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長距離の運転には自信のなかった航平は、電車を何本も乗り継いで、S県のO市へと辿り着いた。あれから二日経っている。電車を調べた段階で、一日到着が遅れることは連絡しておいたので、相手に迷惑をかけることはないだろう。
早急に購入した新しい携帯を片手に、駅前のロータリーへと出る。有河 圭は、一日中駅前で航平を待ち続けると言っていたそうで、航平はなるべく長く待たせないよう、それらしい人物を探す前に、携帯で電話を掛けた。
『もしもし?』
ワンコールで有河 圭は電話に出た。厚みのある女性の声だ。
「有河 圭さんですか?戸田 航平です。今、駅前に出ました」
「ああ、知っている」
不意に間近で声がして、航平は身を震わせた。ゆっくりと声のした背後を振り返る。
「はじめましてだな、青年。有河 圭だ。よろしく」
立っていたのは、薄手の長袖を上腕まで捲り、ジーパンを穿いた、ラフな格好の女性だった。三十代位だろうか。クールな女性だ。航平は通話を切ると、携帯を鞄に仕舞った。
「よろしくお願いします」
有河に対し、航平は小さく頭を下げた。
「よろしく――おお、コバエじゃないか。久し振りだなぁ、コバエ。元気にしてたか?コバエ」
「ケッ。露骨に言いやがって。相変わらずだぜ、テメェはよ」
「そう言う君は、少し落ち着いたようだな。昔はもっと騒がしかったじゃないか」
「ああ?んなこたぁねえよ」
「何だ?久し振りに私に会えて、実はちょっと嬉しいんだろ」
「んなわけあるか」
調子狂うぜ、とコバエはそっぽを向いた。
「はは。君は相変わらず扱いやすい。っと。そんなことよりもだな。二人とも、私についておいで」
有河が二人を招き、駐車場の方面へと歩き出す。二人はそれに従った。
*
「先に言っておくよ。瑞希に会っても、彼女は君に反応しない」
案内された助手席に乗り込む航平に、車の外の有河が言った。
「どういうことですか?」
「まあ、会えば分かる。ただし、最悪を想像しておいてくれ」
有河はそれ以上詳しくは言わなかった。有河の言う最悪が一体どんな状況を示すのか。航平は、言われた通り想像する他なかった。
有河が運転席に乗り込む。
「シートベルトはしたか?青年」
有河に言われ、航平は慌ててシートベルトを止める。それを見て満足そうに頷いた有河は、車を発進させた。
「一時間位で着く。昼寝でもしていてくれ」
「有河さんは、秋野 瑞希の師匠―――なんですよね?」
「まあ、間違ってはいない」
有河が首肯く。
「私と瑞希は、元々親戚の関係にあってね。あの子の両親が自殺したとき、他の親戚があの子を引き取ることを嫌がったんだ。彼女の両親の自殺の原因は魔獣にあってね。彼女はそのとき“視える”ようになった。周りからしたら、不気味な子だったんだよ。みんなら両親の死を目の当たりにして錯乱したんだと思った。実際、そのときのあの子の精神状態は酷いものだった。とても一人では放っておけない。だから、同じように“視える”私があの子を引き取った。視えているものを視えていないと言うわけにもいかないからね。あの子には真実を知ってもらった。彼女もまだ幼かったし、そうやって両親の死の責任の押し付け先を作るのも狙いだったんだけど―――それを教えたとき、あの子が何て言ったか知ってるかい?あの子が“魔法使い”として生きていくと決めた動機だ」
いいえ、と航平は否定した。
「幼いあの子の口からあんな言葉が出てきたのには驚いた。瑞希は、これ以上自分のような不幸な人間が出ないように、と魔法使いになったんだ。そんな台詞、四歳の子供に言えるようなことじゃないだろ?」
航平はそれを聞いて、驚く他なかった。そして、秋野 瑞希のその決意に敬服した。他人のために生きるのは容易ではない。どころかむしろ、不可能に近いように航平には思えた。秋野 瑞希のその決意の根底は、結局は他人のためでなく自分のためではあるが、とはいえ他人にとって善い影響ばかりしか及ぼさないその自己満足を現に行っていた彼女は、善人と言う他なかった。それ以上の適切な表現を、航平は浮かべられなかった。
「それにあの子には、それをある程度実現出来るだけの力があったからね。だからこそ私は、彼女を一人でS市に行かせた。私と沖二人分よりも強い力をあの子は持っていたからね。経験こそ浅かったけれど、十分だと踏んでいたんだ。実際五年間、通常の魔獣の相手を、あの子は問題なくこなしていた」
だけど、と有河が続ける。
「七年前に現れた三匹の大型魔獣。瑞希も、三匹を相手に無事では居られなかった」
「けれど、生きてるんだろ?」
コバエが訊ねる。有河は無言で頷いた。
「普通だったら、大型魔獣一匹を一人で相手するだけでも命の保証はない。そんな相手三匹と戦って生き残ったんだ。奇跡じゃねえか」
「けれど、そこで死んでいた方が、あの子は幸せだったかもしれない」
「―――なるほどな。何となく理解できたぜ」
コバエが頷く。俺には全く分からないぞ、と航平は首を傾げた。
「七年前のあの日と言えば、そうだ―――有河さん、あの日現れた大型魔獣は、この世界の物理に干渉しました。橋を破壊したんです。これって一体、どういうことですか?魔獣は、この世界には干渉出来ないし、干渉されないんじゃあ」
「出来るよ」
有河は即答した。
「だってそもそも、魔獣達はこの世界に干渉してるじゃないか。“不幸”という形で。更に言えば、“魔法使い”を生み出すことで」
「でも、それは概念的な干渉であって、物理的な干渉ではありません」
「使い魔は?」
航平に一瞬目をやり、有河は訊ねた。
「使い魔の持つ固有能力には、どんなものがある?」
「“小さくする”とか、“火を生成する”とか、そういうのは彼女のもとで見たりしましたけど――――あ」
「理解したかい?使い魔の固有能力は、それこそこの世界の物理に干渉してるじゃあないか。その同位体のような魔獣が物理的干渉をしてきたとしても、そんなに不思議がることでもないのさ」
「コバエにも能力があるんだろ?お前はどんな能力なんだ?」
航平は、有河と自分の間に浮遊しているコバエに尋ねた。
「教えてやるもんかよ」
ケッ、とコバエは嘲笑した。
「どうしてだい、コバエ。教えたっていいじゃないか」
反応したのは有河だった。
「人の名前をふざけた風に呼ぶ奴に教えることなんて、何一つないね」
「そんなに拗ねてるのか。やっぱり、私のつけたあだ名は嫌いか?」
「嫌な奴だぜ。まったくおめえはよ」
有河の言葉に、コバエは後ろを向いて後部座席の方へと漂っていった。
「そもそも、人じゃないんだけどな」
バックミラーでその姿を捉えながら、航平は呟いた。