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東原~あずまのはら~ Remake版  作者: 水野 精
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達成編 2 ~前哨戦②~

 時は五日ほどさかのぼる。

「讃岐の鬼」のうわさを聞いて、急きょ帰京した中大兄皇子と中臣鎌足を待っていたものは、二つの鬼の首だった。


「ほう、これが鬼の首か…なるほど、確かに人間とは思えぬ異形じゃのう。なれど……」

中大兄皇子は、一方の小さな首をじっと見つめながら、言葉につまった。血の気は失せていたが、その、微かに微笑みを浮かべた顔立ちが、死人にしてはあまりにも美しかったからである。


「左の大臣、お手柄であったのう」

 賞賛の言葉にもかかわらず、石川麻呂は苦渋に満ちた顔で頭を下げた。

「聞くところによると、この鬼、東国から参ったそうじゃのう?」

「は、はっ、さように聞いておりまする。くわしくは、この者たちを討ち取って参った

坂田藤太にお聞き下さりませ」


 石川麻呂は、自分の口からは言いたくない様子で、舎人を促して門の外に控えている坂田藤太を呼びに行かせた。


 藤太が、仁来と安里の首を取って帰ってきた日、石川麻呂は最初大いに喜んで藤太を讃えた。ところが、彼の口から、鬼の正体を聞くに及んで、石川麻呂は「しまった」とほぞを噛んだのである。まさか、鬼が本当に、極の命で東国から遣わされた者たちだとは思ってもいなかったからだ。

(久米皇子……何とお詫びすればよいか……許してくだされ……)

 東国決起の報に、内心、両手を上げて喜んでいた石川麻呂だっただけに、自分の犯したミスを悔やんでも悔やみきれなかったのである。


「坂田直藤太、お呼びと聞き、まかりこしましてござりまする」

「おお、その方が鬼退治の英雄か。あはは……よくぞやった。近う…」

「ははっ、ありがたき幸せ」

 藤太は、意気揚々と時の権力者の前に進み出て、片ひざをついた。

「この鬼ども、自ら東国の犬じゃと申したのか?」

「はっ、いえ、親玉のほうは、しらを切りましてござりまする……なれど、こちらの子鬼は、首を切られるに及び、自分は久米皇子の妻であると……自分を殺せば、必ずその報いを受けよう、と申してござりまする。口からのでまかせかとも思いましたが、身に着けたる綾衣や、死を恐れぬ態度から見て、恐らく間違いなかろうと……」


「ふむ……確かに間違いあるまい。わしは、こたびの箱根の戦の折り、この者どもと同じ異形の蝦夷たちを多く見た。東国の者どもに間違いないところじゃ」

 中大兄皇子は、内心から溢れ出す喜びを扇で隠しながら続けた。

「坂田藤太、この見事な働きについて、恩賞をとらす。何が望みじゃ?」

「ははっ、身に余る幸せ。されば、これより後も、この坂田、恐れ多くも大王に仇なす者どもを討ちたてまつりたく、その儀、お許し願いとうござりまする」


「おお、殊勝なる心がけ、頼もしゅう思うぞ。されば、大王に進言し、そちを衛門の丞となさむ。さっそく明日より出仕いたすがよい」

「ははあっ」

 長年の望みを叶えた坂田藤太は、得意満面で宮中を退出していった。


(ふふふ……これが、極の妻とはな。さぞかし無念であったろうよ)

皇子は、少しでも極に悲哀を与えられたことに大いに満足した。そして、明日にでも再び出陣し、今度は直接極の息の根を止めようと、心に期するのだった。


 次の日の夜、暗闇に包まれた飛鳥川の芦の茂みに、じっと潜んで一点を見つめる人影があった。その視線の先には、見張りの番人が炊くかがり火に照らされた、二つのさらし首があった。

