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うっすらと意識が覚醒していく中、航平は今まで見ていた夢が夢ではないことに気付き、飛び起きた。
「夢じゃない...よな。いや、だけど―――にしては――」
航平はしかし、余りに現実離れしたその内容に、疑いの念を持たざるを得なかった。やはりこれは、夢でしかないのではないのか。そうであって欲しいとすら、航平は願った。たが、それが夢でないことは間違いがなかった。だからこそ、航平は混乱していた。
*
炎天の下、中学一年の航平と秋野 瑞希は、中学校の近くの公園のベンチに、二人で腰を下ろしていた。
「見える?この子」
秋野 瑞希が足元を指さした。そこには、耳の一本しかない、兎のような小動物が大人しく座っていた。
「見えるよ」
航平は頷いた。
「この子は“使い魔”って言ってね、普通の人には、認識することはできないの」
「“魔獣”と一緒、ってこと?」
「そう、ほとんど一緒。“魔獣”は、平行世界からこの世界にやってきて、人々の幸福を食べて成体になり、不幸を放つようになった姿。対してこの子達“使い魔”は、成体に成りきる前に、私達“魔法使い”に浄化された無害な姿。だから、“魔獣”も“使い魔”も、元は一緒なの。どっちも、魔力で構成されたエネルギー体だわ。だから、私達“魔法使い”や、あなたのような特殊な人にしか見ることが出来ない」
秋野 瑞希の話を聞きながら、航平はその兎似の“使い魔”を撫でようとした。しかし、航平の手は使い魔を透過するばかりで、一向に触れられなかった。
「多分、あなたには触ることが出来ないわ。さっきも言ったように、この子達も魔力のエネルギー体だから。この世界の物理には干渉できないし、干渉されないの。“魔獣”と“使い魔”が干渉し、干渉されるのは、この世界では魔力を纏った状態になった時の私達“魔法使い”だけ。だから、私達も普段はこんな風に触ることが出来ない」
言いながら、秋野 瑞希は航平と同じように兎似の使い魔を撫でる仕草をした。航平と同じように、彼女の手も透過する。
「こうやって、手に魔力を纏えば、私達なら干渉できるけど」
秋野 瑞希の右手に、半透明の白い手袋のヴィジョンが浮かび上がる。それが彼女の言う魔力を纏った状態であり、そのヴィジョンと、それに包まれた彼女の手もまた、一般人には識別できなかった。魔力を纏った右手で、彼女が使い魔を撫でる。今度は、互いに触れ合うことができた。使い魔は目を瞑り、彼女の手に身を任せていた。
「この子達使い魔には、それぞれ固有の特殊能力があるの。例えば、この子は何かしら、物理的なものから概念的なものまでを、“移す”ことができるっていう能力。他にも、私の持っている子達の中には、“小さくする”力を持つ子だったり、”導く“ことのできる子だって居る。基本的には、魔獣との戦いを有利にするために使うんだけど、まあ、日常生活でも便利よね」
秋野 瑞希は手に纏っていた魔力を解くと、航平に向き直った。
「”魔法使い“とは言うけれど、アニメやゲームみたいな”魔法“を使える訳じゃないのよね、私達。正しくは”魔力を使う者“。ただ便宜上”魔法使い“と呼んでいるだけ。だから魔獣との戦いも、魔力を物に纏わせての打撃攻撃が主力。でもそれだけじゃあ大変だから、そういうときに使い魔の固有特性が活躍するの。戦闘向きじゃあない子も居るけれど、たまに可笑しいぐらい強い能力を持ってる子も居たり、色々個性があるのよね」
ポケモンみたいよね、と彼女は笑った。
*
これが夢なのか、はたまた現実だったのかを知る手段は、航平にはなかった。ただ一つ言えるとすれば、仮にこれが夢だとすればえらく現実的であるが、逆に現実であるとすれば、間違いなく奇妙な現実だということだけだった。
夢に出てきた公園の存在の実在は航平も覚えていた。秋野 瑞希という人物が居て、その彼女と公園で話したことは忘れていたが、通学路上のその公園は、航平の記憶に刻まれたままだった。
兎も角航平は、その公園を尋ねてみることにした。今は、少しでも彼女の手がかりを探す他ない。
昨日中学校を訪れたときに記憶が突然脳裏を過ったように、その公園に行けば何かを思い出すかもしれない。昨日の帰り道に道端に落ちていたところを回収した自分の財布をしっかりとポケットにしまい、航平は玄関を出た。前日と同じ道を辿り、中学校方面へと向かう。
秋野 瑞希と航平が最後に会っていたという、あの船橋の上を通っている最中だった。航平のポケットに入っていた携帯が鳴った。着信音から、相手は母親だと航平には分かった。航平はポケットから携帯を取り出そうとし―――それを取りこぼした。
「あっ」
携帯がくるくると回転しながら川に落ちる。航平は、橋の上からそれを呆然と見詰めた。
「嘘だろ――どんだけツイてないんだよ...」
昨日は財布を無くしかけ、今日は携帯を失った。自分の不幸加減に、航平は頭を抱えた。
