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 フェンスという壁にもならない囲いだけの屋上を吹き抜ける風は痛い程冷たい。早朝という温められていない空気も相まって尚、冷たさを増している。

 そんな中でシユはフェンスに指をかけ、白い息を吐きながら、ただ周りの建物を見下ろしていた。何を思うのでもなく、思いを馳せるのでもなく、約束をしたその人を待つだけ。

 準備というものなど、全くしていないが万全であった。下手に知識を入れてしまうより、いつも通りでいいならそのまま臨もうという、それだけだったが。

 そうしている内に屋上へと続くドアに手がかけられる音が聞こえたため、シユはその場から動かずに振り向いた。


「おはようございます、レーヴェン」

「あぁ……」


 どこか陰が落ちて重たそうな、疲れが取れていない様子のレーヴェン。先日からの今日で大分、体調が安定しなくなってしまったのだろう。身体を侵す呪いも影響を及ぼしているのは明白だが、それも今ここで終わりにできる。


「あの、調子が悪いならもう少し時間をおいてからでも──っ!?」


 歩み寄ったシユの腕を掴み、引き寄せたレーヴェン。力任せにして乱暴。彼にしてはあるまじき行為だった。

 あまりにも突然のことにシユの思考は一瞬止まるが、それは首元に迫ってきた熱により急激に働き始める。


「っ、レーヴェンッ!」


 ばち、とシユの装飾から閃光が迸る。彼にそれを行わせてはいけない、彼女もその意地で実力行使に出た。自分でも驚く程の力で彼の手から逃れ、その身に瞬間の痛みを与える。


「──あ」


 歯を食いしばり痛みに耐えたレーヴェンは、その痛みで我に返ったらしく、自分が何をしでかそうとしたかを理解して、絶望の表情を露わにした。

 そして一歩引かれる足。


「──待って!」

「来るな! 来ないでくれ……!」


 背を向けて一目散にこの場から離れようと走りだしたレーヴェン。シユはすぐさま追いかける。

 離れてしまう前に、彼女はチェーンを伸ばして彼の腕を捕らえた。しっかりと絡みついたチェーンは振りほどけないこともないのだが、彼はそれをしなかった。ただ、その猶予の中で離れられるぎりぎりを保つ。

 逃げたい、逃したくない。二人の行動は真逆だったが、シユは無理にでもレーヴェンの腕を引き寄せ、ネクタイを掴み、頭を引き寄せ──。


「──っ!?」

「いっ、っ……!」


 ごち、と端から聞いても痛々しい音が響いた。シユも必死だったため、力加減を間違ってしまったのだ。これでは頭突き以外の何物でもない。

 突然の衝撃と痛みに、二人は反射的に額を押さえて俯く。


「シユ!? お前、何を……!?」

「大丈夫ですかっ!?」


 自業自得の痛みだが、構っていられないとシユはレーヴェンの調子を確かめるために勢いよく顔を上げた。やや乱れた前髪から覗く額は先程打ち付けたせいで痛々しい赤に染まっている。

 残る痛みと彼女の必死な声に呆けていたレーヴェンはいつの間にか、気分も体調も軽くなっていることに気が付いた。


「あ、ああ……大丈夫、だ……」

「よかった……」


 安心して気が抜けたように微笑んだシユは、レーヴェンの腕を捕らえていたチェーンを外し、元の形に戻す。だが、まだ呪いは解かれてはいない。ではこの身軽さは何だと、レーヴェンは自分の手や体を見つめる。


「何かしたのか?」

「はい、今この間だけ保つようにと少々ですが、衝動を抑えるものをと……」


 ですがすみません、とシユは未だ痛みが後を引いている額へと手を当て、やや俯いた。その仕草にレーヴェンも思い出した衝撃に顔を逸らす。


「私も慌てすぎてしまいました……」

「ああ……」


 それだけ気が動転してしまっていたということだ。彼がここまでに衝動を露わにしたことがなかったから。それでも、それ以上にここから離れてほしくはなかった。だからシユは冷静でなくても引き留めるためにでき得る限りのことをしたまで。


「……悪かった、多分まだ普通じゃないんだ」

「すみません、私のせいでもありますよね……」


 レーヴェンが否定に口を開こうとしたところへ、ですので、とシユは続きの一言を挟む。もうこちらを気遣うための一切を言わせないとばかりに。

 顔を上げた彼女の表情は余計なものを全て払い落としてきたような清々しさが漂っていた。


「今から呪いを解こうと思うのですが、よろしいでしょうか」

「本当に見つけてきたのか……」


 息を吐くように感心と驚きの声を漏らしたレーヴェン。シユはそれにただ頷くと、楽にした両手を前に出し、短く息を吐き切って力を抜く。


「楽にしていてくださいね」


 自分の手だけを見つめるように、薄く目を開きながら集中し始めたシユの周りには魔力の僅かな光が漂いだす。濃く薄く、靄のようにも見えるその光はやがてレーヴェンの周辺にまで及び、取り巻いていく。

