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修羅幼女の英雄譚  作者: 沙城流
第二章.幸せな怪物の墓標

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15 『束の間の休止符』

 ソル一行が拠点に帰還する頃、日が落ちていた。

 森はかぐろい闇に包まれており、刻々とその濃度を上げていく。星灯りは頼りにならない。木々の枝葉が頭上を塞いでいる以上、夕暮れが舞い降りたあとの行動は難渋する。帰路すら覚束ないのだから、夜間の獄禍討伐などもっての他である。むしろ、徘徊する獰猛な野生動物の恰好の餌食となるだろう。

 夜の帷の降りた大森林は人にとって魔窟なのだ。

 人間には、払暁まで息をひそめる安息地が必要だ。

 集落ケーブ。その門前に掲げられた篝火こそ、そこが人知の及ぶ範囲たる表徴に他ならなかった。


「『黎明』様、ストレーズ様、ソル少尉、御苦労様であります! 御無事の帰還、何よりです」

「君たちもご苦労様っ! みんなは戻ってきてる?」


 拱門に近寄ると、空から張りのある声が出迎えた。

 視線を持ち上げてみれば、石造りの門上部から張り出した物見台から男が顔を出している。控えていた門衛当番だろう。門の両脇にある篝火により輪郭が与えられていることで、彼らが二人組だと判別できた。

 イルルの問いには「いえ」と幾分か声を落とす。


爪班(つめはん)がいまだ帰投しておらず……眼班(まなこはん)が状況確認に向かっています。現状報告は後程。奥でムンダノーヴォ卿がお待ちです」

「そっか……うん、あとでね」


 イルルは被った頭巾を寂しげに揺らし、頷いた。

 ソルは目端にその様子を捉えつつ、改めてこの集落を眺めていた。僻地の集落にしては頑強な門と壁で内外を分けている。前述の通りの門と、石積みの壁が集落を囲繞しているのだ。柵や簡素な垣では歯が立たない動物を恐れてのことか、あるいは敵対勢力が近辺にあり、対抗するためなのかは推測の域を出ない。

 何にせよ討伐隊の拠点と定めるにはうってつけだ。


「それではどうぞ、こちらお入り下さい」

「ありがとーね。じゃ、シャイラのお姉さん、ルーちゃん行こっ。まずはハキムお爺ちゃんのトコに!」

「は、はい……」

「失礼いたすのじゃ」


 門扉は内側から開かれ、一行は集落に通される。

 ソルはすれ違いざま、門を開けた男たちの顔色を見遣った。視線に気づいた彼らは黙礼を返すと、持ち場に戻ってゆく。その様子に感嘆しながらソルはイルルの後を追う。昨朝に会った眼班(まなこはん)と呼ばれていた者たちもだったが、想像以上に帝国小隊という『敵国の異物』は存在を許されているらしい。ビエニス王国の国風だと聞いてはいたが、目の当たりにすると驚く。

 この様子ならば、ナッドたちも無下には扱われていないだろうが──。


「だい、じょうぶ、です……」


 人知れず気を揉んでいたソルの手が握られる。

 あくまで控えめな、触れるだけの握手だった。


「ハキムさん、も、みんなも……こわくない、です」

「ベクティス殿……ええ、有難いことですのじゃ。その、わし以外の小隊員がいささか気がかりでして。模擬戦が済んだあとから会っておりませんゆえのう」

「あ、そ、そうなんですね……私、てっきり……」

「てっきり……?」


 シャイラの声量に合わせ、小声で喋りつつ進む。

 集落は、日没後にも関わらず賑わいを見せていた。

 日暮れを刻限に、獄禍討伐で出払っていた人々が戻ってきたためだろう。新たに傷痍を得た隊員は看護を受けたあとなのか、包帯の白が目についた。彼らは幾つもの集まりに分かれて、焚き火を中心に円座をつくり、遅めの夕餉を口にしている。それを横目に通りすぎる際、皆一様にこちらに意識を向けてくる。労らいの言葉をかけられ、痛いほどの視線を感じる。

 腫れ物扱い──否、単純に目立っているのだ。

 何しろ、討伐隊のなかでも目を惹く三人組である。


(ストレーズ殿はデュナム公国の代表、ベクティス殿はビエニス王国の大英雄。わしは……腹立たしいことに、ハキムの孫と認識されておるゆえのう)


 イルルが、話しかけてくる皆の応対をする。

 一方、ソルとシャイラは彼女の背後で会釈をしてやり過ごしつつ──離されなかったため、手は繋いだままだった──そのまま一行は北進を続ける。数分程度も歩けば、目的地である集落の奥に辿り着いた。

 そこは、元々集落の長の住まいだったのだろう。立ち並ぶ家々よりも二回り三回りは大きい煉瓦造りで、集落での強権ぶりを誇示しているかのようだった。


「よう帰ったなあ、御苦労さん」

「ハキムのおじいーちゃん、ただいまっ!」


 扉を開けるや否や、イルルが飛び込んでいく。

 それに遅れて、ソルとシャイラが室内に踏み入る。

 内部はがらんとしていた。部屋中央を円形の机が陣取り、椅子は七脚ばかりが用意されている。そのうちの一脚に、赤毛の老爺が一人、腰を落ち着けていた。

 ハキム・ムンダノーヴォ。彼は、はしゃぐイルルを受け止めながらこちらを見つめてきた。唇の端を痙攣させ、不気味な笑みを浮かべている。その上、目配せを送ってきた。ソルが睨み返すと、力なく首を振る。

 本題を切り始める気になったのか「さぁて」と呟いたが、暫し待っても話が始まらない、どころか──。


(なんじゃ貴様。人をジロジロと)


 黙って、丹念にソルの全身を検分し始めていた。

 言問い顔の幼女に気づくと、ハキムは破顔する。


「全身にかすり傷と、薄ら脹脛(ふくらはぎ)までの火傷がある……が、その顔。怪我の具合は屁でもなさそうだなあ、善哉善哉。健在な孫の姿が見れて安心したわい。報告が終わり次第、治療所で手当をして貰え。明日もお前さんは獄禍と対峙せねばならんからのう」

「ハキムさ、ん……」


 恐る恐るといった風情で、シャイラが声をかける。

 

「私……ソルちゃんを、守れ、なくて……」

「その話は後にせい。幾らでも聞いてやるわい」


 意外なほど温度のない返答に、シャイラは俯いた。

 やはり違和感がある。ソルは目を鋭くする。この二人の間に横たわる溝は、四大将とその副官という関係性によるものだけではないのだろう。ここまで淡白なハキムの反応は見たことがない。彼の人徳として、場を和ませる人心誘導の巧みさがあったのに。

 イルルも以前「二人は特別なんだ」と言っていた。

 事実、彼らには彼らなりの事情があるのだろう。ソルが人の感情の機微に疎いとは言え、彼とは旧知の間柄である。全くの僻目ではあるまい。ただしソルは部外者。必要以上に踏み込むつもりはなかった。

 ただ、せめて、垂れ下がったシャイラの手を握る。


(こう、老いたくはないものじゃな。お節介と重々理解しているつもりじゃが、無性に世話を焼こうとしてしまう。彼女は大英雄、立派な女性じゃ。子供ではなし、何とも思ってはないじゃろうが……のう)


 隣から息を呑んだ音がした。拒まれはしなかった。


「まずはケダマ討伐の報告を済ませ」

「はいはいはい! 了解っ! イルルに任せて!」


 イルルが声を明るくして、場を流しにかかった。

 腰元に吊り下げた巾着袋から石を取り出して、ハキムに手渡す。彼は矯めつ眇めつすると、軽く頷いて懐に入れる。あれは今回の成果物、オド結晶だ。

 曰く「『根絶』討伐で絶対必要」。ハキムの表情を窺ってはみたものの、意図を汲むことはできない。澄まし顔で、ただ皺の奥にある目の深みが増していた。

 思えば、彼は博奕に滅法強かったことを思い出す。

 感情を埋伏する腕前は、ソルのそれを容易に凌ぐ。


「いやねえ、ルーちゃんがホンッットすごくて──」

「そうかそうか……」


 イルルは身振り手振りで討伐報告をする。

 ケダマの特徴、能力、所感、そして得た成果物。その間にハキムは羊皮紙に筆を走らせながら、片腕をソルのほうに向けてきた。くいくい、と第一関節で指を曲げる。ソルは露骨に怪訝な顔をしたものの、如何なる用向きか確かめるためにも近寄ってみた。

 ハキムに、硬い指でぐにぐにと頬を弄られた。


(殺すぞ──)


 率直にそう思ったが、無抵抗のまま仏頂面で問う。


気でも狂うたか(ひえほふるうはは)

「何を言うとる我が孫よ」


 ハキムは心外そうに言った。


「鉄火の間を潜り抜けた戦士を労うことに、何ら不思議はなかろう。ほれ、神経をささくれ立たせては、効果があるまい。年甲斐にせい、笑えい笑えい」


 殺意は増したが、すぐ背後にはシャイラがいる。

 彼女は、ハキムの家族関係を微笑ましく見ている節があった。その目前で乱暴狼藉を働きたくはない。忍耐力に関しては一端の自信があるのだ──ソルは努力して、片方の口端だけを吊り上げることに成功した。

 きっとハキムは一連のソルの心理を理解している。

 忌々しくも、理解した上で弄り倒しているのだ。


(こういう……わしの弄り方だけは変わらんのか)


 ハキムは事務的な作業を終えると「討伐報告、確かに受け取った」と場を締める。


「討伐数は順調だなあ。想定より早く『根絶』の霧を払えるやも知れんのう。無論、油断は禁物だがなあ」

「その、あの、私も──……いい、ですか」


 ずっと俯いていたシャイラの震え声が上がる。

 彼女も報告事項があるのだろう。先ほどのハキムとの遣り取りを見ていると、要らぬ気遣いとは承知の上でこの場に留まりたくはあるが、それは部外者の立ち入れる領域を越している。ひとまずイルルとともに辞して、道案内して貰いつつ治療所に赴くことにする。

