18 『過去との分水嶺2』
原罪の獄禍が一角。『根絶』ファニマール。
此度の『根絶』討伐隊の最終討伐目標である。
一般には『根絶』討伐など夢物語と言われている。
いまも、国内外で討伐隊が結成、実行される獄禍討伐の対象には含まれない。されど、古の頃から数えれば、討伐隊が組織された事例は幾つか存在した。
それら人の勇猛のすべてが無残に散ったからこそ現在の認識が根づいているわけだが──『根絶』を討伐不能とした理由、その怪物の特徴で最たるものは霧。
シャイラは夜霧の只中で、空を仰いだ。
(これが……『根絶』の霧)
『根絶』を知る者にとって、霧は恐怖の対象だ。
視界を白く塗りつぶす濃霧の正体は、マナ。
超高密度のマナが霧状となって、辺りに重く立ち込めているのだ。度を越したマナ濃度は、命あるものには有害である。『根絶』は子飼いの獄禍から吸い上げたマナを、まるで防護壁のごとく一帯に張っている。
この霧に身体を蝕まれた者の末路は無惨なものだ。
耐性がない一般人であれば、身体が破裂することもあるそうだ。耐性があれど、過剰濃度の霧に入れば、死にはせずとも立つこともできなくなると聞く。
国の文献に残る『根絶』の記述は、ほとんど霧による被害報告書だった。
(動けなくなったあと……指から腐り始めて、時を経ずに朽ち果て、風に浚われて消えていく、でしたか)
また、複数回『根絶』の通り路になったことのある村では、とある禁戒が生まれたという。
(たとえ狼に追われていても、霧にだけは近づいてはならない。目がこちらを覗いている……と。どれだけ恐れられているかは伝わりますね)
ひたひた、とシャイラの頭から雫が垂れ落ちる。
髪は、道中に受けた水流で形を崩していた。視界を遮る紫のそれが煩わしくてならず、額を晒け出すようにして、一息に掻き上げてまとめた。
次、手を胸元に当てる。一種の条件付けだ。この仕草によって、思考回路や感覚をシャイラ・ベクティスのものから『黎明の導翳し』のものに切り換える。
大英雄として相応しい冷静さを失わないため。
大英雄として望まれる姿を演じるため、己に覚え込ませた動作だった。
(この息苦しさも霧の影響ですね)
胸元に手を当てたまま、深呼吸をした。
空気を取り込んでも、息苦しさは晴れない。
喉や胸に限らず、全身に圧迫感を覚えていた。くしゃりと身体を潰すために、外気が素肌を押しているかのようだ。事前知識で、この感覚が比喩ではないとわかる。濃密なマナが身体を圧迫しているのだ。
シャイラは冷静に判断を下していく。
(このファニマールとの遭遇。あのクロカゲに誘い込まれた、と見るのが正しい……のでしょうね)
現状は極めて過酷だ、と結論づけられる。
シャイラは顎に指を添わせつつ、周辺を見遣った。
この空間では十分視認できる物体が少ない。
視界は鉛白色の薄膜がかかっている。霧の濃度は凄まじく、二丈先の木立すら見渡せないほどだ。傍に立ち並んでいるはずの針葉樹さえ、その幹は白き薄膜に輪郭が浮かび上がらせるのみである。枝葉だけが、茫洋とした霧を突き破って実体を垣間見せている。
次に、先ほど這い上がった川淵を視線で浚う。
水面は、空を映さず、憲房色に濁っていた。
まるで底まで見通すことができない。
(そして、川縁の湿気の影響でしょうか。地面もぬかるんでいて、脚に力を込めづらいですし……あらゆる意味で長居は無用の場所ですね)
シャイラは思いきり息を吸うと、駆け出した。
霧のなか、彼女の羅針盤は身体の感覚だった。
肌に対する圧迫感。それが弱まる方角に進む。
(霧の濃度は、源泉となる『根絶』に近寄れば近寄るだけ濃くなると言われています。薄い方向に、つまり圧迫感が弱まる方向に行けば、霧から脱出できる)
クロカゲの向かった方角はある程度絞れている。
獄禍も生物だ。たとえ『根絶』の子飼いの獄禍が展開する端末と言えど、自身に巡る魔力以上の濃度が漂う空間では魔力に身体を蝕まれてしまうだろう。
ならば、黒球の進行方向はマナ濃度の薄いほうだ。
更に、視界は夜霧に遮られており、周囲は森林ゆえ位置や方角を把握する目印もなく、脱出の頼りになるのはシャイラ同様、肌身の感覚のみの可能性が高い。
同手段・同条件下では同じ結論に至りやすい。
(私と黒球で違う条件は、追う側と追われる側、ということ。追う側の私は、彼にない目印があります。枝葉が折れた残骸、木立が押し除けられた跡……黒球は全長が大きくて、どうしても移動の痕跡が残ります)
ここは大自然の坩堝。
乱雑に立ち並ぶ木々、片隅で蹲る雑木林。
黒球の図体では、通過痕を隠すことは難しい。
(大まかな方向は周囲に漂うマナの濃淡で判断。道中で巨体が押し通った跡を見つければ、そちらに走る。見落とさないよう焦らず、でも迅速に……)
押し潰された枝、千切れた木立を標に進めば──。
(見えました。黒球)
前進すれば、前方から木々が影として浮かぶ。
その先、巨大な影が黒く潤むように現前する。
見上げんばかりの全長を誇る、真球のクロカゲ。
人違いならぬ獄禍違いはないだろう。いままでシャイラはこんな形状のクロカゲと出会さなかった。稀な個体ならば、幼女を呑んだ個体と十分断言できよう。
シャイラは膝に力を込め、踏み込みを強くする。
疾走速度上昇。身体に纏う疾風は激しさを増す。
(あれを仕留めたとして、ソルちゃんが無事という確証も、保障はない。ですけれど……)
深青の瞳に戦意を滾らせて、薄桃の唇を噛む。
(骨だけでも救い出さないと、ですね)
その瞬間、黒球にぐるりと一文字の線が入る。
鋭利な刃物に定規を添えて引いたような切れ込み。
それが淡く発光したかと思えば、消えた。
「なっ……!?」
シャイラは凝然とした。
