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修羅幼女の英雄譚  作者: 沙城流
第二章.幸せな怪物の墓標

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2 『少女との夜会話』

 シェイターネ男爵領、ジャラ村。

 ──その村までは、馬脚で三日ほどかかるわ。

 それが、案内役を務めるマジェーレの言だった。


(念のため地図を照らし合わせても、おおよそ見込みは間違っていないようじゃ。まあ……ロズベルン中将の抜擢じゃ。疑いすぎるのも良くない、かのう)


 日数の大半は、行く手を阻む自然に費やされる。

 ここまで来る道すがらにも大自然が蔓延り、幅を利かせていた。たとえば断崖絶壁、鉄砲水を乱射する激流、底も見通せぬ深谷。それらを渡る手段が朽ちかけている吊り橋一本だった、という機会には幾度か出会した。苔生した地割れが進路に横たわる様は、まるで物理的な境として線を引かれているようだった。

 ジャラ村は、徹底的に隔絶された地にある。

 この苛烈な土地は、神代と現代を分かつ厄災の名残らしい。領地を治めるシェイターネ男爵も峻烈な大自然に手を焼いた結果、付近の整備を疎かになっているのが現状のようだ。

 ソルは付近を見渡しながら、馬上で唸る。


(わしの故郷よりも辺鄙な場所じゃのう……)


 帝国小隊が進む森には淀んだ薄闇が満ちていた。

 頭上に手を広げた大葉は日光を遮る。視線で地面を浚えば、陰気な草花が隙間なく生い茂っていることがわかる。軍馬と言えど歩を進めるのに一苦労だ。

 葉擦れがかさかさと波立つ。人の呼気のごとく生温い風が露出した肌を舐めていった。その感覚はさながら怪物の口腔のなかを進んでいるかのよう。

 ソルは表情を変えないまま、馬首に手を這わせる。

 かろうじて一行は細々と続いている道を行く。


「変に……気味が悪い場所だな」

「この空気、ナッドは好きじゃないのかのう?」

「……ええ、昔っから暗いところは得意じゃなくて。そうじゃなくても、好き好んでこんな陰気な場所に寄りつく人間なんていない、とは思いますよ」

「ごめんなさいね。ここが私の遊び場で」


 突然の声で、ナッドは竦み上がる。

 背後に頭を巡らせると、淀んだ黒瞳が出迎えた。


「いや、その、お前さ……遊び場だったって言ってるけど、ここで何して遊んでたって言うんだよ。こんな虫だらけの森でさあ。第一、遊ぶ相手もいないだろ」

「たくさんいるわ。そうね、狼? とか?」

「何で語尾を上げるんだよ……ドン引きしていいのか気味悪がっていいのか、判断に困るだろ」

「まあ、一人でも意外と遊べるものよ」


 マジェーレは難なく言ってのける。

 馬上から検分したソルとしては俄然、興味が湧いてくる。ナッドが顔を伏せながら零した「強引に誤魔化したつもりなのか?」という言葉に追随するわけではないが、この森は、年頃の娘が足繁く通うような場所とは思えない。天と地と言わず、至るところに植物が葉と枝が手を伸ばし、根を張っているのだから。

 鬱蒼とした木立は人間の立ち入りを拒む。

 虫の鳴き声は追い出しにかかるようですらある。


「意外と遊べるったってお前……って言うかマジェーレ、別にここで生まれたわけじゃないんだろ?」

「マジェは南の生まれだぞ、坊ちゃん」

「そーそー。あの鴉みたいな髪と、あの肌で分かるだろうがよー。南部のド田舎生まれに決まってら」

「……その頃の記憶なんかないけれど、ね」

「そいやな、俺な、そこに無二の親友がいてな──」


 列の後方の男たちが次々と会話に加わってくる。

 これを皮切りに話が膨らめば、会話の主導権はソルたちの手を離れ、球遊びさながらに後方に回れば、もうソルの元に返ってくることはなかった。たまに話題が前方に回ってきたとしても、ナッド、もしくはマジェーレが慣れた口調で投げ返すのみ。幼女は入ることもできず、ただただ口を挟めずじまいであった。

 むっつりと黙ったまま、周囲への警戒を強める。


(他にすることもなし。皆が気を抜いておる間、わしが気を配らねばならんのう)


 この、ひしひしと感じる疎外感には覚えがある。

 わざわざ己の過去を遠目に見返すまでもない。

 宴会の外で、ずっと剣を研いでいたような男だ。誰も観衆のいない舞台で、練習だけを重ねてきた。夜天に昇る青褪めたような色の照明、その冷たさを知らないわけがなかった。身体に馴染んですらいる。

 けれども、なぜかは自分でわからないまま──。

 ソルは、頭頂部をナッドの胸鎧に押し当てる。

 顎を上げ、いまだ青臭さが残る顔を半目で見つめ。


「ぬし、だいぶ馴染んでおるのう」

「ええ、その、まあ……彼らとは、出立の前日から顔合わせが済んでましたから。多かれ少なかれ、どんな人間か解されれば、会話で席は用意されますし。……ですからその、責めるような目で見るのはちょっと」

