戦後編 2 ~直接対決①~
極はそれらの言葉をじっと受け止めながら目をつぶっていた。そして、皆の訴えが終わるのを見計らって、おもむろに目を開き、静かに口を開いた。
「方々の心、まことにありがたきこと。この通り、礼を申す……」
極はそう言って頭を下げると、さらに続けた。
「じゃが、これはわしがやらねばならぬことなのじゃ。たとえ命を落とすことになろうと
もな……死んでいった者たちへ、わしができるただ一つのことじゃ。どうか、黙ってわし
を見送ってくれ」
一同はもう何も言えず、たださめざめとなくばかりだった。
阿部比羅夫軍の敗走と新羅軍全滅の報せが届いたとき、中大兄皇子と藤原鎌足は近衛軍を率いて三河まで進んでいたところだった。
中大兄皇子は茫然として宙を見つめ、鎌足は苦渋の顔で地面を見つめ続けた。
「か、鎌足……どうすればよい……どうするのじゃ、鎌足……」
「皇子、うろたえなさるな。東国軍はすぐには攻めて来ますまい。都へ帰り、備えをする
ことが先決。後のことは、それから考えましょうぞ」
「ぬうう……極め……このままではおかぬぞ。西国の兵を集め、必ずやうち倒してくれようぞ」
中大兄皇子たちは都へ引き上げ、街道筋と海への守りを固めさせた。しかし、二日が過ぎ、三日が過ぎても東国の軍が動き出したという報せは届かなかった。
「極めは、なぜに攻めて来ぬ。今なら、都を攻め落とせるではないか?」
鎌足はじっと考え込んでいた。あと十日の内には九州の軍勢一万二千が河内に到着し、朝廷軍は反撃の体勢を整えることができる。東国軍はせっかくの機会をみすみす逃すことになるのだ。
「あるいは……」
鎌足はおもむろに口を開いた。
「動けぬのやもしれませぬ。兵が帰って来ぬと、詳しくはわかりませぬが、東国軍の被害
も相当に大きなものだったに違いありませぬ。」
「おお、そうか……ならば、こちらも十分に備ゆることができる。」
不安と憔悴にやつれていた中大兄皇子の顔に、ようやく安堵の笑みが浮かんだ。
翌日から、戦に敗れた朝廷軍の兵士たちが、続々と都に戻ってきた。どの兵士も戦いにやつれ、傷つき、お互いに支え合いながら救護所になったあちこちの寺へ向かった。朝廷は彼らのために、兵糧を割き与えたり、典薬所の役人を差し向けたりなど、手厚くいたわった。それは、今後も続くであろう東国との戦いに、少しでも多くの兵力を確保したいという、中大兄皇子と鎌足の意向でもあった。
箱根からの敗残兵に遅れること二日、沼田口の戦いに生き残ったわずかな数の兵士たちが、見るも無惨な姿で都に帰ってきた。血にまみれた衣服をまとい、ほとんどの者たちが顔や手足に包帯を巻き付けていた。
その翌日の夜のことだった。しんと寝静まった深夜、板葺宮の衛士たちは大炊所の方角から聞こえてきたただならぬ騒ぎに、急いで現場へ向かった。途中で、彼らは大炊所の屋根から赤い炎が上がるのを見、またぱちぱちと木がはぜる音を耳にした。
現場に着いて見ると、大炊所から燃え上がった火は折からの風にもあおられて、もはや人の手で消すことはかなわなかった。そればかりか、風向きから見て、内裏の方へ燃え広がるのも時間の問題であった。
衛士たちは、大声で皆に報せて避難させる者たちと、下人を使って消火にあたる者たちの二つに分かれて懸命に働いた。
ただ、不思議だったことは、衛士たちが着いたとき、その場に誰もいなかったことである。だが、衛士たちは確かに火事を報せる二人の男の声を聞いたのだ。だから、急いで駆けつけたのである。いったい、二人の男は誰で、どこへ消えたのか。結局、それは火事の騒ぎとその後の事件のために、謎のままで終わったのであった。
「待たれよ。どちらへ参られるや?」
「我等は能登田万里様の配下の者じゃ。出火と聞き、大王をお守りせむと急ぎ駆けつけて参った」
「それは大儀にござった。されば、頭に取り次いで参りまするゆえ、しばしお待ちあれ」
