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そうして気が付けば一人、何が起きたのかも分からない状態でここにいたのだ。彼が彼の仕事を遂行し、生まれた世から引き剥がされ保護されたこと。そこまでされなければならなかった理由を考えてみても思い当たる節などなく、説明の意味が分からない、自分が自分である核もどこかに落としてきてしまったかのように分からない。そんな中で、この世で生きるための知識を学び、己を切り離したように生活し、出会い、ここまで来たのだ。やっと、取り戻した。
──そう、私は、そのためにここへ来た。
見慣れない、そもそも知らない風景だと思った。ただの天井だったが。室内は暗く、明かりがない。それでも痛いと感じる程の冷たい空気に、戻ってきたのだと、ここにいるのだと思える。
シユは一度、大きく息を吸ってみた。取り戻した自分と、これまでの自分とに整理がつかない、ぼやけた頭が覚めていくようだ。
「よお、起きたか」
「……クィ、ディー?」
音になるまでの呼吸音に気が付いたらしいクィディーが眠たそうな、掠れた声で呼びかける。シユも眠っていたわけではないが、掠れた声で彼の名を呼ぶと、彼は大きく欠伸をしながらああ、と答える。ベッド脇の椅子に座って眠っていたらしい。それも仮眠の状態か、こんな体勢では休まるものも休まらない、彼の目は赤みを帯びていた。
「っ、あの──」
「悪いな、今は真夜中だ……あの二人も休ませてる」
たまらず起き上がろうとしたシユの肩を押し戻すクィディー。疲れたように首を振る彼に、別の疲れも重なっているのだと、シユは大人しくベッドに沈んだ。この一晩の間、シユの容態という緊張に、おそらくは二人を休むよう言いくるめた疲労もあるだろう。そして、二人分の観察も任されている責任。彼自身はそこまで気負ってはいないだろうが、その疲労が全身から滲み出ている。
「ったく、ウェイニーはいいとしてレーヴェンだ……普通の身体じゃねぇし、無理されても困るんだよ、あの馬鹿が」
「そういえば……」
「積もる話は明日だ。きっと明日は早いぜ? お前も備えて寝ろ」
クィディーは立ち上がると部屋を出ようとする。シユは呼び止めたかったが、明日からいくらでも話す時間になるだろう、そのために開きかけた口を閉じた。
逸る気持ちも、胸の中で渦巻く言い表せない何かも、今は抑え込んで無理にでも眠りにつく。明日、明日、再び顔を合わせるのが辛いと、シユは布団の中に埋まり包まり朝を待つ。
どんなに気分が良くなくても、目を閉じていれば眠りにつくというもの。気が付けば朝になっている。窓から差し込む朝日が眩しく、また新鮮だ。
シユは反対方向に頭を向けようとして、今度はウェイニーと目が合った。椅子の背もたれをこちら側に向け、正座しているようだ。背もたれに置いた手の上に顎を乗せ、彼女が目覚めるのを待っていたらしい。
「おはよう、シユ」
「おはよう、ございます……」
見慣れた笑顔を向けてくるウェイニーだが、やはり目元が重たそうである。そのまま見つめてくるだけの彼女に、シユは予想していた反応とは違っていたと戸惑いながら挨拶を返す。
「起きたらリビングでクィディーが寝てるんだもの、吃驚したわ。シユのこと放って何してるのーって、聞いたら夜中に一回起きたって言うから……」
平常心に見せかけて、おそらく彼女も少しは気が動転している。目覚めたシユの状態に対してなのは言うまでもなく、やや早口にまくしたてているのが証拠か。シユはそれを聞きながら起き上がり、ウェイニーも椅子から下りる。
「ね、あたしのこと分かる? ていうか皆のことも」
見合わせた顔は神妙そのものだった。それでも聞きづらいことを聞いていると自覚しているらしく、ウェイニーは尻すぼみに俯く。シユも答えに迷った。分かるかと、覚えているかと問われれば答えははい、だ。今の彼女は失っていた全てを取り戻したのだから。それでも、それが戻ってきたからこそ、彼らの状況に胸を痛める。
