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東原~あずまのはら~ Remake版  作者: 水野 精
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懊悩編 ~少年皇子都へ上る~

5 極と間人:① 



宮中で暮らし始めてからというもの、間人は日に日に元気をなくし、周囲の者たちを心配させていた。侍女の玉比女だけは皇女の心の中を知っていたが、どうしてやることもできなかった。間人を元気にできるのはただ一人、久米の従兄だけだったからだ。


「間人、ここにおりましたのか?」

冬近い庭で、菊の花をぼんやりと見つめていた間人のもとに、珍しく時間がとれたのか母皇后が現れた。

間人はあわててひざまづき、拝礼する。母子の間でも、それは定められた礼儀だった。


「今はそなたと母だけじゃ。そのようなことはせずともよい」

皇后は娘の傍にかがみこんで、娘の顔と白い菊を交互に優しく見つめる。

「これまで、そなたとはゆっくり話をすることもかなわなかったが…これからはこの母に何でも相談してほしい。よいな…?」

「はい…」

「ときに…侍女から聞いたのじゃが…そなた都にきてから、ずっと元気がないそうじゃのう。慣れぬせいばかりではあるまい。何か、心配事でもあるのかえ?」

間人が元気のない原因ははっきりしている。しかし、それを母に言うのはためらわれた。


「い、いいえ…ただ少しばかり寂しかっただけでござりまする」

「そう…それならよいのじゃが…。侍女たちが申すには、そなたはここに来る前、たいそう楽しき日々を過ごしていたそうじゃのう。中でも一人、ごく親しくしていた男子がおったそうではないか?」


皇后はそこでゆっくり立ち上がると、遠い飛鳥の山々を眺めながら続けた。

「のう、間人…わらわは亡き大王に嫁ぐ前、一人の男の妻であった。子供も一人生まれ、

つつましくも幸せな暮らしをしておった。されど、人の力ではどうにもならぬ時世の流れというものがあるのじゃ。わらわは、あえてその流れに逆らわなかった…」


皇后は再び幼い娘に目を向けて、優しく微笑みながら続けた。

「そのように悲しげな目で見るでない。ふふ…母は幸せじゃぞよ。その時その時を懸命に生きてきて、今があるのじゃ。そなたもこれから、幾度もつらく悲しいことに出会うであろう。それが、皇族の娘に生まれた宿命なのじゃ」


間人は母が何を言いたいのか、よくわかっていた。皇族に生まれた娘は、自分が決めた相手に嫁ぐのではない。周囲が、いや時代が決めた相手に嫁ぐのだ。


しかし、間人はそんなことを受け入れることはできなかった。

「母上…」

「ん、何じゃ」

「わたくしには、すでに心に決めたお方がござりまする。そのお方の妻になれぬなら、いのなら、いっそのこと死んでしまいたい…」

間人はそこまで言うと、うずくまったまま身悶えして嗚咽を始める。


皇后は驚いて、娘の傍にかがみこむと、娘の震えるか細い体を優しく撫でながら尋ねた。

「そうであったのか…もしや、そのお方とは久米の館の者ではないのかえ?」

ずばりと指摘されて、間人は驚きに顔を上げ、その濡れた瞳で母を見つめた。

「ふふ…やはりそうであったか…」


母皇后は立ち上がって、当時の事情を簡単に語って聞かせた後、こう付け加えた。

「そなたが久米の館にたびたび通うておるという話は聞いておった。久米の館には、わが名付け子の極がおる。血のつながりから、そなたと極が親しむのは自然のことじゃ。いや、親しくなってほしいと願うておった。なれど、そなたがそれほどまでに思いを寄せるとは…。そなたの思い、極は知っておるのかえ?」


間人はうつむいたまま、悲しげに首を振る。

「そうか…されば、そなたの思い、兄と慕う気持ちの強きものではないのかえ?」


間人は今度は首を強く振って、母を見上げた。

「なぜにそう思うのじゃ?」

「わたくしも初めは極兄様を本当の兄のように思い、この五年の月日を本当の兄妹のようにすごしてまいりました。でも、もうずいぶん前から、わたくしは自分の心を偽っていることに気づいておりました。心の中では、いつも、従兄上様がこの体をかき抱いて、女にしてくださることばかり願うておりました。でも…でも、嫌われるのが怖かった…ううっ…うう…なぜ、自分はこんなに幼いのか、なぜに女らしくないのか…そんなことばかり思うて…うう…う…」


皇后はこの時、娘が幼いながら、本当の恋を知ったのだと悟った。しかし、それはやはりかなえがたい恋であった。母親として、娘の恋をかなえてやりたい気持ちは十分にあったが、皇女として生まれたからには自分で相手を決めることはできない、決めるのは時世の流れなのだ。


「時じゃ、間人…時がすべてを決めるのじゃ。今は待つしかあるまい」

「はい…都に来たときから、必死にあきらめようとしておりまする。でも、今はまだできませぬが、母上や兄上にご心労をおかけせぬよう努めまする」


皇后は娘の心の優しさ、清らかさを知り、なんとしても幸福にしてやりたいと心に誓った。間人も心の中に溜まったものを吐き出して、少し元気を取り戻し、その後時折は笑顔を見せるようになっていった。


やがて木々の紅葉が散り、代わりに雪が枝々を白く飾る季節になった。

年が改まると同時に、皇后は即位して大王となった。推古帝以来の女帝、皇極帝の誕生である。

中大兄皇子が立太子となり、政務を補佐することになった。本来なら、国を挙げての祝いになるような、めでたい初春であったが、まだ前帝の喪の期間中でもあり、国外の情勢も一段と厳しさを増している状況もあったので、何事も控えめに執り行われた。


このころには、すっかり気を許し合う仲になっていた極と鎌足は、塾の帰り道などでよく政治の話をした。十二歳も年上の鎌足は、本来なら極に兄のように接するはずだったがむしろ気のおけない親友のように、心の奥の悩みや弱みも打ち明けて、極の意見を求めたりしていたのだった。


そんな新春のある日、山背大兄王は新年のあいさつもかねて、新築された飛鳥板ぶきの宮に皇極帝を訪ねた。もちろん極も同行していた。これが、名付け親であり、亡き母の恩人である叔母との初めての対面であった。


山背大兄王と帝は親しく語り合い、互いの健康を寿ぎ合った。表面的な言葉のやりとりだったが、それはその場に蘇我入鹿が同席し目を光らせていたからである。


「時に山背皇子、近ごろ御子のうわさをよく耳にしまするが、なかなか利発な御子のようで、楽しみなことにござりまするな」

「それは初めて聞きもうしたが、よきうわさであれば、うれしきこと…」


山背大兄王はうれしげにそう言うと、後に控えていた極を立たせて前に進ませた。

「近江彦龍と申しまする。よろしくお見知りおきくださりませ」


極はうながされて、二回拝礼すると、頭を垂れたまま大きな声で堂々とあいさつした。

「御尊顔を仰ぎたてまつり、この上もなき幸せに存じまする」


「おお、何とも凛々しき男子じゃ。近江彦、そなたいくつにあいなる?」

「はっ、十五になりましてござりまする」


この時、玉座の左脇に立っていた入鹿が口をはさんで言った。

「大王、この近江彦龍皇子は、請安塾においてもなかなかの逸材と評判にて、わたくしめとは旧知の間柄にござりまする。もっとも、まだふた月ほどではござりまするが。」


「おお、大器たる左の大臣をしてそこまで言わしめるとは、よほどのことであろうのう。

中大兄も、たびたびそなたのことを話てくれておる。近江彦、今後とも勉学に励み、わが国のために尽くしてくれよ」

「ははっ、ありがたきお言葉。近江彦、生涯忘れませぬ」


こうして、極は上々の首尾で皇極帝との対面を終えたのだったが、一つの事件がその後極と山背大兄王が帰るときに起こったのである。事件といっても、それはごく少数の者だけが知る秘めやかな出来事だった。


