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修羅幼女の英雄譚  作者: 沙城流
第一章.■■■■■■の英雄譚
9/36

9 『白黒の追想』

 ──重装騎士の決着と、同時刻。

 この時点で戦況は決定的なものとなっていた。

 バラボア砦での主戦場は北部魔術房と砦中央部。

 ことに北部は酸鼻極まる惨状と化していた。屍が通路の床を埋め尽くし、焦げ跡、血肉の痕が壁面の至るところに広がっている。揺らめく灯が通路の人体を舐めるように照らし、激戦の痕跡を曝け出していた。

 転がる死体は帝国側が大半だった。だが、王国側のものも幾つか混じっている。帝国軍は砦内を知悉する強襲部隊に翻弄されながらも、じりじりと王国側の戦力を削っていたのである。それも当然。大軍に兵法なしの言葉が指す通り、少数の集団が奇襲や強襲で大軍に強く出られるのは最初だけだ。寡戦で勝利を得るなどと、物語上で美化された浪漫にすぎない。

 ただ、選りすぐりの少数が大軍を凌駕する。

 そんな、あるまじき行為を起こす存在が──。


(撤退の機会を、見失っちまったな)


 通路の一角で、意図的に造られた壁の凹み。

 そこには壁面に背を預けて息を殺す男がいた。

 帝国軍における階級は伍長、バルドーである。

 彼は正門で強襲部隊の来襲を砦内全体に伝えるため警鐘を打ち鳴らしたあと、周囲の帝国兵に声をかけ、真っ先に北部魔術房へ向かった。それは侵入側の方角──南側──との位置関係上、早急に防備を厚くする必要があると考えたからだった。西側、東側は迎え撃つだけの準備期間があるとは思えない。ここで無闇に近場の魔術房に戦力を分散して、薄い防衛線をそれぞれに張ったところで喰い破られる危険性が高い。

 ならば、最も出足が遅れる枢要地に人数を固める。

 そこで万全な最終防衛線を構築し、死守する。


(そうしたら、最終的な砦陥落は阻止できるかもっつーのは我ながら後ろ向きな考え方だったな。所詮は農民出の一兵卒の浅知恵だよ。……運よく、いいほうに転がってくれて、はは、一安心ってヤツかね)


 北部魔術房は現在に至るまで死守できている。

 あまつさえ強襲部隊の頭目の一人らしきマタルド・ラッタルト少尉が率いる一団を見事に討ち果たし、脅威を退けた。しかし、引き換えにしてしまった犠牲は多く、すでに北部の戦線は崩壊したも同然。動ける戦闘員ははもはや数えるほどのみとなっていた。

 残るはバルドーを始め、命冥加な者たちだった。


(一応、魔術房に詰めてる魔術師は死守できてる。まあ、ここまでよく持ったほう……か。流石に少数で砦攻略に挑んでくるくらいだ。英雄級、というほど圧倒的ではないにせよ、それに次ぐ程度の実力者で構成されていた。よくもまあ、守りきれたモンだよ)


 荒い呼吸で肩を上下する。口端からは血が滴る。

 右腕で乱暴にそれを拭いつつ、周囲を見渡した。

 血に溺れる屍のなかで生者は少ない。彼自身を含めてわずか十数名である。それも例外なく満身創痍の様相だ。壁に寄り添ってようやく身体を起こしている者や、あるいは芋虫のように床で負傷に悶え苦しむ者もいる。絞り出すような呻吟の音色が空間に満ちる一方で──疲労の色は濃いながらも、いまだに衰え知らずの戦意を携えている者たちの姿も数人見かける。

 剣を床面に突き立て、立ち上がる部隊長がいた。

 腕を失えど、闘志の瞳を燃やす兵卒の姿もあった。

 足首を抉られど、曹長は剣を手放していなかった。


(俺含め、くたばり損ないどもだよ。なんでこうも戦意が衰えないモンかね)


 ──俺だって、そんなことわかりきっちゃいるが。

 なにせ衰えた臆病者は通路の肥やしに変わった。

 いや、もしや戦意を喪失した者たちは死体の絨毯の一角で息を潜めているのかもしれない。正味、最も賢い生残策だろう。木を隠すなら森。人を隠すなら屍山血河のなかだ。バルドー自身、己の役目を十分に果たしたと見て、同じ方法で乗りきるつもりでいた。

 だが、彼は結局その生残策を取らなかった。


(やっぱり……血が止まらねぇか。さっき土手っ腹にもらったのが致命的だったってか)