「責めておるつもりはない。あと、いまは誰も聞いてはおらん。敬語はやめんか」

「……はあ。結構、危ないとは思うけどな」


 ナッドは声を潜めながら、力を抜いて首を振る。


「ソルの出足、あまり良くないな」

「やはり……そうかのう。一応、鷹揚に受け答えしておるつもりだったのじゃが。この小隊の空気には馴染めておらん。自然に避けられておるような心地じゃ」

「事実、扱いかねてるんだ。考えてもみろよ、上司が幼女って。たとえ実力主義の趣きが強いビエニス王国でだって、流石に顰蹙ものだろうし」


 ──そうは言っても不可抗力じゃ。

 幼女は細腕を組む。昨日は慣れない作業に明け暮れていた。日中は、まずロズベルンとの会合、次に南部戦線の指揮を執る中佐との顔合わせ、その間隙を縫って日課の鍛錬に取り組み、夜間は乗馬実験等の出立準備。このとき図らずも幼女認定され、放心気味のまま再び鍛錬に時間を割いた──と、この通り、彼女の予定表はすっかり埋まっていたわけである。

 だが、ナッドは「いやあ」と眉尻を下げた。


「日中か夜中か、どっちの鍛錬の時間を削ってさ、その時間使ってあいつらと顔合わせを済ませておけば良かったんじゃ……とか、言いたいんだけどな。まあ、ソルにその選択肢はないよなあ」

「うむ、物事の比重を見誤るわけにはいくまい」

「お前のなかで鍛錬の優先順位がぶっちぎり一番なのがなあ……正直、ソルが少し譲歩すれば実現したことだからさ、しょうがないとは思えないんだよ」


 ──別に、不可抗力とかじゃなくてさ。

 そんな恨めしげな瞳から、ソルは視線を逃す。

 ナッドは幼女の偏執ぶりが身に沁みているようだ。


「入院中に何度、頭を悩まされたことか……」

「ああ、いや、その時分は……すまぬ」

「目を離せば剣ごと消えてるし」

「申し開きもできぬ」


 頭を下げる代わりに目を伏せる。

 その自省の念が伝ったのか、彼は頬を掻いた。


「というか、無理してあいつらと打ち解ける必要はないんじゃないか? どうせあと数日の付き合いなんだろうし、討伐さえ終わってしまえば──」

「そうはいかん。烏合の衆のまま怪物退治など、結末は三々五々が関の山じゃ。最低限の関係は築かねば」


 という理由は、実を言えば方便に近かった。

 ソルは鼻筋に指の背を添える。


(わしの英雄像のためじゃ。仲間を得る術、その基礎を築かねばならんからのう。この機会に糸口くらいは見出しておきたいのじゃ)


「でもまあ、あいつらとの仲は何とかなるとは思うけどな。たかだか一日の付き合いだけど、悪い奴らじゃないのは確かだし。前の俺みたいに偏屈な奴はいなさそうだ。……あの女を除いて、だけど」

「……何とか、早目に打ち解けたいものじゃが」

「いまは壁があるからなと、少尉。そろそろ」

「うむ。ここで一晩明かすこととしようかのう」


 青年の苦笑は引き締めたものに切り替わる。

 大森林を抜けるには一日では事足りない。

 頭上の裂け目から仰いだ、橙色の帳はすでに藍色に染め直されていた。駆け足で消えた太陽は仄かな冷気を引き連れ、道脇に茂る草葉に暗幕をかけた。これでは、狼の凶手を目視することも叶わない。

 宵の森を闇雲に進むことは下策と言える。

 ここは、朝日を待ちつつ休息を摂るべきだろう。

 ソルは上体を起こし、後続の軍馬へ呼びかける。


「軍曹!」

「分かっているわ。野営地はすぐそこよ」




 ※※※※※※※※※※




 その野営地には、設備が存在していなかった。

 マジェーレの案内で辿り着いた場所は「男爵が整備を怠っている」という言に、深々と頷けるほどの見窄らしさである。見窄らしい以前に殺風景なのだが。

 ただ、木々が同心円に伐り倒された空間だ。

 ソルの頭上を覆い隠していた枝木はここにない。

 星を塗した紫根の空が、黒葉を円形の額縁にして飾られていた。道中の空といえば裂け目からの木漏れ日のみだったがゆえに、開放感はひとしおである。

 幼女は「奇妙じゃ」と小さな頭を傾いだ。


(いささか違和感があるのう。男爵による一帯の整備が疎かじゃという割に、この場所だけは草木の浸食が軽微にすぎる。伐採された木々も朽ちずして脇に積まれておる。……直近に、誰かが整備した(・・・・・・・)ように勘繰ってしまうが)


「ちげーよ馬鹿、俺が三個前にいたのはもっと南だってーの。バラボアよりも南。話は風の便りで聞いたろ? あそこじゃ一時期、イブレーシス中将とビエニスの『円環の導翳し』の真っ向勝負しててよ、俺ぁ城塞に篭ってたけど、生きた心地しなかったっつーの」

「貴様、イブレーシス殿の下にいたのか。羨ましい」

「きちーぞ、あそこ。脳味噌が筋肉じゃねーとやってられねーの。ガチガチの礼儀作法で雁字搦め。今時、あんなの流行らねーってのに」

「いや……ここがおかしいだけと思いたいんだが」

「お坊ちゃんは言うことが違うねー」

「その点な、ラスティマイン中将のとこの緩さな」

「私たちを置いてる時点で、ねえゲラート?」

「俺に振るんじゃねぇよ、オメェだけだっつの」


(……さて、どうしたものかのう)


 噴き出すように炎がゆらめき、踊る。

 ソルはぱさついた保存食を口に運びながら、視線を前に遣る。そこ──野営地の中央では、焚き火が燃え盛っていた。根元では、組まれた木片と薪が黄蘗色に光っている。炎の輪郭たる紅緋は風に揺らぎ、熱を乗せた靄とともに黒ずんだ木端を吹き上げる。