その日、母帝の用で外出していた中大兄皇子は帰ってきて、舎人から山背大兄王が訪れていることを聞かされた。彼は急いで妹と弟を部屋に呼んで、こう言った。

「そなたたちも一緒にまいれ。いつも話しておる近江彦皇子を見せてやる」

大海人皇子は喜んでうなづいたが、間人はまったく興味がないように首を振った。


「わたくしは行きませぬ。それに玉間には入ってはならぬと大王が…」

「わしと一緒に行くのじゃ、かまわぬ。心配なら、そなたたちは回廊の柱の陰からのぞけばよかろう。近江彦という奴、なかなか面白き男でな、魚釣りと鴬取りが得意というのじゃ。あはは…わしも幼き頃、よく河内の海で釣りをしておったので、気が合うてのう…」


魚釣りと鴬取り、その響きのなつかしさだけで、間人は兄と弟と一緒に会見が行なわれている玉間に続く、青い石畳の廊下へ向かったのだった。

ちょうど会見が終わり、山背大兄王一行は帝と入鹿に見送られて、玉間から出てくるところだった。


「ちょうどよかった。ほれ、山背大兄王の後にいる背の高い男子、あれが近江彦じゃ。」

中大兄皇子はそう言うと、廊下の大きな柱の陰に二人の妹弟を隠れさせた。そして、自らはにこやかな顔で、一行のもとへ近づいていった。


兄が去った後、間人はやはり部屋に戻ろうと、そっと柱の陰から出て何気なく人々の方に目をやった。


「あっ…」

思わず出た叫び声に、間人はあわてて柱の陰に戻った。そして、もう柱に寄り掛かったまま、ぽろぽろと涙をこぼし始めていた。

間人の声は、極たちの所まで届いていた。


「ん…あれは、大海人皇子…」

不審な顔で、入鹿がつかつかと柱の所へ近づいてゆく。

大海人皇子はいたずらが見つかった気持ちになって、あわてて内裏の方へ走り去っていった。


「おや、これはこれは…間人皇女様。ここで一体何をなさっておいでじゃな」

入鹿は、柱の陰でとめどなく涙にくれている皇女を見つけて声をかけた。


「い、いや、あはは…実はのう、大臣…弟たちにも、山背大兄王にあいさつをさせようと連れて参ったのじゃ」

中大兄皇子はとっさにごまかして、柱の所へ歩み寄った。そして、涙にくれる妹を心の中で不審に思いながら、妹の震える背を押して柱の陰から連れ出した。

「間人、山背大兄王にご挨拶いたせ」


その時、騒ぎを聞きつけて、皇極帝もその場にやってきた。

「何事ぞ。ん…なんじゃ、間人ではないか。なにゆえ、泣いておる」

一同は、その場に控えて頭を下げる。

「山背大兄王、とんだそそうをして申し訳ござりませぬのう」


「いやいや、なんでもござりませぬ。あはは…おおかた、弟皇子といさかいでもなされたのでござりましょう」

山背大兄王は、にこやかに笑いながら答えると、何事もなかったようにゆっくりと歩きだす。しかし、彼は涙に濡れた皇女の目が、ひたすら一人の人物に向けられていたことに気づいていた。


間人は、ただただ愛しい人を見つめたまま泣き続けた。近江彦の正体こそ、愛しい従兄その人だったのだ。


極は、山背大兄王の後から歩み始めながら、最後に間人に向かってにっこりと微笑んだ。心の中では、これで自分の正体がばれるかもしれないと考えていた。

「大臣、皇子たちにはよく言いきかせておくゆえ、こたびのことは内密にな」

「はっ、大王がそう仰せなら、そのようにいたしまする」

「かたじけない。さあ、間人、こちらへ」


皇極帝は、まだ涙の止まらない娘の肩を抱いて内裏の方へ去っていく。

「中大兄皇子、禁裏での振る舞い、よくよくご自重くださりませ」

帝が去った後、入鹿は皮肉っぽく頭を下げて言った。


「む…わかっておるわ」

憤然として去っていく中大兄皇子を見送りながら、入鹿はにやりとほくそ笑んだ。


さて、娘を連れて御息所に入った皇極帝は人払いをした後、一つの確信を持って、まだひくひくと胸を震わせている娘に尋ねた。

「間人、もしや近江彦は…そうなのか、あれが…?」

「はい…はひ…久米の従兄上様です」

「そうか…あれが、極…ふふ…」


皇極帝はいかにも楽しげに微笑むと、手拭いで優しく娘の涙を拭いてやった。

「なるほど、よき後ろ盾を得たものじゃ。利発じゃし、見目も麗しい。間人、そなたの男を見る目は確かじゃぞよ。ふふ…」


帝はそう言うと、娘の小さなはかなげな顔を優しく両手で挟んで、微笑みながら続けた。

「このことは二人だけの秘密じゃ、よいな。そなたも、極がそばにおるとわかれば心強いであろう」

「はい…」

間人はうなづきながらも、再び涙を浮かべて唇を震わせ始める。

「どうした…うれしくないのか」

「いいえ…ひいえ…うれしうござりまする。なれど…なれど…都にはあまたの美しき女子がおりまする。きっと、従兄上はわたくしのことなど…うう…う…」


帝は小さな驚きをもって、娘の震えるか細い肩を抱きしめた。まだ年端もいかない娘が嫉妬をあらわにして泣いている。それは娘の恋が、紛れもない本当の恋であること

を示していた。しかし、それはやはり、かなえがたい恋であった。


「間人よ、よく聞きやれ」

帝は、涙に濡れた娘の愛くるしい顔を見つめながら、言い聞かせるように続けた。

「極はまだそなたの思いを知らぬ。まず、そなたのなすべきことは、その思いを文にして書き送ることぞ。思いのたけのすべてを文に書くのじゃ、よいな」


間人の顔に、ようやく明るい笑みが浮かんだ。

「は…はいっ」


とりあえずは娘の心を落ち着かせ、希望を持たせることができた。しかし、いずれ娘はかなわぬ恋に、再び苦しむことになるだろう。皇極帝は優しく娘の髪を撫でながら、思わず胸を詰まらせるのだった。



 6 極と間人:②



早春の明るい日差しが、まだ冬枯れの庭を照らしていた。

水路を流れる清らかな水を見つめながら、極はもう長い間、考え事をしていた。


「ここにおったのか」

ふいに背後から聞こえてきた声に、極は我に返って丁寧に頭を下げた。珍しく暇ができたのか、山背大兄王がにこやかな顔で近づいてきた。

「この二三日、塾を休んでおるそうではないか。具合でも悪いのか?」


「はっ、少し風邪気味ゆえ、用心のために休んでおりまする」

「ふむ…ゆるりと養生することじゃ。ときに一つ、そなたに聞きたいのじゃが…」

王は極の横に立って、水の流れを見やりながら続けた。


「そなたと間人皇女はどのような間柄なのじゃ?」

「はっ、幼き頃より共に育った、兄妹のような間柄にござりまする」

「うむ、それは話に聞いておる。わしが聞きたいのは、そなたと皇女の心の間柄じゃ」


極はじっとうつむいたまま考えこんでいたが、やがて王をまぶしげに見上げながら答えた。

「皇子様…人は、ある一つの思いが抑え切れぬほど強うなると、しばしば心とは逆のことをしてしまうものにござりまする」

「ふむ…確かにのう…」

「わたくしは、一昨日の夜、春通と二人でお館の下仕えの女のもとにしのびましてござりまする」


王の顔に驚きとともに楽しげな笑みが浮かんだ。

「ほう、そうか。あはは…そなた、初めてのことか?」

「はい…。」

「ふむ…つまり、それはそなたの心とは逆の行いであったわけじゃな?」

極はうつむきながら、小さくうなづいた。


「なるほどのう…。そなたの思い、皇女は知らぬのじゃな」

「はい…。いかに思おうとて、かなわぬ思い…それに、皇女はまだあのような幼さ…この思いは許されるものではござりませぬ。なれど思いを絶とうとすればするほど、浮かぶは皇女の面影ばかり…。己れが情けないやら、悔しいやら…」


