激動編 6 ~駆け引き~
同じ頃、すでに夜の内に出発していた兵助は、供の男を一人だけ連れて能登の海岸沿いの道を西に向かっていた。実は、甲斐の忍びの村を出たときには、二十名ほどの集団であった。
兵助は極と話し合って、もし、新羅の軍団が船でやって来るとすれば、越後か能登の海岸辺りだろうという結論になり、見張りのために三人一組で、計六ヶ所に耳目の者たちを配置したのである。
一方、都を出発した三万の東征軍は、いよいよ東国連合軍が築いた第一の防衛線に近づきつつあった。
ここを守るのは、信濃と駿河の部隊一万八千。指揮を執る諏訪建時は防塁の上に築かれた見張り台に立って、はやる心を抑えきれないように腰に下げた太刀を揺すっていた。
「諏訪殿、お座りなされ。戦が始まるのは早くて明日の朝でござるよ」
「う、うむ…いや、恥ずかしながら、ここだけの話じゃが…」
建時は、副官の物部国麻呂改め駿河大海の傍に腰を下ろしながら小声で言った。
「まことの戦をするのはこれが初めてなのでござるよ」
「あはは…それならわしとても同様じゃ。三万もの軍勢を相手にするのは、誰もが初め
てのことでござる。じゃが、それは相手にしても同様なのではござらぬか?」
「うむ、そうじゃな。とすれば、腹を据えた方が勝ちじゃ」
二人は笑いながら、まだ東征軍が姿を見せない西の方を見やるのだった。
「ふははは…極の奴めの慌てふためく顔が見ゆるようじゃ」
中大兄皇子は朝から上機嫌だった。
「今に見ておれ、極…間人…。わしをこけにした報い、思い知らせてやろうぞ」
彼は、足早に回廊を渡りながら、引きつった笑みを浮かべた。
朝議の間には、すでに鎌足をはじめ、主立った豪族たち、皇族たちが集まっていた。中大兄皇子が足音荒く入ってくるや、彼らは大王を迎える時のように一斉に拝礼し、彼が席に着くまで平伏していた。
「皆、そろったのか?」
「はっ、大王と佐伯連殿がいまだ…」
「ふん、もうよいわ。待たずとも、始めおこうぞ」
孝徳帝をないがしろにした言葉だったが、誰もあえて異を唱える者はいなかった。
「鎌足、例の事を皆に…」
鎌足は黙って頭を下げると、下座の方へ向き直った。
「昨夜、筑紫よりの早馬にて、新羅の軍一万余、七日朝釜山を出発したとの報せにござる」
期せずして、一同の間からどよめきが起こった。鎌足は、落ち着いた声で続けた。
「されば、軍船の到着は明日夜か明後日未明。我等も時を同じうして、東国に向け兵を挙ぐることにいたす。大王に背く者たちに、罪の重さを知らしむるべし」
「おうっ」
そこに集まった者たちは、すでに勝利を確信したかのように、なごやかな顔で力強く返事をした。
「では、これより各々の軍の動きと役割について申し渡す。まず……」
鎌足がおもむろに口を開こうとした時、後ろの方の入り口から佐伯阿津麻呂が静かに入ってきた。そして、その直後、回廊の方から木鐸の音が響き、孝徳帝の出座を告げる舎人の声が聞こえてきた。正式な開会の時刻だったのである。
中大兄皇子は皮肉な笑みを浮かべながら、大げさな態度で御座所に向かって平伏する。
一同もそれに習って帝の出座を迎える。
孝徳帝が御座に着くと、中大兄皇子が奏上し、帝がそれを許可するという形で会議が再開された。
鎌足はごく簡単に、それまでの話しを繰り返してから、先はどの続きを説明し始めた。
それは大まかに言うと、二つの骨子から成り立っていた。
一つは、軍を大きく二つに分けて、一方は先発部隊と合流、正面から攻撃し、もう一方は新羅の軍と合流して、背後から一気に敵を殲滅するというもので、もう一つは、兵糧支援のための輸送部隊を編成するというものだった。
鎌足が知恵を絞って作り上げた当時としては画期的な戦略であり、中大兄皇子も大いに満足し賞賛を惜しまなかった。当然、会議の場でも誰も異を唱える者はなく、早々に議決された。