 この焚き火の支度自体は容易なものだった。火の扱いは、野営の折には必需と言われる、炎属性を扱える人員に任せるのが一般的だった。火起こしの必要を迫られないだけで、野営の難度は著しく下がる。

 現在、小隊は炎を囲うように環をつくっていた。

 そのなかで、幼女は一人あぐらを掻いている。


(もはや恒例じゃが、話に入れぬのう……)


 手の干物を齧る。ぐにぐにと噛みきりにくい。

 格闘すること数秒、顎を上げて嚥下する。

 そのとき、ふさりと腰に羽毛が撫でたような感触。

 後頭部で一つ結びにした白髪が触れたのだろう。


(十代の終わりまで、この髪が鬱陶しいと思っておったのう。そういえば、わしが短髪の時代は、傭兵になって間もない頃と、三十代のとき奴に髪を燃やされた頃の二回のみじゃったか……と)


 幼女はわずかに頭を傾ぐと、愁いを追い出した。


(いやいや、懐かしさに浸って現実逃避してはいられぬな。過去は過去。向き合うべきはいまじゃ。差し当たって、この疎外感を打破せねば)


 眉間にぐぐっと皺を寄せ、隊員の様子に目を遣る。

 彼らの大半は、兵装を解いた肌着姿で思い思いに座していた。ソルと炎を挟んだ向こうでは、少女が安座のまま額を地につけるほど背を丸めている。

 その隣にゲラートの巨体が横たわる。片肘を立てて自らの頭を支えていた。ソルはその姿におおと唸ってしまう。兵装越しでも主張の強かった筋肉が、断崖の岩肌のごとき峻険さを誇示しているのだ。

 ソルが、強さの象徴に目を奪われるのは詮方ない。


(まあ、憧れじゃからのう。元の姿のときも、身長も筋肉の厚みも足りず……果ては幼女じゃから。とは言え、二度目の機会を与えてくれた魔術師には感謝こそすれ、文句を言うつもりはない)


 言いたいことはあるが、とソルは青息吐息を切る。

 視線を右に流せば、ナッドが彼らを厳しい目つきで睨みながら、片膝を立てている。その他には正座する者、両足を投げ出す者などが目立っていた。

 いま彼らの談話の俎上にあるのは、今宵の方針だ。

 マジェーレが猫背のまま、辺りに目を走らせる。


「交代で歩哨を立てましょう。ここじゃ敵兵や野盗に気を配る必要はないけれど……無防備のまま眠ったら、目覚めたときには狼のお腹のなか。そういうこともあるわ。この森、獰猛なのが根城にしているから」

「お前の遊び相手のな」

「なら、遊んでみる?」


 少女の薄ら笑いに、茶々を挟んだ男は手を振る。


「嘘だよ嘘嘘、そいつはホントに勘弁な」

「根性がねぇなぁオメェは」

「ゲラートにだけは言われたかねえーだろよ」

「全くだな。君は以前から、大口を叩く割には結果が小さい男として界隈で有名だぞ」

「それ私も聞いたことあるわね」

「どんな名の馳せ方してんだ俺はぁ! 何でぇクソども、オメェらは俺に寄ってたかってよぉ……」


 ごほんごほん、と高めの音が転がる。

 幼女の咳払いで会話は止み、衆目が一点に集まる。

 ソルは話を軌道修正するべく見回して、言う。


「とりあえず、歩哨の件を消化せんか? 軍曹──」

「ええ。歩哨を立てるなら分担させましょう。負担を集中させるのはよくないわ。とすると、何人ずつで持ち回りにするかが問題だけれど」

「……ならば、三人組で代わりばんこに──」

「二人組で十分よ、少尉。実力的にも妥当ね。新兵同士を組ませなければ良いでしょう」

「そうじゃな。ぬしの通りにしよう」


 淡々とした正論に沈められたソルは黙り込む。

 少女はそれを見遣っても、表情ひとつ変えない。

 こなれた話運びで、歩哨の組分けを捌く。てきぱきと名指しで組ませ──おそらくは事前に、個々の実力を把握しているのだろう──誰も異を唱えないまま、数分と経たずして決を取るまでに至る。

 輪のなかでひとり、白の幼女は肩身が狭かった。

 マジェーレは余程、ソルより長に相応しかった。


(わしの尻ぬぐいの位置たる、副隊長を任されておるだけあるのじゃろうな。見目の若さによらず、能力の高さは折り紙つきというわけかのう。わしとしては、賛辞を口にする他ないのじゃ)


 長という柄ではないソルにとっては心強い。

 もっとも、お株を奪われているのもまた事実。

 側頭部にナッドからの視線が突き刺さっている。

 面子が潰されているのではないか、と言いたげだ。

 ソルは目を瞑り、小さな頭を幾度か横に振る。


(わしが功名心に逸り口を出したとて、流れに水を差すことにはなれど、掉さすことにはならぬ)


 ナッドの、ソルに対する認識は複雑と知っている。

 ──俺は基本的には尊敬してんだけどな。

 ──でも、世間ズレしてるとこは直さないとな。

 幼女に振り回された彼は、ひとつの境地に至った。


(立ち位置を確立したと言うべきかのう。人前では、上官のわしの顔を立てるために何も言わんが、二人きりになったとき説教。有り難くてかなわんが、こうも振る舞いが過保護じゃと……その、何じゃのう)


 彼はまるでお目つけ役。あるいは保護者だった。

 もし周囲の目さえなければ、今頃は小言が飛んでいたであろう。上辺だけならば妥当な関係性に見えることが、ソルにとっては素直に受け入れがたいところではあった。そんな彼は平素を装いつつ、自然と会話に加わっている。折に触れて、幼女に目配せが飛ぶが。