「ううっ…うっ…ううう…に…仁来…さ…ま……安里さま…あ…あああ…ぐっ…う…」

 茂みの間の、かがり火のかすかな光を映した二つの目は、今にも血を噴き出すのではないかと思えるほど、赤く染まり、大きく見開かれていた。

 必死に声を押し殺した慟哭が、長い間続いた。

そして、ようやく一つ息を吐いた人影は、茂みから音もなく出て、暗闇の中へいずこへともなく消え去っていった。


 次の日の朝、宮中で働く伴部の男の一人が、慌てふためいて衛門府に駆け込んできた。

「な、何、首が無くなっておるじゃと?」

「は、はい。そればかりか、番をしていた下人の者たちも、首を切られて……」


 衛門府の衛士たちは、あわてて飛鳥川の河原へ確認に向かった。その中には、この日から一隊を率いる指揮官として出仕した坂田藤太の姿もあった。

 彼らが現場に着いて見たものは、無くなった二つの鬼の首と、その代わりにさらされていた番人の男の首だった。


「こ、この者たちは、鎌足様配下の手練れの者たち……それを、一撃のもとに首を落としておる。いったい何者の仕業じゃ……」


 上官の言葉に、藤太はふと、子鬼の首を切ったときのことを思い出していた。

(わだすを殺さば、いずれその報いを受くるぞよ)

 そう言って、ぽろりと涙をこぼした少女の、ぞっとするほど美しい顔が、いやにはっきりと脳裏によみがえってきた。少女はその後観念して、その白く細い首を垂れ、最後に悲しげにつぶやいたのである。

『皇子様……永のお別れにござりまずる…』

 それを聞いたとき、藤太は得体の知れない不安を感じて、少女の斬首をやめようと思った。しかし、仲間を殺された手下たちの憎悪を抑えきれず、ついに首を刎ねてしまったのである。


 仁来と安里の首を持ち去ったのは、もちろん兵助と志木羅以下二人の耳目の者たちであった。兵助は、二人の首を塩でくるんで樽に入れると、河内の浜へ向かった。そこには仁来と安里の遺体を回収した武丸たちが待っていた。兵助は二つの樽を武丸に託すと、再び都へ戻っていった。


 二人の遺体が懐かしい故郷に向かって船出した頃、その故郷の土は赤い血の色に染まろうとしていた。



 西暦六四五年九月二十日早朝、朝霧をついて田子の浦の浜辺に上陸した末浦鬼衛門、真竜率いる精鋭千二百は、三島に陣を構えた朝廷軍一万三千余に、背後から奇襲をかけた。そして、それを合図に、箱根の守備隊一万一千が一斉に城を出て、突撃を敢行したのであった。


 阿部比羅夫を総大将とする朝廷軍は、完全に不意をつかれて浮き足立った。情報では、越後からの軍が、明日にでも総攻撃を開始する予定だということだった。そうなれば、箱根の軍も一部はそちらに向かわざるを得なくなる。守備隊が少なくなってから、おもむろに攻撃を開始しようというもくろみが、完全に崩れたのである。


 しかし、兵の数では朝廷軍が上回っている。時間が経つに連れて、体勢を立て直した朝廷軍はじわじわと反攻に転じ始めた。


「まずいのう。敵は鬼衛門殿の方へ主力を回したぞ。数の少ない方から潰そうという腹じゃ」

「磯部様、わたくしに百の手勢をお貸し下さりませ。左の山へ回って、一気に敵の側面を叩きまする」

「ううむ…じゃが、真白、そなたは殿よりお預かりした大切な身。万一のことあらば、

わしは償うことはできぬ」

 磯部はそう言いながらも、真白の自信と使命感に輝く美しい目を見ているうちに、思わず苦笑を浮かべた。

「わかった、行って参れ。じゃが、決して無理をするでないぞ?」

「はっ。」

 真白は勇躍、生き生きした顔で陣を出ていった。


 三島、沼津間での両軍の戦いは激烈を極めた。兵士たちは血と汗と泥にまみれ、敵か味方かの区別さえできないほどであった。

 朝廷軍の中に深く切り込んだ鬼衛門の海賊軍団は、よく戦い、朝廷軍に大きな損害を与えた。しかし、圧倒的な数の敵に、いつしか取り囲まれ、孤立してしまった。黄瀬川には、両軍兵士のおびただしい死体が浮かび、流れは赤く染まっていた。


