3 『謎の幼女1』
今回は新兵視点です。
(どうしてこうなったんだ)
その男、ナッド・ハルトは頭を抱える。
バラボア砦の一室。この細長い部屋は、食堂の役割を担っている。ゆえに、駐屯する兵卒のためのテーブルがそこかしこに設置されている。砦占領の折に幾つか粉砕されたようだが、廃棄処分された。いま並べられているそれは、どれも実用に足るものだ。
砦自体は、新築などと口が裂けても言えない。
だが、こびりついた血痕から目を逸らせば、砦にしては小奇麗な室内だと思われる。昼夜を問わず共にする兵士たちにとって、致命的な不備がないことは重畳だった。陥落した割に損壊箇所も少ない。貯蔵庫に火を点けられたが、砦としての運用には困らない。
さて、ナッドはそんな二人きりの小奇麗な室内で苦悩しているわけだ。
──遡ること一時間前。
当番だった巡回任務を無事こなしたナッド。
さあ後は同僚と愚痴でも交わして、 灰色の砦勤務に彩りを添えようかと、彼は立ち去りかけた。が、ものの数秒でバルドー伍長に捕まってしまった。妙に上機嫌に口角を上げていたため、十分以上に警戒し、同僚を盾に逃げ出そうと画策したが、そんな努力など虚しく上司命令の前に潰されるものでしかなかった。
そしてこんな厄介事に首を突っ込む羽目になった。
(クソ、なんでだよ)
ナッドは溜息をする。
──せっかく士官学校を卒業して、なんでこんな。
「なかなかに美味じゃのう。歯応えも満腹感もある」
「……こんなクソ不味い保存食、どうしてそんな美味そうに食えるんだよ」
「口に入れても動き出さんのが気に入った」
「ありえねぇ……」
彼が乾いた視線を向ける先では「農奴の娘」を名乗る幼女が、卓上の干し肉を食べようとしていた。手掴みで口に運び、易々と食い千切る。もごもごと口を動かし、広頚筋を躍動。そうして満足げに頬を緩める。
ナッドは顔を歪めて、彼女の正気を疑った。
(こいつ、帝国内のまともな料理を口にすれば発狂しちまいそうだな……)
その保存食は噛みきりにくさに定評がある。
味についても「靴を食んだ方が飲み込めないだけマシ」と評されるほどだ。むかしナッドも「物は試し」と口に入れたことはあったが、あまりの不味さと塩加減にむせ返った。思い返すだけで衝動的に口を押さえたくなる。あの味つけは嫌がらせにしか思えない。
口にすれば数時間は食物を拒絶できるようになる。
実用的なのはその一点だけだったはずだ。
しかし、幼女はコップに注がれた水を最後に流し込むと、小さく「ぷぅ」と息を零す。
「御馳走さんじゃ。お陰で生き返ったわい」
「ホントに完食しちまいやがった……信じらんねぇ」
──農奴の生活じゃこれすらご馳走なのか。
都会育ちのナッドは戦慄する。
平らげた幼女に瞠目を向けて、改めて思う。
彼女の目鼻立ちは幼いながらに整っている。髪は埃やら砂が絡まっているものの、穢れとは無縁のそれには目を惹かれる。「農奴であればもっと薄汚れているのでは?」との疑問はあったが「箱入り娘だったのじゃ」と言われれば閉口する他ない。
──農奴の家庭にそんな余裕があるものか?
