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ラダの行方

作者: 山本賢二

ラダは海や水が苦手な女子高生。そんな彼女は高校2年の夏、友達に誘われて海に出るが…

「ラダの行方」


                      山本 賢二



 私は艇に乗り込み、コーミングにスプレースカートの裾を噛み込ませるとパドルで艇を押し出した。


 ズザァッ…


 艇の底がわずかに砂に擦れる音がした後、ラダ―号は離岸した。




 序 章 「私と水」



 元々、私は水が苦手だったのかも知れない。それは小さい時、小川をせき止めている水門から流れ落ちる水の音に恐怖を感じ、小川を跨ぐ小さな橋を渡ることが出来なかったことからも分かる。


 人には其々、苦手なものがある。高い所や狭いところ……私は水とその音だった。

 

 私が小学生になった時、それを決定的にしたものがある。ある夏の日に家族で海水浴に行った時の出来事―――愛媛県の西海、透明度の高い美しい海だった。

父はボートを借り、家族を乗せて岸から僅かに離れたところで私を海に投げ入れた――――それ以来、水、そして海が嫌いになった。



第一章 「夏の海」



私は宮前ラダ。愛媛県松山市の某高校の美術科に通う普通の女子だ。

平仮名で“ラダ”は父が付けたらしい。兄妹では上に兄と姉がいるが二人とも貴之、香音と普通の名前なのに……せめて“ラナ”にならなかったのかと思う。そのせいで私は男子から「ラクダ」とか「サラダ」言われる時がある。


私の楽しみは友達とゲーセン(ゲームセンター)で遊ぶこと。色んなゲームがあるが中でもUFOキャッチャーは得意だ。

今まで釣りあげた人気キャラのフィギアは家の棚に溢れかえっていた。


ある夏の日、友達の(もえ)が家に来ていた時、彼女は私に言った。


「ラダ、今度、海へ行かない?」

「えっ?萌は私が海嫌いなん知ってるでしょ…何で」

「だって夏じゃん、泳ぎに行きたいもん!」


「ふぅ~ん…仕方ないな。いいけど私は泳がないよ」

「やったぁ!じゃ、決まりね。私が予定組んどくからね」



   ◆


数日後、私は萌の他、数名のクラスメイトと一緒に松山市北条の道の駅の道路向かい側にある砂浜に居た。


周囲は夏を満喫しようと大勢の海水浴客が訪れており、其処かしこでテントやタープが張られBBQ(バーべキュー)をしたり寛いでいた。その中で同い年くらいの男子も居て、それが同じ高校の者だと分かるのに時間は掛からなかった。

同じ美術科の中で女子が多い中、珍しい男子生徒で名前は山科(やましな)(りょう)()。髪の毛は太くハリセンボンみたいで眉毛は濃くて目はパッチリしている。太っていれば歴史の本で見た西郷隆盛の様な感じだ。

私は彼を“良ちゃん”と呼んでいる。余り女子受けしない感じの彼は私の遠縁の親戚にあたる―――彼は他のクラスの男子生徒数人と来ていた。


私たちのグループは彼等と一緒になり、喋りながら波打ち際へ走って行った。


一人だけ残る私―――

 (何だかなぁ…私、何しにここに来たんだか…)


 後ろから肩をポンと叩かれて振り向くと良太がいた。

 「ラダ、何してるの。一人で――」

 (事情知ってる奴に言われると何かムカつくな…)


 「良ちゃんは私が水苦手なのを知ってるでしょ‼」

「高校二年の夏……来年は就職や進学で忙しくなるから羽を伸ばせるの今年の夏しかないよ……

 ラダ、この辺で水嫌い克服した方がいいんじゃない?」

 

 「…余計なお世話」

 「大学行ったって夏場のイベントは水遊び多いし一人じゃつまらないだろ」

 「ウゥ………クソッ」

 私は立ち上がると叫びながらみんなの所へ、波打ち際へと走った。


 「ウオォオオーッ‼」


 みんな腰くらいの深さの所で遊んでいる。私は勢いよく水へ飛び込んだ。が――――

 「ヒッ‼ウアァアアッ、ギャアァァ‼」

 水の嫌いなネコが水を張ったバスタブに誤って落ちた時のように飛び上がり、私は慌てて浜辺に上った。


 「フ~ッ、こりゃ相当重症だな」良太はため息をついた。


 良太は私にタオルを放ると横に座って言った。

 「ラダには夏の恋物語は一生訪れないかな……ラダ、水嫌い克服したいって気持ちはあるんだろ?」


 私は黙って頷いた。


 海が嫌いな訳じゃない。陸から見えるあの青い綺麗な海。何故…と私は思う。

今でも水が激しく流れる音は怖いし―――そうだ、私は昔、父にボートから海に投げ入れられた時、まだ上手く泳げなかった。脚の届かない水底と何がいるのか分からない怖さ。サメの映画などの影響も受けていたのかも知れない。