「……俺も、長くねえか」


 掠れた声音に痰が絡み、口元を開いて吐き捨てる。

 それで喉元の蟠りは解消された。だがその拍子に、右手で抑えていた腹部から血が溢れる。びたびたと床を跳ねて赤池をつくる。見れば、先ほど吐き捨てた痰は血の塊だったようで、想像以上に大きな縁取りの池が形作られていた。それが決定打となったのか、眩暈が急速に悪化して、視界にある線が溶けていく。

 赤色。視界に入るだけで朦朧とするような色だ。

 もはや意識を保つこともままならない。

 一瞬でも気を抜けば、床上に崩れ落ちかねない。

 生還する望みは薄い。拵えたのは覚悟だけ。


「バルドー」


 軋んだ音、否、確かな呼びかけが耳朶を揺らす。

 声の主を見遣る。床上に這いつくばった男だ。額が赤紫色に染まり、顔面の左半分からは絶え間なく紅色が垂れている。てらてらとした樹液のような光沢が目についた。右腕は折れているのか奇妙な方向に曲がっており、左肩を擦りながらこちらに這い寄ってくる。

 彼は、今宵の砦の門番をバルドーと務めていた。


「……おう。生きてやがったか」

「運の悪ぃことに、たぁキザに返せねぇがな」

「ここでわざわざ憎まれ口叩く必要はねぇだろ」


 互いに力のない声色に、わずかばかり笑い合う。

 ほとんど息漏れと変わらない笑い声だった。


「バルドー、傷の具合は?」

「良いとは言えねぇな。お前と一緒で、このままだとおっ死んじまう。早々に司令部のほうに戻るか、あの救護の順番を待つか」


 バルドーは壁越しに、くいと顎を向ける。

 通路上では片端から手当てが行われていた。

 ひとりの年若い男が、横たわる帝国兵ひとりひとりに手のひらを向ける。そのたび仄かな薄青とした燐光が彼らの患部から溢れ出す。遠目には傷口を塞ぐ有様は見えないが、あれが治癒魔術である。受けた傷を完全に回復することはできないまでも、皮膚、あるいは血管の破れた箇所に皮膜を張り、多量の出血・菌の出入りを防ぐ。応急処置として使用されることが多い。

 目前の男は、皮肉げに口端を片方だけ吊り上げた。


「大盛況だ。割り込みかまさなきゃ手遅れになるぞ」

「俺は後回しでいい。あそこには、俺より有用で重傷な奴らが集まってるみたいだし、まだこっちは耐えられねぇほどじゃない。大人しく順番待ちでもするさ」

「お前こそキザな台詞を言うじゃねぇか」

「やめろ。我慢ついでにぶって(・・・)んだから」


 バルドーは照れ隠しに横を向き、話を切り出した。


「それよりどうする。このあともここにいるか」

「実家に帰りてぇ……が、本音だけどな。ここを守りきれただけで、役目は果たしたって言えるだろ?」

「まさか。大局的にはまだ優勢でもねぇんだ」


 現状、バラボア砦は窮地に陥っている。

 陥落が判明しているのは、真っ先に潰された南部魔術房だけだ。東部魔術房は不明。「西部魔術房には臨時の司令部が築かれている」とは、再襲撃前にその西部から来た伝令の言だった。もちろんこの状況下では現在も司令部の場所が西部にあるとは限らない。

 伝令曰く、東部からは伝令が戻らなかったそうだ。

 おそらくすでに、敵の手に落ちているからだろう。

 つまりこの北部魔術房が制圧されれば、城塞は退き引きならない窮地へ追い込まれる。残りは、司令部がある西部魔術房だけとなる。そうなれば首元に刃物を当てられたも同然だろう。有効な打開策は現状なく、盤面は詰み一歩手前、といったところだろう。

 唯一の希望は六翼の到着が約束されていることだ。

 そして。そんな彼らの前に、絶望が現れる。


「次、次の人! 重傷者は並んで! 治癒済みは通路脇に寄って! また次の波が来るまでには建て直しとかないと! 立てる人は窪みに潜んで、あとの人は」

「すまんが、遅かったみてェだな」


 割り込んだ声に、誰何を尋ねる者はいなかった。

 治癒魔術を行使していた帝国兵が──断たれた。


「は、ぁ? が」


 まっぷたつだ。腹部から血液が溢れ出す。

 真摯に救護を続けていた彼は、愕然とするあまりか能面めいた表情で落ちていく。地面に転がったのは切り離された上半身だけ。下半身は跪いたまま、生前の場所に突き立っている。その宙空には、紫紺色の怪光が小枝のように広がる鋼鉄の刃物があった。

