19 『溶鉱炉』
集落ケーブに、旭光が届いて間もない早朝。
集落内の一家屋。あらかじめ討伐隊の手で家具を脇に寄せられ、生活感を剥がされた──伽藍とした室内にて、帝国小隊の三人が顔を突き合わせていた。
彼らの間には、気詰まりな沈黙が委蛇として漂う。
ナッドは室内の壁際に置かれた椅子に座っていた。
顔を突き出し、背筋を曲げ、手を編んでいる。
「で、マジェーレ。何の用だよ」
「決まってるわ。さっきの話のこと」
──朝会での、ムンダノーヴォの話のことよ。
ナッドをこの場に誘った少女は、対面にいた。
彼女は、前後逆に据えた椅子に跨って、椅子の背もたれを左右の腕で抱き、顎を乗せている。気怠げな面相を、まだ温度の低い日差しが露わにしていた。
溜息混じりに、ぼうとした目つきを向けてくる。
「どう思った?」
「どう思ったって……」
ナッドは答えに窮して、マジェーレを見返した。
「釈然としねェ話だったなァ」
同席しているゲラートは厳しげな顔で続ける。
彼は脚を組んで、椅子の前足を宙に浮かしていた。
「お坊ちゃんのために、朝会でのムンダノーヴォの発言内容を要点だけまとめるぞォ? 大きく三点。一点目、昨夜の警戒態勢は、クロカゲって呼ばれる獄禍の端末……その襲撃を予期してのことだった、と」
「でも結局、集落にクロカゲは……」
「そう、一匹も来なかったのよね」
マジェーレは「二点目」と台詞を継いだ。
「しかし、クロカゲは誰も襲撃しなかったわけじゃない。『黎明の導翳し』と、うちの少尉が狙われた。ただそれは、ムンダノーヴォの撒いた罠だった」
三点目、とマジェーレは最後の要点を告げる。
「罠──ムンダノーヴォの狙いは、クロカゲの本体の獄禍、通称『サナギ』──その内部に人員を送り込むことだった。白羽の矢が立ったのは少尉。少尉と『黎明の導翳し』はクロカゲを倒しながらサナギの元に辿り着き、打ち合わせ通り、少尉はサナギ内部に送り込まれた……ということらしいわね」
ふう、とマジェーレは言い終えて吐息する。
そして、墨色の瞳でナッドを見据えた。
「ねえ、どう思った?」
「怪しい……な。何というか、話の筋は通っているんだけど、全面的な信用ができないって印象を受けた」
ナッドは薄々感じていた気持ちを言葉にする。
こうハキムの報告内容の要点を整理されると、弥増しに不審な表現が随所に見受けられた。
「お坊ちゃん。ちなみにどこが怪しいと睨んだァ?」
「ああ、ちょっと待ってくれ……要点ごとに怪しいところを挙げるとだな……まず一点目。クロカゲ襲撃を予期、と言ってるけど、十分な根拠が示されてない」
「ムンダノーヴォが言うには『黎明の導翳し』の報告がきっかけだそうね。昨日の獄禍討伐の道中に、彼女が遭遇した大量のクロカゲ。そして、彼らが前例のない『鳴く』という行動に出た……との事実から、そろそろサナギが動きを見せる、と思ったそうね」
そう補足を付けて「話に矛盾があるわけじゃないわね」と締め括る。
「あくまで、予期、だからなァ。確信があったと明言してねェ。用心して備えた当日に、実際襲撃に遭ったとしても不思議じゃねェ。お坊ちゃん、二点目は?」
「二点目の疑問は『黎明の導翳し』の負った重傷だ」
「まあ……そこよね」
深夜、シャイラは救護班の家屋に運び込まれた。
現在も面会謝絶。救護班に属する人員以外は、彼女の怪我の具合を知らない。だが、担ぎ込まれた瞬間を目撃したゲラート曰く「一人で歩けないほどの重傷に見えた」。幼女との模擬戦で圧倒的な力を振り翳していた大英雄が、瀕死の状態に追い込まれたのか?