 ハキムは、シャイラの求めを目線だけで了承した。


「我が孫、ソルよ。俺は、お前さんとの家族水入らずの会話がしたいわけだが……シャイラ嬢のあとにしたい。とりあえず、お前さんは治療を受けたあと、飯でも摂りに行くといい。腹を満たした頃にはシャイラ嬢の報告も済んでおるだろうよ。場所はここではないほうがいい──落ち合う場所は、いいな?」




 ※※※※※※※※※※




「あああ、もう力が入らねえ……」

「ちょっとナッド? 自慢の貧相な顔が台無しよ」

「……何だ」


 マジェーレの憎まれ口に反応する元気もない。

 ナッド・ハルトは、大の字で寝転がっていた。

 瞳には黒で丹念に塗り重ねられた空が映っている。

 数多の星の瞬きが埋没したそこに、棚引く白煙が吸い込まれていく様を、ぼうと眺めていた。考えてみれば、こんな場所で──他国の連合軍たる獄禍討伐隊の拠点で、気を抜いてはならないはずだ。一時的に手を組んだ間柄とは言え、警戒心の一切を取り払うほどの信頼関係を築けているとナッドは言えない。あくまで利害関係が一致したゆえの団結なのである。

 与える印象の問題も存在する。単純な話、部外者が大股広げて寝転がっていては不興を買うだろう。そんなこと重々承知している。けれども動けないのだ。

 ナッドは目元に腕を横たえて、深呼吸をする。


(やべぇ。これがギリギリ。呼吸以外動けねぇ)


 本音を言えば、肺を膨らますことすら億劫なのだ。

 約二十年連れ添った身体は、別物かと思うほどにビクともしない。


(見栄、張れるほど体力なんざ残ってねえ。クソ、身体のどこにも力が入らねぇぞ……)


 ここまで疲れたのは初めての経験だった。

 かろうじて比較対象になり得るのは、学生時代の研修期間だろう。軍学生が、座学と実践の間にある埋めようのない溝に容赦なく蹴落とされる出来事。戦場に初めて派遣されたその時期、文字通りの右往左往を味わわされた。いまでも時折、そのときの光景が悪夢として現れる。それを今日の出来事が凌駕したのだ。

 新たな心的外傷(トラウマ)の誕生だった。


「まあ、今日も五体満足で帰って来れただけで御の字ね。奇跡的なことに、私たち帝国小隊も……二人の離脱者以外、無事に戻ってきた。どうやら昨朝に目を覚ました少尉も、討伐を終えて帰ってきたようだし」

「少尉が……? クソ、力が出ねえ……」


 込めようとした力は、数秒と経たず霧散。

 何度もそれを繰り返して、結局半身を起こすことも叶わない。儘ならなさに歯噛みする。今日に至るまで人事不省だった幼女との久々の再会になる。帝国小隊の現状について報告も行いたいが、何よりナッドがあの奇天烈な幼女と対面したい気持ちが強かった。

 しかし、呆れたような響きの言葉で宥められる。


「いま無理してご挨拶する必要はないでしょ」

「で、も……」

「でもじゃない。私が行くわよ」


 溜息混じりに言われ、逡巡しながら感謝を漏らす。


「……その、ありがとうな」

「はあ? 当然じゃない。私の役割は副長。隊員の置かれている状況等、報告する義務は私にあるのよ」


 更に呆れた口調を強められると、少し腹は立つ。

 ただ、受け流せるほどには慣れた。マジェーレは如何なる場合でも憎まれ口を叩く奴なのだ。言動に馴致していれば、基本的に他者の人格的な問題は許容できる。自分の内にその他者を定義する(わく)があれば、少なくとも驚かない。枠があるということは、それとの適切な心理的間合いを無意識的にでも把握できているということであり、人付き合いする上で役に立つ。

 もっとも、ナッドは既存の枠に当て嵌めることの危険性──従来の狭い視野で決めつけた結果、本質を見誤ってしまったことは事実である。だから都度、非を認めて新たに枠をつくることを心がけている。

 マジェーレは相変わらず険のある調子で続けた。


「だから、貴方はそこで伸びていればいいわ。どうせ周りの連中は気にしないでしょう。気にしないどころか、ウザ絡みされるかもしれないけれど」

「ああ、それは……確かにそうかもな。デュナム公国の連中はともかく、ビエニスの連中も本当にあのビエニスかよってくらいに友好的だしな……」

「私たちの班、肉盾にもされなかったし」

「盾にもならないってことかもな」


 それは言えてるわ、という軽口が返ってきた。

 頭が回らず、反射的な皮肉しか出てこなかった。

 二日前(模擬戦の日)から今日までの出来事が脳内に蘇る。

 ナッドが産道を抜けて以降、これほど過酷な数日はなかった。ソルと四大将の模擬戦後、まずマジェーレやゲラートとともに御璽の契約内容についてハキム・ムンダノーヴォとの交渉を行った。精神的な疲労は凄まじいものがあった。三人で目を血走らせて、契約する一文一文を精査しなければならなかったのだ。

 なにせ、御璽が押印された文面は絶対遵守。

 下手な約定を通すわけにはいかない。下らない揚げ足を取られてしまっては、悲惨な結末を辿ることは目に見えていた。この時点で心労は頂点に達していたと思うが、まだ頭上では、太陽が我が物顔で居座っていた。あのときばかりは太陽神が憎くて仕方なかった。

 頭脳労働が終われば、肉体労働が待っていた。


(クソ、あのときは思ってもみなかった。俺たちはその日の午後に班分けされて、早々に獄禍討伐に駆り出された。見知らぬ五人の強面とともに、怪物の死線を潜り抜ける羽目になって……命からがら帰還して、で一日目終了。これを二回繰り返して……今だ)


 思い返すと、胃の縮む出来事ばかりであった。

 もう帝国の実家に帰りたかった。もしくは土に埋まり、そのまま目覚めたくないとさえ思った。いっそこの疲労感に沈み込む形で死んでしまえたら。それで楽になれるのならばそれでいい──。

 と、早まった思考経路を何度もなぞるほどには疲れきっているナッドだった。


(はあ。こう、改めてみても馬鹿みたいに忙しない数日間……たぶん、帝国小隊のなかでもぴんぴんしてんのはマジェーレとゲラートくらいだろ……)


 そのとき無理矢理、呼吸を止められた。

 不意に、口内に異物を詰め込まれたのだ。

 目を剥いた。右に左に頭部を動かそうとしても──異物とともに顔も抑えつけられているからか──抜け出せない。なんて力だ。息苦しさが一線を超えた。視界を塞ぐ細腕を退け、反射的に跳ね起きようとする。

 すると、あっさり起き上がることができた。


「っ!? 何を……しやがんだマジェーレ」

「夕御飯よ。それは食べておきなさいな」

「だからって、窒息させるこたねぇだろが!」

「……貴方、さっきまで何も反応がなかったのよ。肩を叩いても声をかけても、何もね」


 ナッドは愕然とした。一切、気づけていなかった。

 目前の黒い少女は、半目でパンを頬張っている。

 ナッドは、手のなかに視線を落とす。起き上がる際に噛み千切ったもの──黒ずんだパンが断面を晒していた。どうやら先ほどは、マジェーレがナッドの分のパンを口に押し込んでいたらしいとわかる。

 普通に渡せばよいものを、とは思ったが、前向きに捉え直せば「ナッドのことを思っての行為だった」と捉えられなくもない。疲れからか気絶したまま、夕飯も食らわずに朝日を迎えてしまえば、明日という日が命日になるのは避けられない。マジェーレはそれを防がんと、泣く泣くパンを突っ込んだのだ。

 これは彼女なりの優しさの発露なのである──。


(いや、冷静になれよナッド・ハルト。それとこれとは話が別だろ。疲れて眠りかけてる奴の口に、物突っ込んでくるとかありえねぇだろ。あのイカレ女、人を殺しにきてるとしか思えねえ……)


 マジェーレ・ルギティという枠を『イカレ女』という言葉に即した領域分広げておいた。


「っ……つか、もう限界」


 命の危機に際して立ち上がったはいいものの、全身の筋肉が悲鳴を上げていた。ナッドは力が抜け、したたかに尻を地面に打ちつける。恨みを込めてマジェーレを睨むも、彼女はどこ吹く風だ。あらあら大変ね、と言わんばかりの表情で、黙然と見下ろしていた。

 この性悪な側面さえなければ、素直に尊敬できるところもあるのだが──。


(そう思えるくらいには、俺もコイツのことを認めてるんだけどな。ちくしょうめ)


 ナッドは手のなかの食糧に齧りつくことで、眠気や怠さ、マジェーレに対する苛立ち諸々を発散しようとする。パンは想像以上に硬く、無味極まりなかった。口内に入った途端、水分を根こそぎ奪っていき、せっせと舌で転がしても味がしない。これは、疲労のあまりに味覚が麻痺しているせいではないのだろう。

 更なる苛立ちが募ったものの、藪から棒にマジェーレが水の入った容器を差し出してくる。


「何を企んでやがる」

「私はいつも何か企んでないといけないの?」


 ナッドは舌打ちしつつも、有り難く受け取った。

 慎重に口元に運び、口内の硬いパンと喉を潤す。


(普通の……水だな。何の変哲もない)


