16 『戦後報告』
──そして二週間後、西方方面軍第一駐屯地にて。
白を基調とした清潔な室内に、二人の姿があった。
「……日差しは心地良い柔さ。風も髪を撫でる程度。今日は絶好の鍛錬日和とは思わんか? のう先輩」
「先輩呼びはもうやめろって。とにかく、鍛錬は絶対駄目だ。医者も言ってただろうが。『最低でも一ヶ月は絶対安静だ』って。ホントだったら、一ヶ月どころか一年は寝たきりなんだからな? お前が馬鹿みたいに回復が早いから、たった一ヶ月で済んでるだぞ。幸いと思って我慢しろ。こら、剣を離せ」
寝台で横たわる幼女の手から、男は剣を奪い取る。
幼女は、膨れ面には至らないものの──不満げに眉を寄せて、もっともらしい文句を垂れる。そろそろ我慢の限界を迎えていた。数日こそ唯々諾々と従っていたものの、事ここに至っては深刻な問題なのだ。
黄目を、穢れとは無縁の白髪の隙間から覗かせて。
「道理は解しておるのじゃ。しかし……鍛錬を一日でも欠かせば、身体が鈍るのは常識じゃろうて。十日続けばなおのこと。せめて、剣を振るうだけでも叶わんかのう? できれば」
「駄目だ駄目だ、ここだけは諦めろ。骨がばきばき折れて、今日から手足が使えなくなってもいいってわけじゃないんだろ? 頼むから寝ててくれ」
弁が立たず、男にあっさり言い負かされてしまう。
歯痒い。幼女はぐぬうと黙らざるを得なかった。
なんとか表情で主張しようと試みるも、男から一顧だにされない。いま、彼女の顔には包帯が巻かれている。伝わっていたのか怪しいところだった。幼女は嘆息混じりに諦めて、広々とした白色に身を預ける。
見目麗しい彼女は──現在は、その可愛らしい顔立ちが白布で遮られているが──ソルだった。老いた凡人、ソルフォート・エヌマの成れの果てである。
彼女の額や頬、片目は包帯に覆われている。
寝台に乗せられた身体も包帯でぐるぐる巻き。
片腕は固定され、脚も紐で吊るし上げられていた。
年端もいかない彼女のそんな様相には、見る者に痛々しさを与えるだけの凄惨さがあった。
(夜間、いまのわしに出会せば『墓所の下から這い出た兎の死体か』と勘違いされそうじゃのう。そう言われたとき……そうじゃな、わしはこう返すとしよう『兎の死体は動かぬぞ』と……ほう、これはなかなか面白いのではないかのう。笑いどころも抑えておる。やはり、冗談も磨けば光るものじゃな)
最近では、ジョークセンスの研磨に耽っている。
入院生活は時間との真っ向勝負だ。暇潰しに心を砕かねばならない。もっぱら技術の研鑽に励むため、戦闘の空想を繰り返していた。しかし、何にせよ限度がある。ゆえに様々な関心事に手を尽くすことで、不本意ながら空いた時間を有意義に変えようというのだ。
その一環が、気の利いた冗談を言う方法である。
ソルは口下手が祟って、散々扱き下ろされてきた。
自信作が完成した都度、訪れた男──いま寝台脇の椅子に腰かけたナッド──に、自然な流れで披露している。
「ナッド、わしの姿をどう思う」
「どう……? 痛ましいから、早く癒えて欲しいな」
「動物で言えば、何だと思うかのう」
「ど、動物で? いや何の話だよ、一体」
狼狽を見せるナッドに、無言の圧力を送る。
すると、一瞬で思案の方向に視線を飛ばして。
「あー、ええと。そうだな。帝都の舞台で演じられていたんだが、白虎かな。実在しない伝説上の動物らしいんだけど、雄々しく戦う姿は、あのときのソルにぴったりだと思う」
ソルは無表情で、片手で自らの髪を掴む。
白髪を捲りあげて、頭頂部から立ち昇らせる。
器用に指を駆使し、二つの白束が持ち上がった。
「んん? ……いや、ソル、すまん分からない」
「これは、耳を模しておる」
「……もしかしてだが、兎で合ってるか?」
「まさにその通りじゃのう。ではこの事実を踏まえた上で、問いを繰り返そう。わしの姿をどう思う」
「……兎。傷ついた兎、か?」
ソルは無表情のまま、片手を顎下で一閃する。
それを何度も何度も繰り返す。
ナッドが怪訝そうな目つきで、推察を口にする。
「……首が斬られる? っていうと、死ぬって言いたいのか? だから、つまり兎が死んだと。傷ついた兎が死んだ、みたいなことか?」
「ナッドよ。死んだ兎は、動かぬ」
満足げに頷くソルは、仄かに笑みを滲ませた。
