不法侵入する気は、ありませんでした。
「はぁっ、はぁっ……はぁっ」
無我夢中で逃げた。
相手は、父さんじゃない。
自分の中の黒い感情から逃げようとしたんだ。
だけど、それは俺と一緒なわけで。
逃げられるはず、なかった。
「――っ」
気付けば、俺は、いつもの場所に来てしまっていた。
俺の秘密の場所。
立ち入り禁止の雑木林。
「はぁっ……はぁ、」
俺は、夜の雑木林の奥へと足を進めた。
明りも何もない夜に、ここに入るのは気味が悪い。
だけど、今は、怖くなんてなかった。
家に戻ることの方がずっと怖かったからだ。
歩きなれた道を、感覚だけを頼りに進んで行く。
新月の夜なので、月灯りもなかった。
暗い空の下で、俺は小さな星灯りだけを頼りに、前へと進んだ。
そして、いつもの空間へと辿り着いた時。
俺は、堪えていた涙を、再び溢した。
「あぁぁぁぁッ、あああっ――……!!!」
大声で泣き叫ぶ。
誰が来ても構うもんか。
いや、きっと、こんな場所、誰も来たりしない。
一人ぼっちだ。
もしかしたら、これから先ずっと。
俺は、一人ぼっちなのかもしれない。
「うっ、あっ、あぁっひっく、うっ」
涙が止まらない。
嫌な感情が消えない。
父さんに悪い子だと思われた。
新しい母さんなんていらないって思ってしまった。
さくらが寂しい思いをしなくて済むかもしれない。
父さんも俺たちの面倒を見なくて、楽になるのかもしれない。
家族のしあわせが、そこにあるのかもしれないのに、どうしてもそれを望めなかった。
嘘をつけば、我慢をすれば、よかったのかもしれない。
黙っていれば、父さんにあんな顔させずに済んだのかも。
でも、無理だった。
我慢できなかった。
俺は、なんて我が儘なんだろう。
最悪だ。
こんなに自分を嫌いになったのは、産まれて初めてだった。
「があさ、んっ……うっ、ひっく、ぁっ、かあさ、んっ、」
助けて欲しかった。
このぐちゃぐちゃな感情から。
あんなに、幸せだったのに。
どうして、一瞬で消えてしまうんだろう。
ぼろぼろと零れた涙が、土を湿らせていく。
雨のように、降り注いだ。
家に帰ったら、きっと父さんは謝ってくる。
『 ごめんな 』
『 かんたが嫌なら、再婚なんてしない 』
きっと、そう言ってくる。
俺が、そう言わせてしまうんだ。
「ごめんなさ、っ……ごめ、んな、さいっ」
一人で何度も空に謝った。
誰もハグする相手がいない。
まるで、世界に一人しかいないように感じた。
母さんは、あいにこえを乗せると植物が育つ歌を教えてくれた。
じゃあ、怒りや悲しみに声を乗せたら、どうなるのだろう。
俺には、もう歌しか縋れるものがなかった。
泣きながら、歌を歌うのは、初めてだ。
どうにでもなれ。
そんな気持ちで、声をあげた。
新月の空に響くように。
この辛くて悲しい気持ちにのせて、歌を歌ってしまった。
「――……ッ」
やっぱり、植物は育たなかった。
けれど、枯れることもなかった。
まるで、俺の悲しみを受け止めてくれているかのように思えた。
風が冷たい。
どんどん苦しくなる。
家に帰らないといけないのに。
身体が動かない。
思考回路が、次第に曇っていった。
意識が飛んでしまう。
ゆっくりと土の上に倒れ込んだ、その時。
夜空に流れ星が飛んでいるのが見えた。
それが、涙のようで。
俺は堪らなく切ない気持ちになった。
もう、動けない。
俺は、静かに瞼を閉じた。
◇◇◇
「わんっ、わんっ」
「……」
「へっへっへっへっ」
「……ん、」
「わんっ!!わんっ!!」
「え、なに、え?!」
目が覚めると、目の前に大きなゴールデンレトリバーがいた。
凄く大きい。
立ち上がったら、俺と同じくらいあるんじゃないか?