「そうか…それはつらいのう…。されど、世の中とはそういうものじゃ。己れを恥ずることはないぞ。時じゃ、極…時がそなたの心の痛みを癒してくれよう」


極は顔を上げて、慈父のように優しい王の眼差しを見た。

「はい。いらぬご心配をおかけして、申しわけござりませぬ。明日よりはまた、勉学にいそしみ、武術に 励み、己れの中のめめしい心を打ち払うよう努めまする」

「うむ…そうか。されど、決して無理をするでないぞ。体をいとうことじゃ、よいな」

「ははっ」

極は顔を上げて、ゆっくりと去っていく王の背中を見つめた。広くたくましい背中が、なんとなく寂しく見えた。


次の日、極は三日ぶりに請安の塾を訪れた。

「おお、これは近江彦皇子、お久しぶりにござりまする」

すぐに中臣鎌足と中大兄皇子が、彼を見つけて近づいてきた。

中大兄皇子は何やら意味ありげな笑みを浮かべていた。

「近江彦、そなたを待っておったのじゃ」

彼はそう言うと、極の肩に手を回して教室の隅に連れていく。


「実はのう、これから有志の会合があるのじゃ。そなたには、ぜひ出席してもらいたい。

いや、出席してもらわねば困る」

極は皇子の心を量りかねて、返事に詰まった。

「ふふ…そなたの素性、大臣たちに知られては困るのではないか。あはは…驚いたようじゃのう。実は、先日の一件があってから、わしはよくよく考えたのじゃ。何故、間人がそなたを見て泣いたのか、ということを…」


皇子はいかにも自慢げにあごを上げて、極を見下ろしながら続けた。

「間人を問い詰めたれば、すぐに白状しおったわ。ふふ…のう、近江彦…いや、その実は久米の極よ」


極は内心、困ったことになったと思ったがすぐに腹をくくって、皇子を見つめ返した。

「恐れ入りましてござりまする。おおせの通り、わたくしは久米の極にござりまする」

「ふふ…開き直ったか。まあ、楽にせよ。そなたの素性は、さほど大した問題ではない。

卑しき女の腹とはいえ、紛れもなく我と血を分けた同胞には違いないしな」


すっかりいい気分になった中大兄皇子は、余裕たっぷりに続けた。

「されど、大臣一派にとっては目障りな男が一人増えたわけじゃ。今後は何事もわしの差配に従うことぞ。さすれば、悪いようにはせぬ。よいな?」

「はっ…」


今はただ、皇子の言葉に従うほかはなかった。

「では、われらは先に行くゆえ、後で参れ。阿倍内麻呂の館じゃ。くれぐれも大臣一派に悟られぬようにな」

「必ずおいでくだされよ、お待ち申しておりまするぞ」

中大兄皇子と鎌足は、そう言い残して去っていった。


その後、極は一刻ほど請安の講義を受けたが、あまり頭に入らなかった。体調不良を理由に次の講義を辞退すると、しかたなく阿倍の館に向かうことにした。

その館で行なわれる会合が、蘇我氏打倒に向けての計画を話し合うものだということは大方察しがついていた。これまでも何度か、鎌足から誘いを受けていたのだ。


しかし、極は政事まつりごとに関わる気はなかったしまだ誰にも打ち明けていなかったが、心の中にはある一つの計画があったのである。


「おや、近江彦皇子、もうお帰りでござりまするや?」

教室を出ようとしたところで、蘇我入鹿と東漢やまとのあや氏の子息にばったり出くわした。


「これは大臣…先日の大王へのお目通りの折りは、温かきご配慮、かたじけのうござりました」

「あはは…いやいや、まずは上々のご首尾、めでたきことにこざる。近江彦皇子のご盛名宮中でも高まることでござりましょう」


入鹿はそう言うと、さぐるような目で極を見つめながら続けた。

「ときに、中大兄皇子と中臣のせがれも早々に退出したとか。何事にござろうか、ご存じではござりませぬか」

「さあ、分かりませぬ。皇子様とはさほど親しくござりませぬゆえ…わたくしは、いささか風邪をひいて、この二三日床に伏せっておりましたが、まだ気分がすぐれませぬゆえ、帰ろうとしていたところでござりまする」

「おお、それはいけませぬな。ご用心なされませ。」

「はい、ありがとうござりまする。それでは今日のところはこれにて…」

極は頭を下げると、二三度軽い咳払いをしながら去っていった。


「ふっ…食えぬ男よ。あの年で、あの落ち着きと深慮遠謀…末恐ろしいわ」

「よろしいのでござりまするか、彼と中大兄一味が結びつかば厄介にこざりまするぞ」

「ふん…わしがただ手をこまねいておると思うてか。すでに手は打ってあるわ」


この後に待ち受ける運命を、まだ極は知るはずもなかった。彼は自分から、政治の表舞台で名を上げたい、などと思ったことは一度もなかった。むしろ、ひっそりと生きることを望んでいた。

しかし、極に生来備わった才気と人を魅了せずにはおかない人間性は、好むと好まざるるとに関わらず、彼を歴史の大きなうねりの中に巻き込んでいくことになる。



 7 時代の荒波の中で:①



その年の官職が発表される除目じもくの日の翌日、山背大兄王の館に、先頃大臣の位を息子の入鹿に譲った蘇我蝦夷が訪ねて来た。

この大臣移譲についても一悶着あったのだが、いずれにしても蝦夷・入鹿父子にとって今や朝廷は意のままに動く将棋盤のようなものだった。


「おお、山背大兄王、先日は百済よりの仏像仏典の受け取り、大儀にござりました」

「前大臣には、ご健勝のご様子、何よりのことと存ずる」

蝦夷は勧められる前に、勝手に客室に入りその太った体をゆすりながら、椅子にどっかりと座った。


「ああ…近頃はあまり外に出ぬゆえ、歩くのが難儀になりもうした。あはは…」

「ご子息が立派に後を継がれたゆえ、ご安心のことでござろう」

「うむ…誰が見ても、わしより入鹿の方が大臣の器じゃ。わしとしては、肩の荷が下りて安堵しておりまする」


蝦夷は満足気にそう言った後、正面に座った山背大兄王に目を向けて続けた。

「うわさでは、王も麒麟児に恵まれて、お楽しみなことじゃと、人々は言うておりまするぞ」

「ありがとうござりまする。されど、うだつの上がらぬ父を持ったるが、近江彦の不運。

それに、あの子自身も全くと言ってよいほど欲というものがござらぬ。花や月を愛でて暮らすことが好きなようでござる」

「ふむ…それはもったいないことじゃ。されば、今日はその麒麟の子をぜひ世に出し、国のために働いてもらおうと思うて参りましたのじゃ」


蝦夷はそう前置きすると、息子から託された用件を切り出した。

「どうであろうのう、近江彦皇子を征東夷大使せいとういたいしとして任官し、正三位臣おみの位を授けようと思うのじゃが…」


「な、なんと…されば、息子を臣下に下せよとおおせか」


青ざめた王の怒りをはぐらかすように、蝦夷は腹を揺すって笑いながら付け加えた。

「ははは…いやいや、今の世に皇族とか臣下とか、さほど大したことではござらぬ。臣下でも才や力量のある者は、朝廷で重きをなしておる。皇族というても、誰が正統かも分からぬ状況じゃ。今や、時世が大きく変わろうとしておるのじゃ」