 マジェーレの扱いに困るのはこういうところだ。

 善悪の二元論では彼女を枠に当て嵌められない。

 ナッドがまだ人物像を掴めきれていないからだが、毎度ひどく翻弄されてしまう。


「ここ、水には困らないんだな」

「近くに湖があるそうよ。水源に恵まれているのはいいことね。体力が残っているなら水浴びでもどう?」

「俺の様子見て、体力が残ってるなんて思えるのか」

「いいえ? 言ってみただけよ」


 マジェーレはパンの最後のひと欠片を飲み込んだ。


「水浴びならお前が行ってこいよ、臭いし」

「遠慮するわ、生憎と体力が余ってないもの」

「……お前の様子見りゃ、誰もその台詞信じねぇよ」

「全くだなあ。ともすれば、この討伐隊で一等元気なまでありそうだ。よーやるなあ、おい」

「バオトさん、いたんですか」


 いつの間にか、隣に大柄な男が平座していた。

 彼は、吊り気味の細目でにやにやと見つめてくる。


「おう、ついさっきな。何だ仲間割れでもしてるモンかと思って、仲裁に入ろうとしてたんだが」

「まさか。誤解も甚だしい。私の優しさを傍目に見て解さないなんて視力に問題があるに違いないわ。(まなこ)班が聞いて呆れるわね。まるで目覚めない姫に接吻して起こす、お伽話のような場面だったでしょう? ナッド、ビエニスの小悪党に言ってあげなさい」

「何で俺が擁護すると思ったんだよ。つか、バオトさんは眼班じゃなくて(ゆび)班だし、お伽話じゃ王子は姫の息の根止めにいかねぇぞイカレ女。早く死ね」


 最後に本音を吐き捨て、ナッドは男に目を向ける。


「だから間違ってないですよ、バオトさん。これで仲間割れは無事に済みました。もう仲裁は不要ですよ」

「ごめんなさい。言いすぎたから謝るわ」

「謝意が欠片も感じられねぇ……し、反応に困るから謝んなよ。こっちはお前の憎まれ口は慣れっこなんだから……クソ、軽口だ軽口。別にマジでお前と決別するわけじゃねぇよ。こんなこと俺に言わせんな」

「そう? なら、よかったわ」


 けろりとした顔だったが、どこか本気の色がある。

 彼女の良くも悪くも空気を読まない言動は、帝国小隊の処遇決めでは有用に働いていたが──。

 

(何か、変なところが浮世離れしてんだよなコイツ。こういうところは少尉に似てるとも言えるけど)


「お前らもまー特殊な関係性だな。帝国って皆そうなのか? そのー、アレだ。全部嫌になったあとの亡命先は慎重に選べよ。ラプテノンはオススメしないが」

「考えてみれば、俺を労ってくれるのは少尉とバオトさんだけですね……」


 バオトは悪人面が目立つ総髪の男だ。

 右頬に大きな切り傷があり、濃い鬚と揉み上げが顎を覆っている。本『根絶』討伐の活動が長いためか見目の手入れは為されていない。ゆえに一見、野盗のような印象を与えるわけだが、軍での地位がある。

 彼は、ビエニス王国軍所属の中隊長。『根絶』討伐隊においては、現在ナッドが所属している(ゆび)班の長である。今回の獄禍討伐でナッドのお目付け役を務めている。お目付け役は、帝国小隊に獄禍討伐の立ち回りを教える役割だった。と言うと、彼らに懇切丁寧に手引きしてもらえたように聞こえる。

 全くの誤解であることは、このナッドの疲弊しきった身体で一目瞭然だった。


(初日から危うく獄禍に喰われかけた。場所が木の密集する見通しの悪いところだったのもそうだが……分裂して追尾してくる口を放ってくる獄禍相手とか……もう思い出したくねえ。唯一救いだったのは、魔力供給管のある本体は動けないことだった)


 言葉遊びではなく、生死の瀬戸際だった。

 そんな討伐を今日含め三日間で計三回。自らが死していないことが不思議なまでの修羅場を乗り越えたわけだが、その甲斐あって討伐隊との溝は少なからず埋まった。他の帝国小隊の皆も似たようなもので、同じ釜の飯を食するどころか、同じ戦場を生き抜いた間柄には、やはり情が芽生えてしまうものだった。

 それが熾烈極まりなければ尚のことだ。


(少尉のときと同じだ。バラボア砦で死闘を演じていなければ、あの子を慕うことはなかっただろうし)


「まあ、ほら。疲れが取れないってんなら、向こうであいつらみたいに酒盛りしたほうがいいかもな。気分転換にはなるだろーし、一日の活力になるぜ?」

「酒盛り?」


 何を馬鹿な、とバオトの冗談を一笑に付した。

 ここで酒を含む馬鹿がどこにいるというのか──。

 ナッドは言われるままに振り返って、絶句した。


(おい嘘だろゲラート)


 目に飛び込んできたのは、二人の男が肩を組む姿。

 見間違いはない。ゲラートとホロンヘッジだった。

 他の強面の男衆が囃し立てるなかで、彼らは手にした杯を口に運んで喝采を浴びていた。周囲含め、みっともない酔態をさらしている。大男のゲラートは、線の細いホロンヘッジを振り回す形でほつき歩き、あちこちの円座の賑わいに厚みを与えていく。

 ナッドは素直に、酔漢に絡まれることを恐れた。

 しかし、そんな願いは一顧だにされることもない。


「おお、ナッドではないか!」

「げ」


 ホロンヘッジの芯の通った翠の瞳に捉えられた。

 逃げそびれたナッドは仕方なしに覚悟を決める。バオトが同情するように軽く肩を叩いてきた。一方、マジェーレは怪訝そうな眼差しを酔漢に向けていた。

 恐れた通り、二人がふらつきながら接近してくる。

 想定外だったのは、他で円座を組んでいた男たちまでぞろぞろ引き連れてきたことである。さながら誘蛾灯のようであり、集落の喧騒の中心がナッドたちに移ってきたわけだが、疲れた身体に馬鹿騒ぎは毒でしかない。儘ならない現実に頭を抱えたくなったが、この宴会騒ぎの経緯を訊く機会に恵まれたとも言える。

 ナッドが所以を尋ねると、鷹揚に青年が答えた。


「おお! それがな! そこの倉庫番がな、酒蔵があるのを発見してな! 中身を検めると、なんと、中身の酒が放置されているではないか! 折角の酒を腐らせては豊穣神様に顔向けできん! これは酒盛りをして、我々の士気を高めよとの啓示に他ならない! そう思い、オレが皆に酒を振る舞ったわけだ! 当然、量は引き摺らない程度にとは言っておいている!」

「な、なるほど……」


 経緯を聞くと、何だか頭が痛くなった。

 ナッドは諦め気味に周囲を一瞥する。

 強面たちが座り込み、勝手に楽しみ始めていた。

 どこから拝借してきたのかわからない酒器で酌み交わし、笑い、馬鹿話に興じ始めている。酒の量自体は貧しいものの、盛り上がりは大宴会相応だ。ホロンヘッジの狙い通り、士気向上になっているらしい。自制を利かせて羽目を外さないのなら効果的なようだ。

 それより、とナッドは隣に腰かけた男に目を移す。


「こりゃどうなってんだよゲラート」

「あァー? どうなってるってどういう意味だよ」

 

 ほろ酔い気味の大男が、自らの栗色の髪を乱暴に掻き毟ると、腕を枕にして寝転んだ。

 マジェーレが興味深げにしゃがみ、言葉を継ぐ。


「そうよ。ゲラート貴方、あのデュナムの間抜け代表といつの間に仲良くなっていたの? まるで十年来の親友みたいに肩を組んで、阿保面を晒して……ねえ大丈夫? 私は貴方の頭を心配しているのよ」

「何だその言い回し。腹の立つ奴だよなァオメェは」

「それには同意するけどな」

「あら、結託して私を集中砲火?」


 されても文句は言えないだろ、とナッドは呟いた。


「でも、流石にビビるぞ。最初の頃は『根絶』討伐自体に乗り気じゃなかっただろ? それが今日帰ってきてみれば、獄禍討伐隊の代表者とあんな……」

「あのなァオメェら。勘違いしてるみたいだが、俺ァ別に、頭が固ェ馬鹿じゃねェぞ? つーか『根絶』討伐に乗り気じゃねェのは当たり前だろ。いまだって乗り気じゃねェわ。俺ァ戦闘狂じゃねェんだからな」

「まあ、それはそうだけど……」


 ナッドも、積極的に死地に行きたいわけてはない。

 ゲラートは鬱陶しげにナッドを睨み、息を吐いた。


「それによォ、オメェらだって討伐隊の連中と打ち解けてるじゃねェか。獄禍討伐する上で信頼感が生まれたクチだろ? そこの……(ゆび)班の隊長さんとかな」

「おーう。ナッドとマジェとは仲良くしてるぜー」

「ちょっとバオトさん痛いです」

「すまんすまん。ついついやっちまった」


 バオトは、ばしばし膝を軽く叩いたことを謝る。


「あー、帝国の面子で喋るなら席を外すけど?」

「外さなくていい。つーか、そうやって俺らを試すんじゃねェ。オメェはお目付け役だ。もし言葉に甘えても、遠くで聞き耳立てンだろォ? そんでハキム・ムンダノーヴォにでも報告するはずだ。『帝国小隊がこれこれこういう密談を』──って具合でなァ。俺らは変に不信感を煽るような真似しねェよ」

「いやーね。参った」


 ゲラートの言葉をバオトは否定せず、ただ白旗を振る仕草をした。


「流石ねゲラート。わざわざ披瀝しなければ百点よ」

「採点すンな。こりゃナッドのお坊ちゃんのためだ」

「お……俺の?」


 見つめ返すと、彼は逡巡したあと視線を逸らした。


「……そうだ。マジェや他の小隊の奴らとは付き合いが長ェ。だが、少尉とナッドとは今回の──まァ当初の目的は霧散したが──仕事が初めてだ。知識も考えも、俺らの間で共有してるモンはねェ。だから、俺やマジェや他の面子がわかってることでも、きちんと口に出して線引きしねェと迷子になっちまうだろォが」

「一理あるわね。貴方、子守りは得意と見たわ」

「オメェの相手してるワケだから一理あんなァ」


 やいのやいのと言い合う二人を前に、呆然とする。

 思えば、確かにゲラートの言を手がかりにして現状の把握を行っていた。彼によって帝国小隊の立ち位置を明確に表明されることで、未熟なナッドでも状況に追随できていた。それが意図的なものだったとは。