「ええい、こいつはきりがねえ……親方、ここはいったん船に引き上げようぜ」

「うむ…じゃが、引き上げようにも、周りを取り囲まれておるわい。船に着くまでに全

滅してしまうぞい」

 鬼衛門たちは、黄瀬川の大きな中州に集まって、飛んでくる矢を避け、断続的に襲いかかってくる敵を撃退しながら動き出す機会をうかがっていた。彼らの周囲には、死体がうず高く積み重なり、あたかも防塁のようになっていた。


「それ、またきやがった。行くぞおおっ……」

 敵の矢が止まったかと思うと、百、二百の単位で、何カ所からか同時に敵の部隊が突撃してくる。大けがをして動けない者以外は、それを迎え撃つために走り出す。そのたびに敵の死体も増えるが、味方の死傷者もまた増えていった。さすがの鬼衛門も、このままでは全滅を待つばかりか、とあせりを覚え始めた。


 と、その時だった。

 突然、東の方角の敵陣から叫び声が上がり、慌てふためいて逃げまどい、川へ飛び込む敵兵たちの姿が見えた。そして、その後から現れたのは、先頭に白い狩衣を着て馬にまたがった小さな人物だった。


「行け、行けいっ。ひるむなあ」

 その小さな指揮官の甲高い声が響き渡る。

「おおっ、あれは、護身番の……それに、真竜殿も…あはは…助かったわい」

 鬼衛門たちは、一気に勢いづいた。新手の部隊の出現にうろたえ始めた敵を追い立て、ついに川岸の向こうへ敗走させたのだった。


「鬼衛門殿、ご無事か?」

「おお、なんとかな。あはは……じゃが、危ういところであったわい」

「すまぬ。我等も、韮山の麓で足止めをくっておってのう。そこへ、この真白が来てくれて、道を開いてくれたのじゃ」

 鬼衛門はうなづきながら、今は兵たちにきびきびと指示を与えている馬上の人物に目を向けた。

「うははは……いやなんとも、頼もしき天女じゃのう」

「いや、まこと…ただ一騎で、幾百もの敵を蹴散らしおった…おぬしにも見せたかっ

たぞ」


 その噂の的の少女は、兵たちへの指示を終えると、二人のもとへやって来て馬を下りた。

「勝手に見張りの指示をいたしました。お許し下さりませ」

「あ、いや、まことに見事な働きでござった。おかげで命拾いをいたしたぞ。この通りじゃ。礼を申す」

「いえ、そのようなことは…なれど、ここはいかにも地勢が悪しゅうござりまする。どうか、早々にお動き下さりませ」

「う、うむ。そのつもりじゃが…」

「どちらへ向かわれまするや。わたくしが先駆けをいたし、道を開きまする」

「い、いや、そなたは、今駆けてきたばかりではないか。ここは、我等も少しは気張らんとな」

「はっ。では、ご武運を…」

 真白は生真面目な顔を少し緩めて、わずかに微笑みながら頭を下げた。そして、すぐに表情を引き締め、真竜に向かって言った。

「真竜様、我等も参りましょうぞ。敵はもう少しで総崩れとなりまする。このまま、坂上軍の脇腹を突き破れば…」

「うむ。よし、では先陣は任せたぞ」

「はっ」


 真白はいかにも嬉しげに頭を下げると、早速馬に飛び乗って兵たちを集め始める。

「わははは……ようし、わしも元気が出てきたぞ。おおい、野郎ども…」

 鬼衛門は野太い声で叫んだ。

「我等には戦の天女がついておる。天女に遅れぬよう、続け。一気に敵を打ち破るぞお。」

 海賊たちは、一斉にうおおっと雄叫びを上げ、武器を天に突き上げた。

 劣勢だった部隊が勢いを取り戻し、戦局は大きく傾き始めた。日暮れが近づく頃、箱根の守備隊は、ついに阿部比羅夫の本隊を打ち破り、敗走させたのであった。


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