それは山背大兄王にとって、耐え難いほど痛烈な皮肉であり、臣下の礼を失した暴言であった。

王は怒りに青ざめ、こぶしを震わせながらも、その怒りを蝦夷にぶつけることさえできない我が身の力のなさに涙を流した。


「王からよおくご子息に言い聞かせてくだされ。よい返事をお待ちしておりまするぞ。ふふふ…では、これにて失礼つかまつる」

蝦夷は用件を済ませると、そそくさと館を後にした。


茫然と椅子に座り込んでいた山背大兄王は蝦夷が去った後、思いきり木卓をこぶしを叩き、蝦夷が座っていた椅子を蹴った。

失意の王は、その後床に伏しがちになり、やがて二年後、蘇我入鹿の命を受けた豪族たちの兵によって飛 鳥寺に追い詰められ、一族郎等とともに悲運の生涯を閉じるのである。

ともあれ、極は強制的に臣下に下され、未開の東国に追いやられることになった。その時期は、二月初めの御前会議で決められる予定だった。


「うぬう…入鹿め、先手を打ってきたか」

中大兄皇子は、極の任官を聞かされると歯がみをして悔しがった。

蘇我氏打倒の計画に極を組み入れることに成功し、これからの活躍を期待していたところだったからだ。


「皇子、今は自重の時でござる。我らの企み入鹿はすでに感じ取っておりまする。されば久米皇子のことはあきらめて、事が成就したあかつきには、改めて彼を呼び戻すことにいたしましょうぞ。」

鎌足の言葉に、激情型の皇子もしかたなくあきらめるしかなかった。


さて、当の極は、むしろ今回の任官を内心喜んでいた。臣下に下ることは、彼にとってどうでもよいことだった。それより、密かに心に期していた計画が、実現に一歩近づいたことに、自らの強運を驚く気持ちの方が強かった。


極は慣例に従って、一月十五日山背大兄王の館でひっそりと元服の儀を受けた。晴れて髪を切り、当時流行し始めていた頭頂まげに結い、大人になった。

出席者は山背大兄王の一族のみという寂しい宴だったが、皇極帝からは金銀をちりばめた立派な懐剣と分厚い手紙が贈られてきた。


「立派じゃ…極…これくらいしかしてやれぬわしを許してくれ。そなたの心強き後ろ盾となってやりたいと思うたが、力及ばず、そなたを臣下に下す大臣一派の横車を押し返すことさえできなかった…許してくれよ…」

衣冠姿の極の前で、王はぽろぽろと涙を落としながら詫びた。


「何をおおせられまするや。これまで受けたる大恩、極、決して生涯忘れはいたしませぬ今はまだ、そのご恩に報いる力もありませぬが、必ずやご恩に報いるつもりでおりまする。どうか、これからもお体をおいとい下さり、我がまことの父上として、いつまでもお健やかにあらせられませ」

王は溢れる涙を拭おうともせず、うれしそうに極を見つめて何度もうなづいた。


極は元服を機に王の館を出て、春通、田彦麿とともに葛城の地に移り住むことになった。蘇我石川麻呂の世話で、彼の別邸を使わせてもらうことになったのである。


石川麻呂はさらに、警護のための下人の衛士を七人つけてくれ、極一行を館に招いて元服の祝いを述べるとともに、当座のまかないとして、米、塩、乾物、さらに金銀を与え、困ったときにはいつでも頼ってくるように言ってくれた。極は度重なる石川麻呂の厚意に深く感謝するとともに、いつの日にか必ず恩に報いることを誓った。


石川麻呂はにこにこと笑いながら、久しぶりに晴れ晴れとした気分で酒をあおっていた。

「何も気になされずともよい。わしは嫌いな者には、決して米一粒とて与えたりはせぬ男じゃ。それにしても…」


石川麻呂は居ずまいを正すと、あらためて極を見つめながら続けた。

「…不憫なことじゃのう。世が世なら、後の大王として宮中にあるべきを…頼るすべとてない東の方へやられるとは…。久米皇子、よいかな、草の根をつかんででも決して負くるでないぞ。東の国で、一段と大きなる男になりませ。そして、堂々と都に帰ってくるのじゃ」


いつしか老人の頬を光るものが流れ落ちていた。極は感激の面持ちで石川麻呂を見つめこの武骨の老人を慰めるように、微笑んで答えた。

「お言葉、胸にしみてござりまする。されどどうかご心配めされませぬよう…。この度の任官、むしろわたくしにはうれしきことにござりました」


「何と…そなた、東国がどのような所か知らぬから、無理もないがのう。東国はいまだ朝廷に服さぬ者たちが住む夷の国じゃ。命を狙われることも覚悟せねばならぬ」


「はい、それこそ我が望むところにござりまする」


石川麻呂はあわてて涙を拭くと、けげんな顔で少年皇子をまじまじと見つめた。

「一体何を考えておいでじゃな。わしにはとんと分からぬが…」


極はこの石川麻呂には、自分の大いなる野望の一端を話してもよいと思った。なぜならこの反骨の老人が、決して他言するような人物ではないと分かっていたし、都に自分の計画の理解者が残ってくれることは、今後の計画の上でも都合がよいと思ったからだ。しかし、何よりも石川麻呂の厚意に応えたいという気持ちが強かった。


「されば、東の国は、わたくしにとって限りなき夢ある地にござりまする」

「ふむ…限りなき夢…とな。いかなるわけじゃ」

「はい…さきほど大殿のおおせの通り、東の方には、まだ朝廷の力は十分には届いておりませぬ」


石川麻呂は「あっ」と叫んで目を丸くし、ううんと唸ったまま後の言葉を失った。

「ううむ…しかしのう、久米皇子よ…それはあまりにも危険、いや無謀な考えじゃ。近くは筑紫の磐井いわいの乱、古くは熊襲くまその乱でも分かるであろう。朝廷に対する反逆は成功したためしはない。自ら命を捨つるようなものぞ。それに、戦になれば苦しむのは無垢むこの民ではないか」


「はい、おおせの通りでござりまする。されば、わたくしは朝廷に対して反乱を起こそうというつもりはござりませぬ。今、大殿がおおせられた無垢の民、その民の力を強うするそれが望みでござりまする」


「民の力を強うする…」


「はい。わたくしは都に近い橿原で育ちましたが、近くの村々の民の暮らしは、それは悲惨なものでござりました。冬でも裸同然、食うや食わずで田畑を作り、そのほとんどを朝廷に献じておりました。

道には毎日行き倒れておる老人、女、子供がおりました…それを誰も驚きもせず、牛馬の死骸のように野辺で焼き捨つるだけでござりました。

わたくしは毎日、そのような村の様子を見ながら思いました。これで、この国が強うなるはずはないと…。国を支ゆるは民にござりましょう。その民が、このような哀れな状態で、どうして唐や新羅と争うことができましょうや。国を強うするには、まず米を生み、子を産む民の栄ゆる国にすべきでござりまする」


石川麻呂は瞠目を禁じ得ず、酒のためばかりでなく顔を紅潮させて、思わず立ち上がった。

後年、彼はこの時の感動を、極を知る者たちに誰かれとなく語り、なつかしそうに目を細めて遠い東の空を眺めたという。

「皇子…」

老人は居ずまいを正して座り直し、極の前に両手をついた。


極の言ったことは、今の時代なら至極当然のことだったが、この時代の為政者には全く欠如していた考えだった。それを十四歳の少年がずばりと指摘したことが石川麻呂を驚かせ、目を開かせたのである。


「この蘇我石川麻呂、五十余年生きて参って今日この時ほど、心湧き立つ思いをしたことはござりませぬ。皇子こそ、まさしく次の世を背負うて立つお方、いや、そうなるべきお方にござりまする」


傍らでは、春通と田彦麿が感涙にむせびながら、その様子を見守っていた。

都に上がった当初は、まだ世の中のことを何も知らない少年皇子を、自分たちが守り、導いていこうと張り切っていた彼らだった。しかし、何度もこの幼い主に驚かされ、感動させられるうちに、いつしか自分たちの命を懸けてお仕えするのは、このお方をおいて他にはないと敬服し、すっかり極に頼りきっているのであった。そんな主をほめられることは、彼らにとっても何よりうれしいことだった。


「どうか、お手を上げて下さりませ。わたくしはただ、大殿のご心配にお答えいたしたまでのことにござりまする。されば、どうか喜んでわたくしを東の国へ送り出してくださりますよう…」