実情を知らぬナッドはそう思わざるを得ない。
「……ソルじゃ。わしの名前はソル。姓はない」
この変わり者の名前はソルと言うらしい。
四方八方どこから見ても不審人物だ。
入砦を許されたのは、ひとえに「どこの軍隊でも見かけたことはないから」である。だが才能一つで引っ繰り返る世界で、女子供は無条件に信用できる存在ではない。見目がか弱くとも猛者の可能性がある。また、たとえばラプテノン王国辺りで洗脳教育された、諜報部隊の一員という可能性も拭いきれない。
それがなぜ、バラボア砦の指揮官は許したのか。
ナッドの疑問は溢れるばかりだ。
(それでもこいつを拾った理由は悪評を牽制するためと思うんだがな……。ダーダ村を焼いたのは帝国軍じゃない。十中八九、連合軍側の兵なんだろうが、どうせラプテノン辺りがこう吹聴して回るに決まってる)
──無辜の人々を虐殺する、なんと悪辣な帝国だ。
あからさまなデタラメである。
しかし、無視を決め込むのも好手とは言えない。
(こんなんで反感を抱かれても困るだろうからな。上も、大規模な反乱に発展するのは避けたいんだろ)
十年続いた戦争は、去年から小競り合い程度にまで縮小傾向を見せている。ここでまた争いの火種を撒くのは愚かでしかない。ゆえに、戦火に見舞われた村人を匿った『正義の帝国』の証として、幼女を受け入れたのだろう。
(それ以外にも裏事情はありそうだけど。なかったら、不用心さのあまり俺が泣く)
だが、泣いても許されないのが現実だ。
もしものときは腹を括るしかない。
ナッドは所詮、悲しい下っ端の立場なのだ。
彼にとって不幸だったのは、ソルの子守役として任命されたのが──押しつけられたと言い換えてもいい──彼女を発見した班のなかで仕事量の少ない新兵だったことだ。ゆえに、砦内で忙しなく駆け回る同僚を横目に、ゆったり食事を眺めていられるわけだが。
もちろん、優雅に、とは言っていられない。
「チッ……」
煩わしさに舌打ちが零れた。
中途半端に開いた扉から、好奇の視線が刺さる。
同僚たちの冷やかしだ。いままで無聊を慰める話のタネは、伍長や『六翼』であったはずなのに。無言のまま手で追い払う仕草をすると、含み笑いして消えていく。ナッドはただただ頭が重かった。
からかわれる、いいタネをつくってしまった。
砦勤務は娯楽が少ない。二週間は弄られるだろう。
それもこれも、この謎に満ちた幼女のせいである。
(まったく何者なんだか。こいつ喋り方もヘンテコだしよ、色々謎だ)
「……どうでもいいさ。俺が考えても仕方ねぇ」
「諦めが早いのう。思考停止では強くなれない」
「ばっか、誰が強くなる云々を言ってんだよ。それに思考停止じゃねぇ。俺は適応してんだよ。……無茶苦茶なのが多いからな」
──どうしてこうなった、俺の人生。
再度、ナッドは息を深々と吐き出した。
(順調だったはずだってのに、なんで俺が……)
ナッド・ハルト。年の頃は二十一。
出身はガノール帝国の都ライノである。
窓から眺めた、帝都内の華美な通りを追想する。
これまで、衣食住で不自由したことはなかった。
ハルト家は代々商人の家系であり、現当主の父親は特に商人の才覚に恵まれていた。「ハルト家の最盛期だな」と祖父が感嘆していたことを思い出す。
ナッドに父親の記憶は少ない。
だが、仕事に追われる彼を誇りに思っていた。
母親や弟子たちから仕事ぶりを聞かされていた。だから子供ながらに「自分はあの大きな手のひらで、広く逞しい背中で守られて、いま何不自由ない生活を営めている」と、そこに精一杯の尊敬を向けていた。
毎夜、損得勘定の研磨、流通の勉強に励んだ。
もちろんそれは、偉大な背中を追うためだった。
(あのときまでは、な)
小さな頃は無邪気だった。
当然、長男の自分が家を継ぐと思っていたのだ。
運命の日、あの忌まわしい後継者指名の日まで。
あるいは、自分が士官学校に追いやられるまで。
──厳めしい父親が選んだ相手がまさか。
「……心配事か?」
「っと!? い、いきなり近づくな!」
至近距離にあどけない顔があった。
虚を突かれ、椅子から転げ落ちてしまう。
派手な音が鳴り、したたかに尻を打ちつけた。
「お、まえ、なにしやが……」
ナッドは文句の一つでも言いたかった。