何にせよ、一晩で快癒する程度ではないのだろう。
朝会では救護班共々、顔を見せなかった。
ハキムは、これを想定の範囲内と言った。
「ムンダノーヴォの話によれば『黎明の導翳し』はサナギに少尉を送り込むため、道中の露払いをしたそうね。無数のクロカゲと戦闘した挙句、『根絶』の霧に阻まれてしまい、魔力誘爆も受けて……大怪我した」
「一聴すると矛盾はねェが……道理が通ってねェ」
「ああ。『黎明の導翳し』が一旦撤退しなかった理由がない。無数のクロカゲと『根絶』の霧が行く手を阻んだのなら、霧を迂回するか、決行日を改めればいいはずだ。なのに……ムンダノーヴォの話だと意味もなく、正面突破したように聞こえる」
まさか、猪武者でもあるまいに──。
正面突破の選択肢は有り得ない。たとえば霧についてだが、わざわざ入って得られる利益がない。距離短縮を図るにしても、霧の薄い外周付近であれば迂回したとして大した短縮にもならない。となると必然、二人は霧の濃度が高い領域を突っ切ったことになる。
『黎明の導翳し』はともかく、ソルが問題だ。
果たして、高濃度の霧を無事に通過できるのか。
(実際、何とか大丈夫だったとしても、耐えられる保証はなかったはずだ。分の悪い綱渡りのくせ、見返りがほとんどないようにしか思えないな……)
決行日の組み直しを惜しんだ、とも思えない。
確かに討伐日程は綿密に組まれているが、基本的に前倒しで討伐を進めている。余裕とは言えないが、討伐の成否がかかるような瀬戸際ではない。
やはり無理筋だ。ナッドは認識を確かにする。
「三点目の疑問は、少尉に重大な役回りを担わせたのに、帝国小隊の誰にも話が通っていないことだ」
「これは少尉自身の手落ちかもしれないけれどね」
「……全然否定できないが、それでもおかしい。そもそも、どうしてそんな重大な策を、ムンダノーヴォは他の……ビエニスの隊員にすら韜晦していたんだ?」
「謎ね。しかも平の隊員どころか……デュナム側とは言え、イルル・ストレーズやホロンヘッジ・バルバイムといった討伐隊の代表格にも、心当たりがないようだったわ。結局訊けなかったけれど『黎明の導翳し』は流石に知っていたとしても……徹底しているわ」
「ま、お坊ちゃんの言う通りだなァ。あの爺は、なぜか知らねェが手のうちを伏せたがっている。つか、今回の釈然としなさは、あの爺に対する不信感が割合溜まった結果とも思えるなァ」
ゲラートは総括するように言うと、二人を見回す。
「それで? ムンダノーヴォは『各々の班は予定通りの獄禍討伐を果たすように』とのお達しだったが、俺たちは陳述書でもまとめて提出でもしようかァ?」
「その必要はないわ。私たちは悲しき馬車馬。騎手を選り好みできる立場にないの。一生懸命、尻尾を振ることで、私たちの恭順さを示すしかないわ」
帝国小隊と討伐隊は、御璽で契約を結んでいる。
反故にすれば、末路は──神の手指から零れた先。
怏々とした空気が立ち込める。答えは、出ない。
状況は間違いなく水面下で動き出している。ソルはその作為の歯車に巻き込まれていることも、おそらく確かだ。しかし、この作為の手が何を企図した動きなのか一切が不明だ。ナッドの胸は焦燥に焼かれる。
それでも、闇雲に駆け出すことはしない。
自分には無理だと殻に閉じこもることも、しない。
冷静に状況を見極めることが肝要と、学んだのだ。
ナッドは「とにかく、さ」と二人の顔を見回した。
「現状、不信感は不信『感』でしかない。確信できれば、馬銜と手綱を繋がれたなら繋がれたなりに……」
「暴れるってェ? おい坊ちゃん言うじゃねェか」
「あー……もちろん、他の方法も検討した上でだな」
「おいおい、引くなよォ。俺ら好みの話だ」
「一緒にしないでくれる?」
マジェーレは顎を突き出して抗議した。
「ナッドはわかっているようだし、ゲラートも本当はわかっているだろうけれど……帝国小隊の無駄死には看過できない。だから、確信を持つまで事は起こさない。ただ、結果としてムンダノーヴォの企みがロクでもない場合……討伐隊の計画は滅茶苦茶にする」
「同意だなァ。俺らは『根絶』討伐に因縁はねェ」
「最悪、頓挫に追い込んでもいい……って話だよな」
「ええ。もっとも、御璽に縛られた状態で、どこまで足掻けるかはさて置いてね。とりあえず、今回はそこの同意が取れただけよしとしましょう」