「うむ、あい分かりもうした。皇子が旅立たれる時、わしは笑うて見送りまするぞ。されど、くれぐれも命だけは大切にのう…無理はなさるなよ」


「はい。わが望み、一朝一夕に成るとは思うておりませぬ。われ一代で成せるとも思うておりませぬ。されば、ゆるゆると構えて進めてゆきまする」


「わはは…何とも頼もしい御子じゃのう。わしがもう少し若ければ、一緒に行きたいところじゃが…この老骨では、そなたの足手まといになるだけじゃ。春通、田彦麿、皇子のこと、くれぐれも頼んだぞ」


「ははっ…わが命、皇子に捧げておりまする皇子のためなら、たとえ火水に飛び込むことさえいといませぬ。」

「それがしも同様にござりまする。」


「うむ。わはは…いや愉快じゃ、愉快じゃ…わしもせいぜい長生きせねばのう。やがて東国の空に皇子の旗がひるがえる日が来るのを楽しみにしておりまするぞ。」


こうして、極はその日から、同胞二人と十数人の下人とともに葛城の里に住むことになった。大きな門があり、広い庭とたくさんの部屋を持つ広大な館だった。極たちだけで住むにはぜいたくすぎるように思われた。


三日ほど過ぎて、ようやく新居に落ち着いた極は、四ヵ月ぶりに久米の館へ報告に行くことにした。

朝食を済ませ、着替えをし、皇極帝から拝領の懐剣を腰に差す。と、その時、ふと懐剣とともに木箱に入っていた分厚い手紙が目にとまった。あわただしい日々にかまけて、まだその手紙を読んでいなかったことに気づいたのだ。里から帰ってから読もうかとも思ったが、帝に対して非礼だと思い直し、一応目を通すことにした。


「ん…?」

表書きは明らかに、帝自身の手による「祝詞」の文字だったが、中を開いてみて、それがいかにも拙い、不慣れな筆使いであるのを見て不審に思ったのだ。『御兄上様』という書き出しで、その手紙は始まっていた。


『御兄上様。夢ならえ覚めやらで、と願いつつ、涙に字もかすみ、筆持つ手も震えおりまする…』


極はその手紙が間人からのものであることを知った。

彼はあらためて朝日が差し込んでいる縁側の方へ移動し、食い入るように文面を読み始めた。手紙にあるように、所々の文字は涙が落ちてにじんだようになっていた。

手紙の内容はおおよそ次のようなものだった。


『…もうずいぶん長く兄上様にお会いしていないように思われます。都に来てからというもの、わたくしはすっかり元気をなくし、寂しくて寂しくて、もうこのままいっそ死んでしまいたい、と思うほど心が弱くなっておりました。思い浮かぶのは、なつかしい橿原のこと、そしてなつかしい兄上様のお顔ばかりでございました。

こんなことを書くと、またわたくしが甘えているのだと思われるかもしれません。

でも、先日久しぶりに、本当に久しぶりに兄上様のお顔を見ることができて、なつかしさのあまり泣いてしまいましたが、その後、一人になってからこみあげてくる涙は、なつかしさのためばかりではありませんでした。よくよく自分の心をたしかめてみると、それはすぐにでもこの身を引きちぎってしまいたいような苛立ちと、悔しさの涙でございました。

実はこの思いは、決して今気づいたことではこざいません。もう、ずっと以前からわたくしの心の中にあったのでございます。

つい先頃まで、たしかにわたくしは兄上様のすぐおそばにおりました。何度も兄上様に寄り添って眠っておりました。ああ、それなのに、わたくしは何という愚かな小娘であったことでしょう。あまりに兄上様が近くにおられて、これからもいつでもお会いできると思い込んでいたばかりに、わたくしはただ、兄上様の妹として振る舞い続けたのでございます。

兄上様、間人はやせて、手足も汚れ、乳もまだ膨らまない幼い従妹でござりました。でも、その幼い従妹は兄上様の腕の中で眠りながら、誰よりも幸福な女の喜びを味わっていたのでございます。

兄上様はお笑いになるでしょうか。まだ十になったばかりの小娘が、そのようなことを考えるものかと。しかし、今ははっきりと言えます。わたくしはずっとずっと以前から、兄上様をお慕いしていたのでございます。

兄上様は、間人のことをどう思っておられるのでしょうか。やはり、ただの妹としか思って下さらないのでしょうか。ああ、会いたい、兄上様。会ってその思いをお聞きしたい。たとえそれがわたくしの片思いであってもよいのです。

会いたい、兄上様、会いたい…会いたい…                     間人 』


極はいつしか心の高ぶりを抑え切れず、手紙を持つ手が震え、乾いた口の中を潤すために何度も唾液を飲み込んでいた。

間人も自分と同じ思いを抱き、苦しみを味わっていたのだと思うと、極はたとえようもない幸福感に包まれ、すぐにでも間人を抱きしめに駆け出したい衝動に駆られた。それがかなわないことだと自分に言い聞かせる前に中庭の方から春通の声が聞こえてきた。


「殿、出立の時刻にござりまする」

「う、うむ…今参る」

極は手紙を元通りに折りたたみ、木箱の中にしまいこむと、未練を振り払うように立ち上がった。


橿原の久米の館では、すでにこの四ヵ月あまりの極に関する出来事は春通や田彦麿からの報告で知らされていた。極の征東夷大使の任官は、久米の一族にも大きな衝撃をもって受けとめられた。彼らはきっと極が傷心を抱えて帰ってくるものと思っていた。


ところが、その日、神妙な顔でずらりと居並んだ久米一族の人々の前に現れた若き当主は、四ヵ月前とは見違えるほど堂々として、にこやかな笑みを浮かべていたのである。

「方々、お久しぶりにござる。爺様もご健勝のご様子、何よりにござる」


一同は驚きの中で、一斉に平伏する。

「殿におかれましては、都でのご苦労いかばかりかとお察し申し上げまする。何の力添えもできぬ我が身が口惜しうてなりませぬ。どうかお許し下さりませ。さらにはこたびの任官、殿のご心中を思うと申し上ぐる言葉もござりませぬ」

祖父の穂足はうめくように、最後は涙に咽喉をつまらせながらそう言った。


「あはは…そうか、皆えらく沈んだ顔をしておると思うたが、こたびの任官のことを心配しておったのか?」

極の言葉に、祖父も他の者もいっそう驚いて、にこにこ微笑んでいる少年皇子をまじまじと見つめた。


「こたびの任官、むしろわしは喜んでおる。いや、爺様、まことにそう思うておりまするのじゃ。わけをお話いたす…」

極はそう前置きすると、春通と田彦麿に目配せをした。二人はさっと立ち上がると、部屋の周囲に盗み聞きする者がいないことを確かめて戻ってきた。


極は一同に、ずっと近くに寄るように合図した。そして、蘇我石川麻呂に語ったことと同じ内容を人々に語ったのである。


穂足も他の男たちも大いに驚いたことは言うまでもない。騒然となった人々を鎮めるために、何度も途中で話を中断しなければならないほどだった。


「し、しかし、待たれよ、皇子…それはあまりにも危険すぎやせぬか。そなたの命が亡くなってしもうたれば、どんなすばらしい計画も無駄になってしまうのでござるぞ」

「うむ、それはよう分かっておりまする。されば、わしは力とか、朝廷の権力を借りてそれを行なうのではありませぬ。むしろ、民の不満の力を国作りに…新しい国作りに向けさせようと思うておりまする。それを民に分からせるまで、辛抱強く、ゆるりとやっていくつもりでござれば、どうか心配なさらず見ていてくだされ」


今や、男たちは感激の面持ちで、ざわざわと語り合い、うなづき合っていた。

しかし、なおも穂足は慎重だった。

「皇子…この爺、皇子のお考えを今、涙の出る思いで聞いておりまする。されど、このたび皇子は、征東夷大使として東国に赴かれるのでござりまする。それはかの国を朝廷に服させよ、という帝の命にござりますれば、皇子のお考えは朝廷の意に反するもの、いわば反乱とあいなりましょう。されば、敵は夷ではなく、朝廷とあいなりましょうぞ」


