激動編 5 ~儚き花は嵐の中へ~
会議はひとまず、兵助の報告を待つこと、それまでは防衛線を守ることに専念することが確認されて終わった。
その夜、国府の笠原の館には、極に呼ばれた仁来が、二人の子供たちを伴って緊張した様子で広間に座っていた。
「まあ、なんと凛々しき男の子だこと。お名前は?」
極は兵助との打ち合わせが長引いて、まだ帰宅していなかった。
間人、紗月、加波の三人は酒肴の準備をすませてから、仁来たちの周囲に集まった。
「大胡天来にござりまする」
赤い縮れた髪の、背の高い少年ははきはきした声で答えた。
「おお、天来、良い名ですね。仁来殿、たくましく利発なお子で、楽しみなことにござりまするなあ。」
「ははっ。ありがたきお言葉。あまり人前に出ませぬもので、そそうをいだすかもしれませぬ」
「そのような気遣いはなされますな。それにしても…」
紗月は、天来の横で、消え入りそうなほど小さくなってうつむいている幼い少女を優しく見つめながら言った。
「なんと不思議な髪の色、それに…」
紗月の手が優しく少女を抱き起こした。
「不思議な目の色……見ていると今にも引き込まれそうなほどじゃ。ふふ……名前は何と申される」
「は、はい、あ、安里ともうしまずる。よろすくおねげえいだしまする」
少女はひどい東国なまりでおずおずと答えた。
「あんり……愛らしいそなたにふさわしき良き名じゃ」
紗月の目は、もう少女の未来が自分たちの未来と一つになることを確信しているかのように親愛に満ちていた。
それからしばらくして、極が綾を伴って帰ってきた。
「おお、仁来、待たせてすまなんだな。ん、これはまた珍しき客がおるようじゃのう」
極は急いで来たらしく、息を弾ませながら仁来親子の前に座った。
平伏していた仁来が、少し顔を上げて答えた。
「実は殿にお願いいだしたきこどがござりますて、厚かますくも二人の子を連れて参りますてござりまする」
「うむ、いっこうにかまわぬ。さあ、顔を上げよ。おお、天来、少し見ぬ間にまた大きゅうなったのう。幾つになった?」
「はっ。十四になりましてござりまする」
「おお、そうか。されば、今年のうちに元服の儀をせねばならぬのう。仁来、わしが段取りをしてもよいか」
「ははっ。ありがたき幸せ」
「うむ。されば、そなたが帰ったらすぐに執り行うといたそう。さて、酒でも飲みながらゆっくり話すといたそうぞ」
極の言葉に妻たちはさっと立ち上がって、準備していた酒肴の膳を取りに行く。
「ときに、そちらの娘御は初めて見るが…」
「はっ。お初にお目にかけまする。二番目の娘で安里にござりまする」
兄の横で食い入るように極を見つめていた安里は、とたんに真っ赤になり、あわてて床に頭がつくほどに平伏した。
「おお、あんりとな。苦しゅうない、顔を上げよ。されば、一番末のお子か?」
「い、いえ……もう一人下に娘がおりまする」
仁来は恥ずかしそうに赤くなって、ぼそぼそと答えた。
酒肴が運ばれてきたので、二人は酒を酌み交わしながら話を続けた。
「さて、わしに願いとはいかなることじゃ?」
「はっ。されば……」
仁来は土器を置くと、あらたまった様子で両手をついた。
「この度の役目、お許しいただき、まごとにありがたく言葉もござりませぬ」
極はあわてて立ち上がり、仁来のそばへ駆け寄った。
「何をいたす。さ、手を上げよ。礼を申すのはわしの方じゃ。かような命がけの仕事を、
誰が喜んでやってくれようか。今宵、そなたを呼んだのは、ただ一つ、そなたに申しつけたきことがあったからじゃ」
そう言うと、極は仁来の手を両手でしっかりと握りしめ、彼の目を見つめた。仁来はその時、若き国主の目に溢れ出そうとする涙を見た。