 これは呪い。表面的に影響を及ぼすだけであり、内面にまでは浸食しないもの。そのため身体が根本から変化してしまったわけではない。


 ──同じでいい。癒すことを前提に集中する。ただ、今日は少しだけ入り組んだ状態なだけ。

 邪にかけられた外からの干渉、絡みついた異常。それを解いて取り払うように。

 ああ、やっぱり癒すだけじゃない。癒しながら彼の身体を蝕んでいる原因を取り除いて、元の状態だと認識できるまでにしなければ。


 生み出されていた流れが緩やかになり、やがて止まる。シユはゆっくりと手を下ろし、レーヴェンを見上げた。


「どうでしょうか、普通の状態に戻ったと思われますか?」

「ああ、何かずっと軽くなった気がするな……随分久しぶりな感じだ」


 シユが呪いを解いていた間も、次第に身体が軽くなっていたのを感じていたレーヴェンは、終わった途端、更に身軽になったと爽快な感覚に目を見開いた。

 今までずっと体の中に巣食っていた重たく暗い霧が晴れたような、全身に絡みついていた重りが解け落ちたような。いずれにしてもこれで余計な衝動に襲われ、悩まされることもなくなり、精神の安定にも繋がっていくだろう。

 関係はないが、レーヴェンは肩を回してみる。


「確認、はしなくても平気そうですか?」

「大丈夫だ。余計についてたものが全部取れてすっきりしてる」


 成功、したらしい。あんな状態で嘘を吐く理由などあるはずがないことから、シユは先程よりも安心しきってよかった、と肩を下げた。

 これでもう、しがらみはなくなった。残るのはあと一つだが、それは放課後からしか動けない。


「シユ」


 呼ばれた彼女が顔を上げれば、レーヴェンは左耳からピアスを外したようで、それをシユに差し出してくる。

 あの時、本当に最期だと遺した、濃い紫に染まっているままの彼女のチャーム。一つも色褪せてなどいなかった。


「絶対に返そうと思ってたんだ。それまではずっと御守りとして持っておいた」


 シユはその手に乗るものを見つめたまま動かなかった。

 これは託して手放したもの。返すつもりでいられても、返そうと思われていたとしても、受け取るつもりなど、シユにはなかった。

 一向に手を出さないままの彼女を不思議に思ったレーヴェンは、もう一度呼びかけて首を傾げる。


「シユ……?」


 彼の顔を見ないまま、シユは目を瞑り首を振ると、その手を握りこませるようにしてやんわりと押し返した。


「これは貴方が持っていてください。そのために残したものですから」


 どちらにしても、もう必要のないものだが。遺した想いも、辿った想いも、全てが繋がったのだから。

 本当にそれでいいと微笑んだシユの手前、レーヴェンは戸惑いながらも頷いて手を下ろすしかなかった。


「分かった」


 どちらともなく、ふ、と一息吐く。

 今のところで言えば、二人にできること、やるべきことは終わりにすることができた。次はこの後を過ごした先、番人からあの答えを聞けるかどうかである。

 それもあるが、また大事なことも一つ残っている。クィディーに考えがあるのかは定かではないが、シユは何かと言い出しづらい案件だ。


「今日は二人で来るかもな」

「まさかこのまま番人と話をつけに行くつもりですか?」


 確かに、最初に問題にしていたレーヴェンの呪いを解くことはできたため、成功したと報告さえしてしまえば、残るは仲間たちだけとなる。始末をつけるには早いに越したことはないが、早すぎるのではないだろうか。

 この後シユも用があると言えばあるが、ついでと、態々予定を入れなくても行けるであろう今日にしてしまえ、というのはあるのかもしれないが。


「……私もはぐらかされた答えを聞きに行くつもりではいましたが」

「ちょうどいいかもな、番人も番人で何かやっていそうだと思わないか?」


 それも一理ある。シユに呪いを解けると言ったのは彼だ。それに、肝心の答えさえ聞けていない。そうして残る問題のためにクィディーたちも押し掛ける、ということが読めていたとするなら、何かしらの手は打っているだろう。

 全ては放課後から。今は過ごすべき時間のためにと、二人は頷いて校舎へと戻って行った。

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