目前の事象の原因は判然としている。発光したのは魔力光だ。黒球は魔力を出力しようとして、淡く光芒を残すように光った。光が消失したのは──。
霧。鉛白世界を構築するこのマナが原因だ。
(マナ濃度の差で、魔力出力が打ち消されましたか)
黒球はその道理を解さず、無駄なことをしたのか。
おそらく違う。蒼褪めた額に、透明の雫が浮いた。
あれは、意図的に虎の尾を踏んだのだ。
(そう、なる前に)
──この手で、この脚で、仕留めるまでです。
霧は、外界に対する魔力の出力を阻止するだけだ。
身体の内側という区切られた世界を巡る魔力には、影響を及ぼさない。『黎明の導翳し』の身体に眠るオドは莫大かつ高純度。それはシャイラが『根絶』の濃霧内で死を免れている要因であり、長い四肢を軽やかに、そして力強く駆動させている要因でもあった。
傍目には、白霧を引き裂く紫電にも見えるだろう。
シャイラは低姿勢で潜り抜けるように加速。
横目に流れる木々が輪郭を溶かして、線に変わる。
ぐんぐんと迫る黒球。あと少しで、手が届く──。
「ふっ」
短く息を吐いて黒球の左方を追い抜く。
抜き去る手前で空転、踵を黒球正面に叩きつける。
「ぅぐ……!」
が、しかし──手応え、ならぬ脚応えがない。
踵から伝播するのは無機質な硬い感触。
反動的にシャイラのほうが背後に吹き飛ばされる。
木立の幹に背中がめり込み、ややあって、あえなく根本から倒木する。
「くッ……!」
「■■道■■■」
黒球のほうは、後方に押し戻されてもいない。
シャイラの回し蹴りを意にも介さず、等速で前進を続けている。この一撃で衝撃を黒球に与えられたようには思えない。とは言え、湖で一戦交えたクロカゲの頑丈さとは違う印象だ。何も響いていない。
シャイラは、株の上で仰向けの状態から上体を起こすと、その勢いのまま地に脚をつけ、前方に駆け出した。目前には黒球の背中側を捉え、再加速。彼我の距離を二丈ほどに縮めたところで右脚で強く踏み込む。
飛翔。黒球の上空を行くと、球体上部に着地。
そして、渾身の拳を足下の表面に叩き込む。
「ッ……!」
その拳には大地を割る威力が秘められていた。
だが、黒球はひび割れもせず前進を続ける。
感触から言えば、表面が頑強というわけではなく、端から衝撃が吸収されているように感じる。
(クロカゲは個体ごとに特殊な能力がありました。この個体は『外的な攻撃は無力化する』……のかもしれません。魔力放出で剣を出しても無駄でしたね)
であれば『螺旋現実』が打開策になるはずだ──。
シャイラは黒球の上に左手をついた。常軌を逸した握力で、万が一にも振り落とされないように掴まえているのだ。呼吸を静かに行い、体内に空気を取り込んで、魔力を編まんと右手の指を動かす。生半な魔力で出力しても打ち消されてしまうなら、莫大な魔力で構築すればいい。どうせ、もう手遅れなのだから。
突然、そのとき視界内に亀裂が奔った。
「っ! 来た……!? 早い」
その瑠璃色の線は、空間が罅割れたかに見せた。
これを躱せるか。否、身体が追いつかない。
シャイラの思考時間は、刹那と呼ぶにも短かった。
結論は全自動。脊髄を通さずとも身体が動く。
頭部を庇うようにして、わずかに左腕を逸らした。
シャイラを狙った線が左手の甲に接触する。
「……が、ぅ」
瞬間、視界で血色の火花が弾けた。
痺れが、全身の肌を這い回るように猛り狂う。
感覚で正体を掴む。迸った瑠璃色の線は電流だ。
(これも、ファニマールの霧の特色)
霧は、高濃度のマナが充満する空間。
そこに何らかの乱れ──たとえば魔力放出・魔術を行使などして周囲のマナに影響を与える行為──が発生した場合、マナの粒子が相互干渉を起こして、暴発することがある。暴発した結果として具現する現象の種類は様々だ。乱れ、相互干渉した魔力が発現する。
つまり、霧中で生半な魔力の出力は打ち消されるばかりか、手痛いしっぺ返しを喰らうのだ。いまシャイラに襲いかかった雷撃のようにして。
(そう……霧の真価はここから)
シャイラは速度を落とさぬまま、眦を引き締める。
鉛白色に霞んだ向こう側を睨みつける。
しっぺ返しが、可愛い雷撃だけで済むわけがない。
(ファニマールが『根絶』たる所以。おそらく黒球が私を迎撃するため、狙っている災禍。魔力誘爆)
魔力の乱れは周囲に伝播する。
空間とは、奇跡的な均衡が保たれた建造物だ。ひとつでも柱がズレれば、ズレが連鎖的に生じてゆき、崩壊を迎える。同様に、魔力の相互干渉は連鎖する。
乱れが乱れを呼び、霧全体にまで波及する──。
崩壊の狼煙は、まず光と音という形で伝わった。
濛々とした霧越しに閃光と炎が映る。そして遠雷が轟いた。地面は微動を始め、シャイラの吐息は白く濁って霧と同化していく。肌を刺すような冷気が吹きつけられたと思えば、熱風が背後から撫でてくる。
霧の向こうでは、天災が同時に巻き起こっている。
シャイラは荒くなる呼吸と胸の動悸を鎮める。
「【そうして私は目を瞑る】──」
小さい呻きを飲み込み、詠唱を口ずさむ。
焦燥に胸を炙られながらも莫大な魔力を込める。
(間に合うか……どうか)
遂に、予兆でしかなかった崩壊は正体を現す。
遠きに、朧に見えていた一点の光。それは急速に光点の面積を広げる。それは瞬きすら許さないとばかりに暴風を纏い、霧を喰い破ってくる。刹那、辺りを席巻していた惨禍、築かれた終末風景が垣間見えた。
地に堕ちる無数の雷光。木立は嵐のなかで吹雪となり、下生えや枝葉は紅蓮に燃えて、地面すべてを覆わんと一気呵成に魔の手を伸ばしていた。樹木で生い茂っていた一帯は地獄の様相を呈していた──。
息を呑んだシャイラに、正面から光が伸びてくる。
それは、霧の幕を貫いた極太の光線だ。
(これは、受けたら……流石に……!)