「よいか、仁来、死ぬな、決して死んではならぬ。しかと申しつけたぞ」
仁来の全身を津波のように、激しい歓喜が包んでいった。
「おおおお……」
赤い髪の大男が、赤子のように辺りをはばからず大声を上げて泣いた。極に出会って以来、極のそばにいるときはいつも、心の高ぶりと湧き上がってくる歓喜を感じる仁来だった。
だからこそ、この主人のためには命をかけて尽くしたい、と考えるようになっていた
のだ。
傍で見守っていた二人の子供たちも極の妻たちも、思わずもらい泣きをして袖を顔に押し当てていた。
「殿…」
まだ、感涙にむせびながら、仁来が口を開いた。
「殿のお心に、どうすれば応えらるるがわがりませぬ。さりど、我も我が一族も、この世の果つるまで、殿とそのお子をお守りいだす覚悟にござりまする。このごどは、天来にもしかと申しつげてありまする。されば……」
仁来はそこであらためて居住まいを正してから、さらに続けた。
「この後、わだくしに何が起ころうと、天来をわだくし同様、お側に仕えさせていだだぎたいと、このことをお願いいたしたく、なにとぞ…」
極は上向きに目をつぶって、心の内に沸き上がる感情を必死に抑えていた。言いたいことは山ほどもあったが、ただ一言、低い声でこう答えた。
「あいわかった…」
「ははっ。ありがたき幸せ」
極は席に戻り、酒壺を取り上げてから再び仁来の傍に戻った。
「天来、まずはそちに。さ、遠慮はいらぬ」
父親に促されて、色白の美少年は頬を赤くしながら極の前に進み出た。
「天来、今日よりは、わしをまことの兄と思え。わしもそなたをまことの弟として、また戸来の民をまことの家族と思うてゆこう。よいな」
土器を持つ少年の手は微かに震え、その青みがかった灰色の目は感激に大きく見開かれた。
「ははっ。ありがたき幸せにござりまする」
「うむ。ささ、仁来、そなたも飲め」
「殿、わたくしが…」
間人が極の手から逆壺を受け取って、仁来のもとへ行く。
「こ、こりは、恐れ多ぐも…」
雲を突くような大男が、幼い少女の酌に真っ赤になって小さく背中を丸める様子に、誰もが微笑まずにはいられなかった。
酒がすすむにつれて、仁来の緊張はほぐれ、本来の陽気で豪放な性格を取り戻していった。しかし、彼の胸の内にはもう一つ、言い出しにくい願い事があった。
「殿、願わくば安里にも盃を下さりませ」
「ん…おお、よいとも。では、安里、これへ…」
ただ一人、ずっと固い表情で座っていた少女は、いよいよこちこちになって極の前に膝を進めた。
「安里、いくつになるぞ?」
「は、はい、ずうにぬなりまずる。」
極度の緊張のために、少女はなまりを直すことさえすっかり忘れてしまっていた。
実は彼女がこれほど緊張していたのには、もう一つの理由があったのだ。
「殿、この子をいかがおぼしめさるや?」
それまで極の妻たちと歓談しながら、楽しげに酒を飲んでいた仁来が、表情を引き締めて問いかけた。
極は安里の土器に酒を少しだけついでやってから、仁来の方へ顔を向けた。
「ふむ…いかがと問われてものう、何と答えればよいのか…」
「はあ…その…この子は、我が子どものながでも特に髪が赤く、目の色も青い子でござりますて、言はば我が一族の血が一番濃き娘にござりまする。やはり、殿には、いとあさましき姿とおぼしめさるや?」
「いや、わしはそなたたちの姿を、あさましいなどと思うたことは一度たりともない。いとも不思議な髪の色、目の色じゃとは思う。なれど、それを美しいとも思うておる。」
極はそう言うと、改めて目の前に座った幼い少女を見つめた。
