お兄ちゃんは、ママにいです。
お兄ちゃんは、ママにいです。
「かんた、いってきます」
「ママにい!いってきます!」
「二人ともいってらっしゃい」
二人を送り出した後、俺も急いで支度をして家を出た。
さくらは、俺のことを「ママにい」と呼ぶ。
元々は、おにいちゃん、だったのだが、ある時から、ママにいになった。
それは、二年前に遡る。
◇◇◇
「いやああああ、ママぁぁぁぁ」
「さくら、ほら、お腹空いた?チョコレート食べる?」
「ちがうの!!!ママがいい!!ママぁぁぁあ!」
さくらが、突然「ママがいない、ママがいない」と泣き出すことが多々あった。
さくらは、まだ四歳だったし、もしかしたら母さんの「死」というものが、ちゃんと理解できていなかったのかもしれない。
母さんが死んでからというもの「ママは、いつ帰って来るの?」が口癖だった。
当然だけど、保育園には父さんがずっと送り迎えをしている。
保育園のお友達にはママがいて、ママの話は度々出てくるのだろう。
不機嫌な顔をして帰った日は、大抵ママのことを恋しがって泣いていた。
「ほら、お兄ちゃんが抱っこしてあげるから、ね?」
「いやっ!!」
手を伸ばして抱き上げようとした手を叩き落されてしまった。
そして、さくらは言った。
「ママがいい!ママに抱っこされたいのっ!!ママのごはんがたべたい!!」
「……ッ」
泣きながら、そう叫んだ。
さくらは悪くない。
悪気なんて少しもなかったんだろう。
わかってる。
……でも、その時、俺はすごく泣きたかった。
どんなに望んでも母さんは帰ってこない。
もう、ママに抱っこはしてもらえないんだ。
さくらに美味しいものを作ってあげたいのに、さくらが望んでいるのは俺が作ったごはんじゃない。
俺がいくら美味しいものを作ろうと頑張っても、死んだ母さんには敵わない。
そうなると、俺はどうすればいいんだろう。
泣いているさくらを目の前に、俺は黙って俯いてしまった。
俺だって抱っこしてあげれる。
ごはんだって作ってあげられる・
でも、母さんには敵わないんだ。
俺も、母さんに会いたい……
会いたいよ。
「おに、ちゃ…?」
俺の目尻に溜まった涙を見て、さくらが俺の顔を覗き込んだ。
なるべく、母さんのことで泣かないようにしていたけど……限界だった。
父さんがいなかったのが、不幸中の幸いだ。
「に、ちゃ……泣いてるの?」
「さくら、ごめんね、ママのごはん食べたいよな」
「……ん」
さくらはコクンっと頷いた。
だけど、それを叶えてやることはできない。
「お兄ちゃん頑張るから、お兄ちゃんのごはんじゃダメ?」
「……ママのは?」
「ママのは、今は作れないけど、いつか作れるように頑張るから……それまで、お兄ちゃんがママになるから、だめ?」
「おに、ちゃが……ママ?」
「お兄ちゃんが抱っこするし、ごはんも作る……だから、さみしくないだろ?」
嘘だ。寂しいに決まってる。
でも、わかってほしい。
ママは帰ってこないんだ。
俺が下唇を噛み締めて、下を向いていると、さくらが小さな声で呟いた。
「ママ…にい?」
「さくら?」
「じゃあ、これからはママにいって、呼ぶ」
さくらは涙をごしごしと手で拭いながら、そう言った。
「ママとお兄ちゃんだから?さくらが呼びたいならいいよ」
「ママにい……ママにい!」
それまで、ずっと泣いていたさくらが、ようやく笑ってくれた。
その顔を見て、思わずホッとする。
「さくら、魔法の言葉を教えてあげる。幸せになれる魔法だよ」
「なに、なに!おしえて!」
「大好きって言うんだ。家族にも、お友達にも。大好きな人に、大好きって言うんだよ」
「ママにいにも?」
「言ってくれたら、嬉しい」
「ママにいだいすき!だいすきだよ!」
「ありがとう、俺もさくらがだいすきだよ」
さくらは、立ち上がって俺の元へと近寄ってきた。
そして、そのまま俺の首に飛びついてくる。
「すごいね!まほう、さくらにも使えたよ!」
「うん、たくさん使おう」
「うん!」
それから二人で甘いチョコレートを食べた。
晩御飯を食べて、一緒に父さんの帰りを待つ。
さくらを連れて一回は帰ってきたんだけど、今日は仕事がまだ残っていたらしく、すぐ会社に戻ってしまったのだ。
「さくら、眠かったら、寝てていいよ?」
「む、ぅ、起きて、る」
眠そうなさくらの頭をポンポンッと撫でる。
しばらくして、父さんが帰ってきた。
「おかえり、父さん」
「ただいま!さくら、かんた!」
「シーッ!さくらは、もう寝ちゃったよ」
泣き疲れたのもあったんだろう。
さくらは、すっかり夢の中だった。