衛士は、ほとんどが火事場に出向いていたため、大門を守っている衛士は数人しかいなかった。
「一刻を争うときぞ。大王にもしものことあらば、そなた、その責めを負うと言うのじゃな。名を名乗られい。後日、大王の前で申し開きをしてもらおう」
その衛士の男に位階制度の細かい知識があったら、相手の言うことが全くのはったりにすぎないと見破ったはずだった。能登田万里本人であれば、大王に目通りもかなうであろうが、一部隊長にそんなことができようはずもなかったのだ。
しかし、このときの衛士はそれほど細かい知識を持っていなかった。目の前の若い指揮官の威厳と脅しにたちまち屈して、門を開いたのであった。
内裏は逃げまどう人々で混乱していた。火はすでに内裏の北東部を焼き尽くし、御座所のある中心部に燃え広がりつつあった。
「近衛府の者じゃ……大王はいずこにおはすぞ……」
「す、すでに、離れの御神殿へお渡りになられたものと……」
「あいわかった。かたじけない」
二十人ほどの兵士たちは、人混みをかき分けながら宮中を奧へ向かって進んでいった。
「な、なにいい……しまった……」
門番から報告を受けた坂田藤太は、叫ぶなり馬用の鞭で卓上の酒壺や土器を叩き割った。
そして、そのまま番小屋を飛び出していった。
「か、頭、いったい何事でござりまするや?」
配下の衛士たちはわけがわからぬまま、藤太の後を追いかけて走った。
「能登田万里の配下とは、真っ赤な偽りじゃ。急がねば大王の御身が……」
藤太は大炊所から火が出たことを聞いた時点で、漠然とした疑問を感じていた。まず、宮中の警備は万全を期しており、殊に夜は何回も見回って火の始末には注意を払っていたのだ。
次に、彼は讃岐で東国の忍びたちの優秀さを思い知らされていた。さらに、ほどんどが重傷者ばかりで、疲れ果てているはずの能登の兵士が、誰よりも早く駆けつけて来るのはいかにも不自然に思われた。これらのことから、藤太はある一つの恐ろしい推理を導き出したのだ。
(急げ、藤太……奴らは恐らく東国の手練れの犬どもじゃ)
「き…極……」
「久しぶりじゃな、中大兄皇子、鎌足……」
他の建物から離れた所にある神殿に孝徳帝と后、そして、中大兄皇子と中臣鎌足が、わずかな護衛の衛士や舎人たちに守られて避難していた。
能登田万里の残兵になりすましてまんまと都に潜入したのは、もちろん極と兵助、真竜、護身番の真白と桃井、そして、兵助と真竜の配下の手練れの耳目番たちであった。
護衛の衛士や舎人たちが、必死の形相で立ち向かってきたが、手練れ揃いの耳目番たちにかなうはずもなく、一瞬のうちに全員討ち取られてしまった。
「ま、待て……こ、このようなことをしても、自らの身を滅ぼすだけじゃぞ」
「覚悟の上のこと……そなたたちを道連れに死ぬつもりで参った」
「ひいい……や、やめてくれええ……ち、朕は何も知らぬ……な、助けてたもれ……頼む、
な、何でも望みはかなえるゆえ、助けてくれええ……」
極は生まれて初めて、間近に実の父を見た。しかし、それは悲しいだけの対面だった。
哀れなほどに怯え、我を失った父の姿を、極は冷ややかに見下ろしていた。
「復讐は復讐を呼び、血は血であがなわれる……我等を殺しても、今度は他の豪族たちが争い合い、戦は果てしなく続くのじゃ。久米皇子、そのような世にしたいのか?」
鎌足の言葉に、極はあからさまな嫌悪と怒りの表情を見せて太刀を引き抜いた。
「その通りじゃ。この世に、大王だの豪族だのがおる限り、名も無き民たちの苦しみは終わらぬ。我等は皆この世から消え去るべきなのじゃ」
もはや、それ以上の説得は無駄だと見極めた鎌足は、太刀を抜いて中大兄皇子を守るように前に立った。
と、その時、神殿の入り口の方から怒号と叫び声が聞こえてきた。
「衛門の丞、坂田藤太、大王に仇なす謀反人どもを成敗いたす。もはや、これまでと観念いたせ」
極はその声を聞くと、傍らの真竜に小声で言った。
「坂田藤太だけをここへ通せ」