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東原~あずまのはら~ Remake版  作者: 水野 精
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激動編 7 ~落花~

 さて、箱根を前にした大伴軍はまったく戦意が上がらず、なすすべもないまま三日の時が過ぎていた。


「ぬうう……何というざまじゃ。たかが防塁を越ゆるだけに、半数の兵を死なせおって……。これではいくら兵がおっても足らぬわ。ええい、鎌足、何とするぞ」

 蒲原に着いた中大兄皇子は、本陣に集まった豪族たちを前に喚き散らしていた。すでに、大伴麻呂は責任を取らされて罷免され、その席にはいなかった。

 誰もが沈痛な表情で押し黙っていたが、鎌足は別のことを考え込んでいたのであった。


 皆の視線を感じて、ようやく我に返った鎌足は、落ち着いた声で言った。

「確かに、一万五千の兵を失うたことは痛手でござる。なれど、これからがまことの戦…。こちらの軍は、あくまでも敵の主力を引きつけておくのが本分。さりながら、敵にとっては、こちらの道を破らるるわけにはまいりませぬ」


 鎌足は立ち上がって、ゆっくりと円卓の周囲を回りながら続けた。

「なぜなら、こちら側こそ、敵の心の臓に一気に迫る道にござりますれば。

 それに対して、越後からの道は、山あり谷ありの険しき道にて、まさかここを友軍が越えてくるとは、敵も思うておりますまい。さればこそ…」

 鎌足は自分の席に戻ると、一同を見回しながら語気を強めて言った。

「先に攻むるは越後からの軍。敵が背後を突かれ、慌てて主力をそちらへ回したる時こそ、千載一遇の好機。我等が一気に、敵の息の根を止むる」

「ふふ…あははは……なるほどのう。さすがは鎌足、見事な策じゃ。では、我等は越後

からの軍が攻め始むるのを待っておればよいのじゃな?」

「はい…なれど、敵にゆとりを持たせてはなりませぬ」



 帝となって以来、軽の皇子は鬱として楽しめない日々を過ごしていた。常に監視され、

中大兄皇子と鎌足の意のままに操られる毎日……。しかし、東国との戦が始まり、中大兄皇子と鎌足は都からいなくなった。彼にとって、三カ月ぶりに味わう自由の喜びだった。


 朝から酒に浸り、間人皇女の身代わりとなった幼い皇后と戯れ、それでももの足りずに、後宮の女官たちを追いかけ回す、それがもう五日も続いていた。

 退位して岡本の生家に隠棲していた皇極上皇は、宮中からの報告を聞くたびに暗澹たる思いに沈むのだった。

『いずれ、遠からず我が弟は大王を追われるであろう。いや、その前に、都がなくなるやもしれぬ。むしろその方が良い……』

 最近参り始めた百済寺への道を歩きながら、上皇はため息をつく。そして、いつものように、娘間人と極の笑顔を思い浮かべ、わずかな心の慰めにするのだった。


 ところが、そんな折り、孝徳帝のもとへ讃岐の国造から危急の報せが届けられた。それは、「恐ろしい鬼が、島に住み着き、村々を襲っている。国軍が征伐に赴いたが全く歯が立たず、全滅に近い有様である。どうか、都から鬼討伐の軍を差し向けてほしい」という内容だった。


