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日常の隣にある非日常を描いた作品が好きで、どこか淋しい物語を書きたいなと思って書き出したものです。
稚拙な文であるため、その辺の描写は巧くはありませんが、是非最後までご一読よろしくお願いします。
最後の段ボール箱を部屋に運び入れた戸田 航平は、深い吐息と共にその場に座り込んだ。外の雨足が弱まる気配は一向にない。隣町では一部の道路が冠水しているようだ。
その雨の中、アパート正面の駐車場から、両手で抱えるのがやっとな段ボール箱六つを三階の自室まで運んだのだ。大した距離はないものの、身も荷もずぶ濡れである。どうして今日に限ってこんなに大雨なのだろうか。自分の不運に思わず溜め息が漏れる。
航平は洗面所へ向かうと、床に山積みにしてあるタオルを一枚拾い濡れた頭を拭いた。それからリビングに戻り、運び込んだ段ボールのうち一つを手元へ手繰り寄せた。
まだろくに物の揃っていない、閑散としたリビングの中央で、段ボールの口を止めていたガムテープを剥がし、中を開く。
一番上には数枚のハンドタオルが敷かれていた。最悪雨に濡れることを予想し、事前に航平が詰めておいたものだ。雨で湿ったそれらを床の上に除けると、何冊もの冊子が現れた。こちらに背表紙を向けた状態で敷き詰められている。一先ずそれらを、航平は床の上に取り出した。文庫サイズのものから大型の図鑑まで、サイズは様々である。大きさ別にその冊子群を整理した後で、航平は次の段ボールに取り掛かった。
戸田 航平は、今春地元の大学を卒業したばかりの若者だ。来年度からの就職先の決まった彼は、親元を離れアパートで独り暮らしを始めることにした。現在はその引っ越し先に実家から私物を運び込んでいる最中だった。
運んできた段ボール箱の全てを開け終えた航平は、部屋の隅へと山積みにした冊子を少しずつ移動させた。
その途中、三冊の懐かしい冊子を発見した。小学、中学、高校の卒業アルバムだ。航平は思わず作業を止め、その三冊を手にした。小学校の卒業アルバムを開く。
最初に学年の集合写真が見開きで載せられていた。懐かしい顔ぶれに頬を緩ませながらページをめくる。続いてクラスごと、名簿順に名前と顔写真が並べられていた。自分は何組だったかと、写真を目で追いながらページをめくる。そこに航平は、自分を見つけた。二組だったかと、自分の記憶の曖昧さに首を捻る。その後、クラスメイトの顔写真を順々に眺めた。懐かしい記憶が甦る。意外にもその記憶は鮮明だった。
しかしその中に、どうしても思い出せない生徒が一人居た。名簿番号1番の女の子である。“秋野 瑞希”と名前がある。他のクラスメイトは全員、名前と顔のどちらかが記憶に引っ掛かるのに対し、その女の子だけは、航平の記憶に一切なかった。それでも、ただ単に忘れてしまっただけだろう。航平は違和感を頭の隅に追いやると、続いて中学の卒業アルバムを手に取った。
小学校のものと同じように、最初に学年の集合写真が見開きで載せられ、その次に、クラス別に顔写真と名前が載っている。航平は一組に居た。そして、小学校の時と同様、“秋野 瑞希”が同じクラスに居た。しかしそれでも、航平はその同級生の事を何一つ思い出せなかった。ただ単に忘れたのではない。まるで、存在そのものを知らないかのように、その子に関する記憶だけがない。小・中学校と同じクラスに居た子であるのなら、何かしらの形で記憶に残っていそうなものだが。
航平は高校の卒業アルバムを調べたが、“秋野 瑞希”という名は、そこには載っていなかった。
小・中学の卒業アルバムを床の上に開くと、航平は首を捻った。それとも、不登校の生徒だったのだろうか。
いまいち腑に落ちない航平は、小・中・高校と一緒だった、今も付き合いのある友人にメールで尋ねた。
〈小学生と中学生の時に、秋野 瑞希という同級生は居たか〉という内容の文面を送ると、間髪入れずに、その友人から電話がかかってきた。
『思い出したのか?』
友人の第一声に、航平は戸惑った。
「何を思い出すんだ?」
『秋野 瑞希の事だよ。思い出したのか?』
「いや―――違う、逆だ。知らないから尋ねたんだよ」
『そうか』
友人が落胆したのが、声からでも判る。