ただ、ウェイニーはそれを抜きとした、シユの今を聞きたいのだろう。自分の知る彼女であるかどうかを。だからシユは。
「はい、分かりますよ。最後の瞬間までの出来事を全て思い出しましたので」
努めて微笑み返す。だが、ウェイニーはそこで固まってしまった。やはり何かまずかったか。シユがかける言葉もなく口を開いたところで、ウェイニーの目は潤みはじめ、終いには涙が零れ落ちる。
「よ、よかった……何かどうしようもないことになったら、どうしようって……でもおかえり、シユ」
「……はい、ただいま戻りました」
彼女たちにしてみれば、シユが戻ってきたことは何よりも代えがたいに違いない。しかし、シユは記憶が戻ったからこそ、確かめなければならないことが山ほどある。
そこへノックの音が響いた。
「とりあえず食ってからにしろ、下りてこい」
まるで見計らったようなタイミングに、二人はドアから互いの顔へと視線を移し、思わず笑みを浮かべた。
「──あ、レーヴェンいるけど大丈夫?」
「それは……そうですね……あまり重たい空気にはしたくないのですが……」
最低限の身支度をとウェイニーに付き添われながら行うこと数分、リビングに入るドアの前でウェイニーは振り向いた。話し合いが後回しにされる今、気まずい空気になるのは必至である。しかし、空腹を満たさなければ頭も回らないし、話をする環境も整わない。極めて重要だ。
「それじゃあ顔突き合わせないでいく? 何とかなると思うけど」
「それだとクィディーが怒りそうな気がします……」
確かにそうね、とウェイニーは顎に手を添えて思案する。食事をするなら一緒にする、ということに彼は重きを置いていた。気まずかろうが何だろうが、腹を括るしかないということだ。どうせその後で話をするのだからどちらにしても変わらないというもの。
「行きましょう、何とか頑張ります」
「そっか、ならさっさとかき込んで会議ね!」
何もそんなに意気込まなくてもいいのだが、ウェイニーはドアを開け放った。テーブルの上には軽めの朝食が用意されており、クィディーは遅いと、ウェイニーの行動に対しさらに文句を重ねる。さすがにドアの開閉には一言あるのも無理はない。
そうして中に入ってしまえば、顔を見合わせることになり、ばっちりと目が合ったシユとレーヴェン。彼女はいたたまれず一瞬目を逸らすが、またすぐに彼を見る。レーヴェンはただ一度、無表情にも見えるが真剣な顔で頷くだけに留まった。
やっと、落ち着いた。腹を満たしただけで気分が回復するのもどうかと思うが、シユはふ、と息を吐く。
「ちょっとテストしましょう、シユ」
「……はい?」
ティーカップを大事そうに持ちながら、ウェイニーは大真面目にシユを向いた。空気を和らげようとしてくれているのは分かったが、あまりに突然で出てくるはずもなさそうな単語に、シユは思わず間の抜けた声で返事をしてしまった。
その意図に追い付けていない三人を置き去りに、ウェイニーは中身を飲み干したカップを置く。
「ほら、シユが嘘吐くはずなんてないけど、一応よ──はいこれ」
そう言いながらウェイニーは身を乗り出すようにしてシユの目の前に右手の甲を突きつける。ネイルか指輪か、はたまた装飾全体を指しているのか。シユは無言で首を傾げた。
「この指輪、誰につけてもらったか言ってみて?」
「ディスタ、ですよね? 子供の頃に遊び心で──」
「ああっ、そこまで言わなくていいから!」
何でもないクイズの答えを言うように、シユは訳の分からないまま聞いた話を、彼の名前を出した。次いで、理由まで挙げようとしたところで、ウェイニーは慌てながら両手を振ってきたため、そのあまりの必死さにシユも言葉を切り、一瞬静寂が訪れる。
「ディスタの名前が出てくるんだもの、思い出したのね」
「……はい」