第二章 「父と私の名前」



家に帰った私は夕飯が終ってから父の書斎へ入った。


「お父さん、ちょっといいかなぁ…」

パソコンと向き合っていた父は手を置くと、キィーと音を鳴らせながら椅子ごと私の方へ向いた。

私の父、宮前賢太はバイクツーリストで本も書いている。しかし家族の者はその本を開いたことがない。父以外にバイクには全く興味がないからだ。その点では私も同じ……


「また書物してるの?」

「書いたらいけない、何か頼み事か? ラダがこうやって部屋に来るときは大概困ったときが多いからなぁ」



「実は―――うちにボートあったでしょ、あれ貸してよ」

「ふぁっ⁈」

「ボート貸してって‼」

「ボートは無いが……あぁっ、カヤックのことか! でも、どうするんだ、ソレ。お前が乗るのか⁉」


私は黙って頷くと理由を父に話した。


父は私を連れてガレージに移動した。

天井に吊られ、シートで巻かれた細長い物。父はそれを下ろすとシートを剥ぐった。

長さ四メートル弱のそれを今まで見たのは二、三回程。またいつ頃から家に置かれていたのかも私は知らない。


「しばらく使ってなかったからなぁ…重いから移動が面倒だし」


「お父さん、コレいつ頃からうちに在ったの?」

「お前が生まれた時に知り合いの人のお兄さんから貰った」


私はカヤックの周りをグルリと回りながら見ていった。人が入る所の―――コックピットと言うのか、その中にマジックで大きく書かれた漢字があった。

「独?」

「知り合いの人の名字、その人のお兄さんのカヤックだった。お兄さんの名前、確か…(ひとり)(はじめ)って…その人、この艇でいろんな島に渡ったらしいよ。お父さんも―――まあ、それはいいか」


父はカヤックのデッキについている荷室?の黒いラバー製の蓋を取ると中からライフジャケットや色々な装備品を取り出した。

「スプレースカート、ビルジポンプ、パドルとパドルフロート…ウェア、まあ、こんなもんかな。

こいつは(すず)(はる)のフィールフリーのシーカヤック “アトランティスDX”長さは4,3メートル、リニアポリエチレン製で重量は約25㎏。ニ、三日の海上ツーリングも……」

「ウンチクはその辺でいいから‼ ちょっと乗せてね」


私は中央に開いた人が入る穴、その中にある座席(シート)に腰を下ろした。


中には足を置くフットバーがある。

「ラダ、フットバーを左右に踏み込んでみて」と父。


私は言われた通り左右に踏み込むと後ろに付いている舵が動いた。


「少しコードが伸びてるな、ラダーの動きが悪い。コードは交換しないと…」

「私、言われた通りにしたけど?」

「あ⁈いや、そのラダじゃなくてラダー…同じか」


父は何を言っているのだ⁈私は父に突っ込んだ。

「何が同じなの――ネェ、お父さん‼」


父は、どうしようかという素振りを少し見せた後で私に話し出した。

「お前の名前、ここから付けたんだ。舵は英語でラダー、そこから取った」

「……そんな下らない理由で私の名前を――お父さんっ‼」私は父に向かって凄んだ。

「落ち着け、待て――ちゃんと理由がある」と、父は慌てた様子で言う。



第三章 「海に浮く」



数日後、父はカヤックを修理する前に私に尋ねた。それは私の通うS高校には漕艇(ボート)部があり、そこに入れば私の海嫌いも早く克服できるのでは―――と。

ここ松山に住んでいる人なら、小説、『頑張って…ナンチャラ』(汗)を知らない人はいないだろう。しかし私はレースをしたい訳じゃないし部活は漫研(漫画研究会)に入っている。運動系の部活を一から始める時間もない。