 大剣だ。バルドーの素朴な現状認識が頭に響く。


「さァ、先輩の尻拭いだ。片端から夢にしてやらァ」


 そうして北部魔術房は強襲部隊の再来に直面した。

 十数名の分隊と、その先頭で威風堂々と歩む大男。

 彼は背中に背負った幅広の大剣を振るいもせず、周囲の帝国兵を文字通りに蹴散らしながら言う。そうして壁際に衝突した彼らに一閃、斬撃を浴びせる。空間に沈むような鈍音、鮮血が奔り、悲痛な叫喚が迸る。

 バルドーは急速に現実感を失った。唐突に訪れた脅威は常人の理解を越えたためか、精神的な防衛機能が働き、遠間の惨劇を半透明の膜越しに見ているような心地になった。だが惨劇の輪郭はうすぼけた光景で霞むようでいて、五感を通して克明に刻み込んでくる。

 否が応でも耳に響き、鼻に絡み、肌を震わせる。


「噛み応えがねェ。雑魚、雑魚、雑ァ魚の揃い踏み。天下の帝国軍がこの程度たァ、お笑い種だ」


 煤けた金髪は鬣のごとく。筋肉は装甲めいている。

 彼はこの攻防戦の火蓋を切ったラプテノンの雄。

 ボガート・ラムホルト。結界魔術で補強された砦正門を蹴破った巨漢だ。十数名の手勢を引き連れ、強襲部隊の首領として先陣を切る様は、まさしく彼が非凡な実力を持った英雄であることの証左に思えた。

 男は、一人で立ち塞がる帝国兵を薙ぎ倒していく。

 時には振り抜かれる蹴りで吹き飛ばし、時には最初から幅広の剣で二つに断ち、時には魔術による炎の爆裂で敵愾者を血液と肉塊に変えて、最終的にはすべて例外なく大剣の錆に変えた。帝国兵が悲壮な決意と無謀な勇気で立ち向かい、あるはずのない活路に縋りつくように伸ばした手を無慈悲にも断ち切っていく。

 まるで雑草を刈るようだ、と正直な感想が浮かぶ。

 いとも簡単に、命がひと薙ぎで摘み取られていく。

 いとも簡単に、人が泡沫の夢のように弾けていく。


「が、あああ──!」


 バルドーの呆然を他所に、付近で炎が弾けた。

 吹き荒ぶ熱風。咄嗟に目元を腕で覆った瞬間、全身に吹きつけた炎熱は皮膚を焦がすかのようだ。腹部の傷口から耳孔の内側に流し込まれ、爆音では掻き消されない断末魔の声が空間に轟く。束の間の風が止んだ頃を見計らって腕をずらすと、通路内部の帝国兵たちは箒で掃かれたように数丈程度吹き飛ばされていた。

 一瞬だ。一瞬だった。一瞬で十分だと知れた。

 ──人間という生き物が物言わぬ物体になる。

 それだけの変化に、大仰な時間も演出も必要ない。


「か、か……!」


 突風に目を瞑りつつ、背中を壁面に押しつける。


(笑えない)


 圧倒的な力量差をまざまざと見せつけられた。

 膂力はバルドーたちのそれを超え、炎属性の魔術をも巧みに操る。オド量の桁が違いすぎる。才能の多寡が違いすぎる。少人数で相手取るなど以ての外だ。

 英雄としての盛名を馳せるだけの実力を前に──。

 バルドーの唇の端からひゅうと音が漏れる。


(勝てねぇ。あんなのが来たら、おしまいだ)


 おしまい、とそんな貧相な語彙が絞り出される。

 そんな幼い言葉以外で表すことに詰まってしまう。

 思い出す。故郷で、妹の代わりに子どもを寝かせてやるときのことを。そろそろ五歳になる男児は、太陽が山向こうに沈んだあとも陽光を身に宿したように活発で、父代わりと言えどバルドーも手こずったものだった。そこで子ども向けの物語を覚えて、ねだられれば今代の『六翼』の英雄譚を覚え、聞かせたものだ。

 そして思った。どんな話でも終わりの言葉は同じ。

 おしまい、とそんな簡素な言葉でお話は終わる。


(はは。これほど不条理に相応しい言葉もねぇな)