「ばかな……。今、都にはいかほどの兵も残ってはおらぬわ。そう申して追い返せ」

 孝徳帝は吐き捨てるように、左大臣蘇我石川麻呂に向かって答えた。


 石川麻呂は怒りを必死に抑えながら、静かに帝を諭した。

「大王、このような折りだからこそ、小事をおろそかにしてはなりませぬ。もし、その鬼とやらが、東国と示し合わせた反乱の主であるなら、なんとなさりまする」

 孝徳帝は、どんよりとした目を向けて憎々しげに石川麻呂に言った。

「ふんっ、ならばそちが行けばよかろう。ただし、都の兵を連れて行ってはならぬ。よいな」

「ははっ。」

 石川麻呂は、憤懣やるかたない気持ちで退出し、讃岐の使者を待たせてある接見の間へ向かった。


「左の大臣、しばし、お待ちを…」

「ん、そなたは…」

「はい、舎人の額田部田鋤にござりまする」


 若い舎人は石川麻呂をいざなって回廊の柱の陰に入った。

「大臣のご心中お察しいたしまする」

「そちが心配することではないわ」

「はい、なれど、立太子様、中臣様お留守の間、何事も無きようにとは、我等臣下が等しく思うところにて、少しでも大臣のお手伝いができれば、と…」

 こざかしい奴め……石川麻呂は内心で舌打ちしながら、舎人のずる賢そうな作り笑顔を見ていた。


「それは殊勝な心がけじゃ。して、このわしに何の用じゃ?」

「はい、実はわたくしの知り合いに、坂田直藤太さかたのあたいとうたという屈強の男がおりまして、常々何か手柄を立てて、大王にお仕えする者になりたいと申しておりまする。この男なら、鬼なぞわけなく退治いたしましょう。わざわざ大臣のお手を患わすことはござりませぬ。」


 石川麻呂にとっては、願ってもない申し出だった。成功すればもうけものだし、たとえ失敗しても、何も損失はない。その時こそ、自分が出向いていけばよいのだ。

「ふむ……そのような男がおったとはな。よし、その男に、今宵我が館に来いと申し伝えよ」

「ははっ、必ずや」


 讃岐で暴れる鬼のうわさは、やがて口伝えで都の人々の耳にも聞こえてきた。特に、讃岐に近い河内の人々は怖がって、都に逃げてくる者たちも出始めた。当然、それは、鎌足の命を受けて都を見張っていた忍びの者たちを動かすことにもなった。


「皇子、讃岐にて鬼が暴れておるとのことにござる」

「なに、鬼じゃと?このような折りに、なにをたわごとを…」

はかばかしくない戦局に、いらいらを募らせていた中大兄皇子は、錫杖で柱を叩きながら吐き捨てるように答えた。


 しかし、鎌足は何か考え込むように木簡に目を落としていた。

 彼はこの数日間、中大兄皇子とは別の意味で、心晴れない日々を過ごしていた。それは、彼の予想を覆す事実が、次々に明らかになってきたからだった。


 先ず、最初に彼を驚かせたのは、駿河以東の田という田がすべてきれいに稲刈りされていたことだった。しかも、村々には人影がなく、家畜も一匹もいなかった。これで、兵糧は輸送に頼らざるを得なくなった。

 次に驚いたのは、戦死した東国軍の兵士を検分したときだった。兵士たちは、籐を編んで作った鎧甲を身につけていた。一見して粗末に見えた。

 実際、中大兄皇子をはじめとする都の者たちは皆、東国の貧しさの証だと笑ったものだ。


 しかし、鎌足はそうは考えなかった。籐は、軽くて丈夫な、すばらしい素材である。それは、貧しさから作られたものではなく、深い思慮を持った者が考え出したものだ。さらに、箱根の要塞の堅牢無比な構えを見るに及んで、鎌足は感嘆と恐怖の入り混じった思いで極の顔を思い浮かべるのだった。

(容易ならざることじゃ。久米皇子、何とも恐ろしき男よ)


 今、忍びの者からの報告を聞いて、彼の脳裏に、また極の顔が浮かんできたのである。

「皇子、もし、その鬼が東国生まれだとしたら…」

「ん、何を言いたいのじゃ?」

「都の守り、いささかおろそかにしすぎたやもしれませぬ」

「な、なんと……では、その讃岐の鬼とやらは、極の手の者じゃと申すか?」

「確かめねばなりませぬ。我が手の者を差し向けましょう。なれど、ここは阿部比羅夫を大将として残し、我等も早々に都へ引き上ぐるべきかと考えまする」

「いや、それはならぬぞ。目と鼻の先に、憎き極めを追い詰めたというに、すごすごと帰れるものか」

「讃岐のことが片づきましたれば、いつでも出陣できまする。それに、越後の友軍が動き出したれば、自ずから勝利は我等がもの。後は時間の問題でござりまする」

 鎌足に理路整然と諭されると、中大兄皇子はもう逆らえなかった。


 すぐに指揮官たちが招集され、讃岐の事件のことが報告された。そして、中大兄皇子と鎌足は翌朝、高向たかむこの軍千二百とともにいったん都へ帰ること、今後の指令は阿部比羅夫が行うことが決まった。実は、この決断が大きな運命の分かれ道になろうとは、この時はまだ、誰もが知る由もなかった。