時計の針は、もう二十二時を指している。
「父さん、ごはんできてるよ。温めるね」
「ありがとう、本当に出来た息子だ…!でも、あまり無理はするなよ?!たまには、父さんと外食に行こう!」
「そうだね、あ、お弁当箱は?」
「美味しかったよ、今日もありがとう!」
「父さんが好きな唐揚げも早く作れるようになれたらいいんだけど…冷凍食品でごめんね」
「油物なんて危ないんだから、絶対ダメ!父さん冷凍食品だいすきだから!気にしないで!な!」
“だいすき”
その言葉を聞いて、あぁ、父さんも魔法を使ってるんだなって思った。
きっと、母さんの影響だな。
笑っている父さんを見て、自分にも笑顔が戻っていることに気付いた。
「父さんが、ちゃんとご飯を食べてくれて嬉しい」
「世界で一番のいい子はお前だよ、かんた…うぅっ、俺はいい息子を持った」
そう言って俺の頭を撫でる父さんに、今日は少しだけ甘えるように擦り寄った。
すると、それが嬉しかったのか、嬉々として俺を甘やかしてくる。
あっという間に、俺は父さんの膝の上へと持ち上げられた。
「そう言えば、さくらが俺のことをママにいって呼ぶようになったんだ」
「さくらが?ママで、お兄ちゃんだからか?」
「そうみたい、今日さくらがママがいないって泣いちゃって、それでお兄ちゃんがママになるよって言ったら、ママにいって呼ばれるようになったんだ」
「そうだったのか……」
「学校でも、最近『おかん』って呼ばれてるんだよ、俺」
「それは、なんでだ?」
「大白崎かんた、だから。略して、おかんなんだって。でも、別に嫌じゃないよ」
「本当にか?」
「だって、かんたって名前気に入ってるもん」
父さんは、俺がそう言うと嬉しそうに目を細めた。
「かんたって名前はな、母さんがつけたんだよ」
「そうなの?」
「あぁ、母さんは、お前がお腹にできたとわかった瞬間に、この子の名前は『かんた』よ!なんて、突然言いだしたんだ。まだ、お前が男の子かも、わからないうちからだぞ?」
「凄いなぁ、母さんは」
「母さんは昔から不思議だった。でも、その不思議が当たり前だった」
「うん、母さんは、それが当たり前だったよね」
「そうだな……」
父さんは一瞬、真面目な顔になって俺の頬に手を当てた。
大きな手のひらは、俺の顔をすっぽり包んでしまう。
「なぁ、かんた、辛くないか?少し目が腫れてる気がする……お前も泣いたんじゃないのか?」
「俺は大丈夫。それより、さくらのことが心配だったから」
「父さんは、お前のことも心配なんだ!」
父さんは真剣な顔で俺を見たかと思ったら、その後すぐに情けなく眉を下げた。
あぁ、この顔の方が父さんらしいかもしれない。
「大丈夫、俺は父さんとさくらがいるから、本当に毎日しあわせだよ」
「無理だけはしないでくれよ……何かあったら、父さんに一番に言ってくれ」
「わかってる……ありがとう、父さん」
父さんの首に抱きつきながら、俺は父さんがまだごはんを食べていないことに気付いた。
「あ!ごめん、ご飯忘れてた!食べて、食べて!俺は下りるか……ら?」
「……」
「父さん、この腕は何?」
「もう下りるの……?」
「だって、父さんご飯食べるでしょう?」
「かんた抱っこしながらでも食べれる!!」
「お行儀が悪い」
「今日くらい、いいじゃん!!ね!今日だけ!!」
まるで、どっちが子どもかわからないやり取りに、思わず吹き出してしまった。
こうなった、父さんはなかなか折れることはない。
俺は、仕方ないということを盾に、父さんの膝の上に居座った。
「父さん、今日のは、結構おいしくできたから早く食べて」
「かんたのご飯は、いつでも美味しいよ!」
「じゃあ、手を合わせて」
「いただきまーす!!」
父さんの膝の上で、次々に口に運びながら美味しい美味しいと食べる父さんを見て、俺の心はすっかり癒されていた。
「召し上がれ」
ママにいは、時折、ただの子どもにもなるってこと。
これは、父さんと俺だけの秘密だった。
◇◇◇
「……いやぁ、懐かしいなぁ」
思えば、あれが初「ママにい」だった。
今となっては、当たり前にさくらの「ママにい」呼びが定着している。
あの時は、散々父さんに甘やかされたんだっけ。
思い返すと、だいぶ恥ずかしい。
だけど、嬉しかった思い出の一つだ。
たまには、甘やかされるのも悪くない。
「まぁ、流石にもう膝の上に乗ることはないだろうけどな」
十歳になった俺は、そんなことを考えていたけれど。
それを言った瞬間に、強制的にまた父さんの膝の上に乗せられたのは言うまでもない。
また、俺と父さんだけの秘密となってしまったのだった。