──じゃあ今日も獄禍討伐。班に戻りましょう。
一旦の解散に頷いて、各々家屋の敷居を跨いだ。
そのときだった。ナッドは、扉の側の外壁に、一人の男が背を預けていたことに気づいた。
「よう。お疲れさん」
「バオトさん……聞いてたんですか?」
「盗み聞きたあ趣味が悪い……とは、俺も同感だが」
「私が呼んでいたの」
バオトの言葉を遮って、少女はさらりと言う。
罰の悪そうな顔になったバオトは、頭を掻き掻き。
「そそ。呼ばれた上で、締め出されてたワケよ」
「マジェーレ。そんなにバオトさんのことを嫌って」
「私はナッドのなかでどれだけ性悪なの? 違うわ。まず、私たちの密談を離反の火種と思われたくなかったの。この人は私たちの監視役。呼ばなくても聞き耳を立てていたでしょうし、それなら、直接呼んで聞かせたほうが無用な緊張を生みづらいでしょう」
「ま、そうだな。あー、一応訊くが……いま聞いた内容はムンダノーヴォ卿に伝えても問題ないんだな?」
「ええ。結局、あの人が腹を見せないことで、無用な勘繰りを産んでいるの。苦情と思って、迅速に対処してほしいわ。これでは、私たち帝国小隊が気持ちよく働けない。波風はあまり立てたくはないけれど──」
ここでナッドは「でも」と口を挟んだ。
「バオトさんを外に出しておく必要はあったのか?」
「帝国小隊三人の場にこの人がいると、ナッドが遠慮して発言しなくなると思ってね。気遣いよ」
「マジェよォ、気遣いって正面から言わねェモンだ」
「何でも披瀝したがる貴方に言われたくないわ」
ゲラートが肩を叩いてくるのを、マジェーレは片手で払い除ける。
「あの老爺が何を企んでいるかは知らないけれど、打てる手は打つわ。御璽の契約で、離反も脱走も許されない私たちにできることなんて、気持ちよく戦える環境を整えることと──精々、祈ることだけよ」
「祈るなんて単語がマジェの辞書にあるとはなァ」
「いまゲラートの不幸を祈っておいたわ」
「不信心者にァ負けねェ。マジェの不幸を祈る」
「祈りバトルするのやめろお前ら」
──どっちが勝っても両者不幸になるだけだし。
ナッドが溜息すると、バオトはしきりに頷いた。
「日頃の行いと信心深さが、勝負を分けるだろうな」
「バオトさんも乗っかって実況始めないでください」
「ハハ。戯言は置いといてー、だ。マジェーレ」
バオトは、澄んだ目線をマジェーレに向ける。
「先の話だが、個人的にも肝に銘じておく」
「へえ……律儀ね。ビエニス人」
「俺、そんな律儀そうには見えねえか? だがなあ、お前ら帝国小隊は一度認めた相手。つまり、心底からの尊重を向けるに値する相手ってことなんだよ」
「まるで犬畜生ね」
「せめて忠犬と呼んでほしいがなー」
バオトは細目を一層にんまりと細めた。
「すみませんバオトさんコイツ後で殴っておくんで」
「まあまあ、間違っちゃーいねえからな。俺はそういう考え方をしているし、ビエニス人って大きな括りでも例に漏れない連中は多いと思ってる」
だからきっと副長のことも大丈夫だ、と続けた。
「俺が誇る『ビエニス人』はそういう奴らだからよ」
※※※※※※※※※※
どれだけの時間が経っただろう。
(目的地に……着いたのかのう)
視界を閉ざしていた闇が、黄丹色に裂ける。
ソルは強烈な眩さを前にして、目元を腕で庇う。
黒球が外部に開かれたのだ。途端、灼けた風が吹き抜ける。鼻腔に満ちるのは物が焼ける強烈な臭気。口から肺にかけて、灼熱の空気が押し入ってきた。
恐る恐る、といった足取りで光のなかに踏み入る。
全身が紅蓮の光に包まれる最中、緩慢に目元から腕を離してゆく。
(ここは……)
見渡す限りの、焼けた街──。
人はいない。躁狂な猛火が街を騒がせていた。
街並みは烈火に満たされて、往時の生活感の残骸が光のなか影になっている。半壊した煉瓦造りの家屋や荷車、押し潰された居住区間、摩耗した石畳、路地に落ちた靴や剣、針の止まった時計塔。遠くに目を遣れば、火焔の指先が伸びる夜空──煙霞がかるそこに、星々の光点を見つけられない。
鼻先にけぶる煤の刺激臭。眩暈に襲われる。
(明らかに……帝国僻地の森ではないのう)
異様な光景。だが、特筆すべき異様は他にある。
視界正面。突き当たりの商店まで伸びている街道。