来年は進学の事もある、時間は今年の夏しかないのだ。



夏の休み、父もお盆で長い休みを取っていた。車にカヤックを積むと父は私を連れて松山市の堀江海岸へ走った。


着くと父はトップからカヤックを降ろし、波打ち際へ運んだ。


「先ず、この周辺で練習しようか。お前は海が怖いだろうから」

「誰のせいよ…」

「あぁ、昔の西海に行った時の事な……水を怖がっているお前を何とかしたかった―――今回は付きあうよ」

「増々、怖くなったじゃない……それよりレクチャーを!」


私は乗る前に父から注意事項を聞く。

シーカヤックは河川や湖で使われるものに比べて艇の底が、ややV字形状となっていて海上の波を上手くかわすことが出来る。


カヤックがボートと大きく違うところは、漕ぎ手が前を向いて漕げる所だろう。また、細い艇体はボートと比べて運動性も高い。




私は目の前にあるサンドカラーの艇体を眺めた。バウ(艇首)からスタン(艇尾)にかけて流れるような美しいライン……


(なんて美しい(ふね)……こんな乗物も在るんだ)


美術科でデザイナー志望の私は一瞬、うっとりした。


「よし、乗艇‼」、父の声で現実に引き戻された。

艇体の半分くらいを海面に突き出し、私はコックピットに入る、この時の乗降の際に波にさらわれやすく、(ちん)(転覆)しやすいので注意が必要だ。

次にスプレースカートの裾をコックピットの周囲のあるコーミングと呼ばれる廻り縁に噛み込ませなければならないが…これが硬くて簡単には行かなかった。

父にコーミングに噛み込ませる部分の裾の絞りを調節してもらい、やっと出艇となった。


パドルで艇を押し出す。


“フワッ”っとした感じでカヤックは滑るように海上に出た。


今まで感じたことのない何かを私は感じた……


「ラダッ、舵を降ろせ‼」

左側にある舵の格納用の牽索ロープを留め具から外すと舵は重みでストンと海中に降りた。



   ◆



その日以降、私はこの堀江で練習を重ねた。それでも海は怖かったが、最初に感じた何かが私を海と向き合わせる。

日曜日の練習は地元の海洋少年団の小型のディンギーに混じって沖へ距離を伸ばす。


(私は海が好きになりたい……)



練習を終えて家に帰る途中、車の中で私は父に話した。


「今まで私、(おか)からしか海を見たことがなかったけど、海から陸を眺めた時、何かすごく…上手く言えないけど感動した」

「そうか…それは良かった…」

「私、海が好きになりたいって…思ったの」

「ラダ、大した進歩じゃないか…」


「でね、お父さん……少し沖に出てみようと思うの」

「どの辺りまで?」

「堀江海岸から北条の鹿島まで――」



父は車を路肩に停車させ、私の方を向いた。


「ラダ、海を甘く見るな。水難事故は水際から一メートルの範囲でも起きるんだ。

お父さんは基本バイク乗りで(おか)の人間だけど海の厳しさは知っているつもりだ。バイクは何かあれば停めて休めばいい、海は何かあれば…どうにもならんぞ!」


父は私を諌めたが私も黙ってはいなかった。

「準備はする!何も無いようにするから‼……私は行きたい‼」





この事は家の中でも問題になった。私の言ったことで母や兄妹を巻き込んでいろんな意見が飛び交い、遂には姉の香音(かのん)と父が口論となった。兄の貴之はこうなることを見越していたのか知らない間に消えていた。

父と姉の間に母が割って入る。

「いい加減にしなさい、あなた達‼これ以上揉めたら、家から叩き出すわよ‼」

母が二人に向かって凄んだため、父と姉は口を閉じ、代わって母が私と話した。


「ラダ、お父さんの言う通り、確かに海は危ない――でもあなたは行くんでしょ」

私は大きく頷いた。


「こうと決めたら考えを曲げない、あなたは……そのための労力も惜しまない。そんなところはお父さんに似たのかもね。お父さんは本を書くくらいバイクにのめり込んだ変態だから」