ただ、一人だけ、鬱とした心のまま会議の席を後にした者があった。佐伯阿津麻呂である。
彼が命じられた役目は、兵糧輸送部隊の護衛というものだった。大切な役目には違いないが、本来なら本隊の先陣を仰せつかって然るべき家柄である。間人皇女の養家であり、極の実家久米家とのつながりが深いことを、中大兄皇子が毛嫌いした結果だった。
阿津麻呂は、しかし、予想していたことでもあり、できれば極と正面から戦うことを避けたいと思っていたので、すぐに気持ちを切り替えて出陣の準備を始めたのであった。
その翌日の昼前のこと、佐伯の館は多くの人々が出入りし、ぴりぴりした緊張感に包まれていた。
「お館様、兵助と申す下人が、どうしてもお館様に会わせろと…」
「な、なんと……すぐにわしの部屋へ連れて参れ」
阿津麻呂はひどく驚いたものの、それを家人に悟られないようにしながら、自分の部屋へ向かった。
「兵助なるもの、連れて参りました」
「うむ。下がってよいぞ」
家人がいなくなるのを見届けると、阿津麻呂はころぶように、入り口のところへ駆け寄った。
「おお、兵助……」
「大殿、お久しぶりにござりまする」
「うむ…ささ、入れ、入れ…」
阿津麻呂は抱きかかえるようにして、兵助を部屋の中へいざない、辺りをもう一度確かめてから声を押し殺して言った。
「皇子はお元気か?」
「はい、皆元気でおりまする」
二人は万感の思いを込めて互いの顔を見つめ、涙ぐみながらうなづきあった。
「大殿、いよいよにござりまするな……」
「うむ、いよいよじゃ。昨日、御前会議があってのう。ちょうど良いところへ来たものよ。何か、わしに伝言でもあるのか?」
「いえ、実は先日、都を発った軍勢三万との報せが届きました。されど、我が主は、この数はいかにも少ない、必ずや中臣様が何か策を用意しておるはずじゃ、と。されば、それはもしや、海の向こうの国に加勢を求むるにあらずや、と申し、それがしを探索のために遣わしましてござりまする。このこと、佐伯の大殿にお聞きするは、はなはだ御迷惑と知りながら、すがる思いにてまかりこしましてござりまする。」
阿津麻呂は心底驚いて兵助の話を聞いていたが、やがていかにも楽しげに膝を叩きながら言った。
「あははは……愉快じゃ、愉快じゃ…鎌足めが、いかにしたり顔で思案しようと、久米
の皇子にはすべてお見通しじゃわい。あははは……」
「さ、さすれば、やはり……」
阿津麻呂はようやく笑うのをやめると、真顔になってうなづいた。
「うむ。新羅の軍一万、明日には能登のいずれかの浜に着くはずじゃ。恐らく、そこから陸路で越後まで行き、山越えにて武蔵を目指すつもりじゃと見ておる。」
深刻な顔でうなづく兵助に、阿津麻呂はさらに低声で続けた。
「さらには、豪族どもの軍およそ一万二千が二手に分かれ、半分は新羅の軍に加わり、もう半分は先発の大伴軍に加わる。これが、御前会議の決定であった。」
「大殿、よくぞお話下さりました。なんとお礼を申してよいか……この通りにござりまする…」
「さような気遣いはいらぬ、いらぬ。わしは、喜んで謀反人になろうぞ」
武骨の老将はそう言うと、いよいよ険しい顔になって戸外に目を向けた。
「わが国を、事もあろうに他国に攻めさするとは……鎌足も中大兄皇子も、それがいかに愚かな策か分かっておらぬ。彼らは、国を滅ぼす大罪人じゃ。そのような者たちのために、この命捧ぐるつもりなどないわ」
兵助は早速連れの男に、佐伯の老当主から得た貴重な情報を極に伝えるよう指示し、自らは都にとどまって、鎌足と中大兄皇子の動きを追っていった。
二人は、他の豪族たちの軍が出立するのを見届けてから、二日後の昼前、巨勢、東漢の精鋭軍二千とともに牛車で出発した。その周辺には、忍びの者たちが影のように従って、二人を警護している。
「ふむ…耳目がざっと六十というところやな。都の守りに衛士が七百か……」