 ナッドが二の句が継げない間に、マジェーレは本筋の問いに軌道修正する。


「話を戻すわよ。貴方がホロンヘッジ・バルバイムと必要以上に仲良くしている話。先ほど貴方は、私たちが個人的に親交を深めているのと同じだと言いたげだったけれど、理由はそれだけなの?」

「あとは、可能性があるって認めたのもあンな」

「可能性?」


 鸚鵡返しのマジェーレに、赤ら顔の口元を歪める。


「決まってるだろォ。『根絶』をぶっ殺して、めでたく帝国に帰還できる可能性だ。それが見出せりゃァ、事を構えるよか握手したほうが利口ってわかるだろ」


 ゲラートは凶暴な笑みを、星々が彩る空へ向けた。


「もちろん、最初は馬鹿みてェ話だと思ったさ。原罪の獄禍は太刀打ちできねぇ怪物中の怪物。そう子供の頃から言い聞かせられてんだからな。……だがァ」


 彼は、三日の共闘を通して理解したのだという。

 獄禍討伐の面で、帝国は後進国だったのだ──と。

 帝国小隊の面々は、帝国内に現れた獄禍の討伐を担ってきた人材だ。ゆえに『根絶』討伐隊の強みを、ソルやナッドより読み取れる。


「この『根絶』討伐隊は精鋭揃いだ。帝国と違って、何も英雄……四大将頼みってワケじゃねェ。一人一人の練度が高いことに加え、獄禍討伐に至る技術が完成している。各国に現れた『根絶』が引き連れている獄禍の情報を洗って組み上げたんだろうが」


 ──驚いた、勝機が見えるほど集積されてやがる。

 何のことはない。どんな強大な怪物も対抗策が確立されていれば、十分に獲物になり得る。只人たちの知を結集した一矢が怪物の脳天を貫く、それが確かならナッドたちは勝ち馬に乗った可能性すらある。

 ただ討伐を成し遂げたとて、帝国小隊に益はない。

 怪物の首を持ち帰ろうと、それは帝国内での昇進や名誉に結びつかない。精々悪趣味な家財道具として壁に吊り下げる他ない理由は、討伐したビエニス・デュナム両国の名前を出すわけにはいかないからだ。

 敵がお伽噺の怪物だったとしても、現実はお伽話の英雄譚ではないのである。


(どれだけ。どれだけ悪い奴じゃなくたって、現実的にはビエニスもデュナムも敵国。仲よく肩組んで怪物を倒しました、じゃ許されない)


 ナッドたちが得られる報酬はひとつ。

 生きて帰ることだけ、だった。


「話はわかった。ゲラートは戦力的に鑑みた結果『現実的に討伐できる』って判断したってことだよな」

「そうだよ坊ちゃん。思えば、簡単に予想はついた」


 見ろよ、とゲラートは視線を右方に飛ばす。

 つられて見遣ると、集落奥から女が早足で歩いて出てきている。目敏く気づいた人々が次々と彼女に寄っていき、間もなく人垣となり始めていた。

 瞬く間の盛り上がりに、ナッドは顔が引きつった。


「ここにはビエニス王国を支える一柱──『黎明の導翳し』がいるんだぜ? 坊ちゃんこりゃ簡明な三段論法だ。自国の大英雄を捨て駒にするはずがない。現在は国同士、帝国とのドンパチの最中。ゆえに『根絶』討伐隊に明確な勝ち筋が存在する……ってなァ」


 ナッドは生唾を飲み込んだ。

 薄々わかっていたことだった。負け戦というには士気が高すぎるし、人員も猛者ばかりなのだ。だが、改めて希望が提示されると、やはり安堵してしまうものだった。足先の暗闇を照らす灯がわずかだとしても、あるという確信だけで心の支えになるものだった。

 ただ、マジェーレは斜に構えた態度を崩さない。


「皮算用は程々にしておきなさい。『黎明の導翳し』はともかく、私たちが捨て駒になる可能性はある。根拠の薄い推論を重ねて未来予想図を組み上げても、何の意味もないわ。そんなもの、いつか風が吹いただけで脆く崩れる代物にすぎないもの」

「クソみてぇな上から目線、いつも有り難ェな」

「マジェーレはあれだよな。良いことあった奴には良いものの負の側面を教えて、悪いことあった奴には正の側面を教えて、誰も頼んでないのに公平な立ち位置を陣取って悦に入るようなところがあるよな」

「あるある。毎日聞いてると堪らねェよなァ」

「ちょっと貴方たち? 私を口撃するときにだけ仲よく結託するの、非難されて然るべきだと思うわ。あとナッド? 『あれだよな』という軽めの出囃子から妙に具体的で鋭利な言葉を振り回すのは禁止よ」


 お前が人の気持ちに水差すのが上手いからだ、と言うとゲラートも我が意を得たとばかりに頷いた。


「まァ、マジェの言うこともわかっちゃいるさ。でもな、前向きに思考誘導することは悪ィことじゃねェだろ。目地を踏まないようにしながら獣は狩れねェ」

「言えてるわね」

「だろうが」


 鼻を鳴らし、最後のパンひと切れを口に放り込む。

 ナッドは改めて、ゲラートをまじまじと見つめる。

 彼に対する印象はこの数日で百八十度変わった。

 以前は、思慮の浅い荒くれ者だと認識していた。だが、それは早計な一隅の管見にすぎず、彼の基づく行動原理は比較的常識的だ──比較対象はソルとマジェーレ──ゆえに、いまはすこし親しみを抱いている。

 当のゲラートは怪訝そうに見返してきた。


「何だァ、お坊ちゃん。喧嘩なら買うぞォ?」

「ガンつけてるわけじゃないんだけどな……こういうトコが喧嘩っ早いのは初対面の印象から変わらないんだけど、これもゲラート、お前の考えがあるのか?」

「ないわよ。人間は見た目が九割よ」

「おっと喧嘩売ってたのはマジェのほうみてェだな」

「やめなさいな。貴方が私に歯向かって勝てるわけないでしょう? それにいまは一対二よ?」

「なァ坊ちゃん。コイツを二人で沈めねェか?」

「乗った。全面的にゲラートが正しい」

「あら、反逆者ども。いいわ。二対一でも私に勝てると思い上がっているなら、良い機会だし、ここで副長の威厳を取り戻させてもらいましょうか」


 酒宴内の口論は、お祭り(・・・)の予兆に他ならない。

 傍で酒を嗜んでいたバオトが仲裁に入った段階で、騒ぎを聞きつけて面白がる人間が集まってきた。最終的にはなぜか、ナッドは討伐隊の強面たちと肩を並べて杯を交わすことになっていた。微量の酒精で舌を濡らしながら、酒席に倦んだ青年はひとり「休ませろ」と、叶わぬ願いを真っ暗な空に投げかける。

 ──和やかに、夜は深まっていく。




 ※※※※※※※※※※




 喧騒は遠く、わずかに鼓膜を揺らすだけだった。

 幼女は、ひとり星空の下で木剣を振るう。

 風切り音が宵闇に響いた。夜鷹の鳴き声や虫たちの合唱を押しのけるように、木製の剣が振るわれる。息継ぎ。風切り。息継ぎ。どこまでも規則的だった。

 白磁の彼女は、青い月光に照らされていない。

 傍の大樹の枝葉の笠が、一帯に影を落としていた。


「ふ──」


 基礎の素振りに、無心に打ち込む。

 ソルフォート・エヌマに空き時間は存在しない。

 直近の用事が片づけば、とりあえず棒切れを振るような男だった。反復練習はすべての基礎であり、技術の固定化に他ならない。さながら努力という槌を打って、いま立つ地面を固めるように振る、剣を振る。

 それが地道ながらも前進だと心底信じていた。


「すまん、待たせたな。いやあ、なにぶんシャイラ嬢との話が長引いてしまってなあ。暇しておったか?」


 木の下闇より、ゆらりと醜貌の老爺が現れた。

 彼は腰を曲げ、剣入りの鞘を杖代わりにしていた。

 幼女は一旦、手を止めて一瞥する。


「そう待っておらん。これで終いじゃ」

「……お前さん、精神力と体力は底なしか。疲れておらんのか、獄禍戦の後だろうに」

 

 ソルは細腕で額を拭う。当然だが、老体のときより新陳代謝が活発だった。浮かんでいた汗が、手首を伝ってべっちょりと垂れてくる。額といわず全身を滴る汗は、だらり肌を滑り落つ。気持ちがいい。夜気に浸されながらも、身体は蒸すほどの熱気を帯びていた。

 ふと見ると、ハキムは目を丸くしていた。


「なぜにお前さん……上半身を晒しておる」

「別に問題ないじゃろうが。素振りに邪魔じゃ」

「お前さんの言い分はもっともだ……もっともだが、自重せい。何だ、反応に困るし、みっともない」

「何を言うとるのじゃ。わしも貴様も、共に素振りするときは同じ格好じゃったろうが。今更みっともないなどと……人に苦言を呈する立場ではなかろうに」

「いや、わかる。お前さんの言うことはわかるが、いまはお前さん、生物の上では女となっとろうが」


 諭すような口調に、ソルは呆れて両手を広げる。


「この身体じゃぞ」

「童とは言え、だ。お前さん、誰か来れば……」

「ふん。貴様しか来ん場所じゃ。問題なかろうが」


 待ち合わせ場所に指定されたのは、集落の外れ。

 ハキムは先刻、目線でソルに合図を送っていた。

 位置としては、集落の長老宅の裏手。そこと面した外壁を越えた先にある、大樹の根元だった。集落の外壁は高く、また人の行き来はないゆえに、密会するに適した場所だった。万全を期して声は潜めるが──ここに衆目がないことは明らかなのだ。