「うむ、そうなるであろうな…」

極は平然と答えると、さらに輝く目で祖父を見つめながら続けた。

「爺様、覚えておいでか…わしが九つか十の頃、もろこしの孔子様のお話をして下さりました。あの頃わしはすでに、爺様の言いつけに背き、近隣の村々を巡り、国のまつりごとの過ちを心に刻んでおりもうした。

わしと同じ年頃の子供たちが、目の前で、ひもじさのあまり弟や妹の手に噛みついたり、ねずみや蛙を喰ろうたり、あるいは道端で死んでゆくのを、ただ見ておるほかなかったのじゃ…。

可愛い童女が、わしにすがりついて言うたことを、今でも夢に見ることがある…。

『なぜにあたいは生まれてきたのかえ…』そう言うて、その子は死んだ母親の体の上で冷たくなっていった…。そんな民の苦しみを知らぬで何が大王か、何が大臣か…」


極の頬をいつしか涙が流れ落ちていた。ずっと胸の奥にしまいこんでいた激情が、堰を切って溢れだそうとしていた。

「爺様、孔子様は国を救おうとして救えず、そのご立派な考えをまつりごとに生かすことはおできにならなかった。それは結局、まつりごとに携わる者に頼ったからではないか。

わしは朝廷には頼らぬ。ましてや大臣や大王には頼らぬ。わしは民と手を握り、力を合わせて国を作ってゆく。邪魔をするものは、たとえ朝廷でも容赦はせぬ」


極は初めて人々の前で、心の奥にある熱い思いを吐き出し、流れる涙を拭おうともせずこぶしを握りしめて震わせていた。

穂足も後ろの男たちも、やはり涙を床板に落としながら両手を前についていた。


「わしは死して悔いのない生き方をしたい。都にいてますますその思いは強うなった。悔いや恨みだけを残して長生きしても何になろうか」


すがすがしい早春の風が、このとき人々の心にも吹き抜けていくようであった。

「親方様、わたくしもお供いたしまする」

「わたくしもぜひお供させてくださりませ」

男たちは次々に叫んで、極のもとに近寄ってきた。


極は集まった男たちを優しく見回しながら諭すようにこう言った。

「皆の気持ち、涙が出るほどうれしく思う。されど、連れて行くことはできぬ。なぜな

らわし一人でやることは、わし一人の罪じゃ、なれど皆を引き連れて行なうとき、それは久米一族の罪となるからじゃ。わしは久米の当主じゃ。この家を守らねばならぬ」

「そんな…いえ、たとえ親方様お一人で行かれても、腹黒の蘇我一派は必ずや久米の家をつぶそうとするでござりましょう。こうなったら、一族挙げて東国へ移り住むが最上の策かと考えまする」

穂足の長男、長手が意気込んで叫んだ。


「いや、皇子の言う通りじゃ…。わしらは皇子に存分に働いていただけるよう準備をし、お帰りを待っておればよい」

「父上、それではあまりに親方様に対して、冷とうはござりませぬか。たったお一人で、危険極まりない東の方へ行かせるのでござりまするか?」


「長手、皇子のこの家を思うお心を無駄にしてはならぬ。それに皇子はお一人でやっていかれる自信がおありじゃから、こうして我らに計画をお話しになったのじゃ。よしんば、志を果たされず、東国におられぬようになっても、ここに帰るべきところがある。それでよいではないか」


男たちは涙を飲んで、穂足の言葉に従うしかなかった。

極はそれから、さらに詳しい計画を一同に話し、意見を求めた。やがて、夕暮の光が館の中に差し込む時間になったが、熱い話し合いは夕闇が辺りを包むまで続けられたのだった。

その後、夕食をかねた宴が行なわれ、極は久しぶりに故郷で心ゆくまで食べ、語り合い楽しいときを過ごした。


「親方様、夜はまだ冷えまする。中へお入り下され」

縁側から外の美しい春の月を眺めていた極のもとへ、春通がやって来て声をかけた。

「うむ、あまりに月が美しゅうてな。都では月を眺めても、さほど美しいとは思わなんだが」


春通は極の上着を持ってきて、肩に着せかける。

「ここにいる間は、ゆるりと体と心をお休め下され」

春通はまだ細い少年皇子の肩を眺めて、思わず涙を流しそうになった。

「うむ…じゃが、そうゆるりとしてもおられぬ。明後日には都に帰るつもりじゃ」

「何か急なご用でも…」

「うむ、着任の詔勅しょうちょくが来る前にいささか準備がいるでな。その前に大王にもお礼を申しに参らねばならぬ」

「はっ…では、お休みなされませ」


春通がかしこまって退出すると、極もゆっくりと立ち上がって部屋の中に入った。彼が早く都に帰りたいと思うのには、もう一つ心に秘めた理由があった。

彼は灯火台を近くに引き寄せ、机の前に座った。そして、紙と硯箱を取出し、しばらくじっと考えをめぐらした。しんと静まり返った夜の闇の中で、灯芯の燃える微かな音が聞こえている。

いつしか極の顔には楽しげな微笑みが浮かび、筆を取ると一気に紙に向かって文字を書き連ねていく。まだ仮名文字が生まれる前で、漢字の発音を利用した部分と漢文読みの部分が混在した文章だった。極はなるべく平易な表現を心がけた。なぜなら、その手紙は十一歳の少女への手紙だったからだ。


少女の顔が思い浮かぶと、ついつい手は止まり、胸を高鳴らせながら部屋の奥の暗闇をぼんやりと見つ

め、少女の姿を追い求めた。

半刻ほどで一気に書き上げると、それをきれいにたたみ、こよりで縛る。と、ふと思いついて、極は縁側に出ていった。

月明かりに照らされた庭を眺めていた極はにっこり微笑んで、素足のまま土の上に下り立ち、梅の木の根元にちらほらと膨らみ始めた水仙の蕾を一枝折って部屋に戻った。

青くとがってやや下を向いた蕾を眺めながら、極は初めて会った頃の間人を思い出していた。


大切に育てられた姫君だった間人は、わがままで、甘えん坊で、極も時々わずらわしく持て余し気味な時があった。しかし、二年三年と一緒に過ごすうちに、皇女はすっかり大人しく従順な少女になっていった。

もともと彼女は、ひどく人見知りで警戒心が強く、自分の心の内をあまり人には見せない性質だった。しかし、極にだけは別で、その心の内に秘めた激しさも、素直で心底優しい面も、すべてを彼にだけは隠さなかった。

水仙の固く青い蕾は、間人そのものだと極は思った。その内部の繊細で傷つきやすい部分はごく限られた人間しか知らないのだ。その水仙の一枝を手紙にはさんで、しっかりとこよりで縛ると、それを自分の荷箱の中に大事にしまった。


極は灯りを吹き消し、月明かりの差し込む床板の上にごろりと寝転んだ。少し興奮していたのか、なかなか寝つけなかったが、やがて楽しい夢を見ながら久しぶりにぐっすりと寝入ったのだった。



 8 時代の荒波の中で:②



極の征東夷大使任官を聞かされた間人の衝撃は言葉にできないほどだった。あまりの悲しみと絶望のために、哀れな少女は部屋に閉じこもったまま、食事もとろうとしなくなった。

皇極帝は娘が悲しみのあまり自殺するのではないかと密かに恐れ、しっかり者の侍女に見張らせたほどだった。


実際、間人は死にたいと思っていた。床に座って、ぼんやりと暗がりを見つめる少女の目は限りなく深い絶望の淵をじっと覗き込んでいたのである。

そのような娘の様子を予想していたとはいえ、母親としてなんとかしてやりたいと悩みながら、ただ一つの希望である極からの返書が届けられるのを、ただ待つことしかできなかった。