「思い出したかってのは、どういうことだ?やっぱり、俺は何か失念しているのか?」
『何て言うべきか―――お前、七年前の丁度この時期に起こった大震災は覚えているか?』
「ああ、毎年ニュースで目にするな。が、どうしてか知らんが、俺にはその震災の記憶がまるっきりないんだよ」
つい先日も、各方面で報道されていた、七年前にこの地方を襲った未曾有の大災害。震度7を超える大型地震の発生により、高さ十メートルを越える津波が誘発。更に、沿岸部に建てられていた原子力発電所がその影響により崩壊、放射能が漏れ出すという、三つの厄災が同時に発生した。かつて航平たちの暮らしていた町は、地震による被害のみで済んだというが、航平には、その震災の数日前後の記憶が一切なかった。
『これ、俺が言っていいのかな。お前の両親は、お前にまだ何も説明していないんだろ?お前が記憶を失った理由―――』
「なあ、おい。それが秋野 瑞希とどう関係するんだ?」
『実は―――その秋野 瑞希は、その震災以来行方不明なんだよ』
「つまり、秋野 瑞希は実在したが、俺が単にその存在を忘れていたってことか?」
『そこが不思議なんだよ』
何が不思議なんだ?と航平は尋ねる。
『お前と秋野 瑞希に接点がほとんどなかったってのなら、それで説明がつかないってこともないんだ。だけど、お前と秋野 瑞希の間には、むしろ接点しかないんだよ』
「例えば?」
『お前、自分がこっちに転校してきたってことは覚えてるよな?』
「ああ」
航平は首肯く。
「元の学校でのいじめから逃げて、小学五年の時にこっちに引っ越してきた」
『その時に、同時にもう一人転校生が居たのは覚えてるか?』
「いいや。そんなことがあったのか?」
『転校生二人ってのは強烈だったからな。俺は今でも覚えてる―――そのもう一人の転校生ってのが、秋野 瑞希だったんだよ』
「―――全く記憶にない」
『当時のお前は、転校前の出来事から、塞ぎ込んでいたんだよ。クラスの誰とも話そうとしなかった。そんなお前に辛抱強く話しかけ続けたのがまた、秋野 瑞希だ。彼女のお陰で、お前は徐々に周囲に対し心を開いていった』
「何か―――むず痒いな」
『それから、彼女が行方不明になるまでのおよそ五年間、お前と秋野 瑞希は、ずっと仲が良かった。付き合ってるんじゃないかってぐらいな。まあ、当人達はそれをあっさりと否定していたんだが』
「確かに、それでその秋野 瑞希って子の記憶が俺からごっそり消えてるってのは、おかしな話だな」
『それだけじゃない』
まだあるのか、と航平は驚く。
『彼女―――秋野 瑞希が行方不明になる前、最後に彼女と会っていたのは、お前なんだ』
航平の口から、溜め息が漏れる。
「つまり、俺の記憶の欠損と、彼女の失踪とには、何らかの関係があるかもしれないってことか?」
『お前の記憶の欠損は―――』
友人が言葉を濁らせる。
「何だ。構わず言ってくれ」
『震災が起き、彼女が行方不明になる直前、お前は救急で病院に搬送されているんだ』
「彼女に最後に会ったのは俺なんじゃないのか?」
航平は困惑した。
『ああ。あの日お前は、いつものように、彼女と登校していた。そしてその道中――』
再び、友人の言葉が詰まる。航平は続きを促した。
『ある橋の上で、お前は彼女に、川に突き落とされた』
航平は無言になって、友人の次の言葉を待った。
『それを目撃した近隣住民が君を救出し、救急車を呼んだ。前日の雨による増水のお陰でお前は一命をとりとめたが、目が覚めたとき、お前は彼女、秋野 瑞希に関する記憶を失っていた。そして、お前が気を失っている間に起きた震災の後、彼女の姿は見付からなかった』
「それじゃあ、彼女はもう、生きていないのか?」
『それは分からないが――――何だ、えらく冷静だな。俺はてっきり、お前は怒るもんだと思って話をしたんだが』
「まるっきり記憶がないからな。それが事実かどうかも、その隣人の話でしかないんだろ?そう安易には怒れないさ」
『そうか―――』
「なあ」
航平は友人に尋ねた。
「俺が突き落とされたっていうのは、どこの橋だ?」
『俺達が通っていた中学校の近くの船橋って所だけど―――行くのか?』
「何か思い出すかもしれないだろ」
『何なら案内するけど―――』
「遠慮しとくよ。場所は分かるし、それに、自分で記憶を探りながら歩きたい」
友人に礼を言うと、航平は電話を切った。