 そう思い、ソルは上半身を脱ぎ捨てた。鍛錬による衣服の汗染みを避けるため、袖が両腕に纏わって存分に木剣を振るえない廉で、衣服は腰に結びつけた。

 結果、半裸で剣を振る光景が完成したのである。


「まあ今回はよい。傷の状態が見えやすいからのう。どうやら、傷はほとんど快癒しとるようだが……」

「ジロジロ見るな」

「脱いだのはお前さんだろうが」

「不躾ということじゃ。脱衣に限らず、人目も憚らず観察するのは不愉快極まりな……」


 と言った段階で、ソルは不躾な観察行為を咎める資格がないことに遅れて気づいた。


「もうよい」

「あ? 見てよいのか?」

「……ジロジロは、見るな」


 ソルは威嚇しつつ、後片付けを開始する。

 大樹の根元に近寄って胡座をかいた。木剣に滴った汗を十分に切って、布で包む。先まで握っていたこれは、討伐隊から借用した物だ。扱いは丁重に行う。

 その間に、老爺は大樹に背中を預け話を切り出す。


「で、だあ。どうだったよお、文字通りの怪物は。獄禍が、お前さんのお眼鏡に適うような手合いであれば、血の繋がった親として喜ばしい話だがのう」

「……クソジジイめが。獄禍はともかく貴様。わし相手に年寄りぶって、おどけている場合かのう」

「そいつはお互い様だろうよ、クソジジイ娘や」

「なんじゃ」

「その仕草、身体に引っ張られておるぞ」


 ハキムは喉を引きつらせるように笑う。

 呻きに似た不快音の連なりが、実に耳障りだった。

 ただ、確かにハキムの言は一考に値する。

 ソルは膨れた両頬を自ら手で押して、萎ませた。


「……言われてみれば、最近、無意識的にわしはこういう仕草をとっておるような」

「おいおい、そいつは真か? 意識的な仕草ではなかったのか。俺はてっきり……無垢な童に擬装するための演技とばかり思っておったが」

「やはり奇妙かのう」

「いいや。むしろ逆でなあ、傍からは年相応の仕草にしか見えぬ。あまりに自然にすぎる」


 一度考え出すと、背筋が寒くなってくる話だ。

 いまは幼女を意識して演じていたわけではない。

 にも関わらず、幼女らしい仕草を取っていた。もちろん、幼女化以前は、膨れ面に代表される可愛げのある所作などした覚えもない。どこかでやっていたとしても、半世紀は遡らねばならないだろう。

 聞いたことがある。曰く「人間にある役職を与えれば、時を経るにつれ、その役職らしく(・・・)性格が変容することがある」と。恐ろしい想像だが『ソルフォート・エヌマ』と名付けられていた存在は、いつしか完全に『ソル』という幼女に塗り変わるかもしれない。

 果たして数年後、ハキムはソルを指差して「お前さんは変わらんなあ」と言うのだろうか。


(しかし、自己変革は夢を叶える上で必定じゃ)


 最初から、夢見た位置に居場所が用意されていたような天才たちではない。夢を追い、一生を使い果たして追認したことだ。いままで変わらない頑固者を貫いていたのは、実のところ変わり方がわからなかったからだ。自覚はもちろん、改善の意思もある。

 だから、それが幼女への変容だとしても受け入れる覚悟はしていた。


(じゃが、その果てにあるのは誰じゃ。わしの英雄譚の結末に立っている英雄は、果たしてわしなのか?)


 などと、なんて青臭い疑問だろう。

 自嘲で笑いそうになった。この歳になって存在の定義に心を割くとは、なんと滑稽なことか。変われずに六十余年を生き抜いた男の末路である。だが、結論を下す速度は早かった。己の定義など知れたこと。草枕に思い悩み、硝子越しの憧れと救いがたい徒労感の狭間で輾転反側するほど、もう若くはない。

 ソルは思考を打ち切って、視線を持ち上げた。

 天には、蒼い月と数多の星々。煌びやかに夜空を彩る光たちには手が届くとは思えない。遠くの喧騒とは裏腹に、彼らは静かに地表の人間を見下ろしていた。

 息を吸い、顔を伏せる。


「よい。これからは意識して仕草を控えていく」

「ええー、控えてしまうのかのうー」

「黙れ。気味の悪い声を上げるでないのじゃ。いい歳した爺の猫撫で声など、おぞましさ以外感じられんわ」

「俺のはそうだが。お前さんの見目は童、かつ声に可愛げもある。特段気にかけんでもよいと思うがのう」


 ハキムは大樹の根元にどっかりと腰かける。

 割合、残念そうなのは何なのか。ソルは半目で睨みつつ「本題があるのじゃろう。脱線はこの程度で留めておけ」と閑話休題を申し出る。雑談が長引いたが、これは貴重な談合の機会だ。駄弁に興じる暇はない。

 ハキムは、くつくつと肩を震わせる。


「せっかちなモンだが、労いは終わった。さあて、何から話したものやら……そうさな、お前さん。聞きたいことを、順を追って言ってみい。ひとつひとつ答えよう。もちろん、今後に支障がない分だけだが」

「構わん。元より嘘偽りない返答を期待していない」


 ソルの手厳しい応答に、ハキムは皺の寄った顔にさらに皺を寄せた。


「まず、聞きそびれておったことを」


 真正面に老爺を見据えて、静かに口火を切る。


「貴様たちの目的は、一体何なのじゃ」

「目的、目的か。はて──最初に話した通りだ。そうでなくとも俺たち『根絶』討伐隊の目的は、名が体を表しておるだろう。怪物退治の御役目だ」

「はぐらかすでない。わかっておろうに。その、怪物退治を行う理由を問うておるのじゃ」


 捕縛されて間もない際の、ハキムの言を思い出す。

 彼は「時期的には今しかないようでな」とソルの問いかけを有耶無耶にしていた。だが、物怪の幸いとして踏み切るには『根絶』討伐は重大な計画である。なにか本質の理由が埋伏されていると見るのが自然だ。

 ハキムは腕を組んだまま、動揺を表にしなかった。

 おもむろに、ひどく冷静な口ぶりで語り出す。


「最初に結論を言うとだなあ。此度の獄禍討伐の発起人は俺、ハキム・ムンダノーヴォだ。俺が有志を募って編成も手がけた。無論、最終的にはビエニス王から正式に下駄を預かって統括しておるが……建前上、表向きは四大将のシャイラ嬢が責任者……しかし、事実取り仕切っておるのが俺なのは、そういうことだ」

「貴様が、発起人?」


 此度の討伐は、ビエニス国王が主導していない?

 では、その主導者(ハキム)に理由がある、とでも言うのか。

 ソルが疑問符を浮かべていると、彼は手で制した。


「俺にも理由はあるが、俺だけではない。『根絶』討伐隊、おるだろう。そのうち、ビエニス側の隊員は己が信念の下、志願して死地(ここ)に来ておる。ビエニス王の意向でなければ、俺のでもない。あやつらは、あやつらが望む機会が与えられたがゆえに集ったのだ」

「つまり……貴様たち(・・)に、討伐の理由があると?」

「そうだ。それも、その矛先は『獄禍』などという漠然とした括りじゃあない。ただ一点、此度の討伐の最大目標である『根絶』ファニマールに絞られておる」


 よくある話、復讐よ、とハキムは笑った。

 空々しい、どこか自嘲の籠った音が転がった。


(『根絶』が甚大な被害を与えた地方のうち、ビエニス国内といえば……南。ビエニスの第三位都市サルドナか。ハキムが言うように復讐が討伐隊の行動原理ならば、そこで当時彼らに悲劇が見舞ったのじゃろう)


 此度の討伐は、彼らにとってサルドナの延長戦。

 これは、彼らの瞋恚と未練を帯びた弔い合戦か。


「お前さんの賢察の通りだよ。サルドナでの『根絶』戦は、そりゃあ悲惨なモンだった。見積もりが甘かった……と断じるには先代のサルドナの大将に悪いがなあ。その頃は、対抗策を確立されておらんかった」

「風の便りで知っておるのじゃ。未曾有の大災害じゃったとはな。サルドナ近郊では四桁単位の死傷者が出て、サルドナの被害は小規模に済んだが、『根絶』の歩行路となった街や村は、大地に刻まれた傷跡としてしか残っていなかったと。わしも、避難民の護衛ついでに遠目に見たことがあったが、……あれは」

「文字通りの地獄だった、あれは」


 ハキムは独語するように淡白な、反して怖気立つほどの実感が籠った声色で語る。


「黄昏時でもないのに空が緋色に……霞んだ緋色に塗り変わった。血煙と炎が街を覆うようだった。当然、犠牲になったのは王国兵や戦士だけではない。老いも若きも平等に、怪物たちの戯れで死んでいった」


 淡々と途方もない惨事の様相か描写されていく。

 まるで見てきたような、とは言うまい。事実、ハキムは体験したのだろう。十年前にソルフォートと別れて数年後、彼は何の因果かサルドナにいたのだ。そして『根絶』が編んだ地獄に放り込まれた──と。

 話の流れを整理しつつ、ふと疑問符が浮かんだ。


「話を聞いておると、四大将の人選が不可解じゃ」

「人選……シャイラ嬢が討伐隊におることが、か?」

「是じゃ。なぜサルドナを統治する四大将が来ず、ベクティス殿が来ておるのか。此度の討伐がサルドナでの『根絶』戦に起因したものならば、当然『根絶』討伐を負託さるべき正統な四大将は別におるはずだ」


 ビエニス王国では、王は直轄地を持たない。

 ビエニス王はあくまで国全体を司り、政を行う。国土を四分割するように東西南北に屹立する主要四都市は、在任中の各四大将が運営する。基本的に大都市の内政は彼らが行っているため、御璽という王の代行を務めるための貴重な魔導具が与えられているのだ。

 シャイラは、西の大都市ハルナバードを統べる。

 対してサルドナは南の大都市である。

 

「無論、ベクティス殿が『根絶』に対して並々ならぬ執念を燃やしておれば話は別じゃ。たとえば、貴様同様に、偶然サルドナにおれば、復讐心を抱くような出来事があったと考えられる。じゃが、どうにも……」