シャイラは堪らず黒球から後方に飛び退いた。
球体の背中に自身を隠した瞬間──目が焼かれる。
前方の円状の影以外が閃光に塗り潰された。
この空間から一瞬で音を浚い、色を奪った。
「っ」
瞼を咄嗟に細めて、右腕で目元を覆う。
猛烈な光量による失明は免れる。閉じかけた瞼の隙間に見る、霞んだ光の世界。強烈な死の気配と、危機感で体感時間は延びていく。あわや永遠に続くかと錯覚しかけたが、実際には瞬きの間に過ぎ去った。
駆け抜けた光は、音と色を世界に返す。
同時に、抗いがたい烈風も置き土産に付けてきた。
「く、う」
シャイラは暴力的な風で、空に攫われる。
いまだ地に脚がついていなかったことが災いした。
彼女にかかる重力を凌ぐ風速程度、足裏の把持力だけで堪えられたはずだ。だが、身体が中空にあればそうはいかない。全力で身体を捩っても、足場が覚束ない状態では強風に惜しくも力負けしてしまう。
霧という白濁した海中に放り出され、彼女は──。
(まず、い)
前方からは高濃度の魔力を孕んだ竜巻。
後方からは砂塵と熱波の大津波が迫り来る。
下方からは稲妻。不規則な方向に、節くれ立った細い紫光が瞬発的に手を伸ばす。上方からは隕石めいた氷塊が降り注ぐ。視界の端では、それが稲妻と接触して、幾つかの塊となったものが竜巻に巻かれている。
その暴威の一端は、シャイラを猛省一挙に襲う。
全方位に逃げ場は存在しない。それどころか空中では自由な身動きが取れない。もろに受ければ、シャイラとて死を覚悟せざるを得ないだろう。
だが、寸でのところで詠唱が間に合ったようだ。
「──【もう夢は見たくない】ッ!」
最終節を叫んで、魔剣を顕現させる。
二つの螺旋が寄り添った、現実を象徴する剣。正視に堪えない代物だ。おぞましさを覚えてしまうのは、剣のはずなのに剣の概念からは外れる在り方のせいなのか。それとも異様な形状が象徴する作品構造のせいなのか。どちらにせよ使うことに抵抗を感じる剣だ。
しかし、出し惜しんでいる場合ではない。
「『螺旋現実』アンシャート……ッ!」
直後に、混沌の極が迫り来る。
砂塵の津波は容易にシャイラの身体を飲み込む。
「降れ螺旋──!」
『螺旋現実』の能力には二種類が存在する。
その二種類は、螺旋の昇降で表現される。
昇る螺旋は構築能力。使用者の認識下に物体を出現させる。シャイラの場合は剣。それでは彼女の魔力放出と同様の効果に見えるが、特筆すべき特色がある。
出現位置を対象者・対象物に被せることができる。
被せて出現させた場合、対象者・対象物の硬度にかかわらず割り込むことができるのだ。この効力は出現位置の魔力量で減軽されるが、強力無比と言える。
ただ、いまは昇降のうち後者の能力を行使した。
降る螺旋。それは分解能力。
(対象物・対象者を分解する。これも効力は纏う魔力量・体内魔力量によって減軽されますが──)
二重螺旋構造の剣身の一方が、青々と光る。
分解能力は防御手段として優秀だ。対象を範囲指定することが可能で、かつ魔力が絡まない物体を問答無用で分解できる。また、降る螺旋に魔力を込めれば込めるだけ、分解能力の効力は強さを増す。
マナを全霊で取り込み、魔力を分解能力に捧げる。
(理論上は、魔力と時間さえかければ、何でも分解できます。いまはただ力を込めて──!)