父は横に居て何も言わなかったが、その表情は明らかに酷い言いようだと訴えていた。


「ラダ、準備が出来たらお父さんに確認してもらいなさい!」

この問題は母によって閉じられた。



第四章 「海上の旅」



堀江海岸から北条鹿島まで直線距離で約八キロメートル、この距離は今まで練習してきた場所が家の庭先のように感じるくらい―――遥か彼方だ。

私は潮汐表を確認し満潮になり始める時間を選んだ。潮流は上手く鹿島の方へ(ふね)を運んでくれるはずだ。

準備するものは標準装備以外では携帯と財布(これは目的地に着いたときのものだ)、カヤックの上で食べる簡単な食料とスポーツドリンク、鹿島に上陸した際のお昼ご飯。あと着替えとタオルetc…

準備物が揃った後に私は父に簡単な渡航計画書を渡した。何処で何をするかを書いた簡単な奴だ。父はこういった形式張ったことに割とうるさい。

(予定は未定ってね……)


「昼前には鹿島に上陸して昼食…艇はモンチッチ海岸で回収するから―――鹿島から出るとき渡船と港に出入りする漁船に注意するように!」


父は(カヤック)と私を残して一端ひきあげた。



私は艇に向き合い、今まで練習してきた通り発艇の準備を始めた。


「日焼け止めは塗ったし、スポーツドリンクやビルジポンプ、パドルフロートも取りやすい場所にショックコードに巻き付けた……携帯と救命用のホイッスル、マリンナイフはライフジャケットのポケット――OK!」


私はパドルで砂浜を突き、グッと艇を押し出す。


艇はフワッとした感触で海上に進み出た。私はこの瞬間、ゾクッと身震いを覚える。

(この感覚…嫌いじゃない‼)



バウは沖に向き、ずっと先に霞がかった北条鹿島がうっすらと見える。私はそれをじっと見据えた。


今日の航海で決めていたことがある。


“絶対にうしろを振り返らないこと”


(私は前しか見ない‼)


もし振り返り、沖合に出たその距離を知ったなら再び恐怖が私を襲うだろう。


 

海上は穏やかだ、目の前には凪の海が広がる。私はガッとパドルのシャフトを握ると勢いよく漕ぎ始めた。



   ◆



粟井から北条に連なる海岸線を観ながら私は漕ぎ続けた。夏の太陽と海面に反射する光が眩しい。

海上で多少風が涼しいがそれでも夏の高温下で汗だくになりながら、途中水分を補給し漕ぐ手は休めなかった。手にはグローブをしていたがマメが出来ているのか痛い。



堀江を出たのが九時半、十一時を過ぎてやっと鹿島の海水浴場の手前に辿り着いた。

海上にはサメ除け用のネットが張られていたが私はカヤックごとネットを乗り越えた。本来ならネットの外側に上陸しなければならなかったが身体が悲鳴を上げている―――もう上陸場所を探している余裕は無かった。


波打ち際に(カヤック)を乗り上げると私はスプレースカートを剥がし、片足を出して立とうとしたが打ち寄せた波にさらわれて沈(転覆)し、転んで顔を砂浜に(うず)めた。

周りに居た大勢の海水浴客は、突然カヤックで乱入して来た私の動向を注視していた。


「ベッ、……ペッペッ――」

口の中に入った砂を吐き出すと私は艇を引っ張って波打ち際から浜辺へと上がった。


木陰に入り、このとき初めて私は自分が来た海上に目を向けた。


出発点の堀江海岸は遠く(かす)んでいて見えない。


(ここまで漕ぎ続けた軌跡…あんなに遠くから…)


心はすごく浮かれていた、あれほど水や海が嫌いだった私がここまで来れたのだ。この時ばかりは自分を褒めずにはいられなかった―――私を運んでくれた(カヤック)のことも忘れて。



(私はやったんだ‼ よく頑張った、わたし!)



   ★



この日、無事家に帰投した私を母や兄妹が迎えてくれた。


母が特別に作ってくれた夕飯を家族全員で囲む。

私は今回の航海について自分の思いを全部話した。和やかな雰囲気の中で私の思いを家族は聞いてくれた。一応の区切りは着いた、そう思ったのだろう――そこで私は次の計画を打ち上げた。


「次は興居島を回ってみたい‼」


皆は黙った。暫くの間、沈黙が流れ兄の貴之が口を開いた。

「ラダ、もういいんじゃない。海嫌いも克服できたんだし…」

「これ以上は……ねェ」と姉の香音も皆の顔を見ながら言う。


「これ以上は本当に危ないから止めなさい、ラダ!」母も今度ばかりは止めた。



父は茶わんをガタンッとテーブルに置き私に問うた。

「何で興居島なんだ、クソッ……理由は⁈」


「距離的に近いから…」

それを聞いた父は下を向き肩を震わした。


「フッ…フフフッ…バカでないん!」 (※バカじゃないの)

