戦後編 1 ~真の独立のために ~
ふと、背後に人の気配を感じて振り返った時、彼は愕然として言葉を失った。風になびく草原の中に、亡霊のようにやつれた顔の男が立っていた。
「兵助……」
極はようやくその人物の正体を知って、新たな涙を溢れさせた。兵助は虚ろな顔で極の側に歩いてくる。
「兵助……すまぬ……綾を…綾を死なせてしもうた……うう…う……」
「そうでっか……綾が……」
草の上にひざまずいて呻き泣く極の傍らで、兵助は赤く血走った目からぽろりと涙を落とし、口元をわなわなと震わせた。
「……けど、あの子は幸せでした……殿に精一杯可愛がってもろうて……」
兵助は天を仰いで涙を飲み込む。
「殿……わしは都から帰ってくる途中で、何度も引き返そうかとも、逃げようかとも思うてござりまする。なれど……わしらは目をそむけてはならぬ。それでは死んでいった者たちにも、殿にも申し訳が立たぬと……そう思うて…こうして……」
「兵助……何を申しておるのじゃ……いったい……」
「に…仁来様と安里様が……首を切られてお亡くなりに……」
兵助は絞り出すよな声でやっとそれだけ言った。
「何と……仁来も……安里までも……」
極は涙を袖で拭うと、静かに立ち上がった。折しも一陣の風が、彼の衣を翻して吹き抜けていった。それはまた、彼の内部から噴き出した熱風のようにも見えた。
「兵助、都へ行くぞ」
兵助は顔を上げて極を見た。そして、まるで見えない糸に引っ張られるように、あわてて立ち上がった。
二人が城に帰ったとき、城内はしんと静まり返り、衛士の兵や下人以外は誰も姿が見えなかった。
「おお、殿……ただいま帰りましてござりまする」
衛士から報せを受けて迎えに出てきたのは、箱根から帰ってきたばかりの磯部式仁だった。
「磯部殿、ご苦労にござったのう。そなたや鬼衛門殿のおかげで、朝廷軍を追い返すことができた。この通りじゃ」
「あ、いや、そのような……皆がよう働いてくれたおかげでござる。なれど…まさか、佐伯様や久米の大殿までも…そのうえに…また、大胡殿も……」
極は磯部の話の途中で歩き出し、神殿の間へ向かった。磯部と兵助がその後から急ぎ足についていく。
神殿の間は新たな悲しみに包まれていた。武丸が船で運んできた仁来と安里の遺体と首が、樽と木棺に入れられたまま神前に安置され、主立った者たちがその前にぬかずき涙にくれていた。極がつかつかと神殿の間に入っていくと、居並んだ者たちはさっと通路を開け、一斉に深々と頭を下げた。
極は妻たちの間を通り抜けて、並んで置かれた二つの樽の前に坐った。誰もが、当然極が泣き出すものと思っていた。しかし、彼は黙って二つの樽のふたを開き、塩にくるまれた父娘の首を取り出し始めたのである。
「と、殿……」
誰もが驚いて、国主は乱心かと心配したが、極は立ち上がった紗月を後ろ手で制し、静かに言った。
「心配せずともよい。二人に最後の別れをしたいのじゃ」
その気持ちは誰もが十分に分かったが、すでに六日を過ぎて遺体の腐乱はすすみ、塩漬けの首も強い腐乱臭を発散し始めていた。しかし、極はまるで大切な宝を扱うように、体液の滴る首の塩を払い落とすと、かわるがわる抱きしめ、いとおしげに頬ずりをした。それを目の当たりにした仁来の息子天来と妹たち、戸来の長たちは感動の余り声を上げて激しく泣き始めた。
「仁来、辛い思いをさせたのう……さぞかし思い残すことがあろう。しばらく黄泉の国で待っておれ、わしもすぐに参るでのう……安里…安里……」
それまで一滴の涙もこぼさなかった極だが、安里の哀れに小さな首を見たとたん、危うく崩れかけた。それを歯を食いしばって耐えると、彼は懐剣を引き抜いて安里の赤い巻き毛を一束切り取って懐にしまい、最後に優しく抱きしめて言った。
「安里……そなたは永久に我が妻じゃ……」
二つの首は、極の手で再び丁寧に納められた。彼は最後にもう一度、二人の遺骸に深々と頭を下げた後、体の向きを変えて集まった人々を見回した。
「方々、こたびの戦のこと、苦労をおかけいたした。改めて深く礼を申し上ぐる……」
一同あわてて両手をつき、平伏する。
「多くの者が死に、また傷ついた。もう二度とこのような戦があってはならぬ。じゃが、そのためには、戦の根を断たねばならぬ。これはわしの仕事じゃ。なれど、一人ではできぬゆえ、今一度、方々の力をお貸し願いたい」
「ははっ。殿のためとあらば、我等、火水の中に飛び込むことさえ厭いませぬ。されば、殿にはどのようなお考えであるか、お聞かせ下さりませ」
一同を代表して、竹部氏郷が尋ねた。
「うむ……わしは都へ行き、中大兄皇子と藤原鎌足との決着をつけてまいる……」
誰もが、予想していたと同時に最も恐れていた返事だった。極が死ぬつもりであることが明らかだったからである。しかし、その決意を変えさせることもまた、難しいことは誰もがよく分かっていた。
「彼らは軍を集めて、再びこの国に攻めて参るであろう。彼らがおる限り、戦は終わらぬのじゃ」
「な、なれど……なれど、従兄上が死んでしまったら、従兄上のために死んでいった者たちは無駄死になりまする……従兄上……うう…う……」
極のもとへ来て以来、一度たりとも口答えをしたこともなければ、悲しい顔も見せたことがなかった間人が、初めて悲しみに身悶えながら大勢の前で感情を吐露した。そして、それが口火となり、誰もが口々に間人と同じようなことを訴え始めた。
極はそれらの言葉をじっと受け止めながら目をつぶっていた。そして、皆の訴えが終わるのを見計らって、おもむろに目を開き、静かに口を開いた。
「方々の心、まことにありがたきこと。この通り、礼を申す……」
極はそう言って頭を下げると、さらに続けた。
「じゃが、これはわしがやらねばならぬことなのじゃ。たとえ命を落とすことになろうともな……死んでいった者たちへ、わしができるただ一つのことじゃ。どうか、黙ってわしを見送ってくれ」
一同はもう何も言えず、たださめざめとなくばかりだった。
いよいよ大詰めです。
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