鈴鹿の峠まで、中大兄皇子の近衛軍についていった兵助は、彼らが東海道を進むことを見届けてから北へ向かった。
中大兄皇子は、のどかな気分で牛車に揺られていた。もう、戦いの勝利は疑いようもないが、後はどれくらいの時間がかかるかである。早く憎き極と妹を目の前に置いて、痛ぶり苦しめながら殺してやりたい。それを想像するだけで、恍惚とした快感を覚えた。
「皇子、駿河よりの伝令でござる」
牛車の横に馬を並べて、鎌足が小声でささやいた。
「おお、来たか」
「大伴軍は蒲原の防塁を突破、箱根に向かって進軍……」__
「あはは……よきかな。新羅に頼むまでもなかったようじゃのう、鎌足…」
「いえ、まだ続きがありまする……」
鎌足の声はあくまでも慎重だった。
「大伴軍の被害甚大にて、箱根の手前にて後続の援軍を待つ、とのことにござる」
「ん、被害甚大じゃと?……いったいいかほどなのじゃ?」
「伝令は数までは知りませなんだが、話から考えて…およそ半数ほどかと……」
中大兄皇子の顔から笑みが消えた。彼は憎らしげに舌打ちをして、鎌足に言った。
「鎌足、すぐに調べさせよ」
「はっ」
鎌足は牛車から離れると、すぐに忍びの一人を呼んで指示を与えた。
彼にとって、先発軍の被害の大きさは、確かに予想を上回るものだったが、問題は敵の被害状況である。彼は戦の前、あらゆる情報を分析した結果、東国の戦力を二万から二万五千の間だと考えていた。だから、今回はその倍以上の兵力を確保したのである。もし、蒲原で、敵軍が大伴軍と変わらぬ被害を受けたのなら、それほど心配する状況ではないと思っていた。
だが、現実は、彼の希望的観測を大きく裏切るものだった。
東国軍は、確かに防衛線を突破された。しかし、それはある意味予定された行動であった。というのは、極はあらかじめ各指揮官を集めて、こう命じていたのである。
『決して無理はするな。危うい時はゆるゆると退き、反撃の機を待つのじゃ』
蒲原の守備隊は、それを忠実に守った。指揮官諏訪建時は、二倍の数の敵を相手に冷静にねばり強く戦った。必死に強行突破を図る敵に、矢を雨あられと浴びせかけ、それが尽きると、矛隊を二列横隊に並べて、防塁を乗り越えてくる敵兵を串刺しにしていった。
しかし、多勢に無勢はいかんともしがたく、昼過ぎにはあちこちで防衛線が突き破られ、味方の被害が目立ち始めた。建時は、すぐさま退却の銅鑼を打ち鳴らし、ゆっくりと防戦に励みながら箱根の麓まで軍を退かせた。そこへ、報せを受けた箱根守備隊が援軍を送り、敵の前進を止め、逆に敗走させたのであった。そこで深追いするのはやめて、建時の軍とともに箱根の山城に引き上げたのである。
「すぐに怪我人の手当てをさせよ。動ける者は、相模の軍とともに備えにつくのじゃ。」
体に数本の矢を突き立てたまま、荒い息の下から諏訪建時が叫んだ。すでに村人たちが協力して、怪我人を救護所へ運び始めていた。
東国軍の各地の山城には、近在の村々から老人、女、子供たちが、すべての食料、家財道具とともに整然と避難をしていた。これも、極が戦の前に国中に準備させていたことだった。稲はちょうど収穫直前の時期だったが、すべて刈り取られ、籾のまま近くの城に運び込まれた。牛や馬、鶏などの家畜は、上総の秩父に集められた。こうした大がかりな準備を、ほとんどの者たちは何のためか分からずにやったのだが、その驚くべき効果は、やがて明らかとなる。
「諏訪殿、ご苦労にござった。怪我をなされたか?」
「いやいや、かすり傷でござる。なんとも…面目次第もござらぬ」
箱根守備隊の指揮官相模御主は、諏訪建時を城門まで出迎えて労をねぎらった。
「見事なお働きでござったぞ。耳目の者の報せでは、敵は半数近くの兵を失い、怪我人も多数。それに対して、我が方は死者、怪我人を合わせてもおよそ千二百ほど……さぞかし殿もお喜びになることでござろうよ」