「そうは見えん、とな。だからあやつは例外的に命令されて来た、とお前さんは考えたわけだな」


 ああ、とソルは首肯する。

 期間的には、シャイラとは二日程度の付き合いでしかないが、彼女の言動は基本消極的。復讐の是非を問わず、己が使命に殉じるような熱は見えなかった。

 ハキムの発した「ほう」は、感嘆より呆れの響きを帯びていた。


「つくづく……お前さんの目はホンモノだ」

「やはりか。貴様が強要した、で合っておるな」

「そこで断定するか。まあ間違ってはおらんがなあ、お前さん『指名した』と表現せよ。体裁が悪い」

「貴様の体裁など知ったことか。理由は何じゃ?」

「ぐすんぐすん。なんたるひどい言い様か」


 無感情な顔をハキムに向け、しばし沈黙が降りる。

 やおら両手を見せて降参の仕草をした彼に、一音一音を明瞭に発音する。


「で、理由は何じゃ?」

「シャイラ嬢を指名したのは……二つ理由がある。シャイラ嬢はビエニスの最高戦力のひとつだ。なにもビエニス王も、遊び心で俺の編成を承認はせん」


 立てた二指でひらひらと宙を掻いて、にやり笑う。


「ひとつは、俺がシャイラ嬢の副官という立場だからだ。誰よりあやつの戦力が規格外か知っておる。此度の『根絶』討伐には欠かせんと思った」


 ハキムは、二本立てていた指をひとつ折る。


「ふたつ目の理由、それは単純にサルドナを統べる四大将『円環の導翳し』の手が空かんからだ」

「ベクティス殿よりも、か。それほど多忙なのか」

「おいおい、忘れてもらっては困るのう。帝国小隊の少尉殿、帝国とビエニスは戦争中だ。かてて加えて、各大都市と戦線との距離を鑑みれば自ずと答えは出てくる。戦線はビエニスと帝国の境界線、つまりは東から南にかけて引かれておる。だが、東部の大都市ヤーズナージャ周辺は、幸運にもマッターダリ山脈に遮られておるから戦線からは遠い。となればだ。戦線は山脈が途切れた南東部、そこに最も近い大都市は──」

「サルドナ、か」


 ソルは大陸図を脳内に広げて、こくりと頷いた。


「サルドナが前線を支えておるわけじゃな。帝国の侵攻を抑えるため睨みを利かせる必要がある。よってサルドナを統べる四大将は動かせない。ゆえに、戦線から最も遠い大都市を司り、さして差し迫った状況にない四大将への指名をビエニス王は認可した、と」

「本来ならばあの坊主たち(・・・・・・)が相応しいのだろうがな。今のサルドナの大将は『根絶』戦を契機に名を上げたのだし、先代も没し、戦禍も当然被っておる。討つ理由は、両手に余るほどあるだろう。まあ、だが」


 ──俺にも譲れぬ、個人的な目的があってなあ。

 あくまで口振りは軽く、世間話をするようだった。

 ソルは身構える。彼の天邪鬼を知る身からすれば、警戒すべきはいまのように気の抜けた声色のときだ。

 個人的な目的。彼の目的が、先刻の言に違わず復讐ならば、誰を悼んでの復讐なのか。それが寸毫の情も湧かない人物であれば、どれだけよかっただろう。

 眉尻の下がった穏和な表情で、彼は言った。


「俺の、女房だよ。サルドナで『根絶』にな。俺はその葬い合戦のため此度の討伐隊を編成したわけだ」


 彼の横顔には、憤怒や悲嘆など片鱗すら現れない。

 否、とうにその過程は終えてしまったのだろう。

 サルドナの『根絶』戦は七年も前のことなのだ。

 ソルは不意の事実に、二の句が告げなかった。


(メイ)


 ハキムの妻の名が、記憶の糸を震わせる。

 震えた糸は、朧に古びた像を紡ぎだした。


「そう、だったのか」

「『一抜けして、ごめん』……それだけだ」


 淡々と告げられる硬質な声色は、静寂によく響く。


「あやつからの遺言だ。お前さんが生きとるうちに伝えられてよかったよ。本来ならば、再会したときに告げるのが正しかったんだろうがなあ。生憎とあのときは時間も限られとった、許せ」


 聞き慣れない真摯な音が暗闇に広がって、溶ける。


「そう、か」

「知りたくなかったか」


 ソルは一拍の呼吸を置いて、顔を背ける。

 ハキムの妻は、墨色の髪の女だった。彼女もむかしは傭兵、それも同輩だった。十代の頃からソルフォートやハキムとよくつるんでいた。花が咲けば嵐、生きている限り別れは事欠かない。古馴染みの死は衝撃だったが「知れて、よかった。死を知れただけで上等なのじゃ」と切り上げた。しかし、喉奥が粘って、声を発するまでに思わぬ時間がかかってしまった。

 浅かならぬ縁を持つ者の死は、慣れないものだ。

 無意識に──視線は滑り、愛剣に吸い寄せられた。


「貴様も……奥方と共に戦ったのだろう?」

「『根絶』と戦ったのは俺だけだ。あやつはもう、一線で戦えるほど体力はなくなっとったからのう」

「そうか。歳も五十を過ぎれば、そういうこともあるか。ただ貴様は『根絶』戦に参加したのだろう? 貴様のその義手は、そこで失われたと見たが?」

「まあ……そのようなものだわい。正真正銘の怪物相手は分が悪かった。俺がここでひとつ訂正するなら、魔導化したのは腕のみではない(・・・・)ことだなあ」


 そう言って、ハキムは手の甲で自らの脛を叩いた。

 かん、と分厚い布地の下から硬い音が返ってくる。

 聞けば、四肢すべて義手義足に取り替えたようだ。

 彼の厚着の理由は、見栄えと、弱味を隠すための二点に尽きるという。彼曰く「剥げばわかるが、見目が無骨でのう」。魔導化技術は日進月歩だが、機能性を重視した結果、骨子が剥き出しになっているようだ。

 ソルは得心がいった。再会して以降、疑問だった彼の格好と、模擬戦時に右腕を剣で貫かれて血が溢れなかった理由が確認できた。手札を知れたのは重畳だ。

 と、途中に脱線を挟んだが、ここで閑話休題。

 何にせよ、問答を通じて──討伐隊の芯が知れた。

 傷持ちの益荒男どもは、とある死戦の生き残り。

 負け戦の続き、怪物退治こそが彼らの目的だ。


(この獄禍討伐隊の目的、中核たるビエニス人たちの理由は復讐。他、討伐隊の人数を占めておるのはデュナム公国。彼らの理由はストレーズ殿から資金難と伺っておるが、ハキムの認識も知っておこう)


 そしてハキムから聞いた内容の大筋は、事前に耳にしていた内容と相違なかった。


「いまはデュナムは資金難でなあ、いまは方々手を尽くして、とにかく他国に恩を売りたいらしい。それを我らがビエニス王は『好きに使え』と俺に寄越した。有り体に言えば、資金援助を餌にして、ビエニスはデュナムを手綱に繋いだわけだなあ」


 結果、獄禍討伐隊はビエニス・デュナムの混合編成となったようだ。


「ああ……確かデュナム公国は資金難を理由に、帝国と事を構えておらんかったのう。記憶が正しければ、デュナムは帝国に面しておらず、後方支援のみ参戦だったが……腰抜け、と批難の的になっておったな」

「デュナムは反帝国勢力を支える二国、その片翼であるビエニスに媚を売って、忖度を頼んだ。デュナムの目的はこちらもあるだろうなあ。地理的に孤立しては滅亡まで一直線だ、ここで爪弾きにされては堪らんだろう。つまりデュナムは、連盟国からの圧力という外患と金策という内憂を払拭できると踏んだわけだ」


 ハキムは薄く笑っていた。

 笑いどころがわからなかったが、おそらく性格が捻じ曲がっているのだと思う。


(とにかく、ストレーズ殿からの情報よりもデュナムの置かれておる現状について詳細がわかったのう。情報の整理を続けるのじゃ)


 そして、この混合編成は、結果的には功を奏した。

 デュナム人特有の陽気かつ能天気な気質は、血気盛んなビエニス人にとって、余計な緊張を解す働きをした。そして派遣されてきた彼らは、想定外に有能かつ将来有望な人材たちだった。惜しみない人材起用は、資金援助に礼を尽くす慇懃な態度の表れだろう。

 此度の『根絶』討伐を成功させれば、この派兵は急場凌ぎの資金繰りに終わらず、他の連盟国からも認められるだけの実績も積むことができる。

 デュナム側は国の存亡をかけ、怪物退治に臨む。


(帝国小隊は、御璽の効力で首輪を繋がれておる。生き残りたくば怪物退治をせねばならぬ。もっとも、初めからわしは怪物に挑むつもりじゃったが……)


 かてて加えて、とソルは握り拳を胸に当てる。

 もうひとつ、怪物退治する理由ができてしまった。

 墨色の髪を靡かせた女を、追想する。


(ぬしが、まさかすでに散っておるとはな。無論この世は平等。ぬしもわしも元傭兵。葬いなど、骨を埋めた地面に剣をひと振り刺せば仕舞いの根無し草)


 だが、半世紀近くを過ごしてきた腐れ縁の葬いだ。

 奮発して豪勢な敵(『根絶』ファニマール)を供えても罰は当たるまい。

 ハキムは「以上だ」と告げ、口寂しいのか右手を厚いコートの懐へ緩慢に伸ばす。その寸前、ぴたり指を止めてこちらを見遣ってきた。反射的に睨み返すと、今度は足元の小枝を拾い上げて、口に咥えた。

 ぎちぎち、歯で枝を鳴らしながら区切りをつける。


「これにて、我ら討伐隊の心はひとまず理解したろうよ。二つ目の質問に移ろうや、ソルフォート」

「貴様から言われるまでもない。次は、獄禍の核たるオド結晶を集めてどうするつもりか聞かせるのじゃ」

「睨むでない睨むでない。単にあれは『根絶』を討つ策の前準備だ。なあに道端の石を拾ってるワケじゃあねぇんだ。こんなときに趣味で収集せんわい」

「具体的に言え」


 顔を窺うと、ハキムは無言で歯を剥いた。

 あまつさえ、口に咥えた枝の頭を上下させている。

 