 いまは上官の体面を崩さぬため、口出しを控えているにすぎないのだろう。


(じゃが、先頭に立って集団を導くことは生半ではないからのう。わしは多人数の手綱を握るだけの経験が不足しておる。いま真似事を弄じたとて、良い結果には繋がらんじゃろう。……ナッドに睨まれようと、いまは軍曹に任せておこう。うむ)


 瞼を下ろしたまま、幾度か顎を引く。

 自らを説き伏せ、ひとつの区切りをつける。

 彼からの物言いたげな視線は粛々と受け止めた。


(わしのほうは、皆と打ち解けるよう努めよう。……無論、本分を忘れたわけではない。長の責任を投げ捨てたいわけではなく、これも長としては肝要じゃ)


 ソルは手始めに、左隣を陣取る男へ声をかけた。

 痩身の彼は、この小隊では平均的な体格だった。幼女と少女のせいで平均は引き下げられているが、十分に逞しい身体つきだ。炎属性の魔術を扱えるようだが、どうやら魔術一辺倒という雰囲気ではない。

 先手は、自己紹介が安定かと思われた。ソルは気安さを心がけながら話を切り出す。彼はいささかの気後れを額に皺として滲ませるも、鷹揚に応えてくれた。

 人となりを知るには、名前、出身、経歴、どの戦に参加したのか、どんな英雄を見たことがあるのか──おおよそ、これだけの質問で事足りるはずだろう。

 しばし言葉を交わしていると、男は不意に億劫そうな顔で「あのな、すまんけどな」と腰を浮かせた。


「白熱してっとこ悪いがな少尉さん、そろそろな」

「おお、何じゃろうか」


 そのとき、背後から軽く頭頂部を叩かれる。


「就寝よ、少尉。時間まで仮眠、了解?」

「……承ったのじゃ」


 どうやら話を弾ませすぎたようだった。

 踏み込んで言うのなら、ソルは英雄が話に絡みだした辺りから暴走し、ひとりで弁を振るっていた。男の相槌が引き気味のものに変わり、苦笑いに変わり、最後には助けを求めて視線を彷徨わせることに変わり果てるまで、そこまで時間はかからなかった。

 しょぼくれたソルが仮眠前に見たのは──。

 足早に去った男の肩を叩く、ナッドの姿だった。




 ※※※※※※※※※※




 徐々に夜は更けてゆく。

 夕餉で小腹を満たせば、あとは曙光を待つだけだ。

 明日の行進に備え、小隊は早々に仮眠に入った。


「……少尉殿」

「ああ、かたじけないのう。任されたのじゃ」


 幼女は部下に揺り起こされ、すっと目を覚ます。

 どうやら歩哨の引き継ぎの時間らしい。

 寝ぼけ眼のまま、明かりを頼りに片割れを探す。

 相方はちょうど隣で、猫のように丸まっていた。


「起きるのじゃ、軍曹」

「……ふああ……もう、なの?」

「睨むでない。……寝起きが悪いのか?」


 ──そも、仮眠ではなく眠りこけておったのか。

 幼女の呆れ顔の前で、歩哨の相方である少女──マジェーレは、目元を擦りながら無言で起き上がった。かすかに見悶えながら、黒髪を無造作に払い、膝を立てる。手先から膝の動きまで覚束ないが、どうやら転倒の心配はないようだ。彼女がさながら動く屍のように見えるのは、無理に抉じ開けた瞼にも一因がある。

 白玉を穿つ黒点たる、瞳孔が開ききっているのだ。

 

「眠い」

「見ればわかる」

「わかったからどうと言うの。私を眠らせなさい」

 

 即時、言い返すところを見るに溌剌らしい。

 一時は目を放しても問題ないと思われた。

 ソルは愛剣を携えて、どっかりとその場に座す。

 そして、月明かりが降り注ぐ野営地を見渡した。


(皆はよく眠っておるのう)

 

 いましがた任を終えた二人以外は寝静まっている。

 冴え冴えとソルの記憶に刻まれた者たちは──ゲラートが巨躯を大地に放り出して眠っている他、ナッドが苦虫を噛み潰した表情のまま丸まっている。悪夢にでも魘されているのだろうか。ソルは妙な既視感を覚えたが、寸刻を置いて腑に落ちた。

 あれは、彼が幼女を見守るときの表情に似ていた。

 どこまでも難儀な男だった。


(さて、わしもお勤めを果たすとするかのう)


 ソルとマジェーレは歩哨としては最終組だ。

 つまり総員が任を終えた時頃である。空から沈む月は、すでに黒々とした木葉に隠されていた。日の出自体も遠いのだろう、星空の絨毯に仄かな月光を残したまま、いまだ辺りには紫の帳が降りている。

 そこに、薄闇と同化するかのような少女が佇む。

 マジェーレは立ったまま眠っていた。


「……んん」

「二度寝は勿体ないのじゃ」

「寝る子は育つという言葉を聞いたことがあるわ」

「怠惰の言い訳じゃな」

「寝る間を惜しむなんてカビた考えね」


 ソルが一蹴すると、鼻で一笑に付される。


「睡眠は大事よ。お金と同じくらい大事。これからの身体の成熟に影響を及ぼすし、翌日の集中力も散ってしまうし、私の腹の居所も悪くなる。だから私は眠りたいの。真夜中に鍛錬する変態は死ぬべきよ」