その、跳ね火が散る道の両脇に──影、影、影。
クロカゲが道をなすように、整然と並んでいる。
(怪物の懐中というわけじゃ)
首の座に直る、とはこの心境か。
壮観な光景に背筋が伸びる。クロカゲはソルを一瞥もしない。それどころか、彼らからは敵意も感じられない。やはり自らは賓客として招かれているようだ。
無言の下、この道の先に導かれている──。
(臆するな。わしを仕留める腹積りならば、とうに仕留められておったはずじゃ。想像以上に彼奴の言を鵜呑みにできないことが露呈したいま……わしが、為すべきことは決まっておる)
豪胆不敵。ソルは一歩、街路に踏み出した。
立ち並ぶ影たちを横目に見つつ、歩を進めていく。
こう見ると、大小様々なクロカゲが存在している。
基本は人型だ。ケダマ討伐の道中や集落近辺の湖で邂逅したクロカゲ同様、漆黒の円盤が幾層にも重なった姿だ。個体差としてそれぞれ背丈の高低、体格の大小が異なるようで、稀に人型以外も見かけた。
三角錐、四足歩行の獣型、ソルをここに連れてきた球体のクロカゲもこの括りに入るだろう。そんな例外の存在ですら、物言わず、微動だにしない。
想起するのは、商店軒下の陳列物。
あるいは、展覧会での作品展示をも連想された。
(ここが案内先、のようじゃな)
程なくすると、クロカゲの列を抜ける。
そこは、街の中央部にある広場だったのだろう。
広場の東西南北には各出入り口が穿たれている。往時には、空に一面の青と白雲が蓋を、外周に賑々しい家々が軒を連ねて、住人たちの憩いの場を形成していたのだろう。いまや街に湛える混沌が表出し、この場を支配する『無秩序』を象徴していた。
空は、画家の持つ絵の具すべてでわや染めたような有様だった。重い濁色の隙間からは、原色の赤や青、黄色の線が明滅するように走っている。広場外周の家並みは、炎のなか琥珀のように閉じ込められていた。
ソルは視線を正面に据えて、やや上向きに傾ける。
広場中央の階段を二十段ほど登った先──ひと際目立つ高台は、噴水施設を冠していた。白を基調としたその水場は、枯れて、縦横無尽に亀裂が走っており、四枚の花弁を千切ったように破壊されていた。
注目すべきは、さらに上方。
(これが……クロカゲの本体、か?)
上空、光輝く怪物の上半身が浮いている。
昆虫型の獄禍だ。頭部は巨大な蛾のようだ。双眸は複眼、口は筒状の吸収口となっており、先鋭の触覚が生えている。蛾との差異は頭部以下、首、肩、両腕に加え、胸部含む胴体が存在していることだった。腹部以下は空中で途切れている。この空間と渾然一体になっているように、上半身の裾は霞んでいた。
そんな姿形が、黄丹色の溶融体で形作られている。
怪物の表面からは、それがどろどろと滴り落ち、直下にある崩壊した噴水の水場に溜まっていた。
(溶岩……で、形作られた獄禍?)
怪物の肩口からは、両腕が垂れ下がっている。
ただし、その先端は手指の形にはなっていない。
右腕が巨大な槌、左腕が刀身を象っている。
目を凝らすと、両の手指はそれら槌や、刀身の裏側に隠れていることに気がついた。
「久しぶりですね、ソルフォート」
突然、歓迎の言葉が広場に響き渡った。
しかし、蛾の口から発されたわけではないようだ。
声の発信源を耳で探ると──浮遊する上半身の傍、崩壊した噴水施設の隣に控える、一体のクロカゲに行き着いた。姿形は、薄く輪切りにされた漆黒の層が幾重にも連なって形成された人型である。
ソルの視線の動きで疑問を察したのか、声が続く。
「私、いま声帯がないものですから。こういう風に拡声器の機能経由でしか交流ができないんです。地上では……混線して聞き取りづらかったでしょう? 他の方々は、そんな術もなく、口が利けないようですが」
冗談めかした内容が、単調な声色で紡がれる。
聞き馴染みのある、低めの女声──。
ソルは、舌足らずの言葉で静かに問いかけた。
「わしが、わかるのか」
「十年で忘れ得るほどの真人間ではないでしょう」
「そういう意味ではない」
言葉を切ると、腰を落として剣の柄を握った。
「見ての通りじゃ。いまのわしは、ぬしの知っておる姿とは似ても似つかぬ形恰好じゃろう。剣を合わせずに看破するなぞ……なぜできたと、訊いておる」