雪のように白い少女の頬が、とたんに赤く上気する。自分の村の者以外から、美しいと言われたことなどなかったし、ましてや、自分と同じ年頃の大和族の美しい少女たちを妻に持つ国主の言葉である。とうてい本音だとは思えなかった。
「さりば、この子をお側に置いで、いがようぬもお使い下さりまするや?」
ようやく仁来が、娘を連れてきた理由を知って、極は返事に詰まった。否と答えれば、彼らの疑惑を助長することになる。かといって、身の回りの世話は今のままで十分すぎるほどである。大胡の姫を側に置くとなれば、侍女というわけにはいかない。
極がどう返事をしていいものか迷っていると、横に座っていた綾が、少女に優しい視線を注ぎながら口を開いた。
「安里様は、馬にはお乗りにならはりますか?」
その問いに、緊張の極に達していた安里は、今にも泣きそうな顔を上げて綾を見つめた。
しかし、綾の優しい眼差しに、少し心がほぐれたのか、小さくうなずいて答えた。
「はい、乗れまずる」
綾はにっこり微笑んでうなずくと、今度は極の方へ向き直った。
「殿、仁来様の血を受け継がれた姫様やったら、きっと強うおなりにならはりますやろ。
これから都との戦になれば、姉様方をお守りする御身番も手が足らなくなります。安里様に、その役目をしていただければと…」
「う、うむ……いや、じゃがのう、御身番は、そなたじゃからできる厳しき役目じゃ。とてものことに、普通の者には…」
「と、殿にお願いがござりまずる…」
極の話の途中で、安里が切羽詰まった声を上げた。
「ど、どうか、わだくすに御身番の役目をさせで下さりませ。」
「ううむ…じゃが、よいのか、仁来……そのような辛い役目を娘にさせて?」
仁来は嬉々とした表情になって両手をついた。
「ははっ。望外の幸せにござりまする。子守か、飯炊きにでも使うていただければ、と思うでおりましたりば…」
極にはもう、それ以上拒む理由はなかった。
「わかった。では、安里、綾とともに御身番の役目、しかと申しつけたぞ。ただし、いつからでもよい、身辺の始末ができたれば、この館に移り住むがよいぞ」
「はい、ありがたき幸せにござりまずる。さ、さりば、殿に今ひとつお願いがござりまずる」
「うむ、なんなりと申せ」
「は、はい。あの、わだくすは、すぐにでもお仕えできまするが、わだくすにまことに御身番が務まるかどうか、自分で試しどうござりまずる。こたびの父の仕事に、わだくすも行かせて下さりませ」
それは全く極の頭になかった願い事だった。
「そ、それはならぬ。そのような危ないことを、そなたにさせるわけにはまいらぬ」
「わだくすは…」
安里は必死の形相で訴えた。
「ただのお情けでお側に置いでいただきとうはござりませぬ。すごすはお役に立だねば、
お側にいるわげにはまいりませぬ」
極は弱り果てて、ため息をつきながら言った。
「困った者たちじゃのう。なにゆえ、さほどまでに命を捨てたがるのじゃ」
仁来も安里も、何か言いたげだったが、うまく説明できないのか、黙ってうつむく。
しかし、綾には、いや、間人、紗月、加波にも、仁来と安里の心がよく理解できた。
「ふふ…殿のことが好きなんやね、仁来様も、安里様も……その気持ちと釣り合うのは、
命ぐらいしかあらへんものね…」
極以外の者たちは、皆しんみりした様子で涙ぐみ、仁来と安里は恥ずかしそうに赤くなって、そっと涙を拭く。
結局、安里は父親とともに行くことになり、翌朝駿河へ向けて出発した。そこで戸来の選ばれた男たちと真竜配下の耳目番たちと合流し、武丸率いる瀬戸内の海賊団の船で讃岐を目指すのである。