 平坦な声による高説に、感心の溜息を漏らす。

 ──そうか、わしの考え方は古臭いのか。

 マジェーレの言葉は、ことによく理解に届いた。薬も過ぎれば毒と化す。身になる鍛錬に励むあまり、睡眠を二の次に据えてきたのは悪手だったようだ。腹を満たし、鍛錬に没頭すれば、いつか高みまで飛べると思い込んでいた。ソルは己の無学を恥じ入った。

 睡眠大事、と脳裏に刻み込む。


(さらりと変態呼ばわりされた挙句に殺害予告まで喰らったが、まあよいか)


 ともすれば、少女の睡眠妨害とは悪いことをした。

 反省の念に肩身を狭め、目尻を下げた幼女。

 煙に巻かれたなどとは露ほどにも思わなかった。


「長々と喋っていたら眠気も覚めてきたし、そうね。暇潰しにお話でもしましょうか」

「大人という歳には見えんが」

「もう十四よ、私は。少尉はいくつ?」

「……八歳なのじゃ」


 ソルは練習通りの返答に成功する。

 密かにぐぐっと両拳を握る。努力は一日にして形に成らず。療養中に鏡台の前で「幼女らしい応対」を鍛錬した甲斐があったというもの。その鍛錬中には幾度となく、人生を省みる機会に恵まれた。

 なぜわしがこんなことを──と幾度思ったことか。

 孤独な戦いは、時として己との戦いだ。

 それは鏡に向かって一人「わしの考えた幼女っぽい言葉遣いを試行錯誤する」という精神的拷問にも当て嵌まる。どうしてソルがこうもナッドにも明かせない恥辱に、身を削りながらも励むことになったのか。

 もちろん、被虐的な趣味では決してない。

 ソルとソルフォート・エヌマが同一人物であることを、余人に気づかせないためだった。


(わしが、ソルフォート・エヌマであることは広まってはならん事実じゃ。元傭兵の身で、ビエニス・ラプテノン連合軍に与していたこともじゃが、それだけではない。人の魂を他の人体に移して、転生の真似事を為すなど前例がない。万が一、転生が露見してしまえば……研究対象として捕縛されるじゃろう。それは英雄への道から遠ざかることに他ならん)


 権力者は誰しもが考えるであろう、永遠の生命。

 安寧から転げ落ちる最期を回避したいのは人情だ。

 死の恐怖に追い立てられ、血道を上げて不死の方法を探した『不死王』という英雄王の名は数百年経ったいまでも、大陸に轟いている。最期まで彼は不死の手段に辿り着けず、佞臣の虚言に踊らされ、毒を飲み下して死亡したらしいが──ともあれ、だ。

 ソルの存在は、時代問わず需要に恵まれている。


(あのとき、出会った男が卦体じゃのう。幼女云々は置いておくとしても、身体を取り換えるなどと……どんな魔術を極めれば起こせるのやら見当もつかぬ。禁忌指定は免れんじゃろうに)


 そもそも御年六十五歳だと主張しても旨味がない。

 マジェーレの黒い視線が、可哀そうなものを見る色に早変わりするさまが目に浮かぶようだ。

 いや──いまも彼女はなぜか訝しげだった。

 ソルの瞳奥を覗き込むように、見下ろしていた。


「な、なんじゃ?」

「いいえ、少し想像と違ったから……」


 すっと離れると、無造作に両腕を空に伸ばす。


「とりあえず、上下関係ははっきりしたわね」

「年功序列の世界は厳しいのう」

「それじゃあ、お喋りをしましょう。少尉」


 マジェーレは合いの手を徹底的に無視した。

 ソルの隣に腰を下ろし、膝を抱く。そして適当に掴んで放るように、幼女へ問いを投げやる。


「まずは自己紹介をお願いするわ」

「わしはぬしのことが聞きたいのじゃが」

「こういうものは順番よ。私たちからすれば、少尉のことをよく知らないわ。面と向かっているだけで、おかしな人というのは分かるけれど……まあ、暇潰しにはうってつけだと思うわ」


 少女は指折り数え、幼女への不審点を挙げていく。


「その年で英雄になるまでの略歴。その見た目で、古めかしい、訛りの強い言葉遣いをしている理由。その年で剣を振るえる理由。ナッドから、本人から聞くよう言われていたのを、たったいま思い出したわ」


(できれば、わしに投げんで欲しかったが)


 ソルは恨み節を一言に抑える。努めて冷静さを保ちながら記憶を掘り返す。当然ソルフォート・エヌマの経歴を口外できない。ゆえに、ソルとしての人生を語らねばならない。幼女とて考える頭がないわけではない。事前にそれらしい物語を拵えていた。

 帝国軍に明かした虚偽の経歴、ソルの物語だ。


「まず、わしは──」


 名前はソル。年齢は数え年で八つ。

 出身はバラボア砦周辺にあるダーダ村。

 箱入り娘として育ち、世間知らずなところも多い。

 年齢にそぐわない古めかしい喋りや訛りは、御守を務めていた老爺の口振りが移ったからだ。

 剣の振り方を覚えたのも、彼の影響だった。


 ──おとなになったら、英雄様になりたいのじゃ。


 英雄譚を読み耽る娘が部屋の隅で描いた夢。

 老爺はその夢想を叶えるために剣の手解きをした。

 いや、実のところ、夢見がちな娘を納得させるためだったのかもしれない。気が済むまで夢への道を走らせ、やがて才能という壁を前にして足を止め、自ずから諦めるときを待つ。あの心配性の両親はそうでもなければ、老爺の指南を看過しなかったはずだ。手塩にかけた娘を血河に沈めたくなかったはず──。