その瞬間だった。
何がきっかけなのか、航平には分からなかった。それほど唐突に、何の脈絡もなく、航平の脳裏に“あの日”の記憶が流れ込んだ。
*
「ああ、マズいわ―――本当にマズい」
中学卒業間近のある日の朝、登校途中の船橋の上で、川底を覗き込みながら秋野 瑞希が呟いた。
「どうしたの?」
彼女と一緒に登校していた航平はその異変に気付くと、彼女の隣に立って橋の縁から下を覗き込み、言葉を失った。
「これは...」
橋の下の水面に、大きな、黒い円形の“穴”が空いていた。前日の雨による増水のせいも相まって、川の様相は、二人の知るそれとは一変した、禍々しい雰囲気を放っていた。
「平行世界からの出口ね。それにしてもこれは――――大きすぎるわ」
それは、平行世界とこちらの世界を繋ぐ穴だった。しかし通常、その穴の大きさは直径二メートルといったところであり、今回のように、その直径が十メートルを越えることは、極めて異例であった。
穴の奥で何かが蠢いた。秋野 瑞希は周囲を見渡した。登校時間ということもあり、結構な人数の生徒が歩いている。
「どうせもう卒業だし―――やるしかないわね」
目下に目を戻しながら、秋野 瑞希が言う。航平は彼女を見た。
「やるの?ここで?」
「どんな化け物が出てくるか、知れたものじゃないわ。一刻を争うほどの不幸を振り撒くかもしれない」
そう言うと、秋野 瑞希は魔力エネルギーを全身に纏った。これで、周囲の人間には彼女が識別できなくなる。背後で何人かがギョッとした。
穴の縁に、鋭い爪の生えた獣の手がかかった。二人は生唾を呑み込んだ。穴から魔獣が顔を覗かせた。その数は二つ。
「ッ―――二体!?」
橋から身を乗り出し、航平は叫んだ。
「下がって―――二体じゃない。三体居るわ」
秋野 瑞希が航平の体を制する。その言葉通り、二体の後ろから更に三体目の魔獣が現れた。
「大型が―――三体」
航平が声を震わせる。三体はどれも大型の魔獣だった。大型魔獣のその存在は、秋野 瑞希も聞いたことがあるという程度の、稀有なものだった。通常の魔獣の全長が、大きくても三メートル前後なのに対し、大型は五メートル以上のそれらを指した。目の前に出現した三体は、小さいものでも五メートルは軽く越えている。最大のものに関しては、十メートル近くありそうだ。
「大惨事が起こるわ――――」
秋野 瑞希は、この地域の行く末を予見した。魔獣は不幸をばらまく。その不幸の度合いはまた、魔獣のサイズにも比例していた。
三匹のうちの最大のものは、虎のような容姿をしていた。見た目からでも硬いと判る装甲のような皮膚に覆われ、先の尖った尾を器用に揺らしていた。その魔獣が、己の頭上の橋を見上げた。航平と目が合う。魔獣は低く唸ると、尾の先端を橋目掛けて突き上げた。二人の背後の路面を、尾が突き崩す。二人は後ろを振り向いて唖然とした。
周囲から悲鳴が上がる。彼らからすれば、いきなり橋に穴が空いたように見えるわけで、それは間違いなく恐怖だ。人々が駆け足で橋から離れる。突き抜けた尾は、スルリと下に消えた。
「どうして―――」
秋野 瑞希の額から、どっと冷や汗が流れる。
「どうして、この世界に干渉できるのよ―――」
魔獣はこの世界の物理に干渉しないし、干渉されない。そのはずなのに、それが今、目の前で覆された。秋野 瑞希はただ、呆然とする他なかった。
三匹の魔獣が、それぞれ別の方向へと進路を取った。そのうちの一匹が橋の上へと上ってくる。
それは、狼と熊を足して割ったような姿で、頭部には二本の褶曲した角を生やしていた。その魔獣は体勢を低くして、ゆっくりと航平と秋野 瑞希へと距離を縮めた。
「なあ、瑞希。どうしてこいつら、こんなに好戦的なんだよ」
航平に対し、秋野 瑞希は首を横に振った。
「知らないわよ。あいつらに聞いてよ」
目の前の魔獣が、かなりの距離に迫る。
「逃げればいいのか?と言うか、逃げられるのか?―――」
どうにも航平には、目の前のこの獣から逃げられる気がしなかった。
「大丈夫よ―――私がなんとかするから。なんとか、するから」
秋野 瑞希が、どちらかといえば自分に言い聞かせるように言う。
刹那、二人の目前の魔獣が、航平に飛びかかった。そのスピードに、航平の体は反応できなかった。
「危ない!!」
対し秋野 瑞希は、咄嗟に行動を起こした。魔力を纏うことで強化された身体能力を使いつつ、手に纏っていた魔力を解除し、その手で航平を押し出す。しかし、橋の手すりに阻まれ、迫る魔獣の射程からは逃れられそうになかった。秋野 瑞希は咄嗟に判断せざるを得なかった。
彼女は航平を川へ突き落とした。
「え?」
その時初めて、航平の脳は状況を認識した。それほどの速度での秋野 瑞希の決断だった。
航平を突き落とした秋野 瑞希の身には、既に魔獣の歯牙が迫ったいた。この距離では避けられようがなかった。
濁流に呑まれる中で、航平は秋野 瑞希の悲鳴を聞いた。