「ぁあっ⁉お父さん、今何か言った!」

出鼻をくじかれた私は父の言葉に本気で腹が立った。


「初心者が少し距離を伸ばせたからって天狗になって! お前はあそこの状況を調べたのか⁉ 興居島と高浜の間―――あの狭い水道を一日でどのくらいの船が往来するか――どんな波が立つか‼」

「そんなのは自分で調べる‼」

「ラダっ、調べたからと言って、そんなものが役に立つか、実際――」

「お父さんの訳の分からない本よりはマシよ‼」


その時、よほど頭に来るものがあったのだろう…私は話には全く関係のない、そして一度も読んだことのない父の本を引き合いに出し責めた。


「ウゥッ……クソッ」と父。

父はリビングから出て行き、そして私も自分の部屋に引っ込んだ。




父、賢太は子供たちが部屋に引っ込んだのを見計らって、そっとリビングへ戻った。キッチンでは家内の恵美がカチャカチャと食器を洗っていた。


「恵美さん、アルコールあるかな?」

「あなた、落ち込んでるの?」そう言うと恵美は冷蔵庫から冷えたワインを取り出し、賢太に渡した。

「……まあ、ね…」

「私も訳が分からないかな、あなたの本――読むの面倒くさいし」


「…本の事はいい……どうしよう、ラダのやつ言い出したら聞かないからな。心配で――興居島は…」

「私もあなたがいつもバイクで走りに行くときは心配だった。ラダがまだお腹にいた時に賢太さん、バイクで事故って三週間意識不明だったでしょ。あの時、私やあなたの両親がどんな思いをしたか……今回の事はあなた自身から出てると思うの」


賢太はグラスに注いだワインを一気に飲み干すとグラスを持った手を上げ目をつぶった。今にもグラスをテーブルに叩きつけるのかと思われた。しかし――


賢太はゆっくりグラスを持つ手をテーブルへ下ろした。


「…ラダの大切な青春の1ページなのかも知れない…僕がバイクで走り始めた時のように。

人生が動き出すきっかけは人其々だ…」


「あなた…」

「止めることは出来ない――大丈夫だ、僕は全力でラダを応援するよ!」賢太は自分に言い聞かせるように言った。





第五章 「 “(ラダー) ”という名の(ふね)



夏休みも残り少なくなっている中、父の全面的な協力を得た私は精力的に準備を整え、遂に興居島を目指して出発した。


父は出る間際にこのカヤックが私の艇であることに思いを込め『ラダー号』と命名した。


梅津寺の黒岩を離れたとき浜辺で皆が手を振ってくれている。私の家族の他、親友の(もえ)や親戚の良ちゃん、話を聞きつけたクラスメイト達と担任の先生―――そしてこの艇を父に譲ってくれた知人の(ひとり)(のぞ)()さん。


数日前に父は私を望美さんに会わせた。

この人との会話の中で今まで知らなかった父の姿が見えた気がした。

父は望美さんから最初のバイク“Usagi(ウサギ) ”を譲り受け、現在に至るまで様々な旅をしている。

バイクに興味のない私はそのことを余り知らなかった。望美さんは父の本の事で私に言った。

「今度、ラダちゃんが(カヤック)で航海に出ることは、ケンちゃんが――お父さんが最初にバイクに乗り始めた――人生が動き始めたときと同じなのかもね……ラダちゃんも今回のことを思いとして自分の中にしっかり持つことが出来ればいいわね。お父さんが本を書いたように―――」


(本を書いたように……か)

私は本というモノにだけ目を奪われていて、父の思いの深さなど考えも及ばなかったのかも知れない。



   ▲



ラダー号は四十島(ターナー島)を横目に狭い水道を抜け興居島の黒崎に到達した。

予定では興居島の東側を北上し、白石の鼻に渡って再び梅津寺の黒岩に戻って来る―――はずだった。

黒崎に到達したころに風が目を覚ましたように吹き出し、どうしても島の東側、(とまり)の方へ行けない――風波が立つ。


 (ダメだっ、無理に行けば沈(転覆)する‼)

 

 私は一端、黒崎の浜辺へ上がり計画を組み直した。

 (興居島の西側を周回する……)