 英雄。彼にとっては、半ば忌まわしい言葉だった。

 むかしは憧れたものだった。血が烟る戦場を席巻するその勇壮さに、如何なる障害をも薙ぎ倒すその圧倒的な力に、美男美女が涼しい顔で大仰な魔道具や魔剣を扱うその佇まいに、国内の誰からも讃えられるその立ち位置に、人伝に聞いたその絢爛な生活に──きっと心の片隅で自分もそうなりたいと、なれるかもしれないと、期待半ばの大きな勘違いでもしていたのか。

 いま思えば赤面物の、ありふれた誇大妄想だった。


(無理だ。一度目指してみれば無理だって思うようになる。そして一度、英雄ってモンを目にすれば、否応なく違いってヤツに気づく。それこそ夢が醒めたみたいに、こんな暴力装置に、こんな人殺しに、憧れるなんてどうかしてたんだって思い始める)


 その証拠に、いまバルドーは背筋を震わせていた。

 むかし憧れたはずの英雄という存在が、恐ろしくて仕方がない。


(『六翼』は、まだ来ねえか。ああ、そうだよな)


 その自問には、残酷なことに自答可能だった。

 到着は早くて数日後。遅ければ一週間後だろう。

 帝国中央部の蜂起を鎮圧し、なおかつ帝国領土の端に位置するバラボア砦に参じる。距離の問題はバルドーの頭に重くのしかかっていた。少なくとも命運が左右される今現在に、都合よく駆けつけることはない。

 御伽噺の英雄というものは、空想上の生き物だ。

 奇跡が投げやりに手渡されることはない。唐突に窮地を脱する展開など望むべくもない。

 ──わしの夢は英雄になることですので。


(なあ、ソル。子どもの夢が叶うなんて、都合のいいことはそうそう起きねぇ。叶うやつは叶うし、叶わねぇやつは叶わねぇ。才能とか環境がある以上、しょうがねぇことだ。そんで俺は諦めた側だよ)


 現実を知らない幼女の言葉が、頭をよぎった。


(けどな)


 それでも、とバルドーは屈んだ姿勢で剣を握った。


「この命、タダで捧げてやるほどデキてねぇぞ」


 ──人海戦術が恐ろしい理由を教えてやる。

 そんな述懐を漏らした瞬間、通路に閃光が満ちた。

 手筈通りである。ここ北部魔術房戦線は、最後に行う戦術を事前に取り決めていた。もしも戦線維持が不可能な状況下、具体的に言えば曹長が死亡し、かつ防衛人数が元の三分の一までに追い詰められた場合、起死回生の一手にすべてを懸けることになっていた。

 帝国兵の魔術師が炎属性の魔力放出で、火薬を大量に抱え込んだ帝国兵の死体に引火させる。一斉に魔力を放出して通路中のそれらに誘爆させ、敵愾者諸共、葬り去る。先ほどのボガートの爆発で引火してくれないかと期待していたものの、炎より熱風に重きを置いていたのか不発だった。ゆえに帝国軍自ら起爆する。

 閃光とともに、比較にならない爆音が轟く。


「ちッ、帝国のやり方ってやつァこうも」


 バルドーは耳を塞いで目を瞑り、転がった。

 連続的かつ圧倒的な熱、風、音──。

 誘爆の連鎖が終わったと見るや、彼は身を起こす。

 通路は黒々とした闇、そして煙に満たされていた。

 もはや目を凝らさねば通路の状態は視認不可能だ。

 だが、確信をもってバルドーに言えることがある。


(まだ、やられてねぇよな)


 奥を見れば、黒煙を曳いて大柄な影が揺れていた。

 二本足で立てている。あの爆撃を経ても打ち倒せなかったのだ。半ば戦慄したものの、そんなことはバルドーも半ば読めていた。だからこそ身を低く保ったまま通路壁の凹みから抜け出し、英雄めがけて駆けた。

 立ち込めた闇と黒煙に潜んで首を叩き斬るのだ。

 大男の至近まで迫る。精根を底まで燃やす。

 注意を払うべきは奇策を弄することではなく、足元の死体に蹴躓かないことだ。身を苛む怪我の具合と言い、いまが千載一遇の機会である。きっと逃せば後はない。英雄に一矢報いることもなく終わってしまう。

 そう、これは帝国軍の兵卒としてだけではない。いつかの夢に挫折した一人として、理不尽を前に膝を折った一人として、ちっぽけな一人の人間として、精一杯の抵抗を見せつけることができる唯一の機会だ。

 ──抗える。才能がなくても抗うことはできると。

 ──そうでなければ、一体何のために。


(俺は、帰るんだ。あの家に、妹の待つ──)


