新月の夜には、奇跡が起きる。
「かんた!さくら、ただいま!」
「おかえり、父さん」
「あれ、さくらは?」
「加奈子さんが、明日は土曜日だから、泊まりにおいでよって、言ってくれて…」
「え!そうだったのか!」
「うん、今日は宿題もあったし、さくらだけお願いしたんだ」
「かんたも行ってきていいんだぞ?宿題なんて明日すればいいんだから。何だったら、今からでも……!」
父さんが加奈子さんに連絡を取ろうとしたので、慌ててそれを止める。
「大丈夫!大丈夫だから、ご飯食べよ!ね!父さん!」
「え、あぁ、かんたがいいならいいけど……どうかしたか?」
「ううん、何でもない!」
俺は、ひとまず父さんに夕飯を出した。
食べている間も、そわそわして落ち着かない。
いつ話そうか。
やっぱり、お風呂上がった後かな。
寝る前の方がいいかな。
俺がそんなことをぐるぐる考えている間に、すっかりご飯は食べ終わっていた。
「かんた、何かあったのか?」
「へ?!なんで?」
「ずっと、同じ皿洗ってるぞ?」
「え……あ、」
目の前には、ピッカピカになった一枚の皿が握られていた。
どうやら、俺にはポーカーフェイスは無理らしい。
泡のついた手で、やれやれと落ち込んでいると、ふわりと身体が浮いた。
「え、」
「はい、家事は一旦おしまい」
「え、なに?!父さん、俺、まだ泡ついてるってば!」
「大丈夫、大丈夫、拭けば問題ない」
そういう問題じゃないんだけど……。
そう言って、父さんはティッシュを二、三枚とって、俺の手を拭いた。
強制的に、ソファーに座らされる。
有無を言わさない圧が、かけられていた。
「で、何があったんだ?」
「……」
「かんた?父さんには、何でも話す約束だろう?」
父さんの言葉に、俺は眉を寄せた。
「……父さんだって、俺に隠し事してるじゃん」
「え、」
「お見合い……するの?」
「なっ!かんた、どこでそれを?!」
「いいから、答えて!!お見合いしたいの?!」
俺が叫ぶように聞き返すと、今度は父さんが眉を寄せた。
「……今週末、しないかって言われては、いる」
「断ってないの?」
「断ろうと思ってはいるけど……悩んでて、まだ、返事は……」
父さんの煮え切らない返事に、俺は目をキッと吊り上げた。
「父さんは、その人のことが気になってるの?」
「殆ど……顔も知りません」
「じゃあ、再婚したいと思ってるの?」
「俺は、かんたとさくらがいれば、それでいいと思ってる」
「なら、どうして…っ」
「でも、さくらと、かんたには、母親が必要なんじゃないかって、」
「どういうこと?」
俺の質問に父さんは、頭をおさえた。
「本当は、家政婦を雇おうかとも思ったんだ。そうすれば、かんたの家事の負担も軽くなる。だけど、花屋で、抱きしめられているかんたを見た時……あぁ、かんたも、こういうのを望んでいるのかもしれない、って、そう思って」
「さっきから、父さんが言っていることの意味がわからないよ……家事は、俺が好きでやってることだって、何度も言ったよね?」
「でも、そのせいで、かんたの時間を削っている」
「だから!俺は、それでいいんだってば!!」
「いいはずがない!!」
俺の言葉に、父さんは強く反論した。
滅多に大声を出さない父さんの声に、肩がビクリと揺れる。
父さんは、目を見開かせていた。
「本当は外で思いっきり遊ばせてやりたい!もっと我が儘を言わせたい!大人に気を使わせてばかりじゃなくて、もっと、もっと自由にしてやりたいのに……っ」
「父さん……」
「かんたと、さくらを、誰よりも、幸せにしたい……」
「この間、公園でおばちゃんたちが言ってたこと、気にしてるの?」
「……あの時、俺が言った言葉は本当だ。だけど……それは、かんたたちにとっての最前なのか、考えたら……自信が持てなくなった、」
「なんで、俺は嬉しかったのに……っ」
「花屋で抱きしめられているかんたを見た時、母親という存在が、子供たちにとってどれだけ大きいのか、考えさせられたんだ……」