 一抹の不安が過ぎる。興居島の裏(西側)は全く状況が把握できていない。東側メインで考えていた為、地形を見るための航空写真も家に置いてきている、東側なら高浜港や松山観光港を目視で確認でき、自分の位置も分かる―――私は自分の頭の中に残っている記憶を頼りに再び海上に出た。

だが、その記憶が相当曖昧なものであることに気付くのに時間は掛からなかった。



浜辺を出て小さな鼻を越えると広い砂浜の海岸が広がった。私は島の裏側、鷲ヶ巣海水浴場の縁に出たと思い込んだのだ。

漁船やプレジャーボートもいて綺麗な砂浜が続き、波も穏やかだ。

 

 長い砂浜の半分の位置へ来た時、何かが違うと気が付いた。

 (鷲ヶ巣は中央に小さな島が在ったはず…)

 気持ちは大きく不安へと傾いた。

 浜辺は道路に接している。しかし――(カヤック)を陸上で移動するためのドーリーは積んでいないし、運ぶにしても荷物を積んで三〇㎏以上にもなっている艇を私は担げる自信はない。

 

 (海上から行くしかない!)

 そう決めると私は漕ぎ続けた。


やがて対岸の景色は変わり始めた。綺麗な砂浜はゴツゴツとした岩場に変わり、波も高くなってきた。

艇が御手洗鼻?というところに差し掛かり、その先が見えたとたん私は全身から血が引いて行く様な恐怖を覚えた。


島の影に入った海上は黒く尖った波を立てていた。ニ方向以上の波が合わさり三角の尖った波になる――所謂、三角波だった。


ラダー号は波に翻弄され続けながらも進んだが自分がイメージしている鷲ヶ巣は見えて来ない。

心に不安を抱え現実の恐怖と私は闘っていた。沈しそうになる艇を必死にバランスを取りながら、それでも前に―――


暫くしてやっと視界が開け大きな湾が見えた。

今度こそ間違いなく鷲ヶ巣だ――湾の中央に小さな島が見える。


   ◆


一時間以上漕ぎ続けているが、どういう訳なのか前に進んだ気がしない。

ラダー号は湾の外側、釣島寄りを航行していた。真近に見える釣島を見て一瞬、私は思う。

(釣島の方が近い。いっそのこと向こうに渡った方が…)


私は首を横に振った。

(いったい私は何を考えているんだっ⁉今でさえ危険な状態なのに――更に沖に出るなんて‼)



昼過ぎにラダー号はやっと湾の出口、戸の浦鼻に差し掛かり上陸しようとしたが漕いでいるのに景色は前に向いて流れた。

 「あれ…えっ?―――アッ‼」

 

 ここの水面は波立っていない、一見凪のようだが海流は確実に湾から外に向けて流れ出している。潮の流れが鷲ヶ巣の湾に流れ込み、この出口で流れを速めているのだ。

 私はパドルを海面に深く突き刺し、必死になって漕いだ。

 

 何とか小さな浜辺に着くことが出来た私は、艇を降りるとそこでお昼にした。

 弁当を防水パックから出し食べながら考える。

 (あと幾つの鼻を越えれば東側に出られる…)

 私はライフジャケットのポケットから携帯を取り出しGPSを開く。

(最初からこれで調べれば良かったんだ)

 漕ぐことに夢中になっていた私は、そのことに今気が付いた。私は携帯を防水パックに入れる前に実家に連絡を取った。

 

 連絡は手短に―――私は島の西側に居ることを伝えると艇の回収場所を梅津寺の黒岩の他、白石の鼻近くの海岸か、堀江海岸を加えるよう父に言った。

 

 {無理はするなよ、ラダ。何かあれば直ぐに陸に上がれ‼多分、上陸場所は堀江海岸になる}

 「分かった」


連絡を終えると私は艇の方へ走り携帯をバッテリーに繋いで防水パックに入れるとデッキのショックコードに絡めた。

 「これで漕ぎながら自分の位置を把握できる!」

 

 十二時半、戸の浦鼻を発った私は湾の外側へ出た。

 

 