 だが、不幸にも、彼女には類い稀な才能があった。


 ──ぬしは、もしや、天へと至れるやもしれぬ。


 むかし、英雄を凌ぐ剣豪だった老爺はそう言った。

 微笑んだ彼の、憐れむような瞳が忘れられない。


 ──環境が悪い。だが、外を知れば、ぬしは……。


 ソルの人生が一変したのは、とある朝だった。

 普段なら老爺の声で起こされるはずが、その日だけは遅く目を覚ました。ぼやけた視界に映ったのは幾度も板目を数えた天井ではなく、黒煙が昇る蒼穹。

 老爺でも、両親でも、垣越しにしか見たことのない村人でもない。夢から覚めた彼女を待っていたのは、連合軍の手により焼かれた故郷だった。

 そうやって天涯孤独という谷底に落ちた彼女。

 食い扶持を稼ぐため、帝国兵の前に現れる──。

 という、ソルの英雄譚を最後まで聞かせた。

 もちろん、すべてデタラメである。


(しかし、なかなか良い出来じゃなからんか。まさに英雄譚の始まりのようじゃ。『世間から隔絶された生い立ち』『恵まれた才能』『偉大な師』そして『不幸な離別』。ツボは抑えておるはずじゃ)


 英雄譚を愛する者として、我ながらときめく。

 子供の頃から幾度も思い描いた、架空の英雄たちと架空の英雄譚。ソルにとって『創作』はお手の物だった。それを字で認めることはなかったが、暇さえあれば夢想した英雄譚は、紙と筆、そして上手に言葉を操る腕がなくとも面白かった。

 詠み人知らずはいつだって名作だ。

 読者が一人だけなのだから必ず急所に刺さる。

 ゆえに、根拠のない自信だけは確かだった。


「随分と──」


 一通り聴き終えた少女の口が、声を紡ぐ。

 ソルは表情を硬くする。創作物に対する自信はあるものの、如何せん根拠がないため不安の翳りを拭い去れなかった。もし、彼女の舌が次に「荒唐無稽ね」やら「つまらないわ」やら紡いだらと思うと、小さな胸を打つ心拍数の上昇が止まらない。

 一秒が十秒にも感じる鈍重な視界で、唇が動く。


「──波乱万丈な人生ね。羨ましいくらい」

「そう、かのう。そうであれば……嬉しい。のじゃ」

「……どうしてあなたが嬉しがっているの?」


 少女は薄墨色の寝乱れ髪を弄ぶ。

 一方、幼女はほっと胸を撫で下ろした。

 どうにか渾身の英雄譚は認められたようだった。

 目立つ矛盾がないことも確からしい。しかし、気にかかるのはマジェーレの態度だった。決して視線を合わせようとしない眠たげな瞼が鋭く細まる。足首に絡ませた手指がわずかに食い込み、節が浮き上がる。

 ソルの観察眼は、彼女の機嫌の傾きを見抜いた。

 語った物語の何かが癪に障ったのかもしれない。

 ならば、話を流しにかかるべきだ。ソルは現状を「いまだ綱渡り」と判断する。どちらにせよ、会話の牽引役を彼女に委ねたままでは、いずれ話が掘り返される可能性があった。油断は禁物である。

 苦手と言えども、迅速な話題提供が急務だった。


「そうじゃな。軍曹も、相応の修羅場を潜ってきたように見えるがのう。どうじゃ、ぬしの生い立ちを語って聞かせてくれんか。ぬしのような強者が獄禍討伐に──というよりも、帝国軍に入っている理由をのう」

「どうかしらね。忘れちゃったわ」


 ひらひらと手を振るマジェーレ。

 有耶無耶にして誤魔化す気概のみが感じられた。

 だが喰い下がらねば、矛先は遠からずソルに行く。


(まあ追及を躱す手段としてもじゃが、仲を深める手段としても、過去を知ることは近道に他ならぬ。人物像が把握できねば、距離感も掴めぬからのう)


「ぬしには、明日以降も背中を預けることになる。副長という身近な立場で、じゃ。胡乱な者を置くわけにいくまい。もっとも、個人的な興味もあるがのう」

「……本当に、私なんて大したことはないわ。盛り上がりどころもなければ、虚をつくような展開もない。話を言って聞かせて、逆に私がお金を払わなくちゃいけないくらい、つまらない話よ」

「それでもじゃ。どうか聞かせてほしいのう」


 少女は顔を背け、吐息に諦めを混ぜた。

 引き際を弁えない不届者に呆れているようだ。

 だが、なおも諦めない幼女に根負けしたのか、淡々と自己紹介を紡ぎ始めた。


「マジェーレ・ルギティ。年は十四。出身は帝国南部の、あなたと違って、親なんか顔も知らない。親代わりの人とか、家族代わりの人たちはいるけれど。いままで、私はその人たちの『家』に住んでた」

「孤児院、ということかのう」

「そう。帝国軍に入ったのは、私に適していたからでしかないの。オド容量があって、他のことにも特別な興味は持てなかったから……ええ」


 マジェーレは凝然とソルを見返してくる。

 息を呑んだ。間近にすると「黒い」と改めて思う。

 その瞳には黒い渦がのたうっていた。さながら、あらゆる感情の絵具を筆先で丸めたかのように。黒渦には混ざりきれない色が見え隠れしている。淀んだ喜を宿す黄が、怒を孕んだ赤が、哀を乗せた青が、そして不機嫌さの根幹たる色が──。