「何を言っているんですか? アンタはアンタ。あの頃と何も変わらないソルフォートじゃないですか」
──そんなわけがあるまい。
一般的に、老爺と幼女は同一視しがたい。
共通項は髪色程度である。目が節穴、という誹りの範疇を通り越して、耳目に加えて鼻も節穴だと言わざるを得ない。ソルは姿も声も、発する匂いすらソルフォート・エヌマの頃と別物だ。もしや目前の獄禍は、五感で事物を判別していないのかもしれない。
思い出す。昨夜討伐したケダマ。その感覚機関は、魔力、あるいは温度のどちらかを感知していた。もしも魔力で感知していたのだとして、総じて獄禍が魔力のみで物を見ているのであれば──と推論を立てる。
魔力は、扱う個人個人で指紋のように異なるもの。
以前考えた通り、死した際のソルフォートの体内魔力が幼女の身体に注がれたとしたら、確かに、ソルをソルフォートと同一視してもおかしくない。
ソルは一拍の呼吸を置いて、尋ねた。
「わしをここに呼んだのは──メイ。ぬしなのか」
「もちろん」
メイ。それはソルとハキムの昔馴染みの名だった。
十代で同じ傭兵団に入団し、青年期のすべてをハキムたちと共に駆け抜けて、ついぞハキムの奥方に収まって十数年経った。最後に顔を合わせたのも十年以上前のことで、近状を知ったのはつい数時間前のこと。
ハキムは言った。メイは七年前に『根絶』がサルドナを襲った際、命を落としたと。彼はその復讐のために『根絶』討伐を掲げて、ここまで来たと。
しかし、目前の獄禍がメイだと、どうなる。
(奴の本当の目的は、この獄禍ではなからんか。ハキムは、意図的にメイの存在を隠しておった)
なぜ、ハキムは『メイ』からソルを遠ざけたのか。
『メイ』が人ならぬ身だった事実を隠匿するため?
悪友から横槍を入れられる前に愁雲を晴らすため?
そも、とソルは推測の立脚点に疑念を向けかける。
「ぬしは本物のメイか……否、無意味な問いじゃな」
「ええ。どちらにせよ、答えは『本物』としか返ってきません。とは言え、疑うのも無理ないことです。せめて、私の身体が以前のままだったならともかく」
──こうも、怪物と化しているわけですから。
音吐はあくまで淡々としていた。込められた感慨は迂遠に想像するしかない。そこに自嘲的な含みがあれば理解を示せる範疇。だが、そうでなければどうか。
ソルは、足裏を引き摺るようにして距離を詰める。
「まあ、アンタに信じてもらえなくても構いません」
あっけからんと言い放たれる。
「大事なことは『私がメイであること』じゃない。私の目的が何か、でしょう? 何者が何を語るかより、結局何をしているのか。何を、してくれるのか」
そんな物言いには、懐旧の念すら湧いた。
蛾の獄禍が語る内容は、記憶の底に眠る──メイという昔馴染みの、屈折した思想に根差していることは明らかであり、彼女本人である確信を益々深めてしまう。だが、魔剣『幾千夜幻想』の幻想世界での出来事同様、誰かが役を演じている可能性は否定し得ない。
ソルは嘆息をひとつして、頭を切り替える。
「全くじゃな」
獄禍の言通り。正体の真偽は、この際関係がない。
ソルが此度の呼び出しに応じた理由は、かつての腐れ縁の残像が怪物として歩き回っているのならば、幕引きをすることが、浅はかならぬ縁を持った者の務めだと思ったからだった。残像が本物であれ偽物であれ、断ち切ることに相違ない。
だから、目前の怪物に問うべき疑義は一点。
ソルは戦意を灯した双眸で、蛾の複眼を見上げる。
「なぜ、わしをここに呼んだのか」
「アンタには英雄になってもらいに来たんです」
──アンタの、夢の果てを見せてください。
ソルが眉を顰めて、言葉の意味を問おうとした。
獄禍はそれに先んじて、左腕を緩慢に持ち上げ、ソルの背後を示した。
「手始めに……まずは、あの男を倒してください。あの──私たちのなかで『テンサイ』だった男を」
ソルが振り向いた先には、男がひとり立っていた。
紅蓮の前髪で顔を隠した青年。髪の隙間からは、獣さながらの眼光を覗かせている。周囲の熱風に煽られて、肩甲骨まで伸びた赤毛が揺れ、全身を覆う薄汚い枯葉色の外套の裾がはためき、彼の地黒の肌を垣間見せていた。片手には、一振りの剣を握っている。
見覚えはある。四十年ほど遡る必要はあるが──。
在りし日の、ハキム・ムンダノーヴォの姿だった。




