった。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
最近流行らない文体で、言葉も難しかったので、みなさんの評価ももらえなかったのだと思いますが、書き上げたことには満足感があります。
菊乃を主人公とした続編を書きたい気持ちはあります。ゆっくり構想を練りたいと思います。