そんなある日、ついに舎人が待人の来訪を告げにきた。

「申し上げまする。近江彦皇子様が、お目通りを願って、まかりこしておいでにござりまする」


「おお、何と、近江彦が…一人か?」

女帝は飲みかけの薬湯を卓に置いて、立ち上がりながら聞き返した。

「はい、お一人にござりまする。返礼の品を持っておいでのよしにござりまする」

「うむ、すぐに朝見の間にお通し申せ」


舎人がかしこまって去った後、帝は娘を一緒に連れて行こうかどうか迷って、部屋の中をあわただしく歩き回った。しかし、彼女はすぐにそれはできないことだと自分に言い聞かせた。


娘は今、極恋しさに自分を見失っている。ここで本人に会わせたら、さらに娘の心にも体にも火をつけてしまい、何としても媾合こうごうしようとするだろう。そして、それが永遠にかなわないと知れば、今度は何があっても死のうとするに違いないのだ。


今はただ、極が娘への返書を持参してくれたこと、そしてその内容が娘を喜ばせ、あるいはそれとなく諦めさせる内容であることを祈る他なかった。

女帝はおぼつかない足取りで、極が待つ朝見の間に向かう。


極は静かに青い石畳の床にひざまづいて、帝が現れるのを待っていた。

やがて舎人の前触れの声があり、衛士、官吏たちがひざまづく中を、皇極帝が壇上に姿を現した。


「待たせてすまなんだのう、近江彦…」

「いえ、恐れ多きことにて…わざわざ謁見たまいしこと、ありがたき幸せに存じまする。

先日はわが元服の儀にさいし、思いがけず、ありがたき品の数々下せたまいしこと、この上もなき光栄に存じまする」


「心ばかりの品ですまなんだ。気に入ってくれたかえ」

「はっ、わが生涯の宝として、肌身離さず大切にいたす所存にござりまする」

「それは良かった。さあ、立って、もそっと近う寄らせたまえ」

女帝は、極に限りない親しみと魅力を感じて、優しく声をかけた。

彼女の目に、明るい初春の日差しを背に、すっくと立った白い衣冠姿の若者が、まるでさわやかな風と共に現れた白梅の精のように見えた。


「おお…何とも美しい…そなた、少し見ぬ間に、また一段とたくましうなったのう」

「はっ、背ばかり伸びて、中味がともないおりませぬ。衣服も作り直すひまがなく…」

極はそう言うと、ひじから先が出てしまう袖を女帝に見せた。


女帝は久しぶりに楽しげな笑い声を上げる。周囲の衛士や官僚たちも思わず失笑して、声を立てないように袖で口を抑える者もいた。

「ほほほ…ああ、久しぶりに笑うた…。皇子、さっそく衣を作らせるゆえ、待っておれ」

そう言ってから、女帝は急にしんみりとなって、極にじっと目を注いだ。


「ずいぶんとちんを恨んでおろうのう…」

天皇が、公の場で臣下に謝るのは異例のことである。皇極帝は極への親しみのあまり、

ついつい情にほだされてしまっていた。


「何をおおせられまするや。大王の臣と生まれしは、その命あらば、たとえ火水の中へさえ喜んで飛び込みまする。不肖、この近江彦、力の限りお役目果たす覚悟にござりまする。どうか、何のご懸念もおぼしめされぬよう、お願いいたしまする」


「うむ…うむ…」

皇極帝は心ならずも蘇我入鹿に押し切られて、極を東国へやることになったことをいまだに後悔していた。できれば早く彼の任を解いて、都に呼び戻そうと、今は考えていたのである。


「大王、先日のお礼に、はしたなき品で心苦しき限りにござりまするが、親族より送られて来た桂皮を持参いたしてござりまする。どうかお受け取り下さりますようお願いいたしまする」

「おお、それは珍しい。高価なものをすまぬのう…ありがたくいただきまするぞ」

極の差し出した木箱を舎人が受け取り、それを女帝へ手渡す。この時代、肉桂の木の皮は高価な薬としてわずかに栽培され、ごく限られた人の口にしか入らない貴重品だった。


女帝は木箱を開き、中に錦の袋に入れられ、独特の香りを放っている桂皮を手に取った。そのとき、彼女は箱の底に手紙が添えて入れられているのを確かめ、期待に胸を高鳴らせるのだった。


「おお、良き香りじゃ…大事に煎じて飲ませてもらいまするぞ。ときに、皇子、先日朕が添えた祝いの祝詞、いかがであった?」

「はっ…思わず涙を流して拝見いたしてござりまする」

「うむ、心に届いたと申すのじゃな」

「はい、心の奥に沁みてござりまする。されば、こたびは拙きわが歌をお返しに添えさせていただきました。なにとぞお目をわずらわせていただきますれば、この上もなき幸せにござりまする」

「うむ、楽しみに読ませてもらうぞ。」


女帝は満足し、きっとこの手紙が間人に良い結果をもたらすだろうと確信した。

「大王、今一つわがままなお願いをお聞きとどけいただきとうござりまする」

「おお、なんなりと申してみよ」

「ははっ、ありがたき幸せ。されば、なにとぞわたくしにうじを下し賜りますよう」


皇極帝は一瞬心に痛みを覚え、頭を垂れた若者に駆け寄ってしっかりとかき抱きたい衝動にかられた。皇族から臣下に下った例は過去にもあったが、呼び名はあくまでも皇子であった。皇族が氏名を持つのは、その子孫たちの代になってからのことなのだ。


「お、近江彦、なにもそこまでせずともよいではないか。そなたはこれからも近江彦皇子でよいのじゃ」

「はっ、ありがたき御心、感謝の言葉もござりませぬ。なれど、今日よりは大王の一臣下として身命をして御役目を果たす覚悟にござりまする。わが覚悟のあかしとして、なにとぞ氏を下し賜りますよう、切にお願いいたしまする。」


ここまで覚悟を示されては、女帝もそれ以上引き止めることはできなかった。かばねおみと決まっていたが、氏の名はまったく女帝の頭にはないことだった。

しかし、彼女はじっと極を見つめながら、心の中に湧き上ってくる熱い思いに頬を紅潮させていった。


「そなたの心、よう分かった。朕は涙が出るほどうれしいぞ。されば、そなたの願いをかなえよう」

「ははっ、ありがたき幸せ…」

「うむ…。のう近江彦、そなたの母はいずこの生まれじゃ」


女帝は知っていて、あえて公の場で極の出生を明らかにした。ただし、父親はあくまでも山背大兄王でなければならなかった。


「はっ、母は久米連穂足が娘にて、綾女と申しまする」

「おお、さようか。されば、そなたはこれより久米を名乗るがよい。して、幼名は…」


極の顔に少年らしい無邪気な喜びが溢れ、女帝を慈母のようにまぶしげに見上げた。

「はっ、わが幼名は『きわみ』、行き着く所まで突き進む意を表す『極』の字を当てまする」


皇極帝の顔にもこの上もない歓喜が浮かんでいた。それは二人だけにしか分からない喜びであった。

「うむ、よい名じゃ…。されば、今日よりそなたは久米臣極くめのおみきわみを名乗るがよい」

「ははっ。」


こうして、極はあえて皇族の名乗りを捨て諸豪族の一人に列することになった。


「のう、極…何事も行き着く所まで行くは、勇ましきことなれど、行きすぎるは身を滅ぼしかねぬ。ほどほどにの」

「はっ、お言葉肝に銘じて忘れませぬ。ではこれにて退出させていただきまするお体をおいとい下さりませ」

「そうか…もっと話をしたいが、またの機会を楽しみに待つとしよう。いつでも訪ねて参られよ」

「ははっ、ありがたき幸せ。では、失礼つかまつりまする」


極はひざまづいて二回拝礼すると、立ち上がって一礼し、ゆっくりと後ろに下がりながら出口でさっときびすを返して出ていった。

日差しの中に消えていく極の後ろ姿を見送りながら、女帝は心底から、彼をわが息子にしたい気持ちになった。いや、もっと自分が若かったら、きっと娘と同様、彼の妻になりたいと考えたに違いないと思った。


女帝は小さなため息をつくと、立ち上がって部屋へ帰った。そして、部屋に入ると、さっそく木箱の底に置かれた極の間人への返書を取り出す。彼女は、娘より先にその内容を知っておかねばならないと考えていた。