 死体の海を越え、使い慣れた剣を振り上げる。

 鼻を突く焦げた匂いを振り切って、目を見開く。

 力一杯に奥歯を叩き合わせる。全霊をぶつける。


「気に喰わねェなァ」


 窮鼠猫を噛むような一閃を前にして、その一言。

 英雄は振り向きざま、怒気を孕んだ顔をしていた。

 そんな錯覚が脳内に広まった瞬間。


「げぁが……!?」


 バルドーの視界は完全な黒に塗り潰される。

 断末魔の悲鳴を上げて、頭頂部に鈍痛が広がった。

 自分は床上に転がっているのか。どこが上か、どこが下か。膜越しのようにぼやけた痛みが身体を包み、どこにも力が入らない。首の骨が砕けていないのは奇跡なのだろう。顔面や顎の感覚は途絶していた。

 成し遂げられなかったと、曖昧な頭で理解する。

 何が起きたのかはわからない。わからないまま、意識が火の灯る蝋燭のように溶けていく。人生こんなものだと嘲ける自分が、頭上で笑っている心地がした。

 ぼんやりと消えゆく意識の只中、唯一できたことは謝ることだけだった。目前の闇にはふたつの影法師が揺れていた。小柄なひとつと、その半ばほどの身長のひとつ。揺れては薄らいでいくそれらに手を伸ばす。

 加重を加えられて震える枝のように、伸ばして。

 ──ごめ、ん……な。

 最期の言葉は、果たして口から漏れたのかどうか。


「精々、良い夢でも見るんだなァ」


 最期に、霞む視界で捉えた現実世界の光景は。

 紫の怪光を迸らせる奇妙な大剣だった。


「溺れさせろ『ウェルストヴェイル』」




 ※※※※※※※※※※




 ──俺は、選ばれなかった。


 古ぼけた記憶だ。褪せた頁を捲る音がする。

 少年は、ハルト家に長男として生を受けた。

 ハルト家は代々、商人の家系。ゆえに産まれ落ちた瞬間から、彼は輝かしい将来を運命づけられた。商会の次期頭首だと、商会に属する商人や見習い弟子、そして家族から期待されたことは言うまでもない。

 代々、商会長は長男が世襲してきたのだ。

 覚えている。母が頭を優しく手で撫でこう言った。


『ナッド。あなたはお父さんの後を継ぐのだから、頑張らなくては駄目よ。あの人みたいなすごい人になりなさい。強い人になりなさい。人を従える者らしくなりなさい。きっと、あなたはできる子よ』


 だから少年は、らしくなろうと努力した。

 もっと後継者に相応しいようにと、目利きを鍛え、交渉術を学び、見習いに混ざって商人の技を盗む。辛くはあったが決して苦ではなかった。皆の期待が少年の背を押していたからだが、それだけではなかった。

 父への、純粋な憧れがあったのだ。

 いつも多忙で、なかなか家に帰らない父だった。

 日頃の活躍を弟子たちや母から伝え聞くのみ。それこそ商会に通う前は、顔を合わせる機会も年に数回ほどしかなかった。ハルト家の最盛期を打ち立てたような大人物。物語の英雄譚では描かれない職業ではあっても、少年は同じくらい偉大な人と知っていた。

 父は無口で、気難しそうな顔をした人だった。

 少年を始め、笑った姿を誰も見たことがない。

 きっと厳格な人だったのだと思う。彼から褒められた経験もなければ、優しい言葉をかけられたこともない。家族らしい温かみを与えられた覚えもなかった。

 だが仕事となれば、その姿は真摯であった。

 従業員の働きに応じて給金を上げ、大仕事を回す。

 少年はそんな無骨な父を、誇りに思っていたのだ。


『集まったか』


 迎えた、次期後継者指名の日。

 少年を含め、兄弟姉妹が食堂で一列に並べられた。

 家の古臭いしきたりだ。


『後継者指名は、後継者候補総員の面前で行うべし』


 形骸化した慣習だ。先祖代々、後継者は長男だ。

 例に漏れず今回もそうなるのだ。

 少年は背を伸ばしながら、根拠もなく信じていて。


『商会長の次期後継者は、お前だ。ネイト』


 ──だから一瞬、父の言葉が理解できなかった。

 喜びを露にする三歳年下の妹の声も。

 隣にいるはずが、扉越しのように遠く聞こえた。

 どうして、と残酷な答えの待つ問いを繰り返す。

 悪夢に囚われたような現実感の乏しさだった。自分は長男で、ずっと小さな頃から次期後継者だと言われていたのに。決して期待に胡坐を掻いていたわけではないのに。毎日、努力を欠かしたことなどないのに。