全方位から受ける暴威を、可能な限り軽減した。
だが、混沌の波濤すべて分解、とはいかなかった。
「かはッ……!」
身を巻く衝撃の余波で、下方に吹き飛ばされる。
炎上する大地に墜落。強烈な衝撃が左半身に響き、呻吟が漏れる。身体が叩きつけられた地面はその強烈な勢いによって、すり鉢状に凹む。砂塵を上げて、周囲を浸していた火炎の海も諸共、吹き消えるほどだ。
そのため、髪や襤褸切れと化した衣服が燃える心配だけはしなくてよかった。
「ぁ──は、あ──はあ……」
シャイラは肩で息をしながら緩慢に身を起こす。
だらり、と額から右目に血液が垂れてくる。
負傷したのはいつぶりだろうか。
右手で血を拭いつつ、周囲に目を遣った。
(クロカゲの姿は……もう、ないですね)
当然の結論を述懐すると、力なく右膝を折った。
両手を膝頭に乗せて、荒々しい呼吸を繰り返す。
(これだけの魔力誘爆のなかで、果たして黒球は原型を留めているでしょうか。ソルちゃんの身体を確保したいのでそれでは困りますが……杞憂、でしょうね)
心臓は早鐘を打ち、脈拍が命の残量を知らせる。
視界は明滅を繰り返すが、それでも冷静な思考力を手放してはいなかった。
(黒球を殴ってわかったことは、外部からの衝撃ではびくともしないことです。魔力誘爆も黒球が狙っていたこと。今頃は霧を抜けているかもしれません)
再び黒球の痕跡を頼りに追走するしかない。
しかし、事はそう容易く運ばない。
(見渡す限りに、木立は見えません。あの魔力誘爆の渦中にいたわけですから……望むべくもないです。痕跡はゼロで追いかけるのは正直無謀……それに)
シャイラも、うかうか休憩は摂っていられない。
魔力誘爆はまだ止んでいない。霧全体に波及した魔力の乱れは、霧内部の魔力が秩序を取り戻すまで離合聚散を繰り返す。先ほど彼女を襲った誘爆は、円の中心側に波及していった。つまりは遠からず、中心側から外側に向けて地獄の上塗りが始まるのだ。
理不尽。その言葉が最も相応しい事象だった。
シャイラは覚束ない足取りで霧の外側を目指す。
(とにかく、円の中心側からの誘爆に追いつかれる前に、何とか霧の外側に出る必要があります……!)
黒球の捜索は、ひとまず霧を抜けてからだ。
地割れを起こした荒野を行く。これが、数分前まで深い樹海だったと信じる者がどれだけいるだろう。あらゆる植物や虫たちが築いてきた楽園は、地に張った根元まで焼き尽くされて、風となって失せている。
この事態を引き起こした原因を求めると、シャイラの迂闊な行動ゆえ──ソルを取り戻すため、黒球を深追いした──己に腹が立ち、みじめな気持ちになる。
力があるくせに、大事なことは何も果たせない。
自らの価値は、この力のみにあるというのに──。
歯噛みするなか、ひどい悪寒が背筋を駆け抜けた。
(誰かに、見られ、て)
ふと。気がつけば、シャイラは風のなかにいた。
半秒前には地上にいたはずが、いまや背中を押されるような姿勢で吹き飛ばされている過程にある。
視界の縁を、乱れに乱れる紫紺の髪が飾っていた。
「がッ」
遅れて理解に至る。身体を浚ったのは風に非ず。
後方より展開された強烈な衝撃波だ。
(まさか、魔力誘爆が中心部に集まり暴発した? でも、いままで見分した資料にそんな前例は……)
理解の次に、身体的な実感が追いついてきた。
否、強制的に目醒めさせられたと言うべきか。シャイラが受けた圧倒的な衝撃。それで、いままで条件付けによって意図的に無視してきた痛覚という機能が、大英雄には不要の機能が、働き始めてしまう。
猛り狂う、という言葉すら生温い『痛み』の爆発。
「ぁ、ぇ──!」
声を忘れる。呼吸を忘れる。思考を忘れる。
自分が生きているということすら、忘れ去る。
そんな、すべてが烈白に塗り変わる刹那に、見た。
後方。衝撃波の源を。
「ぁ、れは」
あまりの衝撃波で、一時的に霧が晴れていた。
霧だけではない。魔力誘爆も根こそぎ鎮めていた。
ゆえに、先刻までの天変地異めいた狂騒が、まるで夢幻だったかのような──静かな夜が広がっていた。
「れは」
切り裂かれた鉛白の先には、遠く陰影がひとつ。
星明かりが降り注ぐ大地に立つ、人影。
否、遠近法で人影に見えるだけで、実際は相当巨大な怪物が静かに佇んでいるのだろう。
(まるで)
人影は、長々しい棒状の物体を水平に持っていた。
直感的に理解する。衝撃波を起こしたのはあれだ。
きっと、あれを薙いで一帯の混沌を無に帰した。
シャイラは規模こそ違えど、似たような技術を修めているためか、こんな喩えが浮かんだ。
(街ごと一遍に刈り取れる剣を、薙いだみたいです)
星明かりの下、禍々しく輝くは楕円状の紅緋色。
シャイラは、あの赤色が何かを知っていた。
(ファニ、マール──)
此度の討伐隊の本懐。隊員にとって誅すべき仇敵。
そんな怪物の目。いま確かに、視線が交差した。
※※※※※※※※※※
──これは、私の始まる、前の記憶。
古ぼけた記憶だ。褪せた頁を捲る音がする。
むかしの記憶は、埃っぽい書庫が大部分を占める。
室内は、書庫唯一の窓に降ろされていた暗幕を開けているため、陽射しで深く洗われていた。空気中に舞う埃はきらきらと輪郭を浮かせていて、さながら北国に降り積もる白雪めいていた。