(どうも口を割るつもりはなさそうじゃな)


 彼は、訳もなく隠し事をする男ではない。

 目元を指で押す。口外しない理由があるのだろう。

 ただし予想自体はつく。オド結晶が彼の言通り『根絶』討伐に必要ならば、その用途は膨大な魔力を要する兵器の燃料だ。おそらくは最新鋭の魔導具。軍の機密ゆえにハキムは口外しないのだろう。だが、あくまで推測にすぎない。真実はお披露目まで藪のなかだ。

 と、沈思の途中で、露骨な視線を感じた。


「気になるか? ソルフォート」

「まあよいのじゃ。貴様が口を噤むのであれば、相応の理由があるのじゃろう。無理に聞き出せるとも思っておらん。むかしから貴様は頑固じゃからのう」

「鉱石ばりの頑固爺に言われちゃ立つ瀬がないなあ」

「わしが頑固なのはわかっておるが、貴様はわしを凌ぐ頑固爺じゃろう。わしとの二人編成のたび飯に文句つけおって。一度、餓死寸前になった貴様を見捨てなかったわしにそろそろ感謝してよいのではないか?」

「感謝はしておるわい。あのときはよくもまあ、長虫の吸物なるとんちき料理を流し込んでくれたなと」

「毒抜きはしていたじゃろうが」

「毒がなければいいという問題ではない……」


 当時の記憶が脳裏に蘇ったのか、押し殺したような声色が返ってくる。


「随分とむかしのことを引っ張りだしおって……そこはこだわりと呼べよソルフォート。お前さん、頑固一徹が剣を振っとるような男のくせ、よく人を頑固爺扱いできたモンだ。お前さんこそそういう例に事欠かんだろう。ひとたび英雄が絡めば、目の色を変えて、何がよいだの悪いだの……普段寡黙だったくせにのう」

「それこそこだわりと呼べ貴様」

「何にせよ、譲れない一線が濃ければ濃いほど、そして多ければ多いほど頑固者の相がよう出るわけだ。さあ、俺とお前さんのこだわりを比較するぞ? 百歩譲って濃さは同等としよう。俺は食べ物だけだが、お前さんは幾つだあ? 英雄の武具、武勲、態度、志、地位、称号、名前……おいおいこれでは指が足りんぞ」


 きぃん、と宵闇に天高く金属音が響き渡る。

 ソルの手には、無銘の剣が握られていた。

 瞬時に振り抜いた一閃が、ハキムの首元寸前で鍔迫り合っていた。白刃を受け止めているのは、彼の右手首。分厚い布地の隙間から鈍色の光が見え隠れする。

 間近の醜貌の口許が、にんまりと緩む。


「口で勝てずに手が出たな、ソルフォート」

「ごちゃごちゃと煩いからじゃ。しかも貴様、わしの好きを細分化しおった割に、自分の好きをまるで細分化しておらんではないか。食べ物のどこにこだわりがあるか細分化してからわしの前に並べよ」

「嵩増しバレとったか」

「わしを阿呆じゃと舐めておるな」

「まあ、出来がよいとは思っとらんよ」

「自覚はあるがのう」


 と、会話しながらも鍔迫り合いは続いている。

 力が籠り、震える刃と微動だにしない右腕──。


「それにしても、義手とは言え、健在じゃのう」

「おいおい。簡単に言ってくれるなよソルフォート。危うく、首まで魔導化せねばならんところだったんだぞ。はあー、こりゃあ大変じゃなあ。癇癪持ちの孫を持つと、命が幾らあっても足りんわい。……そろそろよいだろう。手の力を抜いて、刃をおさめよ」

「貴様が心にもない戯言をおさめれば考えるのじゃ」

「しょうがねぇなあ」

「ふん」


 ソルは身を引き、元の場所に戻るため背を向ける。


「そも、寝込みを襲えど切り抜けるだろう、貴様は」

「お互いになあ。全く、悪運が強い男よ」


 ハキムの声には鼻を鳴らして応え、座り込む。


「お前さんと喋っておると若返るようだよ」

「どういう意味か聞いてよいか? 場合によっては」

「そのままだ。……いま物騒なことを口走ろうとしたろう。別に愚弄しておるわけではない。お前さんと喋っておると、俺もクソガキの頃に戻ってしまうとな。こんな下らない口論なぞ、十年はやっておらんわ」

「なんじゃ『も』とは。わしも十年やっておらん」

「まあ、これも、お互い様というわけか」


 含み笑いを漏らして、取り直すように手を叩いた。


「ではお前さん、三つ目の質問でも受けようかのう」

「いまの貴様の夢を教えよ」


 間髪をいれずに問う。ハキムは面食らったようだ。

 面相を凍らせて、眼差しだけこちらに向けてくる。


「夢、ってえと……先にも言うたろう。復讐だ」

「わしが訊きたいのは、復讐の先の話じゃ。まさか貴様も復讐を終えて、自害するわけでもあるまい。奥方の仇を討ち、己の整理をつけたあと貴様はどうする」


 絶句したハキムを他所に、ソルは言い募る。


「ベクティス殿の右腕を務め上げるのか? それとも正式な四大将の座を狙うか? 貴様の手足は代用品ではあるが、生身の頃と遜色ない動きができておる。十分にその線は狙えるだろう。あるいは研鑽を積み、英雄の最高峰を目指すか? もしくは、次代のビエニス王の座を見据えるか? 貴様、自国の王を他人事のように呼ぶのは、立身出世を狙う野心の発露……」

「っ……呵々、ははは」


 堪えきれず、といった風情でハキムは吹き出した。

 咥えていた枝が零れて、地面に落下する。

 ソルが冷ややかな目線を差し向けると、声を上げて笑いながら謝ってくる。


「すまんすまん。あー、そんなんじゃあねえよ。『ビエニス王』なんて呼び方は、単に俺の出自の……外様傭兵だった者としての意地だ。野心の発露だとか大層なものじゃねえ。しかし、呵々、俺の夢ときたか」

「何かおかしいか」

「否、おかしいわけじゃねえよお。むしろ逆でな、おかしくないのが可笑しいのさ。三本目の問いかけがそれとは。実に、お前さんらしい話だと思ってな」


 ソルは愚直に、ハキムの言葉を舌で転がした。


「わしらしいか」

「ああ。夢無き者は屍に等しい、とでも言いたげな口振りがな。だが、俺の身体を見よ。この老いた肉体には、もはや頭上の星々のごとき光も熱も、欠片とて残っておらん。こんな俺に、夢を追う体力が残っとるように見えるというのならば、そいつは買い被りだよ」

「わしはいまだに追っておるのじゃ」

「そら、お前さんと比べられちゃ俺の立つ瀬はないがなあ。人は夢が無くとも生きていけるんだよ、ソルフォート。それどころか、むしろ通過儀礼でな、歳を重ねていくなかで、いずれ捨て去るものにすぎん」


 目元に宿っている感情は──温く、淡い。

 ハキムの瞳は、ソルの知らない色だった。


「夢を追えるのは若い時分のみよ。そして夢を終えるのは、その道中、すれ違いしなに出会った、守りたい何か(・・)を見つけたとき。お前さんは、夢以上の重みを、いまだ見つけられずにいる」

「何が、言いたいのじゃ」

「大したことじゃねぇよぉ。辞めたいときに辞めなって、ただ親友の老婆心だ。人間という生き物は存外にも適当でなあ、今日までは登り甲斐ある巍峨たる山々に見えてたものが、明日にはただ聳え立っている壁に見える……など、さほど珍しい話でもなかろう」


 余計なお世話だとわかっているがなあ──と、ハキムは笑みを滲ませて、先ほど吹き出した拍子に落とした枝を拾い、息を吹きかけて咥えなおした。

 ぎち、と歯が枝を軋らせる音だけがする。


「その、貴様が枝を咥えるのは……今の今まで変人の奇行とばかり思っておったが、もしや、煙草を吸わないわしに気を遣っておるつもりなのかのう?」

「馬鹿言え、お前さんのためじゃあねぇよお。口寂しさを紛らわすなら、枝転がすのが安上がりだ。ま、煙草は残り少のうてなあ、これも節制という奴よ」

「ふん。貴様も、変わってないのじゃ」

「いいや、変わり果てたさ。若気も涸れ尽くした俺には、お前さんが眩しくて……しょうがねえんだよ」


 ソルは首を傾げる。言葉の意味がわからなかった。

 するとハキムは薄い頭を掻き、目を背けた。

 枝の音だけが耳に届く。ぎち、ぎち、ぎち。


(懐かしい音じゃ)


 むかしハキムは、煙草代わりに枝を咥えながら言ったものだった。


 ──おいおい、ソルフォート。また鍛錬か?

 ──全く飽きねぇもんだなあ。ああ、俺か?

 ──メイにまたどやされてなあ、逃げてきたんだ。

 ──摘み食いくらいいいじゃねぇか、なあ?

 ──この『テンサイ』が毒味してるってのによぉ。

 ──あ? うるさい? 天才にゃ関係ないだろ?