だが、言葉に詰まる。「憮然を露わにして立ち上がる」なんてできなかった。なぜなら椅子の上から見下ろすソルが、子供らしさというものが希薄のように見えたからだ。尻餅をつく彼を、小指の先ほども気遣う様子はなく、嘲るような表情も出さない。
ただ、檸檬色の瞳は老成した色を映していた。
「ぬしには一飯の恩義もある、話は聞くぞ」
「は、はぁ? 何だってんだ一体……」
「わしは剣を振る以外のことに能はないが、無駄に年だけは重ねておる。もしや、わしの経験から助言を絞り出せるやもしれぬ」
「……グダグダ、ワケわからんこと言いやがって」
ナッドは小さく悪態をつきながらも警戒する。
幼女の立ち振る舞いが、心のうちを見透かしたように思えたからだ。
(そうだ……こいつが何かして、入砦まで漕ぎ着けた可能性だってあるんだ)
魔術や魔眼の類の可能性を視野に入れる。
精神干渉系魔術とは考えたくなかった。禁忌指定の魔術師が身分を偽っているのなら、もうここで生き残る術はないからだ。いまは入砦を許可した将官を信頼するだけだ。どうか目が節穴でないことを祈る。節穴だった場合、処罰覚悟で目潰ししてやろうと思う。
右手の薬指で、腰に提げた剣の柄に触れる。
(いざとなりゃ……やるしか、ねぇぞ)
ナッドの脳内が緊張で張り詰める。
彼は初陣もまだだ。真剣での対人戦は覚束ない。
士官学校で模擬戦は必修だったが、結局は演習である。本番の緊張感には程遠い。彼は先の巡回任務ですら嫌な汗が流れたほどなのだ。真剣勝負になれば自分がどうなるか、想像したくもなかった。
そんな彼を他所に、ソルは邪気のない顔で言う。
「ああ、そうじゃ。ここに鍛錬器具は置いておらんのかのう。剣の類があれば、それ以上のことはないが」
「は? いや何だよ突然……」
「腹ごしらえも済んだのじゃ。なら、やることは鍛錬以外なかろうよ」
よっこいせ、と椅子から飛び降りる。
その軽々とした挙動からは、装備の重量を感じさせない。ソルは熱烈な直談判で、幼女には似つかわしくない兵卒の恰好をしている。支給品の比較的軽い鎧、簡易的な手甲や膝当て、編み上げ靴。この矮躯でも装備できている理由は、別隊に十一歳の兵士がいたおかげで、ギリギリ合うサイズがあったらしい。
それでも絵面としては滑稽そのものである。
(それにしたって……鍛錬だと?)
唐突な発言に毒気を抜かれてしまった。
ナッドはようやく立ち上がり、砂を払う。
一方ソルは、きょろきょろと辺りを見回すと、跳ねて窓外を覗きながら問うてくる。
「それであるのか、ないのか?」
「は、搬入中だ。裏庭には素振りくらいは余裕でできる空間はある……ってか俺、一応年上だよな? 若輩ならそれなりの態度ってのがあるんじゃねぇのか」
「…………そういえばそうじゃったのう。すまぬ」
「おい」
動作が停止したのち、顎に手を当てるソル。
あからさまに失念していたと言わんばかりだ。
拍子抜けて、脳内での緊張感が丸ごと消えた。見た目通り、彼女が十歳にも満たないなら納得だ。箱入り娘の信憑性が相対的に上がる。確かに、そう名乗るだけの「世間知らずさ」は持ち合わせているらしい。
とにかく尋ねたいことは一つだった。
「で、実際のところ、お前、ホントに農奴の娘なのかよ? とりあえず鍛錬だの喋り方だの、箱入り娘って触れ込みは無理があるだろ。と言うか色々とお前、その、無理があるだろ。上も絶対気づいてるぞ」
「わしは正真正銘、農奴の娘じゃ。英雄に憧れてるだけのな。とりあえず裏庭に案内してくれんかのう」
「……敬語使え、敬語」
「案内、してください。お願す……のじゃ」
「なんでそんな切れ切れなんだよ。あと、のじゃは敬語じゃないからな。なんだその訛り方」
あからさまに慣れていない語調だった。
──だが、今回はこれで勘弁しておいてやろう。
不服そうな幼女を見ると、ただ力が抜ける。
(なんか馬鹿馬鹿しく思えてきた。狡猾な密偵とか間諜が、こうも世間知らずなもんか。怪しすぎるだろ。演技にしたって好んで綱渡りする意味ねぇし)
そこまで織り込み済みなら、もう諦める他ない。
そのときは「騙された」と膝を叩いて、いっそすべてを運命のせいにできる。だからナッドはここで疑いを捨てた。ソルを見た目通りに『白』と認識する。
──新人教育も楽なもんじゃねぇな。
ナッドは、新兵である自分のことを棚に上げつつ、肩を竦めるのだった。