ここはベクティス家の隅にある書庫兼、物置き。
用済みになった書類や古書が、幾列と並んだ本棚に収蔵されている。ただし整然とは言いがたく、本棚には保管より収納の用を求めたのか、棚内部は隙間があれば押し込めたといった風情だった。そのため、折れ曲がった紙が散見され、もはや本棚から一冊抜き取ることも困難な列すら見受けられる有様だった。
その少女は、所狭しと並んだ本棚の隙間にいた。
本棚の隣に置かれた机の脚で身を隠すようにして、脚を崩し、床に座っていた。
(あの頃は、盤上遊戯に夢中でした)
床に広げているのは、格子状の遊戯盤。
少女は、熱心に視線を注ぎ、盤上の駒を動かす。
(頭もさほど良くなく、剣の腕もからきしで、私はいつもこの書庫に逃げ込んでいました。家族の誰も近づかないこの場所だけが、私の居場所でした)
熱中していたのは、最近流行りの盤上遊戯。
現実逃避に始めたのが最初。
この頃は、少女が生きていく理由になっていた。
(私は、家族に望まれた何もかもができず、家族の皆から避けられていましたから……ひとりぼっちで、世界で一番駄目な人間……なんて思い込んでいました)
そんなとき、少女に転機が訪れた。
(優しい庭師の方のご厚意で、盤上遊戯一式と、巷に流行っていた英雄譚をいただきました。そこに広がっていたのは、私の知らない価値観と観念が通底した、魅力的な世界でした)
少女は、求められる知識や力以外にも世界が広がっていることを初めて知り、溺れた。生まれて初めて家族に反抗して、生まれて初めて夢を持って、盤上遊戯と英雄譚は、彼女に色鮮やかな世界を与えた。
だが、少女はそんな窓越しの世界にはいない。
現実的には、強固な硝子が世界を隔てている。
『おい』
静寂を壊すように、書庫の扉が蹴破られた。
踏み入ってきた軍靴と、腰に帯びた長鞘が見える。
その瞬間、少女は直立不動の姿勢を取った。
『お兄様……』
『また貴様は駒遊びをしていたのか』
──以前、捨てたはずだが。
兄の、心底軽蔑するような目と言葉に肩が跳ねる。
『使用人の誰かと通じているな?』
焦って、ふるふると何度も首を振った。
いま思えば、なんてわかりやすい嘘だったことか。
嘘が露見すれば、あの庭師も解雇されるだろう。少女も兄の折檻を受けることになる。否、嘘が露見しなくても盤上遊戯に耽っていたことは露見した。折檻は避けられないことを思い、身を震わせる。
そんな少女の内情を他所に──。
『まあいい。汚らしい服は着替えて、即刻支度せよ』
『え……』
少女が外に出してもらえる機会は少なかった。
精々がベクティス家の修練場。兄曰く、貴様は一家の恥晒し。実力主義のビエニスにて名家として知られていることは、国内を見渡しても貴重だという。それだけ優秀な人材を輩出した証拠であり、明確な不良品を人目に晒すことはできない──ようだった。
庭師の手引きでこっそり出た数回を除けば、一度としてベクティス家の敷地を跨いだことはない。だから、唐突な外出を匂わせる兄の台詞に困惑した。
兄は鼻で笑った。
『舞踏会だ。全く、ビエニスの策謀家連中は抜け目がない。貴様はベクティス家の面汚しだが、ベクティス家の一員であることに違いはない。顔だけは出しておけ。言うまでもないが……余計な真似をするなよ』
──そうだ、忘れもしない。
これは、のちにビエニス王となるアルカディーナ・フレージェンと初めて出会う日の記憶だ。
3
大森林には、底のない静寂が降りていた。
死んだ森。廃墟となった生の楽園。それが比喩にならないのは、辺りから動物の気配がすっかり消えており、虫の声も絶えてしまっているからだ。足が生えていない植物たちだけが、夜闇に佇んでいる。
生の躍動を忘れた不気味な暗がり、その一角。
唯一、月光を浴びている地面があった。黒葉が茂る枝木と樹木が無残に折られ、破られ、上空から俯瞰すれば、黒の絨毯に穴が開いているように見える。
そんな穴の輪郭からは、月光を深紅に照り返す血液が徐々に面積を広げていた。
「ぐ、くぅ……」
血液の主──シャイラ・ベクティスは呻いていた。
喉から搾り出されたのは、ひび割れた声。
(生きて……る)
霞んだ視界に映る、柔らかい木漏れ月。
斑に、周囲の風景に輪郭を与えている。
(まだ、生きてる)
シャイラは寝覚め気分で、左手を月に翳した。
身体は動く。命に別状がないことを再確認する。
安堵と虚脱感と疲労感が胸を満たした。左腕から力を抜いて、枝葉や下生えの上に、四肢を投げ出した姿勢を取ると、そのままぐったり身体を沈める。
負傷にさえ目を瞑れば、月光浴の最中にも見える。
(右腕。もう、動かない)
裂けた右袖から露出した白い肩は微動だにしない。
外傷はすり傷による出血だけだが、内出血や骨折が甚大なのだろう。腕は軟体動物めいた状態で、だらりと身体から垂れている。集落に戻ったら治癒魔術を試して、回復が望めないなら切り落とす必要があるだろう。
身体状態を認識するほど、息が段々と浅くなった。
ハキムと出会って以降、初めての重傷だった。
(足も……ひびが入っていそうですね)
唇から、口腔に溜まった血液を押し出す。