 その問いの答えは才能の不足。力量の不足。

 単純な話、商才が妹のそれに及ばなかっただけ。

 少年の実力が父の失望を買った。それだけの話だ。

 期待を裏切った呵責。弟子、兄弟姉妹の白眼視。

 それらが刃をなして、彼を刺し貫いた。


『以上だ。お前は戻れ』


 憧れていた、父の偉大な背中が向けられる。

 無自覚的に安心や信頼を預けていた背中が──。

 わかっていた。それが空想だということくらい。

 眼前に見えた、無関心と冷徹さこそが真実。

 少年には、それが正しいこともわかっていた。

 だから、士官学校へと追いやられて、そして。

 



 1



 

「また、爆発か……?」


 ナッドは響く大音響によって現実に引き戻された。

 騒ぐ胸底を落ち着け、固く握り拳をつくった。

 どうやら、むかしの夢を見ていたらしい。

 思えば、あれからだった。他人との間に線を引くという防衛手段を己に築いたのは。そして檜舞台が極端に苦手になり、動悸が止まらないようになった原因でもある。自覚はある。あれは心の奥底に眠る傷痕だ。

 彼は頬を引っ張って、眠気を強引に引き剥がす。

 頼りなげな心境を抑え、帯びる剣の柄を握り直す。


(だ、大丈夫だ。バレやしねぇ、バレやしねぇんだ)


 唱える。寒風荒ぶ心内を言葉で埋めるようにする。

 肩を縮こませ気配を殺して、茂みから周囲を窺う。

 身を潜めている場所は砦、その裏庭の暗がりだ。

 喫緊で言えば、幼女と模擬戦を行った場所である。

 現在、帝国兵用の鍛錬器具はあらかた片され、がらんとしている。見渡せど、茂みと木々が宵闇のなかに浮いているのみ。裏庭外周に散見されるそれらは、殺風景な様相をなおさら強く思わせた。この空間に寂とした空気を荒立てるような『動』は存在しない。

 そして、ナッドに害を為すものもまた存在しない。

 わずかなりとも安堵を得、しかし慎重に息を吐く。


(ちくしょう。まだ聞こえやがる)


 裏庭の隅、点在する茂みのひとつで身を震わせる。

 憎々しげに見上げた先にはバラボア砦。いまも帝国兵と強襲部隊の攻防が続いているのだろう。怒涛とも言える戦闘音は、つい先ほどの爆裂音を頂点にして落ち着いたが、いまなお場所を変えて続いている。

 その対岸に目を遣れば、砦壁が退路を塞いでいる。

 まるで、彼の甘えを断つように厳然と聳えている。


(クソ。何で、あの壁はあんな高ぇんだよ)


 裏庭は位置的に言えば東部魔術房と面している。

 通路から窓外を覗けば、三階の高さから黄土の地面が見下ろせた。ナッドは砦内に留まりたくない思いも相まって、東部魔術房の防衛を放り出した。そして戦場の隅で、嵐が過ぎ去るのをひたすら待っている。

 ──誰でもいい。誰でもいいから、助けてくれよ。

 ナッドはひたすら神に、大英雄に祈っていた。


(六翼が来てくれるんだよな? 本当に大丈夫なんだよな? クソ、頼む、頼むよ。もう誰でもいいから、何とかしてくれよ……!)


 彼にとって魔術房を守り通す選択など論外だった。

 舌で口内をこねて唾液を捻出し、嚥下する。もしもあの通路で仁王立ちしていれば、強襲部隊が押し寄せてきただろう。彼にはまだ足りなかった。剥き出しの敵愾心と相対する経験も時間も、矢面に立つだけの実力も、槍衾にされる覚悟も、まだ拵えられなかった。

 誰も期待していないはずだ。自分のような若造に期待していないはずだ。そう正当化して、耳を塞ぎ、目を閉じて、通路を後にした。それがたとえ、魔術房に詰める魔術師たちを見捨てることになったとしても。

 否、と己で否定する。見捨てたことにはならない。

 ──あの場に残って、何が変わったというのか。


(こんなはずじゃなかった)


 そして、答えのない問いを延々と自問し続ける。

 ──なんで俺は、こうも不運に見舞われるのか。

 思い描いていた未来との乖離に引き裂かれる。バラボア砦に配属されてから不運続きにも程がある。幼女に纏わる騒動然り、強襲部隊の奇襲然り。想定通りの人生なら、士官学校を卒業して、このあとそのまま出世街道を一足飛びに駆けられるはず、だったのに。