 第六章 「死 闘」


湾の外は依然として波が高かった。鷲ヶ巣の湾の入り口ほどではないが安心は出来ない。

 興居島の裏側(西側)のまだ半分の距離しか進んでいない。まだ幾つもの鼻を越えなければならない。

 私は水平線上に白い線状のものが盛り上がっているのを確認した。最初は何か分からなかったが近づくにつれ、その正体が明らかになると私の心は恐怖で満たされた。

 潮の流れで海上に巨大な段差が出来ていた。白波と轟音を立てて沖合まで激流が伸びている。

 潮汐表は調べたが大潮であることを見落としていたのだ。

 

 (神様、助けて…お願い‼)

 この時ばかりは生まれて初めて“神”という存在に(すが)った。潮流は無情に艇を白いデッドラインへと押し進めている。陸に上ろうにも、もう砂浜は見えない、岩場や崖しかなかった。

 私はいったん漕ぐのを止め、パドルをデッキの上に水平に置き俯いた。後悔――違う‼私は目の前の激流を渡河できるギリギリのところを考えていた。

 (諦めるものかっ‼)

 激流は沖合まで伸びている、これを迂回するために更に沖合に出るのは危険を伴うため、出来るだけ島側を――直ぐに上陸できる浅瀬を選んだ。大きなうねりの中、岩が顔を覗かせる――

 (この岩場に艇をぶつけないように乗り切る‼)

 

 私は顔を上げ、奥歯をギッと噛むとパドルを握る手に力を入れ漕ぎ始めた。

 

 島側に近いギリギリの浅瀬はうねりが大きい。だが、白波の立つ少し離れた沖合ほどの激流ではない――ここさえクリヤ出来れば前へ進むことが出来るのだ。

 

 

   ◆

 

 

 私は這磯鼻、御手鼻、琴引鼻を越え、最後の難関頭崎を越えようとしていた。

 手のマメは潰れ、腰や横腹は痛みが出て体力も限界が近づいているのが分かった。


 頭崎を越え、遂に島の東側を望んだ時、私は泣きそうになった。私の目指していた高浜の白石の鼻は遙か彼方であり、潮の流れも逆だった。更に遙か彼方、右に堀江海岸、左には北条鹿島が見え、位置的には同じ距離に見えた。実際には三倍以上の距離なのに……


 滿汐で潮流は北に流れ、風はその逆に吹き海上にはたくさんの白兎が走る。

 私は大きなうねりに艇を委ねて漕ぐのを一端止めた。その数十メートル横を中型フェリーや高速艇が通り抜けて行く。乗客は何でこんな所に、こんな小さなカヤックがいるのか――と言わんばかりにこっちを見ている。

 

 遙か彼方に見える堀江海岸―――自分の居る場所が陸から見たときとは比べ物にならないくらい遠く感じた。私は距離を見るために携帯のGPSに目を向けようとした時、愕然とした。

 

 デッキのショックコードに絡めていた携帯の入った防水バッグが無かった、波と格闘している間に流されてしまったのだ。

 

 (大切なスマホ…)

 それは父が私の高校進学の時に買ってくれたものだ……

 

 私は顔を上げた。感傷に浸っている時じゃない‼今は一刻も早く決断をしなければならない時だ。

 潮の流れで南へ下ることは出来ない、残された体力で私は堀江海岸を目指すことを決めた。

 

 

 

 

 時間は午後四時に近づいていた。

 

 

 堀江海岸は近くなったがまだ手の届く位置ではない。滿汐の流れは堀江海岸に沿うように流れ込み、うまく艇を運んでいるようだ。

 

 夏の太陽ははまだ辺りを照らすには十分な高度を保っている。午後四時を回り、私はやっと堀江海岸に着いた。

 

 “ズザアァァ――” 艇が波打ち際に乗り上げる。

 


私は艇に乗ったまま上半身を折りデッキに肘を着き頭を垂れた。

 私の今の気持ち―――自分でも分からなかった。北条へ渡航した時の浮ついた感じでもなく、辛く怖い体験で泣き出しそうな感情でもない。

 (きっと……疲れて――)私の意識は途切れた。

 

 

 

 第七章 「旅立ち」

 


 卒業式も無事に終わり、私は大阪へ行く準備をしていた。

 私は大阪のデザイン専門学校へ行く。父は私が向うで住むためのアパートを探し、必要なものは既に運び込んでいた。


 大阪渡航の準備を終えた私は携帯の写真を眺める。

それは去年の夏、私が(カヤック)で興居島を回った後、病院で父と一緒に撮った写真……あの時、私は脱水症状で気を失い、予め、ここで待ち構えていた父に病院に運ばれたのだった。父は一度、この艇で興居島に渡っており、偶然にも私と同じコースを航海していた。それを聞いたのはここ最近になってからだ。