 さて、『讃岐の鬼』とは、もちろん大胡仁来とその配下の者たちのことだった。

 仁来は讃岐に着くと、早速行動を開始した。それは、夜の闇を利用して、あちこちの村へ出向き、大声で叫ぶというものだった。


「民の国がうまれたぞお。誰にも縛られず、使役も、懲罰もない、われらが国じゃあ。さあ、行きたい者は我等についてこい……」

 最初の三日間、人々はその恐ろしい声と、暗闇にかいま見える異相の姿に、恐怖しか感じなかった。しかし、やがてその言葉の中身に対する様々な噂が広がる中で、まず生活の苦しさにあえいでいた奴卑たち数名が、意を決して声の主に面会したのである。そして、彼らは知ったのだ、東国の国造りのことを。奴卑たちは、その夜から、声の主たちとともに行動を始めた。


「おおい、皆の衆、聴いてくれや。この方たちの話はうそやねえでよ」

 いつしか、それは大きな波のように讃岐の国中に広がっていった。さあ困ったのは、領主である豪族たちである。自分の領地から、ぽろぽろと下人たちが抜け出し始めたのだ。


 鬼征伐の部隊が幾つも編成され、鬼がねぐらにしている小さな無人島へ乗り込んでいった。しかし、どの征伐隊も鬼退治はできず、空しく帰ってきた。いや、それどころか、島に残って鬼たちの仲間になってしまった者も少なくなかったのである。

「とても、我等がかなう相手ではない。それに、決して人を殺したり、悪さをするような者たちではない」

 帰ってきた兵士たちは、口々に同じ事を言った。

 こうして、十日を過ぎる頃には、鬼たちは自由に夜の世界を闊歩し、逃げ出してくる村人たちを島へ連れ帰るようになっていた。

「わははは……これで都も黙ってはおれなくなったじゃろう。今に何百もの兵を差し向けてくるぞ」

「おう、そしたら我等は船に乗って、すたこら逃げ去るだけじゃわい。わはは……」

 無人島の大きな洞窟をねぐらにした仁来と八人の配下の者たちは、作戦の成功にすっかり気をよくして、酒を飲んでいた。

「父様、油断はいげねと、皇子様にも言われだでねか」

「あはは……おお、わかっておる。安里、心配しねで寝ろ。」


 安里は何か嫌な胸騒ぎを覚えたが、しかたなく洞窟の奧の自分のねぐらへ向かった。その直後のことだった。見張りをしていた耳目の者が、仁来のもとへ来訪者があることを告げたのである。

「ん、坂田の藤太……聞いたことのねえ名だな。一人か?」

「はい、他に人影は見あたりませぬ。」


 いつもの仁来であったら、この夜更けに一人で来る男をよほど怪しいと思い、用心しただろう。しかし、この時は成功に気をよくしていたことと、酒のために心の油断があったのである。さらに間が悪いことに、この時、武丸配下の海賊たちは村人たちを小舟に乗せて、沖に停泊していた母船に送るために出かけていた。