 途中までは順調だった。『人類最強』アイリーンの出張る戦に配員されるときまでは、夢想していた線路の上だった。ナッドは歯噛みする。一体何の歯車が狂って、こんな脱走兵紛いの醜態を晒しているのか。

 ままならなさに舌打ちして、背後を振り返る。


「……気持ち良さげに眠りやがって」


 茂みのなかには、小さな身体。

 目を瞑った幼女がその身体を横たえている。

 両瞼を閉じた面差しからは明度が失われていた。

 黙ってさえいれば前途有望な見目形だ。生傷をつけた姿は、触れれば折れてしまう印象を植えつける。思わず人形か妖精に喩えてしまいたくなる原因は、きっと存在に現実感がないからだ。艶やかな雪白の髪を一つ結びにした、とても戦場に似つかわしくない子供。

 この姿を見れば、否応なく先刻のことを思い出す。

 重装騎士との大立ち回り。通路の四方を縦横無尽に駆け巡り、最後は討ち取った一連の戦闘。この幼女には巨躯に臆せず立ち向かうだけの胆力があった。猪武者めいた猛攻を行う実力もあった。それこそ無力な子どものように草木の影で震えている誰かとは、違う。

 魔術房を身一つで守る。否、守ろうとする。

 ──そんな大それたこと、普通できるもんか。

 ナッドは脳裏を掠めた自嘲に、後悔ばかり浮かぶ。


(放置すりゃよかったのに、何で俺はこんな奴をここまで運んで……くそったれが)


 ナッドは目前の幼女に好感など持っていない。

 持てるはずがない。凶兆の具現化、死神かと思うまである。なにせ不運に見舞われ出したのは、この疫病神を拾ってからだ。人生を狂わせた不運の前触れとしか思えない。野垂れ死んでもらって一向に構わない。

 上から目線で説教を垂れる生意気な年少でもある。

 それでも運んだ理由は憎みきれなかったせいか。

 胸中に湧いた気の迷いに似た現象だった。それが彼女から不思議と漂う()によるものか、見目と乖離した雰囲気に惑乱されてしまったのか。判別はつかない。

 薄汚れた茶髪を掻き毟って、気を取り直した。

 不毛な思索だ。今は保身を徹底したほうが賢明だ。


(まだ、誰も来てねぇよな……?)


 ナッドは再度、茂みの隙間から敵影を探す。

 ここは物影が少ない。近寄る帝国兵と強襲部隊をいち早く察知できる。両者の目を恐れる逃亡者からすればうってつけの立地だ。現在、幸運にも誰一人として裏庭に姿を現していない。それはきっと彼らの狙いが砦内の魔術房だからだろう。目的地とは関わりのない地になぞ、味方の帝国兵すら近寄りはすまい。

 荒くなる呼吸を意識的に引き延ばす。

 胸に手を当てて、激しい鼓動を宥めようとする。

 この胸を焦がす感覚が罪悪感でないことを祈った。

 もしもこの姿が味方に見られれば臆病者と詰られ、いずれ首を刎ねられるだろう。敵前逃亡は重罪だ。そんなこと士官学校で最初に学んだことだ。だが実際の戦場と机上で蓄えた知識には歴然とした差があった。

 ナッドはその差に、軽く心をへし折られたのだ。


(これが、才能がないってことなのか……? 戦場に立つだけの適性が、ないってことなのかよ)


 ここに対する不満は、灯火が乏しいこと程度だ。

 明かりは星月か、砦の窓から差す光炎だけである。

 裏庭はしんとした静寂に満ちている。ひとり怯える身として心細い。辺りに満ちる薄闇の静かさたるや、心拍音が煩しいとも思えるほどだ。さりとて、身を隠すには絶好の場所という何よりの証拠でもある。