「ううむ…今更ながら、殿の御深慮には恐れ入ったことよ。事前に殿より、引き際を大
切にせよ、と言われておったから良かったものの、そうでなかったら踏み止まって全滅しておったやもしれぬ」
「いかにも、そこが勝敗の妙でござったのう……」
二人はそんな話をしながら、堅牢な石造りの本丸の中へ入っていった。
すでにそこには、駿河大海と箱根守備隊の副官笠原使守が待っていた。
「諏訪様、手当ての用意ができております。ささ、こちらへ」
武蔵国造笠原使手の長男使守は、そう言って建時を部屋の隅へいざなった。そこには薬草と傷に巻く布を手に、カムイの若い娘が待っていた。
「おお、すまぬのう。ときに、使守殿、敵の動きはいかがじゃ?」
「はい、今のところまったく。三島のあたりに陣を構えておるとのことにござりまする」
「ふむ…夜襲に備えねばのう。耳目の者を呼んで下さらぬか」
「はっ、すぐに。」
使守が出ていくと、ようやく建時は椅子に座って、籐製の鎧と甲を外し始める。
「いやあ、なかなかに良きものじゃのう。ふふ……あっ、つうう……」
にやにやしながら、カムイの若い娘に矢傷の手当てをさせていた建時は、薬を傷口に塗られて悲鳴を上げた。それを相模と駿河の二人が笑いながら見守っていた。
と、そこへ、たった今耳目番を呼びに出たはずの使守が、慌てた様子で戻ってきたのである。
「佐伯様、おいでにござりまする」
「な、なんと、広麻呂様とな……」
諏訪たちはあわてて威儀を正し、頭を下げた。
近衛隊総帥佐伯広麻呂は、役目柄めったに極の側を離れることはない。その彼が最前線を訪れたということは、何か非常の事態が起こったに違いない。
四人の指揮官たちが緊張して待っていると、普段と同じ白い狩衣姿の広麻呂が風のように音もなく、司令室に入ってきた。
「方々、お役目まことにご苦労にござりまする」
「ははっ。ありがたきお言葉、皆に代わりお礼申し上げまする。ささ、こちらへ」
広麻呂は静かに上座に腰を下ろした。
「して、こちらへお越しのわけは…?」
「はい、実は今朝方、雲井殿よりの報せが届けられました。それを聞いた殿が、すぐに各仁へお知らせいたせと仰せられ……」
「うむ、その報せとは……」
四人の指揮官は身を乗り出すようにして、広麻呂の次の言葉を待った。
「朝廷はやはり新羅に援軍を頼み、北方より我等が背後を襲う計略とのこと……」
「むうう…久米の大殿のご推察が当たったのう。して、その数は……?」
「一万余……それに朝廷軍約六千が加わりまする。されば、殿には、こちらへの援軍は難ければ、水軍による奇襲の用意が調うまでなんとか持ちこたえてくれ、と……」
四人の指揮官たちは、目を輝かせて軽く頭を垂れた。
「ありがたや……我等のことをそれほどまでにお気に懸けて下さるとは……。佐伯様、殿にお伝え下され。箱根の軍は、必ずや殿のご期待に応えてみせましょうぞ。お任せあれと」
広麻呂はにっこり微笑んでうなずく。
「確かにお伝えしましょう。されど、方々、くれぐれもご無理はなさるな。方々のお命、
殿にとっては何にも換えられぬ宝、決して粗末になさりませぬよう…」
四人の指揮官たちは感激に震えながらも、涙を見せないように歯を食いしばった。
「ははっ。我等は多くの民の命も預かっておりまする。無理はしませぬ。されど……」
相模御主はとうとう涙をぽろりと落としてしまい、それを慌てて袖で拭きながら続けた。
「この国のため……殿のために働きたいという者を抑ゆるは、難しきことにござる」
「されど、それをやっていただかねばなりませぬ。くれぐれもよろしゅう頼みまするぞ。
では、それがしはこれにて。御武運をお祈りいたしまする」
広麻呂はそう言うと、立ち上がって静かに部屋を出ていった。
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