二回も疑われているのだ、シユも自分自身で何かがおかしいのかと疑いたくなってくる。ここへ至る、そもそもの彼女である核を取り戻したと言ってもいい今、若干ではあるが記憶がなく過ごしていた時のことは薄れてしまっていた。接していた細かいやり取りや感情だけの話だが。
「よし、俺からも一つ聞いてみるか」
「クィディーも? あんた聞くようなことあったっけ?」
どうか、もうこれまでにしてほしい。本物であるかの尋問を受けているようで、シユは落ち着くことができないでいた。ウェイニーに代わり出てきたクィディーは至極楽しそうに笑っているが、目だけは真剣だった。そして差し出された手は握手を待っているようなそれで。
「シユ、俺の名前を当ててみろ」
何の捻りもない。待機していたウェイニーが訝しみながら首を傾げる隣で、シユも同じく素直に答えようと手を上げたところで、動きを止める。果たして彼が聞いているのはそんなことなのだろうかと。
そう、一瞬止まったことで、シユは正しい答えが浮かび、ふっと笑った。彼にからかわれ、何か逆襲にと何故かウェイニーが名前を教えてくれたいつかの日。
「クィディー、いえ、クィデルトランス。それが貴方の名前でしたね」
「ああ、そうだ。しかしお前も笑うとはな」
互いに手を打ち鳴らすように握手を交わす。シユが笑ったのはあの日の経緯だったが、クィディーは自身の名前に対して笑われたのかと思ったらしい。シユは別段、何ともない名前だと思っているのだが、ウェイニーにとっては小さな笑いの種となるようで、馬鹿にしているわけではないがよく持ち出していた。当人であるクィディーもそれは承知している。ただ気に入られているだけだと。
と、ここで悪ふざけは終いとばかりに、クィディーはシユと握られている手をレーヴェンの方へと向けながら離した。
「さぁ、本題に入ってやれ。気が済むまで話し合うといい、この大馬鹿野郎とな」
空気が瞬間にして変化する。浮かれていたような熱は冷め、緊張まではいかないが張り詰めた空気が下りてくる。だが、今はそこまで気まずい雰囲気にはならなかった。
見つめ合う互いの目には罪悪感が過る。シユは気を落ち着けるため、一つの問いかけのために深く息を吐いた。
「やっぱり、来てしまったんですね」
最初にかける一言と、降ってきたのはそんな言葉だった。ただ事実を確かめるように、それでいて届かせることができなかった切なる思いを悲しむように。
しかし、シユもそんな予感はしていたのだ。番人との取引の後、何が起こされるかも予想がつかないあの中で、自分が消えた後のことを。手段は何であれ、もしかしたら彼は追ってくるのではないかと。
「ああ……あんなもの残されてたら余計に探すしかないだろ……」
「あれから、一体何が……?」
容易な話ではないのは確かだ。二つの世界をまたぎ、調和を司る架空の存在に救いを求めようとした、途方もない道のり。
シユとてあの瞬間、あの干渉は偶然の賜物だったのだ。探し出そうと行動したとして、それは無謀にも等しく、会いに行こうとそう簡単に会える存在ではない。向こうからの干渉を待つしかないが、普通に考えてもその時は良くないことが起きる前兆にでもなり得そうだ。
しかし、彼の手助けなくしてここまでの大事を成せるとも思えない。探し当てたとでも言うのだろうか、レーヴェンはどこから話そうかと目線を下げた。
「そう、だな……お前が死んだ後、どうにかしてみようと努力はしてみたんだ……けど、やっぱりだめだった」
だからもう一回、また次を始めた。
そこで一度溜め息を吐いたレーヴェンは首を振る。吐いた息の終わりは微かな自嘲の念が込められていたか。度を越えた感情が笑いとなって零れてしまったような、そんな音。
「俺からしたら、あの時の方がよっぽどだった……」
「レーヴェン……?」
ああいや、悪い。今は必要のない感覚だと、気持ちを切り替えるようにレーヴェンは再度、軽く首を振った。そうして最後に足掻いた日々を思い返す。