薺のお母さんが俺を抱きしめているのを見て、父さんがそんなことを考えていたなんて思わなかった。
確かに、嬉しかったけど、それは母さんと重ねたからじゃなくて、単純にお礼を言われたからだ。
こんなお母さんが欲しいと思ったわけじゃない。
寂しい時、辛い時に、一番に傍にいて欲しいのは、家族だ。
会ったこともないような女の人じゃない。
そんなものは、望んでいない。
「俺は、父さんとさくらがいてくれれば、それでいい」
「だけど、現状かんたに頼り過ぎている……こんなんじゃ、父親失格だと言われても、当然だ」
父さんは、苦しそうに顔を歪ませた。
「誰かに、そう言われたの?」
「え、」
「父親失格だって、誰かに言われたから、気にしてるの?」
俺の言葉は、多分尖っていた。
でも、しかたない。
怒っているのだから。
「俺は、父親失格だなんて、思ったことない」
「かんた、」
「例え、それが本人でも、俺の息子を悪く言うような真似は許せないって言ったの、父さんじゃん……っそんなの、俺だって同じだって、なんでわからないの?!父さんのこと、悪くいわないでよ!!たとえ、父さんでも、俺の父さんのこと悪く言うのは、許さないから……っ!!」
全力で、叫ぶ。
さくらがいなくてよかった。
こんなの聞かせられない。
こんな、ぐちゃぐちゃした、俺の汚い感情。
絶対に、見せたくなかった。
「父さんは、父親失格だって言われたから、新しいお母さん探そうと思ったの?」
「違う……っ、だけど、何か行動しないとって、思ったら、」
「俺にとっての、お母さんは、母さんだけだけど、父さんにとってはそうじゃないの……?」
「そんなわけない!!俺にとって、百花は、世界中で、たった一人の奥さんだ……っ!」
「じゃあ、なんで!!」
「もしも……新しいお母さんができたら、かんたはもう家事をしなくてよくなる、そんな考えが、過ってしまっ……て、」
その時、父さんが俺を見て、固まった。
頭が混乱していて、思考回路が追いつかない。
気付けば、俺の目からは大粒の涙が零れ落ちていた。
「かんた……っ」
「ごめんなさい……」
「え、」
「俺、いい子に、なれない……っ」
母さんが死んだ時は、たくさん泣いたけど。
それ以来、あまり泣かなくなった。
寂しくても、辛くても。
泣かずに頑張ってきた。
だけど、今は、堪えることができない。
次々に流れ落ちる涙が、ソファーに染みを作って行く。
父さんの、こんな絶望的な顔を見るのは、二度目だった。
「俺、新しい母さんなんて、いらない……っ」
そう言って、俺は家を飛び出してしまった。
本当は、飛び出すつもりなんてなかった。
だけど、父さんのあの顔を見てしまったら、その場に残る勇気がなかった。
母さんが死んだ時に見せたような、絶望的な顔。
大切なものを失った時の、顔だ。
俺は、多分いい子だった。
父さんに反抗したことも、殆どなかった。
だからこそ、多分呆れられた。
当たり前だ。
いい子の、俺がいなくなってしまったんだから。
でも、じゃあ、どうすればよかったんだ。
受け入れればよかったの?
父さんだって、心の底から、新しいお母さんを望んでいるわけじゃないのに。
俺たちが可哀想だと言われるから、結婚するの?
家事してる俺は、可哀想なの?
新しいお母さんが出来たら、俺は家事をしなくていい、と父さんは言っていた。
実は、それが俺の心が砕けた原因だった。
そんな意味でないのは、わかっている。
だけど、新しいお母さんができたら。
本当に必要じゃなくなってしまうのは、自分なんじゃないかって、怖かった。
俺のごはんを一番に食べたいと言ってくれていた家族の言葉が変わってしまう。
もう、求められなくなる。
新しいお母さんができてしまったら、「おかん」の俺はどこへ行けばいいんだろう。
居場所がない。
そんな風に思ったら、いても経ってもいられなくなってしまった。
夜の住宅街を駆け抜ける。
今日は、ちょうど、新月の夜だった。