(……敵意(・・)、かのう? 否、違う、これは何じゃ)


 ソルの思案を他所に、少女は己のあらましを語る。

 マジェーレが孤児院に引き取られたのは、八歳の頃だという。そこの管理人の『おじさん』については、マジェーレ曰く「大層な偽善者」らしく、旅先で目についた孤児を気紛れに連れ帰ってくるらしい。

 ──垂らされた蜘蛛の糸を、運よく掴んだだけよ。

 少女の両目の黒孔は光を拒むように、昏い。


「だから、私、夢なんか見たことないの」

「ほう、それはまた……」

「夢を見れるほど、無知を許されなかったから。何かに憧れようにも、幻想を抱けなければ始まらないでしょう? ……私の情緒はもう変わりようがなかった」


 その呟きは、騒音めいた虫の声に掻き消される。

 彼女は平坦な声色で、表情の変化も乏しいままだ。


「あなたには英雄という夢があるそうね」


 ソルが無音で頷く姿を認めて、少女は言葉を継ぐ。

 一段一段、靴底で確かめるように問いを重ねる。

 対する幼女は、ひたすらに是を示し続ける。


 ──それは、自分で掴んだものなの?

 首肯。ただ是、と。

 ──あなたは夢にすべてを賭せるというの?

 首肯。ただ是、と。

 ──この任務も、その夢の大事な糧なの?

 首肯。ただ是、と。


 この問答はひとえに、分かり合うためだった。

 自らを他人の目前に曝け出し、共通認識を広げていく。対面での実直かつ愚直な問答は、不器用さの重力から抜け得ない凡人にとって、望むところの仲の深め方だった。ソルは真摯さを懐に携え、阿吽の呼吸を崩さず、目も逸らさずに数回と答え続けた。

 ソルは手応えを覚えた。たとえるならば、その一体感は押しては引く波を連想させた。そこで確信を得るに至る。きっとこの大波は二人を飲み込んで、その胎内に理解という子を孕んだに違いない──。

 締め括るようにマジェーレはひとつ、頷く。


「なるほど。大体、あなたのことが把握できたわ」

「それは結構なのじゃ。では、これからもよろ──」

「私、あなたのことが嫌いだわ」


 ……ぱきり。ぱきぱきぱきぱき。

 何かが蜘蛛の巣状にひび割れた音を聞いた。

 おそらくそれは勝手な妄想が砕ける音だろうが。

 幼女はまず息を吸って瞑目し、一気に瞼を上げる。


「……考え直してはくれんか」

「いえ、仕切り直しても答えは変わらないわ。好悪を再び試算しても意味はないと思うけれど。あなたと私は価値基準が違いすぎるのよ。それこそ、あの月につける価値から始まって、そこの石に見出す価値まで、きっとあなたは私の真逆の値段をつけるでしょうね」

「……決めつけるには、時期尚早ではなからんか」

「あなたが価値の中心に据えているのは、夢。あなたはその夢を至上に据えて、それに伴うように世界を見て、聞いている。私が中心に据えているのは、お金(・・)


 ──ほうら、真逆でしょう。

 少女はにへら、と口元を崩して露悪的に笑う。

 それを両膝で一時に覆い、平坦な調子で続ける。


「たとえばの話をしましょう。あなたにとって、今回の獄禍討伐はどんな位置づけなの?」

「どんな、とは。また茫漠な問いじゃ」

「そうね。じゃあ前提を確認しましょうか。まず……あなたは獄禍のことをどれだけ知っている?」

「討伐経験はない。風聞で多少の知識はあるがのう」

「へえ。どこまで知っているか、聞かせてくれる?」


 なぜか嫌に挑発的な物言いだった。

 ソルは取り合わず、眼差しをあぐらの中心に注ぐ。

 そこに屹立するのは愛剣、その剣身を覆う朽葉色の布だった。小汚い布地がたわんだ切先から、剣に沿うように目線を昇らせて、直上の紫空まで飛ばす。

 その道すがらに、散らばった記憶を手繰る。


「確か獄禍とは……『獄禍変転』という現象を通して現れる、怪物の呼称じゃったと記憶しておる」


 ──獄禍変転。嵐や雷と同列に扱われる災害だ。

 突然、人間が何らかの怪物に変貌する現象である。たとえば、金の体毛に覆われた獣に変貌した例、正立方体の石に変貌した例、側頭部が肥大化した人型に変貌した例。獄禍の形態は様々だ。

 獄禍変転の原因は一般に「元より怪物が人間に擬態していたのだ」「化物の血脈だったのだ」などと、(まこと)しやかに噂されている。

 つまり、この現象に対する世論は一言で表せる。


(人ならざる物が、化けの皮を剝がす現象。それを、獄禍変転と呼ぶ風潮が広まっておる。実際のところは謎に包まれておるようじゃがな)


 都市郊外の、特にマッターダリ山脈周辺の農村地域では「信仰を疎かにした祟りだ」と畏れられているそうだ。もっとも、真相は定かではない。北方の魔術大学で机に齧りついている学者たちも、論理に裏打ちされた説にまでは至っていないと聞く。

 幼女が要点を絞って答えると、少女は目を細め「ふうん」と相槌を打った。


「……思った以上に詳しいわね、箱入り娘。世間知らずじゃなかったの?」

「自然と知識も備わるものじゃよ。獄禍は最近の英雄譚──ここ百年の英雄譚では頻繁に登場する。まあ、竜の絶滅後に残った巨大な敵と言えば、敵国の英雄と獄禍しかおらぬためじゃろうがな」

