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翌日航平は実家へと帰り、そこから、昔通っていた中学校までの通学路を歩いた。もう七年近くも歩いていない道ではあったが、その道筋の記憶は鮮明だった。複雑な住宅地の抜け道を通り、川沿いの道に出る。その道をしばらく歩いていると、目的である船橋が見えてきた。川幅がそこまでの広さでないため、比例して橋も短い。橋自体は比較的新しいようだった。前日の大雨で、川は荒れていた。
橋の正面にたつと、橋の中間辺りで縁に手をかけている、中学生ぐらいの女の子が目に入った。髪を後ろに1一本で束ねあげたその女の子は、橋の上から川を見下ろしていた。その女の子は、何度か手摺に手をかけては離し、溜め息を吐いていた。その挙動が気になっていた航平は、しばらくその女の子を眺めていた。
不意に、女の子が手摺に足をかけ、乗り上げた。彼女の思惑を即座に察した航平は、その場を飛び出した。女の子が川底に向け体を傾ける。その足が手摺を離れた。ようやく女の子の元へ辿り着いた航平の手は、空を掴んだ。航平は手摺から極限まで身を乗り出すと、自由落下する女の子の足首を握った。しかし、その重みで、航平の体も橋の外へと放り出された。空中で女の子を抱き寄せ、庇いながら、航平と少女は水面へと落下した。
背中で着水し、少女への衝撃をなるべく抑える。鼻や口から水が入り込んでくる。前日の大雨による増水のお陰で水底に体を打ち付けることは免れたものの、増水の影響による濁流に、二人は押し流された。航平の腕の中で少女がもがく。彼女を離さないようにしながら、航平は水面を探した。しかし、流れる水の中で、上下の感覚が分からなくなる。腕の中でもがく少女の力が徐々に弱まる。
〈ああ、駄目だ〉
肺の中の空気が尽きた。自分の人生、こんなものかと、航平は絶望しながら意識を手放した。
*
「ねえ、航平くん」
小学校の卒業アルバムに載っていた秋野 瑞希が、小学五年生の戸田 航平に話し掛ける。休み時間で、他の児童達は思い思いに集団を作り会話している中、航平だけが、自分の席で一人読書をしているところだった。秋野 瑞希に声をかけられた航平は、本から顔を上げた。
「何読んでたの?」
秋野 瑞希が、航平の広げる本の表紙を覗き込む。
「....は、である―――何て読むの?」
漢字で書かれたその題名に、秋野 瑞希は首を捻った。
「“吾輩は猫である”」
ボソッと航平は呟いた。
「へぇ。難しい漢字知ってるね。面白い本?」
秋野 瑞希に対し、航平は首を横に振った。
「よくわかんない」
「そしたら、どうして読んでるの?」
「―――そうすれば、誰も話しかけてこないと思ったから」
「私、邪魔だった?」
今度は首を縦に振る航平。ごめんね、と秋野 瑞希は謝った。
「航平くん、いつも一人で寂しそうだったから。ねぇ、私達、一緒に転校してきたんだし、仲良くしようよ。また今度、色々話そ」
そう言って、秋野 瑞希はその場を立ち去った。航平は本に目を落とした。
*
目を覚ました航平は、大きくむせこんだ。肺の中へと入り込む新鮮な空気が染み渡る。航平は上体を起こすと、周囲を見渡した。頭がガンガンと痛む。航平は、どこかの河川敷の草むらの上に寝転んでいた。足元を濁流が掠めていく。どうにか助かったらしいことに胸を撫で下ろした航平は、自分と一緒に濁流に呑まれた少女のことを思い出した。気を失うまでは、腕に抱えていたはずだ。航平は慌てて辺りを探した。少し離れた下流の方に、少女は流れ着いていた。航平は立ち上がると、おぼつかない足取りで少女のもとに駆け寄った。少女にはまだ意識がなかった。航平は、少女の手首で脈をとった。生きてはいる。航平は少女の両肩を掴むと、軽く揺すりながら呼び掛けた。
「おい、大丈夫か?」
二度も呼び掛けないうちに、少女は意識を取り戻した。うっすらと目を開け、航平を見詰める。
「大丈夫か?どこか怪我してないか?」
少女は、はっとして上半身を起こした。キョロキョロと辺りを見渡す。
「ここは―――」
「どうやら助かったようだよ。奇跡的に、河川敷に乗り上げたみたいだ」
「―――助かった?」
少女が航平を見る。航平は首肯いた。
「何で助けたッ!」
いきなり少女が叫び、航平の胸ぐらを掴んだ。は?と航平は呆けた。
「ふざけるなよッ!いたいけな女の子の命を助けて、良いことでもしたつもりか!?私のことを救ったつもりなのか!?逆だよッ!あのまま死ぬことが、私にとっての救いだったんだよッ!」
目尻に涙を浮かべながら、少女が捲し立てる。当人は本気で叫んでいるのだろうが、その声は弱々しかった。
「あんたに虐められてる人の気持ちが分かるのか?」
航平はやはり呆然として、言葉を発せなかった。かつて、この町に引っ越してくる以前の、小学校四年生までの間、航平も虐めを受けていた。彼にとっては、思い出したくもない過去だ。航平も虐めに追い詰められ、自殺未遂をしたことがあった。だから、目の前の少女の気持ちが、彼には痛いほど分かった。
しかし、それでも航平が彼女を助けた理由は、自分が生きていて救われたことにあった。少なくとも、転校後の自分は、それなりに幸せな人生を歩めている。数年前には被災もしたし、記憶が一部欠けてはいるが、それでも虐められていた日々を思えば、航平にとってそれらは最悪ではなかった。
だから、この少女にもそんな未来の希望はあった。それ故に、航平は少女を助けた。しかし少女からしてみれば、今にも未来にも、希望など見えないのである。見えているのは、絶望のみだ。
少女は航平の襟から手を離すと、腕で目元を擦りながら走り去った。
航平は尚も呆然としたまま立ち上がると、河川敷から道路へ登った。それから実家に帰ろうとして、ここがどこだか分からないことに気付いた。