少し後ろめたさはあったが、そっとこよりから抜き取って、中味を開いて読み始めた。


「皇女様、大王よりの贈り物にござりまする」

「母上様からの…何であろう…」


間人は侍女が差し出す木箱を受け取り、ひもを解いてふたを開けた。中にはこよりで縛られた手紙らしきものが入っていたが、それを見たとたん、少女は激しい胸の高鳴りに思わず手で胸を押さえ、ごくりと息を飲んだ。


「さ、下がってよい…。あっ、それから…しばらく誰も部屋に入れぬよう」


侍女がかしこまって下がると、少女は震える手でその手紙を取り出し、もう涙をぽろぽろとこぼしながら、まるで壊れ物を扱うようにそっとこよりをはずし、中の紙を開いていった。本当は、恐くて読みたくないという気持ちもあったが、どんな結果であろうと受け入れると、これまで何度も自分に言い聞かせてきたのだ。


勇気を奮い起こし、少女は涙をこすりながら墨で書かれた文面に目を向けた。

「あっ…これは…。」

開いて行く途中、紙の間からぽろりと、しおれかかった水仙の蕾が出てきた。その意味は分からなかったが、きっと愛しい従兄が手ずから折り取ってはさんだものだろうと思い、それだけでもう、うれしさに涙を流す間人だった。


『美しき皇女様。

御文にこめられたあなた様のお心を、限りなくうれしく、またありがたく感じながら読ませていただきました。』

こんな書き出しで始まった文面を、間人は何度も読み返し、少し悲しげに唇をかんで、次の行に目を移していく。


『今は臣下に下されたこの身、あなた様のお心にどうお答えすれば良いか、ずいぶんと悩みました。つい半年ほど前までは、恐れ多くもあなた様のことを呼び捨てにし、実の妹のように接していたわが身を恥ずかしく思います。』


間人は思わず、手紙を持った手を机に打ちつけて、悔しさのあまり息を荒くしながら涙ぐんだ。

もうこれ以上、続きを読みたくなかった。こんな手紙なら読まないほうが良かった。

しかし、それでも極へのいとおしさはますます耐え難いほどつのり、小さな少女の体を熱病のようなけだるさで包んだ。泣く泣く、間人は続きに目を向けた。


『あなた様は帝の御息女、わたくしは卑しい一臣下にございますれば、どうか、わたくしことなどお忘れになり、やんごとなきお方のことをお考え下さいますよう、切にお願い申し上げます。

最後に一つだけ、あさましいわが思い出をお聞きください。

昨夏の頃より、わたくしがわざとあなた様を避けていたことをお気づきでしたでしょうか。そのわけは、あなた様に見られたくないことがあったからです。あなた様のおそばにいると、わが体の一部が、できもののように腫れて熱くなってしまうのです。衣の上からそれを見られるのが恥ずかしく、まことに無礼なことをいたしたと思っております。

では、どうかお幸せに。あなた様がお幸せなら、わたくしも幸せでございます。くれぐれもお体を大切にされ、心安らかにお過ごし下さいますよう。        極 』


悲しみにうちひしがれた間人は、手紙に顔をうずめたまま、さめざめと泣き続けた。覚悟はしていても、現実を受け入れることは、やはり死ぬほどつらかった。ただ、少女には、まだどうにも腑に落ちない点があり、もやもやしたものが心に残っていた。そしてそれは打ち砕かれた希望のかけらのように、ほんのわずかな輝きを放っているように思えた。


(帝の娘と臣下だから、極兄様はわたくしの心を受け入れられないとおっしゃる。ならばわたくしが帝の娘であることを捨てれば、妻にしてくださるお気持ちがおありになるということかしら。それに、わたくしがそばにいると体の一部が腫れたようになるとは、何のことかしら…分からない。どうして、そんな思い出をわざわざお書きになったのかしら…ああ、極兄様…教えてくださりませ…)


顔を上げた皇女は、涙を袖で拭きながら、じっと手紙と水仙の蕾を交互に眺めて考え込んでいた。


「玉比女、玉比女はおるか?」

「お呼びでござりまするか?」

「ええ、そなたに教えてもらいたいことがあるの」

間人は、唯一何でも相談できる侍女に聞いてみることにした。

「殿方の体の一部が、腫れたように熱くなるとはいかなることか、そなた、分かるか?」


さすがの年増の女官も、思わず顔を赤くして答えにとまどったが、すぐにこれはへた

をすると大変なことになると考えた。


「姫様、それはどなたからお聞きになったのでござりまするや?」

「久米の兄上様が、文にお書きになっておるのじゃ。それは、病なのか?」

「はあ、病といえば病にござりまする。うふふ…」


玉比女はその手紙が、間人の愛しい人からのものであることを知り、ほっと安心すると同時に、ここは筆頭女官として、皇女にきちんとした性教育をしなければならないと考えた。


「姫様、子はいかにして生まるるか、ご存じであらせられまするや?」

間人は思いがけない問いにとまどい、頬を赤らめた。


「そ、そのようなこと、知っておる。男女が睦み合うて生まれるのであろう」

「はい。では、男女が睦み合うとはどのようにすることでござりまするや?」

「そ、それは…」


間人は幼い頃から、女としてのたしなみや基本的な性の知識は教えられてきた。しかし具体的なことについては全く知らなかったのである。


「子を成すには、その元となるものを混ぜ合わせねばなりませぬ。元となりたるものは男女がそれぞれ半分ずつ体の内に持っておりまする。されば、姫様、男女の体の最も異なる部分はご存じでござりまするや?」

間人は、まだ赤い顔のままこくりとうなづく。


「男女が子を成さむとする時には、男の部分は膨らんで固くなり、女のその部分に入りやすくなりまする。女の部分は男が入りやすいように濡れるのでござりまする。二つの部分が結びつくことが繰り返されて、やがて子が生まれるのでござりまする」


間人は思わず、あっと小さな声を上げて、いよいよ赤くなった。

女の部分の変化については、すでに二年ほど前から経験していたので理解できた。しかし、今、男の体の変化について知り、過去の記憶が鮮やかによみがえってきたのである。

橿原の館で、極とともに夢のように楽しい日々を過ごしていた頃、間人は何度かそんな場面に出会ったことがあった。昼寝から目覚めたとき、まだ寝ている従兄のその部分が衣を持ち上げているのが目に入り、何だろうと思って触ってみたことがあった。

また、昨夏の別れの時、裸でしがみついた自分の腹の辺りに確かに従兄の熱い膨らみがあったのを、はっきりと覚えている。


「で、では、極兄様がわたくしがそばにいると、体の一部が膨らむというのは…」

「ふふ…はい、久米の皇子様は姫様と睦み合いたいとお思いなのでござりまする」


間人は 心の奥を冷たく閉ざしていた氷の壁が一気に融けて、熱いものに満たされていくのを感じた。

(ああ、極兄様のばか、ばか、ばか…。どうして早く言って下さらなかったの。わたくしなら、もういつでも兄様と睦み合う用意はできておりましたのに…。ああ、でも、もうどんなに逃げようと無駄ですから…どこまでも間人は追いかけていきまする。だって、わたくしには極兄様しかいないのですもの…)


間人の頬を温かい涙がとめどもなく流れ落ちていった。その顔には限りなく幸せな微笑みが浮かび、しおれかけた水仙の蕾を見つめていた。


間人は涙を袖で拭うと、こちらも感動の涙にむせんでいた玉比女へうれしげな顔を向けた。

「玉比女、わたくしが極兄様と睦み合いたいと思うていることは誰にも言うてはなりませぬぞ」

「はいっ、この玉比女、命に替えて姫様の恋が叶いますよう、お手伝いいたしまする」


間人はにっこり微笑んでうなづくと、再び蕾に目を戻す。

「これ…わたくし…?」

固く尖った口先をやや下に向けた蕾の様子は、確かに、極に甘えてすねた時の自分によく似ていると思った。



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