「おめえがや……坂田の藤太というのは?」

 洞窟の入り口からやや離れて、たくましい体の若い男が、洞窟から漏れてくる灯りに照らされて立っていた。浅黒く日焼けした顔に、不敵な笑みを浮かべている。

「なるほど…ふふ…確かに鬼じゃな。その方たち、東国から参った蝦夷であろう?」

「だったら、どうした」

「大王に楯突く不逞のふていやから、この坂田藤太が退治てくれる」


「わははは……勇ましいのう、一人で、このわしを?」

 仁来はその時、坂田藤太の顔にまだ笑みがあるのを見て、はたと悟った。

「伏せ兵か…」

 仁来がうめくようにつぶやいた直後、洞窟の方からただならぬ叫び声が聞こえてきた。

「ぬうう、卑怯な…」

「片腹痛いわ。化け物、覚悟せい」

 藤太の太刀が、うなりを上げて振り下ろされた。仁来は間一髪でそれをよけると、身を翻して洞窟へ向かって駆け出した。


「逃がすか、鬼め」

そこは阿鼻叫喚と血の匂いが充満した地獄だった。闇に潜んでいた石川麻呂の私兵二十人余りが、すっかり油断していたカムイの男たちと、真竜配下の耳目の男女に襲いかかったのである。数人の男たちが、太刀や矛に刺されて絶命した。しかし、さすがにそこは手練れ揃い、すぐに体制を立て直して反撃を開始した。


 洞窟に飛び込んだ仁来は、まさに鬼のような形相で辺りを見回した。娘の安里がいないか確かめ、いないとわかると、近くの敵の兵士を当たるが幸いにつかみ上げて、岩の壁や床に叩きつけていった。もはや、敵か味方かも分からないほど入り乱れ、無傷の者は一人としていない。しかし、形勢は明らかに仁来たちの方へ傾きかけていた。何と言っても、一人一人の強さが違っていた。


 坂田藤太は、戦闘の混乱からやや離れて、ただ一人じっと仁来を討ち取る機会を狙っていたが、またたく間に状況は不利になり、もはやこれまでか、とあきらめかけていた。ところが、この時運命の神は、彼にある一つの役を演じさせようとしていたのだ。


「ん、あれは…」

 藤太の目は、洞窟の奧に通じる穴の陰から、怯えたように中をのぞいている小さな顔を捉えた。これぞ起死回生の好機、と考えた藤太は、襲いかかってくる敵から逃れながら、じりじりと穴の方に近づいていく。

 二十人余りいた討伐隊の兵士も今や十人足らずとなり、しかも、皆、仁来のすさまじい強さに恐れおののいて、遠巻きに武器を構えるのがやっとの状態だった。余裕が生まれた仁来は、ふうっと大きく息を吐いて辺りを見回した。他の場所でも味方が勝利を目前にしていた。

 

 ところが、その時、彼の目に恐ろしい光景が飛び込んできたのである。

 敵の首領坂田藤太が、洞窟の壁伝いにじりじりと移動していた。そして、その行く手には、こちらをじっと見つめている青いつぶらな目があった。

 

 仁来の耳から、外界の音が消えた。時間が、もどかしいほどにゆっくりと過ぎてゆく。

 彼は宝を奪われた幼子ののように、泣きわめきながら、その青い瞳に向かって走ろうとした。その刹那、一本の矛が、その背中を深く貫いた。鮮血が飛び、彼の口からも胃液とともに溢れ出した。それでもなお、仁来は、愛しい娘安里を守ろうと、よろよろと前に進んでゆく。藤太は恐怖に引きつった顔で、岩壁に張り付いたまま、長い太刀を振り下ろした。

 仁来の首は、そのたくましい体から離れて、ゆっくりと地面に落ちていった。

 ごとっ、という鈍い音が響いたとき、戦いは終わった。


「しまった…」

 真竜配下の志木羅という名の男は、仁来の護衛を命じられていたが、仁来が討ち取られたと知るや、さっと身を翻して洞窟から走り去った。もう一つの指令として、何か異変が起こったときは、速やかに都の兵助に連絡せよと、指示を受けていたからであった。

 仁来を失ったカムイの男たちは、茫然となり、次々に討伐隊に討たれて倒れていった。

真竜配下の忍びたちは、安里を守ろうとしたが、すでに藤太の手の中で安里は死んだように抱きかかえられていた。


「ふははは……観念せい、鬼ども」

忍びたちはまだ戦う力は残っていたが、仁来と安里を失ったからには、もはや自分たちに残された道は無かった。

「仁来様、安里様、お許しあれ…」

 忍びたちは、次々に、自ら喉を切って自害した。

「坂田様、こやつらの始末、いかがいたしましょうぞ?」

「捨て置け。それより、急ぎ立ち去るぞ。こやつらの仲間が現れては面倒じゃ」


読んでくださってありがとうございます。

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