 ──まあ、いいじゃねぇか。

 ──あとは、俺はここで大人しく見てるからよ。

 ──気にせず棒振り、続けな。


「ハキム、貴様は言ったな。夢を終えるときは、守りたい何かを見つけたときだと……ならば。ならば貴様は、貴様の人生で一体何を見つけたというのじゃ?」

「まあ、他愛ないモノだと俺自身でも思うがのう。最初は女房だった。だが、いまは違う」


 茶目っ気たっぷりに、口角の亀裂を深める。


「おっと、浮気者とは言ってくれるなよ、ソルフォート。言っておくがお前さんではないぞ。お前さんは俺の孫だが、そやつは俺にとって娘のような存在でな」

「娘? 貴様、メイとの子を設けておったのか」

「いいや。有り体に言えば、義理の娘だなあ。そいつが、いまの俺の出会った、夢より大事なものだ」


 あるとき子どもを拾ったのだ、とハキムは言った。

 遡るは七年前。ハキムは『根絶』戦のあと伝手を辿って、魔導技師に義手義足を誂えてもらった。そして逃げるように、激戦の傷跡が色濃く残るサルドナを去った。帰る家は破壊され、行き場などなかったのだ。

 当時のハキムは、傭兵上がりの根無し草。最愛の女房を失い、己の四肢をも失ったばかりか、己のいるべき家も、己が目指すべき進路すらも失っていた。

 しかし、彼は立ち止まる選択肢を選べなかった。


「夢に出て、眠れんかった。何かして気絶するように一日を終えんと素面になってしまう。とびきりの悪夢がずっと続いておることに気づいてしまう。だから、無理にでも目標を立てて……動き続けたのだ」


 気紛れのための目標は、随分とむかしの夢にした。

 十代の頃に抱えていた、澱のような名誉欲。

 上に、ただ上に行く、俺を嘲笑った身の程知らず全員に泡を喰わせてやる……なんて若い頃、憤怒によく似た泣き言ばかり思っていた──とハキムは言った。


「まだ、仇討ちの選択肢も頭に浮かばんかった。『根絶』討伐の考えが頭をよぎったのは、それこそ四大将の片腕に成り上がったあとだ。夢物語を根拠もなしに信じるには、俺も歳をとっておったからなあ」

「ほう。復讐というからに、『根絶』戦以降、怨嗟の七年間を過ごしてきた……のではないのじゃな」

「激情は長続きせんよ。義務か、使命に役割をすり替えていなければなあ。俺の復讐は、借りを返しに行くだけよ。他の者がどうかはさて置いてなあ」

「もう悲しくはないのか。怒りは……ないのか」

「ないわけがない。が、どれも終わったことだ」


 年月という疾風は、形無きものを風化させる。

 優しくも惨い、九相図に沿うように消えてゆく。


「それは救いだ。感情も過去も土に還り、風に消えねば、俺もおちおち棺で眠れんわい」


 そうして嗄れた声で、過去を再び紡ぎ始める。

 サルドナを後にして、向かった先はビエニス王国西部の大都市ハルナバード。成り上がりを考えるのならば、ここが狙い目だった。ハキムの見立てでは、当時の四大将のうちハルナバードの守護者が最も御し易そうだったのだという。人柄として、敵対者は力で捩じ伏せて道理をこじ開ける、がモットーの熱血漢だ。

 ハキムが得意とする性質の人間だ。

 失脚させ、簒奪する方法など幾らでも浮かんだ。


「ビエニス軍には入隊しておったが、お行儀よく成り上がるなど性に合わんかったからのう。それで、ハルナバードで、狙いの四大将『真杭の導翳し』を落とすため、方々に手を回していたある日のことだった」


 宵時の路地で、齢十幾つの少女に出会ったという。


「あやつは、可哀想な娘だった。俺が通りがかったとき、道端で濡れ鼠になっておった。中層の市民にしてはあまりにも見窄らしい恰好だったから……下層を抜け出してきた下層市民だとは、一目でわかった」

「下層から、とはよくわかったものじゃ」

「ビエニス王国の四大都市が三層構造をしておるのは知っとるだろう? 俺の拠点とした中層は、軍属と商人が大多数を占める場所だ。乞食連中はおらん。スラムを成す前に下層へ連行されていくからのう」


 ビエニス王国では苛烈な身分制社会を敷いている。

 それは、大都市の三層構造からも見て取れる。

 上層、中層、下層。上層市民は、王国を支え、連綿と紡がれてきた王侯貴族たちが多数を占める。中層市民は商人と軍人など、王国において庶民とされる人々の住む場所だ。それより下は悲惨だという。噂によると、下層では孤児、乞食、娼婦、犯罪者、精神異常者が珍しくもない、治安が最悪を極めた場所だという。

 中層にある路地裏には、乞食のひとりもいない。

 いたとしても、王国兵に迅速に連行されてゆく。


「俺は、あやつが下層から来たとわかった。そして、路地でへたり込むその娘の、奇妙さが気にかかった」

「奇妙?」


 その少女は血に塗れていた。

 紫紺の髪には黒に近い赤が混じり、元はドレスだったであろう衣類は淡い赤色の襤褸と化していた。擦り傷はあれど、大きな外傷がない割に、大量の血液が付着している。返り血を浴びている。それも一人や二人ではきかない人数のものだ。何より異様だったのは、辺りには数十もの刃物が散乱していたことだった。

 少女の深青色の瞳は何も映さず、眼前のハキムにも気づいているのかすら怪しかった。


「それが、あやつを……シャイラ嬢を拾った光景だ。ここからは知っての通り、あやつは破竹の勢いで高みまで登っていった。最終的に都市ハルナバードの四大将の座につき、俺も副官としての位置を手に入れた」

「おおよそはわかったのじゃ。しかし……よく、あの状況で娘を拾ったものじゃのう。聞くだに奇妙な話じゃし、ひとり匿うにも案じ事は尽きんじゃろうに」

「先にも言ったろうが、憐れに思っただけよ。あの頃は女房に先立たれたばかりだったからのう。──まあ、当時は単なる気紛れにすぎんかった」


 空を仰いで、まるで月に感慨を馳せるようだった。


「まさかそれが、こうも大きくなるとはなあ……」


 同時に、ばきり、と音が鳴る。

 咥えていた小枝を噛み砕いたらしい。

 ハキムは口内に残った残骸を吐き捨てた。


「なあ、お前さんからはシャイラ嬢がどう見える?」

「素晴らしい英雄じゃ」

「細かく言え、お前さんの得意技だろう」

「それは……そうじゃのう。らしくない御仁、とは思うのじゃ。あそこまでの高みにおる人間、才能に恵まれた人間は、どうしても立ち振る舞いにも堂に入るものじゃ。しかし、ベクティス殿は真逆じゃ」


 ソルは腕を組んで、答えを絞り出す。

 シャイラの異様な点は、外面と内面の隔たりだ。

 産まれながらに美貌と才能を持てば、自信や野心に満ちた人間になりやすい。そこに本人の善性は関係ない。人間の性格はほぼ環境によって形作られる。特出した能力が幼少期より発現していれば、周囲はそれを誉めそやし、よい結果に繋がる──そうやって自己の価値を知り、その高値に胸を張るようになれる。

 尚武の気風を重んずる王国ならば、なおさらその傾向は強くなるだろう。


(そんな環境にありながら、彼女は卑屈じゃ)


 謙遜という域を越えている。人の目に怯え、主張も弱く、気概というものが見えない。性格だけ切り取れば、そこらの町娘と大差ないほど英雄らしくない。

 ハキムは濁った色合いの目を細める。


「あやつは、不安定だ。それは最初から変わらぬ。あの性格は、俺と出会う前に形作られとったようだ」

「待つのじゃ。貴様から聞くのは流石に悪いのう」

「いずれにせよ、俺も詳しく知らん。知っとるのは、シャイラ嬢は下層で数ヶ月生きとったこと。そして、あやつ血縁者には調べがついとる程度だ。六年間、あやつの過去に深入りはできんかった」


 夜鷹が鳴く。虫たちのさざめきは、老人の呟きを掻き消そうと躍起になっていた。


「臆病になっておるのかのう。俺という奴は」


 その男は、踏み込めず立ち竦んでいた。

 無遠慮に触れては、傷つけると思ったのだろう。

 手で触れずに知れる程度のことを調べて、おっかなびっくり娘を抱え込んだ。適切な距離感を図りかねているから、溝を挟んだような事務的な会話に終始し、時には突き放したような言い方をするのだ。

 なんと不器用な男か。ハキムに対し、初めてそんな感慨を抱いた。いつも不器用だと笑われていたのは、いつだってソルフォート・エヌマだったから──。


「おい。ほうら、行きな。呼ばれておるぞ」


 ハキムは顎で、背後、集落の方向を指し示す。

 確かに、大樹の根の向こうから薄い少女の声が響いてくる。呼びかけている特徴的な渾名を聞くに、イルルが集落内を探し回りつつ、声を張り上げているらしい。そろそろ姿を見せねば不審がられるだろう。

 ソルはすくと立ち上がり、ハキムに背を向ける。

 彼は動く様子がない。ここで月を眺めるらしい。

 まさか、風流を重んじる男とは思わなかった。


「草木も眠る深更に、シャイラ嬢は湖におる」


 ソルは歩き出しかけたが、声に引き止められる。


「なぜ、わしにそんなことを? そもそも、わしにベクティス殿の話をした本意はどこにあるのじゃ?」

「別に裏はねえよお。シャイラ嬢は、お前さんを何かと気にかけておるようだからなあ。あやつの息抜きにちぃとばかし付き合ってやってくれんか、とな」


 まあつまり、と首筋を掻き掻き。


「俺の孫として、俺の娘とじゃれてはくれんか、と言いたいワケだ。いつも何もしてやれん不器用な爺としてはなあ。さしあたって、あやつの抱えとる歪みを知っておいて欲しかったのさ」


 それに、これはお前さんにも益のある話だ──。

 ハキムは口角の皺を深め、話を続けようとした。

 ソルは「湖じゃな」と言い捨て、踵を返した。


「知ってはいたが、二つ返事たあな」

「ふん。胡散臭いがのう。断る理由もなし、構わん。大英雄殿と話ができる機会が増えたのじゃ。願ったり叶ったりなのじゃ。貴様に言われるまでもなく、星の光が薄まるまで語り明かそうではないか」


 だから、これは違う。ソルは自らに言い聞かせた。

 ハキムの願いを、素直に聞き入れたわけではない。

 老いた同僚の瞳に宿る、まるで溶けてしまうように暖かな、知らない光を見てしまったからではない。ただ己に利があるから引き受けただけだ。有り難うよ、という老人の独り言を小さな背中で受け止めた。

 今度こそ、集落内に戻ろうと地面を蹴り──。


「ソルフォート。最後にひとつだけよいかのう」

「くどくどと、今度は何の用事なのじゃ」

「せめて服を着てから戻れ」

「────」



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