今までその事を伏せていた理由を私が問うと父はこう答えた。


“最初に注意すべき点は言った――たとえどんなことがあっても、それはお前自身の航海だ。だから私が興居島へ行ったことは伏せていた……ラダの大切な人生の1ページを二番煎じにはしたくなかったんだ―――”


以前、父が私に言った「…お父さんは基本バイク乗りで(おか)の人間だけど海の厳しさは知っているつもりだ……」と言うことばの裏には海に出たという事実が在ったからに他ならない。


私は携帯をギュッと抱きしめた。大切な携帯―――一度、海に流されて行方が分からなくなっていた。父が私を病院に運んだあと、携帯が無くなっていることに気付いて直ぐに堀江に戻り、私の携帯の現在位置を調べて回収してくれたのだ。


今まで父のことを軽く見て来たのかも知れない。父の私に対する、そんな姿を見て初めて父の思いに触れた気がした。



松山を発つ前日、私は父の書斎に入った。父は相変わらずパソコンのモニターに映し出されている原稿と向き合っている。

私に気づくと前と同じように、父はキィーと音を鳴らして椅子を回し私の方を向いた。


「今度は何だ――また頼み事か?」

「そうじゃない…お父さん、本貸してよ」

「本ねぇ…単語辞典や辞書ならそこの本棚に――」

「お父さんの本が読みたいの‼」


父はエッという顔をして首を傾げた。


「突然、どういった心境なのかな…お前たちにとっては興味ないだろうし、扱いもゴミ同然だしな」


父は少し不信感を表していた…或は怒っていたのかも知れない。


(当然だ。あれだけ疎外しておいて今更だから……)

父はフンッと短い溜息をつくと無言で書棚に向かい本を取り出した。

「『Usagiランナバウト』……こいつだろう、ラダが読みたい本」

「うん…ありがとうお父さん、これ、明日列車の中で読むから」


私は本を受け取った。



  ◆



翌朝、私はJR松山駅のホームに立っていた。私の隣にはお母さんが居る。

父や兄の貴之、姉の香音は其々が仕事で見送りが出来なかった。


「ラダ、これ、お父さんから渡してくれって」


手紙の入った封筒、私が中を確認しようとした時、列車がホームに入って来た。


「気を付けていくのよ、ラダ」少し寂しそうな顔で見送る母。


「うん…」



私は列車に乗り込むと窓越しに母を見た。発車のチャイムで“ガタンッ”と揺れると列車は滑るように動きだした。


(ありがとう、お母さん)

母は片手を顔に、もう一方の手を振っていた。


(お母さん…泣いてたのかな?)

私には今まで育ててくれたことに対する感謝の思いはあるが、子供が手を離れて行く寂しさの感情はまだ分からない。それはまだずっと先なのかも知れない。




しばらく列車が走ると私は父から預かった手紙に気が付いた。


中を開けるとワードで打たれた手紙が入っている、私は手紙を開いた。


“これから始まる日々を大切にしなさい

 いつの日か、その最初の日を振り返る時が来ると思う

 その時が来るまで精一杯頑張りなさい


 これから起きることは全てラダの人生だから


 ラダならきっと自分の舵取りを上手くやると信じているよ

 

 ありがとう、ラダ。           

                  父より”



私は携帯の写真を開いて見た。興居島を艇で周回した後、病院で撮った父と私の写真……


(舵…ラダ―――私の名前…)意図せず手紙の上にポタッと涙が落ちる。この時、初めて父の私の名前に対する思いを感じた。

 

 

 私は持ってきたトランクを開けると、父から貸してもらった本を出した。

 それは父の人生が動き出した最初の日を記した本―――艇を父に譲ってくれた独望美さんが言っていた。

 

 タイトルは『Usagiランナバウト』

 

 

私は本を近づけると、ゆっくりと最初のページを開いた。



部活やスポーツで描く青春群像から視点をずらし、家庭や家族、知人の視点から描いた女子高生の青春ドラマ。

作者の経験を織り交ぜながら書き下ろした、海上青春ストーリーです。女子高生と青春と家族の絆、また家族の心情を豊かに表現しています。

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