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「さあ、着いたよ」
しばらく山道に揺られ、ついウトウトと微睡んでいた航平に、有河は車を停めてから声を掛けた。その言葉ではっと覚醒した航平は、窓から覗く外の様子をせわしなく眺めた。
後方に続く、たった今車が抜けてきたと思われる木々の生い茂る景色とは打って変わり、前方には開けた空間が広がっている。車正面には、五階建ての白い建物がそびえていた。
「ここが、あの子の居る場所だ」
エンジンを切り、シートベルトを外しながら有河が言った。航平はしばらくその建物を眺めていた。いつの間にか前へと戻ってきてきたコバエも、航平と同じように建物を眺めていた。
「七年前のあの三匹の大型魔獣は、あの地域に多くの新たな魔法使いを生み出した。私達魔法使いや、それに続く君のような“視える”者達は、世間からすれば非存在だ。魔獣との戦いで生じた傷は時に、一般人からすれば不可解で、不自然なものにもなる。つまり、一般社会では生きにくいんだよ。私達魔法使いは。そのために、同じ魔法使いと、それを支持する少数の一般人が集まって、非公式で非営利な組織がいくつか立ち上げられた。ここもその一つだ。魔法使い専用の療養所だよ」
さて、と有河がその場で背伸びする。
「用意はいいかい?よければ行こう」
航平は頷くと、シートベルトを外した。車を降りる。
正面玄関を通り、ロビー奥のエレベーターに乗る。有河は、四階を押した。十数秒後、扉が開く。目前に連なる廊下を、航平達はひたすら奥まで進んだ。
突き当たりから数えて三つ目の廊下右手の扉を、有河はノックした。扉横にある表札には、確かに“秋野 瑞希”とあった。
はい、と中から女性の応答がして、間もなく扉が開かれた。立っていたのは看護婦だった。
「お見舞いですか?」
航平と有河を交互に見ながら、看護婦が尋ねた。そうです、と有河が答えた。看護婦は小さく頷くと、二人を部屋へ案内した。
部屋はシンプルな間取りで、ベッドとクローゼット、棚の他には、家具類もほとんどなかった。窓際に寄せられたベッドの上には、女性が一人、上体を起こして座っていた。
「何かございましたら、枕元のナースコールでお呼びください」
ごゆっくり、と看護婦が部屋を退室する。航平は、ゆっくりとベッドに近付いた。ベッドの上の彼女はしかし、航平の方を見向きもしなかった。じっと目の前の壁を見詰めているようだ。あと一歩のところで航平は立ち止まると、そっと彼女の顔を覗いた。そして、目の前にある事実に、航平の思考は一瞬停止した。
「こりゃあ...ひでえな。どういうこったい」
航平の脇で、コバエが小さく呟く。その声もやはり、驚きを隠せていない様子だった。
秋野 瑞希は、焦点の定まらない虚ろな目をし、口を小さく開け、ただそこに座っていた。頬は痩せこけ、肌の色は白かった。瞳には光がなく、口周りには、よだれや鼻水の跡が見てとれた。
航平は泣きそうな顔で、勢いよく有河の方を振り向いた。何かを言おうとして、しかし、その口は言葉を突かなかった。有河もやはり、悲痛な面持ちで、航平に対し首を横に振ると、ベッドに近付いた。
「瑞希は―――解り易く言えば“廃人”になったんだよ」
有河が小さく呟く。
「廃人ってよお...何だよそれ。訳わかんねえよ」
コバエがそれに対し、力なく答えた。
「納得できねえぞ、そんなの。だって―――だってよお」
「私だって納得してないさ」
秋野 瑞希を見詰めながら有河は答えた。
「でも私達には、この子をどうにもすることは出来ない」
「どうして...こんな...」
航平がやっとのことで言葉を絞り出す。
「魔獣の放つ、“不幸”を含む魔力に触れすぎたのさ」
有河は航平に顔を向けた。
「魔法使いの原理は知っているかい?どうやって体内に魔力を蓄積しているのか」
有河の問いに、航平は首を横に振って否定した。
「結論を言うと、魔法使いや、君のような“視える”特殊体の体内には、魔力の蓄積、循環を全て担っている特別な器官があるんだよ。これはつい最近見付かったものなんだけどね。魔獣の魔力に触れると、人体内に魔力が残って蓄積されるんだ。体内環境の未発達な幼少期に魔力を受けると、体内に遺留した魔力に順応するための器官が形成される。そして、その器官に蓄積された魔力が多い者は“魔法使い”、少ない者は君のような“視える”者となる」
「それが一体、どうしたらこれに繋がるんだ?」
コバエが秋野 瑞希を示す。有河は視線を彼女に戻すと、深く溜め息を吐いた。
「魔法使いになっても、魔力に触れれば、体内にそれは蓄積される。七年前、三匹の大型魔獣と戦い抜いたこの子の体内には、莫大な量の魔力が貯まっていた。それこそ、特殊器官が捌ききれない程に。体内で過剰なエネルギーが巡るっていうのは、そう体験できるものではないから、私にも想像はつかない。ただ一つ事実として、実際にそれを体験しているこの子は、ものすごく苦しそうだった。具体的に、この子がどんな苦しみを味わっていたのかは分からない。けど、この子の苦しみ方が尋常じゃないことはわかった。私の使い魔の中に、この子の体内の魔力を取り払える者も居た。けれど、この子はそれを拒んだ。それでもやがて、この子が夜も眠れなくなり、ご飯も喉を通らなくなって、いよいよ耐えかねた私は、無理矢理この子の体内から魔力を取り払った。でも―――」
有河が喉を鳴らした。航平とコバエは、静かに有河の言葉の続きを待った。
「―――手遅れだった。流石のこの子も、もう参ってしまっていた。私がこの子の体内から魔力を取り除く直前、この子は自分の使い魔によって、自分の“意識”を別の器に“移した”の。だから、魔力を払った後、この子はただの脱け殻になってしまった。入れ物になってしまったのよ。中身のない、空の入れ物に」
しばらく、室内を重い沈黙が包んだ。
「この子の意識が移された器は、この建物内で厳重に保管されている。色んな方法で何とか意識を移し戻そうとしたけれど、それができるのは、私の知る限り、この世には一匹だけ。今もまだ叶っていない――な、コバエ」
「ああ」
コバエが答える。
「分かってる」
コバエは溜め息を吐くと呟いた。
「だが―――オレサマは、どっちを取ればいい――」
「何か、不都合が?」
不安げに有河がコバエを覗き込む。
「いや―――そうだな。判断は航平、お前に委ねよう」
名前を呼ばれ、航平は俯いていた顔を上げた。コバエと目が合う。
「もう魔力は巡りきってるんだよな?オレサマが見えてるってことは。だったら、回りくどいことをする必要もない」
航平、とコバエが再度呼ぶ。
「目え瞑りな。お前の記憶欠損の原因を見せてやる」
「目を...?」
航平は言われた通りに目を瞑った。