吐き出せるほどの活力が湧かなかったからだが、そんな排水作業は遅々として進まず、喉奥に流れ込んで咽せてしまい、無理矢理吐き出す羽目になった。
(これでも、運がよかったほう)
『根絶』の霧のなかで何度も死を覚悟したのだ。
だが、結果として五体満足で生き延びられている。
命があるだけで僥倖と言える。シャイラは左腕に体重をかけて、ゆるゆると上体を起こす。枝束が異音を発するも頓着せず、枝葉から身体を引き剥がした。
節々の激痛に、口から喘ぐような声が漏れる。
(『根絶』の一閃の余波。『螺旋現実』を展開してなければ、きっと只では済まなかった……でしょう)
当の『螺旋現実』はすでに融けて消えている。
あれは顕現させるにも維持するにも、莫大な魔力を要求され、体力を根こそぎ刈り取っていく。長期間に渡って使うものではない。普段は、数ばかり多い雑兵の類いを一掃する役割で活躍させている。
咳き込む。喉奥に溜まった土埃と一緒に、唾を吐き捨てた。唾液には砂だけではなく、血液も絡まっていた。その色が、視界に焼きついた『根絶』の瞳を想起させる。いまだに赤が神経に粘っていた。
頭を振る。他に、気に留めるべきことがある。
『シャイラ・ベクティス』
シャイラの呼吸音以外の声が、静寂に落ちた。
異様な明瞭さで聞こえるのは、これが現実世界に響いたものではないからだ。
(こんなときに……とは思いますが、こんなときだからアンシャートは私に話しかけてくるのでしょう)
『螺旋現実』が語りかけるのは、決まってシャイラが楽しんでいるときか弱っているときだ。今回は後者にあたる。おそらく『黎明の導翳し』としての体裁が保てなくなった彼女を諭すためだろう。
憂鬱の雲が心内に立ち込めるなか──。
『お前、これからまた黒球を追うつもりでしょう』
「え」
『強情なお前のことです。これだけの報いを受けてなお、目標をブラすことはないのでしょう。面従腹背というと世渡り上手に聞こえますが、お前は面従が言葉や態度だけで、意見を変えない不器用な女です』
つらつらと呆れたような声色で人物評が紡がれる。
またぞろ『螺旋現実』に愚昧ぶりを断罪されると予測していたため、想像と反した切り口に面食らった。てっきり、一も二もなく蔑まれると思っていた。
シャイラは戸惑いつつも、声の顔色を窺う。
「……怒ってません、か?」
『怒ってません』
「その。私、勝手なことばかりする、から」
『怒ってません。初めてでもなし、今更です。私はお前の親ではないし、きっと怒っても改善されないでしょう。それはお前の本質だからです」
「あ、ありがとう……ございま、す?」
『だからこそ、お前に問うておく必要があります』
『螺旋現実』は問うた。
『お前、ここまでして助ける意味は何ですか?』
「たす、ける」
『あのソルという童子のことですよ。何で、お前は大怪我を負ってまで取り戻そうとするんですか? あれは、お前たちの目標である『根絶』討伐に必要不可欠な存在、というわけでもないでしょう。それを無理に助けようとして、お前の戦力低下を招くほうが討伐隊には不利益です。どだい間尺に合わない』
その問いは、身に覚えのあるものだった。
シャイラ自身も思惟したことだ。ソルが黒球に飛び込んだあと、二択を迫られた。ソルの救助か、討伐隊の援護。天秤にかけた結果、幼女のほうを選んだ。
声は、この行動原理についての問答を始めた。
シャイラが無意識的に即断した意味を、彼女自身に再認識させようとしているのか。
『恩を受けたハキムの孫だから、ですか?』
そうだ、とシャイラは首肯する。
ハキムから受けた恩を、数え上げればキリがない。
煉獄さながらの地から救われたこと。得体の知れない自分を匿ってくれたこと。シャイラが四大将の位階に立ったきっかけも、彼に対する恩返しだった。
彼の家族を救うことは何より優先されるものだ。
『ですが、童子に対する感情はそこに依拠するものだけでしょうか。たとえば、敬愛するアルカディーナと重なるから、という側面もあるのではないですか?』
数時間前、ソルと湖畔で会ったときだった。
彼女が月を背に立ったとき、かの王と見紛った。
この世の怨嗟では穢れそうにない、白髪。
強靭な心の在り方を落とし込んだような、双眸。
ソルが敬愛する王に似ていて、入れ込んだ一因であることは否定しづらい。
『あるいは、以前のお前と重なるから、ですか?』
過去の自分とソルとの共通項は幾つも見つかった。
だが、挙げられた要素は、どれも本質から逸れているように感じられた。
『いま結論を出す必要はありません。ですが、否応なく、お前はいずれ向き合うことになります。お前自身の、夢と現実の相剋による螺旋。それは崩壊する一歩手前まで来ているのですから』
「どう、いう……」
『後悔のない結末は、お前が気づかねばなりません』
──私はお前の超克を望んでいます。
その言葉を最後に声は消え、胸の鼓動が収まった。
耳には、己の獣じみた息遣いだけが残っている。身体には依然、鈍痛の塊が肩、肘、腿、膝に深々と沈み込んだままだ。右手から脚先の皮膚までの痺れは、いまもべっとり張りついた感触として残っていた。
ぽつりと、問いかけの余韻を引きずりながら呟く。
「私が、ソルちゃんを……助けたい、理由」
荒々しい呼気、蹌踉とした足取りで前に進む。