「ふうん……あなたは、英雄譚だけで外の世界を知っているのね。どこから英雄譚を仕入れてくるのかは知らないけど。それはともかく……そんなあなたにとって、獄禍はどんな存在?」


 回りまわって、問いを繰り返す。

 少女は、斜に構えた細脚に上体を添わせた。


「私にとって獄禍は倒すだけの存在。獄禍を倒せばお金が増える。獄禍を倒せばご馳走が食べられる。大事なことはそれだけ。余計な思考は無駄なだけで、お腹がすくだけで、何も得がないこと」

「怪物は倒すだけの存在、という認識は同意するがのう。わしの場合は倒すべき存在じゃ。怪物退治は英雄譚に華を添える、大事な儀式じゃからな」

「夢見がちなのよ。酩酊としか思えない言い分だけれど……それなら少尉? 今回の討伐は、さぞやる気も湧かないのではないかしら」


 少女は顔を背けて、ひとつあくびを漏らす。

 いや、仕草だけだ。彼女の流し目が曲線を描く。

 透徹した空気を震わせ、平面を繕った(・・・)声色が響く。


「修羅さん。ねえ、軍部の見栄で拾い上げられたお人形さん。今回の任務は結局、あなたの箔をつけるだけの遠足にすぎないのだから。単なる茶番じゃない」

「茶番は言いすぎじゃろう。討伐対象の獄禍がやや格落ちとは聞いておるが、油断は足を掬いかねん」

「そういうことじゃないわ。どうなの?」


 幼女のささやかな文句は、しかし切り払われる。

 遠慮なしに踏み込まれ、声を詰まらせながら返す。


「……今回の怪物退治は、いずれ大物獄禍を倒す『本番』の肩慣らしくらいに思っておるが」

「そんなわけないわ。ハリボテはすぐに隠さなきゃ、客に偽物とバレてしまうものでしょう? 少尉の怪物退治は今回限りでお仕舞いよ。名声を上げたら、あとは士気向上のための置物が関の山……残念ね。あなた才能はあるらしいけれど、埃を被ってしまうかも」


 冷たく、少女は現実を突きつけてくる。

 あなたの実力そのままが結果に結びついたわけではない、と。身分の高い何者かの意図が重なって、現状は好待遇を受けているにすぎない、と。

 その事実は、ソルとて重々承知している。

 盛り下がる帝国の士気を奮い立たせるために担がれているのだ。贈呈された勲章も、真に『努力が認められた』とは言い難いものかもしれない。

 幼女は、ぎゅうと小さな拳をつくった。

 帝国軍は予定調和の結果を望み、強いてくる。

 ──お前は整えられた檜舞台の上にある、と。

 ──そこで脚本通りに踊る道化のようにせよ、と。


(知れたことじゃ。ロズベルン中将に言い渡されたときから、否、わしに書状が送られてきたときからのう。所詮わしは頭の足りぬ、一人の男でしかない)


 だが、以前の──傭兵時代の頃に比べれば、随分と展望が見えてきたのも間違いない。


「わしは、このまま終わるつもりなどない」

「まあ何でもいいけれど、怪物退治をすっぽかすのはなしよ。私の食い扶持に関わるから」

「今回の任務を完遂するのは当然なのじゃ。その上で、英雄に相応しい器に成長すると約束しよう」


 いまは、まだ実力より名前の看板が大きい。

 幼女だてらに大戦果を挙げた、という沽券は耳に新しい。渡りに船の話題性を借りて、軍本部が「次代の英雄候補」と祭り上げるのは理解できる。

 ソルも、誰かの思惑に操られるのは居心地が悪い。

 だが、童のように突っぱねるつもりはなかった。


(これは類稀なる好機なのじゃ。皆に名が広まり、一挙手一投足を注目される? 結構なことじゃのう。そこで目にもの言わせるだけの強さを備えればよい)


 ──ああ、名前に実力を追いつかせてみせるとも。

 ソルの噛み締めるような表明に、少女は「ふーん」と露骨に気のない声を立てた。


「前向きね。前向きなのはいいことだわ。この先、何もなくなったとしても生きていけるから」

「……先ほどから、というか初対面から思っておったのじゃが。喋り方が見た目と一致せん奴よのう」

「そう思ってるのなら、まず鏡を見返すことね。自分の気持ち悪さがわかるわよ?」


 少女は狭い肩を鳴らして、大きく伸びをする。

 月光を浴び、ぬらりとした薄墨の髪が光沢を放つ。

 横顔の褐色が際立つも、そこに穿たれた瞳は──。

 やはり、光を拒絶するように暗黒を湛えていた。


「自己紹介の通り、私はマジェーレ・ルギティ。他人より贅沢に生きていたいだけの小娘よ」




 ※※※※※※※※※※




 昇る日を遠目に見つつ、野営地を後にした。

 朝靄を裂くようにして軍馬たちは駆けた。

 そして三度の夜を越え、それに伴う道をも踏破。

 ついぞ目的地、ジャラ村に到着した一行は──。



「件の獄禍は──どこじゃ(・・・・)?」



 そこに、怪物は待ち受けてなどいなかった。

 住居の残骸のみが残る村で、自由に舞う風が鳴く。

 その只中で、幼女は立ち竦んだ。

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― 新着の感想 ―
>ソルは字が書けないが、創作自体はお手の物だ。 この部分はおかしい。第1章の最後にこのように書かれてるので、字が読めるはず。読めるのに書けないはずがないと思う。 >「そろそろ本題に入るぞ。あの書状…
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