 ひとまずの安全を確認したあと尻を地面につけた。

 肺の奥底から掻き集めてきた息を、無理に吐く。

 口内から抜ける空気の尾が不規則に乱れてしまう。

 その拍子に、本音がぽろりと零れた。


「……死にたくねぇよ」

「ハッそうかよ。腑抜けた臆病者が。消えなァ」


 独り言に対する、あるはずのない返答。

 誰だ、誰だ、誰だ。電流のような怖気が走る。

 動物的な危機感に後押しされ、茂みから転げ出た。

 それが生死を分けた。分水嶺の対岸に飛び出す。

 瞬間、色が破裂した。──爆音。


「あ、ぐああッ!」


 視界を占める宵闇が引き千切れ、真赤に染まる。

 血液ではない紅蓮の赤。一瞬前にいた茂みから火炎が噴き上がり、遅れて高熱が乗った風が吹き荒ぶ。辺りを打つ熱波が顔を撫で、ナッドは表情を歪めた。

 悲鳴を上げ、至近の火の手から逃れるため転げる。

 そうして寸でのところで躱しきった。大層不格好な回避行動だったが、奇襲に反応できたこと自体が奇跡的だった。掠めた火の粉が火力の高さを物語った。内部の肉から腐るような感覚のあと、端から燃え上がる錯覚が追いついてくる。人ひとりを焼いて余りあるだろう。直撃していれば火達磨と化していたはずだ。

 ナッドは転げながら、回る視界のなか見てしまう。

 この炎熱地獄を生み出した元凶が、傍にいた。

 潜んでいた草葉の傍に、だ。そんなはずがない。

 直前まで、人影どころか気配すらなかったのだ。

 刹那に奔る思考。そんな推察は荒々しく断たれた。

 揺らぐ炎が、下手人の威容をぬるりと露にした。


「おい、本当にアレ(・・)なのかァ?」


 炎を纏った大剣を振り下ろす──巨漢だ。

 凶暴な相貌が煤けた金髪に縁取られていた。鉄兜から漏れるそれらに飾られ、形の整った金糸の髭を蓄えた姿は、さながら獅子の頭部をした人間のように思われた。体躯はナッドのそれを凌駕している。成人男性二人分はあらんかという巨体は、頑丈な鉄鎧に身体を押し込めたかのごとき窮屈ささえ感じ得た。

 その巨漢は独り言のように、何やら口遊んでいた。


「ガルディ大尉は……違ェよ。あれは俺の勝手で、これはワガママに付き合わせちまっただけだ。こんな結末、俺の責任だ。だがラプテノンの旗に恥じねェ、最高の上官だった。オマエ(・・・)の力なんざなくても問題ねェ。無事に、星神様のお膝元まで逝けたことだろォ」


 しかし、切羽詰まるナッドの耳に入るはずもない。

 慌てて立ち上がり「嘘だ」と無意識に口が動く。

 歯がかちかちと音を鳴らす。足が竦むようだ。

 あの巨漢の名前は、ナッドでも知っている。

 彼は強襲部隊の一員。ラプテノン王国軍の兵士である。そして彼自身の身の丈ほどあるかという大剣の全長──蚯蚓(みみず)がのたくったような文字列が剣身に彫刻されている──を掲げた巨体。これら特徴を持ち合わせた該当者は一人だけ。最悪の答えが弾き出される。

 獅子のような巨漢は肩を鳴らして、視線を落とす。

 その先で、大剣の刃が闇夜に火の粉を撒いている。


「だから違ェよ、どこぞの馬の骨にやられた大尉への弔いじゃねェ。オマエ(・・・)が獲物を嗅ぎつけたからでもねェ。責任を取るってコトだ。だからクソ帝国軍の奴らは……溺れさせる。ソイツに変わりはねェ。笑うんじゃねェよ。分かってること分かるだろ」


 ボガート・ラムホルトは独りごち、大剣を構える。

 剣身に添えられるのは心臓を鷲掴みにする眼光。

 闘志に共鳴するかのごとく、広い剣身に綴られた文字列に妖しい紫光が奔った。なおも燃え盛る炎越しに薄く浮かび上がる輝きからは妖気が漂う。遂に身近まで迫る濃密な死の気配が、光を纏ったかのようだ。

 否、それ以外に、強者特有の気配も強烈である。

 士官学校に在籍していた怪物連中よりも、濃い。

 つまり、あのとき見上げた先にいた彼らより──遥かに格上ということだ。


(なんで)


 ナッドの口からは情けない声が洩れる。

 対峙しただけで、発される気配に頽れかける。

 しかし、両足が縫い止められたように動かない。


(なんで、なんで、こんな奴がこんなとこに……! 魔術房が最優先なんじゃねぇのかよッ!)


 理不尽だ。理不尽のあまりに怒鳴り散らしたい。

 だが言葉は出ない。歯だけはがちがち鳴っている。

 足の、手の、心の、震えが止まらなかった。

 ここに来てナッドは続いていた不運──その極みと、相対せざるを得なくなったのだ。


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