曖昧な動機に対して、強烈な執着。
それは、芯なる動機を自認できていないためか。
「誰、ですか。そこで見てる、の」
シャイラは立ち止まって、視線を一点に絞った。
暗がりに音が浸透したと見るや、立ち止まった。
「おう──? シャイラの姐さんだったのか」
間の抜けた言葉を伴って、目前に人影が降り立つ。
軽い着地音で現れたのは、フード姿の中背の男。
その瞬間、彼の枯葉色の外套が風圧で持ち上がり、垂れ気味の目元が覗く。柔和な印象を与える見目は、どうやらデュナム公国出身らしい特徴と言えた。
見覚えがある。彼は討伐隊の偵察部隊、眼班だ。
「って、姐さんすんごい怪我じゃないですか! 早よ集落に戻ってください、道中で何があったんですか」
「ちょっと……その、魔力誘爆に巻き、込まれ、て」
「ちょっとて……常人の埒外ですねえホント……」
男は納得しがたい様子だったが、シャイラが無事である証明として左腕を回すと、渋々受け入れた。
垂れ下がる右腕の深刻な負傷については隠し通す。
もし明るみに出れば、無理にでも集落に帰されかねない。
「あ、なたは……どうしてここ、に?」
「そりゃ仕事ですよ。俺の役割、子飼いの獄禍の監視なんで。そうでもなきゃね、こんな伊達男、こんな陰気くさあい、暗え森にうろついちゃいませんよ」
男は極めて軽薄な口ぶりで、ぺらぺらと口を回す。
眼班の役割は、討伐対象の監視と連絡だ。拠点で待機する角班、爪班に代表される討伐専門の戦力とは異なり、ここ一帯に点在する獄禍を監視するため、基本的に野営を強いられる。集落には基本的に寄りつかないが、総員が揃った上での決議を下す場合か、ハキムが直接話をする場合、呼び出しを受けるらしい。
呼び出しを受ける間は、眼班のなかで交代制にすることで、誰も監視していない事態を防ぐという。
(そういえば、昨日……集落にいた、ような)
直接会っていないため、気のせいかもしれない。
何にせよ、眼班が大森林にいることは理解できた。
(つまり、私が墜落したこの周囲に子飼いの獄禍がいて、その監視の傍ら、異状を確かめに来た……と)
事実、彼は「霧の中で大音響が響くわ、極めつけにさっきの魔力誘爆ですよ。何にしても様子見には行かなきゃ嘘でしょ。まぁ、俺以外は様子見に来てねえみたいですが」と言うと、がっくり肩を落とした。
「ホントだったらね、俺も持ち場を離れたくなかったんですがね。だーれも『根絶』の動向を監視してない状況ってマズイでしょ」
シャイラは上の空のままだったが、ひょうきんさを貫く男は、嘆息交じりにぼやく。
だが、言い終わると、目前で笑みを浮かべた。
彼は「まー、でも運が回ってきたな」と続ける。
「ムンダノーヴォの旦那か、ホロンヘッジの馬鹿を頼んだはずなんですが……姐さんを出せたのなら話が早い。知っての通り、困った事態になっちまっててな」
「何、の……? いえ、それよりも、球のような、クロカゲを、見ません、でしたか」
男の言っていることの意味はわからない。
しかし、悠長に説明に耳を傾けるほどの暇もない。
シャイラは汗を拭い、自分の用件を突きつけた。
彼女に募った焦燥は、すでに閥値を超えていた。
突然の問いに面食らった様子の男は、首を捻って。
「? ああ、見た……が。それより俺の質問に──」
「ありがとうございます。案内、お願い、します」
──よかった。それこそ私に運が回ってきました。
シャイラは心からの謝辞で、頭を下げた。
礼儀もそこそこに抑え、再び歩を進めようとする。
「待て待て! 姐さん、どこ行く気だ」
「案内を、お願いしま、す……一刻を争うんです」
「頼むから会話してくれホントに。いやっ……はは、姐さん、ちょっと落ち着いて。俺もね、考えなしに止めてるわけじゃねえからさ」
後退った男の顔を見て、我に返る。
自らの目尻に、頬に、そして唇に指で触れる。
シャイラは彼を敵意の籠った目で睨みつけていた。
(え、なんで、私……そんな、つもりじゃ)
自分の頬に指を這わせて、愕然とした。
胸元に手を当てる。剥がれていた『黎明の導翳し』という化粧を塗り直す。無闇に噛みついたことが信じられない。それだけ、心の奥底ではソルの救出を第一に置いている証拠だが『螺旋現実』の問い通り、なぜここまで切迫した感覚に襲われるのかわからない。
男は、仕切り直しの意が籠もった咳払いをした。
「ご、ごめんなさ……!?」
「ちょっと確認なんですが、まさか姐さん、伝令からの報告を受けてきたわけじゃねえんですかい……?」
「はい……聞いていま、せん」
「そりゃそうか、数時間前ですからねえ……対応が早すぎると思ったぜ畜生。だったら、何で姐さんがここに来たのかわからねえんですけど……この際いいか。そんな場合じゃねえですし、道中で話しますわ」
困惑を露にした視線を切り、男は額を撫でつけた。
周囲に目を遣ると、シャイラに首だけで合図を寄越す。ついてこい、ということらしい。柔和な目元を引き締めた表情からは、緊張感が滲んでいた。
緩慢に後を追うと、彼は声を潜めて語り始める。
「簡潔に言うから、きちんと聞いてくださいよ。まずひとつ、姐さんが追ってるクロカゲ。そいつが向かっていた先は、クロカゲの本体。本体の居場所はこの付近。そんでもって、俺が監視担当してる獄禍なワケだったんで目撃したワケですよ。そいでふたつ、そのクロカゲの本体がちょいとマズいことになってる」