俺は、泣き過ぎて腫れた目を擦りながら、ゆっくりと身体を起こした。
「首輪……ついてるよな。飼い犬?飼い主は、どこ?」
「わんっ、わんっ!」
「お前、どこから来たんだよ?ご主人様は?」
人懐っこい犬の頭を撫でていると、雑木林の茂みの向こうから、ガサガサと音がした。
「レオンっ、ここにいたのね!も~、一人でどっかに行っちゃうから……あら?」
「あ、……えっと」
「おはよう?あなたは誰?」
現れたのは、俺と同じ歳くらいの女の子だった。
髪の毛がふわふわしている。
ここらへんでは珍しく、ドレスのようなワンピースを着ていた。
「え、っ俺は、大白崎かんた、」
「かんたくん?どうしてここにいるの?」
どうしてと聞かれても、泣いていましたなんて言えないし。
でも、顔を見ればバレバレだよな。
と言うか、朝になってしまったのか。
父さん、警察に行ってなきゃいいけど。
「もしもーし」
「わっ、びっくりした!」
気付けば、女の子の顔が目の前にあった。
一歩二歩下がって、心臓を抑える。
良く見たら、凄く可愛い子だった。
「百面相してたわよ?」
「え、ごめん、ちょっと考えことしてて」
「それって、その真っ赤なお目目と関係あるのかしら?」
「!!」
やっぱり、ばれてた。
まぁ、ここまで目を腫らしていたら気付くよな。
「泣いてたの?」
「……ちょっとね」
「何があったのか、話してみない?」
「会ったばかりの君に?」
「会ったばかりだからよ」
女の子は俺の手を掴んで、歩き出した。
「え、何処に行くの?」
「レオンがこっちに入ってきちゃったけど、本当はあっちで遊んでいたのよ」
「あっちって?」
「それは、もちろん」
雑木林の奥へ奥へと引き込まれて行く。
流石に引き返そうかと思った、その時。
目の前に、見たことも無い光景が広がった。
「……ここは、」
「私のお家よ!」
「え?!じゃあ、あそこ、君の家の敷地だったの?」
「そうよ?だから、どうしてここに?って、聞いたんじゃない」
「あー、ごめんね、不法侵入しちゃった……いや、知らなかったんだ!あそこは、立ち入り禁止としか聞いてなかったし、まさか、奥にこんなでかいお屋敷があったなんて……」
「ふふっ、ここでレオンと遊んでたのよ」
「納得だ、ここなら十分遊べるね」
ゴールデンレトリバーのレオンが駆け回れるだけの広さだった。
まるで、小さな学校だ。
「さぁ、こっちよ!」
「え、どこに行くつもり?」
「言ったでしょ!私の家へ行くのよ!」
「あの屋敷の中に入るの?!」
「当然!」
彼女は、勢いがよかった。
レオンと彼女におされ、俺はあれよあれよという間に、屋敷の中へと引きこまれたのだった。
「うわぁ、凄い」
中も、予想通りだった。
大理石の床に、高い天井。
シャンデリアがたくさん吊るしてある。
部屋がたくさんあり過ぎて、迷子になりそうだった。
「ここが私のお部屋よ!」
「まるで、お姫様みたいだね」
「ふふっ、部屋だけね!ちょっと待ってて!」
彼女がどたどたと廊下を駆けていく。
残された部屋で、俺は静かに彼女の部屋を観察した。
よくわからない絵が壁にたくさん飾ってある。
広い窓から見える景色までもが、その絵の一部に思えた。
俺が暮らしている街にこんなところがあったなんて。
まだまだ知らないことばかりだと思った。
「帰らないと……」
そう思う気持ちはあるのに、どうしてか身体が帰ろうとしていなかった。
彼女を理由にして、俺は父さんに会うのを先延ばしにしようとしている。
そんな狡い自分が嫌だった。
「お待たせー!!」
「!!」
「あはは、びっくりした?」
「びっくりしたよ、それ……紅茶?」
「そうよ!話をする時には、美味しい紅茶がないとね!」
「そうなの?」
「そうなのよ!」
彼女は、そう言って、俺をソファーへと座らせた。
いい香りがする。
彼女の淹れた紅茶は、お世辞抜きにとても美味しかった。
「……美味しい」
「よかった!愛情たっぷり淹れたの!」
「……っ」
今まで、周りにいないタイプの子だった。
何故か、胸の鼓動が速くなる。
「あのさ、いくつ?」
「11歳よ!」
「俺と同じだ、どこの小学校通ってるの?」
「通ってないの」
「え!通ってないの?!」
思わず、紅茶を溢しそうになった。
「ふ、不登校とか?」
「学校が嫌いそうに見える?」
「あんまり見えないね、じゃあ、身体が弱いとか?」
「ぜーんぜん!外でいつも走りまわっているわ」
「なら、どうして……」
「色々あるのよ、かんたくんと一緒」
彼女は含みのある言い方で言った。
なんだか、不思議な子だ。
「宇宙人みたい……」
「私が?」
「うん、見たことないよ」
「じゃあ、私もかんたくんみたいな人初めて出逢ったから、私たちは宇宙人同士ね!」
「え、俺も宇宙人なの?」
「そうよ!こんにちは、宇宙人さん」
彼女はそう言いながら、俺にクッキーを差し出した。
凄く綺麗なクッキーを見て、苦笑する。
「どうしたの?」
「いや、俺、あだ名がおかんなんだけどさ」
「おかん?え、なんで、どうして?」
「大白崎かんた、略して、おかん」
「あ!なるほど!すごい!」
「料理とか家事とかしてるから、みんなからおかんって呼ばれてるんだけど、お菓子作りだけは、どうしても駄目なんだ。何度焼いても失敗する」
「そうなの?どうしてかしら?」
「焼きすぎなのかな?それとも、混ぜ方が悪いのか……」
「お菓子作りは分量とか焼き加減が大事だからね!」
「君は、お菓子は作るの?」
「たまにね!でも、これは貰い物よ!さすがにこんなに上手には作れないわ」
彼女は、そう言って笑った。
傍にいると、何となく、心が和らぐ。
そのせいか、自然と言葉が口から溢れ出た。
「俺、母さんがいないんだ」
「え、」
「俺が小さい時に死んじゃって、それから俺がおかんになって、家事とかやるようになったんだ」
「お母さんの代わりに頑張ってたの?」
「うーん、代わりって言うか、俺がしたくてしてたんだけどね。俺、父さんと妹がいるんだけど、二人とも凄く大切で、俺が作ったごはん美味しいって食べてくれるから、それが嬉しくて、いつの間にか、家事が趣味になってた」
「おかんは、やさしいのね」
「……優しくないよ」
「どうして?」
俺が否定すると、彼女がすぐに質問してきた。
俺は、眉を寄せながら答えた。
「父さんが、再婚を考えてたんだ。俺とさくらのために……。でも、俺、どうしても受け入れられなくて、父さんに我が儘言った。新しいお母さんなんて、いらないって、言っちゃったんだ」
「それのどこが悪いの?」
「悪いよ。だって、家族のしあわせだってわかってても、それを選べないんだから」
俺がそう言うと、彼女は、ズイッと俺の顔に自分の顔を近づけて言った。
「家族の幸せを、どうしておかんが決めるのよ」
「……へ?」
コレには、俺も目が点になった。