「まずい……ですか」
「そう。とりあえず確認してもらうため、近くまで案内しようと思ってます。姐さんの目的がどうだか知らねえですけど、悪いことは言わない。あれを見たらすぐに拠点に戻って、ムンダノーヴォの旦那と対策を練ってほしいですね。……下手すりゃ『根絶』戦に臨む前に、総力戦をすることになるかもしれやせん」
──それって、どういうこと、ですか。
シャイラは、喉まで出かかった問いを飲み込む。
いまは、彼の言う『マズいこと』を確かめにいく道中なのだ。到着すれば、自ずと知れることなのだろう。わざわざ問うのは野暮でしかない。
そうして、それは現実となって二人の前に現れる。
「前回の報告のときは、ありゃあんな形状じゃなかったんですが……それこそ、報告通り『谷間にくっついた繭』だった。嘘じゃありませんぜ? アレが変化して、こんな状態になったのは今夜からでしてさ」
鬱蒼とした森の先。
数分後に辿り着いた場所は、壮観とさえ言えた。
「っ……これは」
具体的な言葉が紡げず、シャイラは立ち竦む。
眼下には、ぽっかりと穴が大口を開けている。
否、もはや穴とは言わず谷と言うべきだろう。
シャイラが崖淵から一歩だけ退くと、崩れた土塊が闇に吸い込まれていく。段々と小さくなり、谷底を浸す黒色に埋まる。これでは高度すら窺えない。
そんな渓谷に、異様な塔が聳えている。
「これが、獄禍……?」
月下、崖上に頂を届かせる針のような尖塔。
この塔の中頃には、笠のような箇所がある。
笠は、巨大なツツジの花冠を上下に重ねた形状だ。
上下の花弁同士は両手の指を絡めたように噛み合っており、花弁の奥には、眼光が爛々と輝いていた。金属の瞼から垣間見える目は、煮え滾るような灼熱。ファニマールの、殺意を漲らせた目とは違う。あのような、澱と血を丹念に塗り混ぜたような色ではない。
喩えるならば溶鉱炉。強烈な黄丹色を放っている。
周囲はその色に焼かれて、直視しがたい状態だ。
(あ、れは)
その花弁、周囲の崖淵や地面に、墨が滴る筆を振り回したような、無数の黒点が蠢いている。
「クロ、カゲ」
さしずめ蜜に群がる蟻の大群と言うべきか。
夥しいまでの黒点の群れ、群れ、群れ。
もはや百や二百という数では利かない。クロカゲは少なくとも三桁、花弁の影で隠れている数百体を加えれば、ゆうに千を超えるだろう。
シャイラは、クロカゲの巣窟を前に立ち尽くす。
「俺はこいつを伝えて、とりあえず確認してもらおうと、数時間前に伝令を飛ばしたんでさ。それで、何でかここに来たのが姐さんだったわけですよ」
「【そうして私は目を瞑る】」
「お、おい姐さん!?」
「【千の位階の片翼】【その視座は空にありて】【箱のなかはなか】【そとはそと】【此岸と彼岸めく空想と現実】【憧れの肖像とは交わり合えない】──」
シャイラは魔力を捻出する。
今夜三度目の『螺旋現実』顕現を行おうとする。
「■■■■断■」
「だあー! 姐さん待て! あのクロカゲのなかに、周りの魔力を探知する個体がいる!」
「望むところで、す。全員──」
無数のクロカゲが波打つように動きを見せる。
男が言うように、魔力を察知されたのだろう。
だが『螺旋現実』の昇る螺旋で一掃できれば──。
その瞬間、襟首を一気に後方から引っ張られた。
「が、あ、ぐ……!」
「どわあああ──!」
気道が締められながら、身体は宙で翻る。
崖淵に立っていたシャイラは一転、後方の森林まで飛んでゆく。まるで背面飛行だ。視界を流れる木々の茂りを見送ること数秒、いきなり襟首から力が消え、宙に放られる。唐突な浮遊感にたじろいたが、持ち前の運動能力で重心を下方に足に落とし、着地した。
草葉に潜むような姿勢になった直後である。
閃光、轟音──鼓膜が危うく外れかけた。
「死ぬう! 死んでしまうう……!」
「な、なにが……」
あれは、千のクロカゲによる一斉迎撃だ。
隣で大音響にのたうち回っているのは、眼班の男。
どうやらシャイラと同様、退避させられたようだ。
その瞬間、頭頂部がはたかれた。
「う、ぅ……っ!」
「阿呆が。そろそろ頭が冷えたか、シャイラ嬢」
平坦な声が上方から降ってくる。
見上げた先の人物が信じられなかった。
「ハキ、ム、さん……?」
「ムンダノーヴォの旦那ぁ! 助かったぜホント!」
抱きつこうとする男を、ハキムは片手で抑え込む。
そのまま、彼はジロリと地面にへたり込むシャイラを無感情の瞳で見下ろした。──記憶に残る、ベクティス家の嫡子だった男の視線さながらの温度。
床に広げていた遊戯盤から転がり出た駒を、軍靴で踏み潰しながら見下ろしてきたときと、同じ。
「シャイラ嬢。あやつはどうした」
「ソ、ソルちゃんは……クロカゲに付いていって」
「そうか」
ただ、それだけ。ぽつりとハキムは呟いた。
冷淡な態度。人情紙のごとし、彼のソルに対する興味はその程度だったのか。シャイラは口を出しかけたが、ハキムの瞳に一抹宿った感情に気圧された。
瞋恚。憐憫。諦観。複雑な色が入り混じっていた。
「帰るぞ。罰は──戻って、事情を聞いたあとだ」