対するナッドは、間の抜けた顔を晒している。「これは何? 何の話だ?」とでも言いたげだ。ただ彼の口から漏れたのは、たった一文字「は?」だけであった。笑みの欠片もない。ソルはとても悲しくなった。
この通り、入院生活十日目でも平常通りの幼女。
身体とは対照的に、心持ち自体は完治している。
元より精神は丈夫なのだ。事実、ここで目覚めたときから平常心を取り戻していた。だが、それが裏目に出ることもある。先ほどの言い争いがそのひとつだ。
ソルは一刻も早く、鍛錬を積み直さねばならない。
身体が鈍る──これも本音だが、最大の理由は『身体のオド残量』だ。
(バラボア砦の一件で、羽振りよくオドを消費してしまったからのう。身体を動かして、早目に以前までのオド量を取り戻さねばならぬ。身体能力に直結するオドを削ったままなのは、どうも落ち着かん)
しかし、ナッドの言も正しいのだ。
一ヶ月は安静にするよう、軍医からお達しを受けている。こうして日がな一日、横になっているわけだ。
人からの忠告に素直に従うのも、老人時代の経験のおかげだろう。青年期の自分であれば、構わず剣を振り出していたに違いない。そう悟ったように思いつつも、回復が待ちきれず、ずっとそわそわしている。
今日に至っては剣を握るところまで踏み込んだ。
(これは性分じゃからな、うむ。退屈を凌がねばならないほどの状況に、わしは追い詰められておるのじゃ。発作的に感触を確かめたくなるものよ)
そもそも、ここに退屈凌ぎになるものがないのだ。
寝台の側にある小窓からの光が、室内の殺風景さを露にする。一人用の部屋らしく、調度品も極端に少ない。ソルが横になっている寝台以外は、机と椅子が一脚ずつあるくらいだ。馴染み深い物体と言えば、寝台に立てかけられた剣程度である。
そんな部屋の机上には、一枚の紙が乗っていた。
あれは、朝方に届けられた書状だ。
ナッドは封が切られたそれを視界に収めると、話を切り出した。
「そろそろ本題に入るぞ。あの書状、読んだよな」
「ナッド……あの書状はもしや偽物なのかのう?」
「いや、流石にそれはない。人事からの正式な通達なのは確認済みだろ? ほら、ここに帝国のシンボルが入ってるしな。間違いなく本物だ」
「じゃがのう」
ソルは、彼から手渡される書状に目を落とす。
そして、懐疑的に眉を渋めた。
自分は疑い深い性格ではない。そう自負はしているが、胸中には割り切れない塊が浮き上がる。この書状の文面を純粋に受け止められるほど、自分の内面は若くない。嘆息混じりに、再び字を目線で追ってゆく。
確認の意を込め、内容の概略を読み上げてみる。
「任命状。テーリッヒ・ガルディ並びにボガート・ラムホルトを討ち取った功績を称え、貴殿を少尉に任ずる。……なんと言うのか、階級が一足飛びにすぎるのう。わしは正規の帝国兵ですらなかったのじゃが」
「実力が認められての大躍進ってことだろ? 向こうの──ビエニス王国ほど苛烈じゃないが、帝国も実力主義は変わらないんだからさ。もっと喜ばないのか」
「嬉しいと言えば嬉しい、のじゃが」
ソルは言い淀み、視線を窓外の蒼穹に逃がす。
正式に認められること自体に悪い気はしないのだ。
血で血を洗う戦いとなった、バラボア砦防衛戦。
その結果は、帝国の辛勝という形で締め括られた。
少数精鋭のラプテノン強襲軍は字句通りの全滅。
対して砦側の生存者は、わずか十一名。ほとんど全員が重傷を負い、ソルやナッド含め、現在は各々療養に励んでいる。軽傷だった者は、やむなく現場指揮を執っていたというサンソン参謀のみである。
基本的には──ソルを除けば──城砦に居残っていた人間たちは、未来の帝国を担う有望株だった。ゆえに、防衛戦に勝利と言えば聞こえはいいものの、与えられた損害を勘定に入れ、総合的に見ればほろ苦い。
もっとも、今回は痛み分けだろう。
ラプテノン王国も、消耗の度合いで言えば同等だ。
彼らが一度に失ったのは、戦力の誇示のために喧伝していた、次代の英雄ボガート・ラムホルト。最強の大英雄すら倒し果せる魔剣『幾千夜幻想』。戦線を下から支える『王国騎士団』。つまりソルの活躍で収支ゼロに繋がった。帝国はその功績を称えたのだろう。
流れは理解できる。だが、あまりに駆け足だ。
(なにやら、裏の意図を勘繰ってしまうのう)
ソル自身、過分な評価だと思っている。
きっと将来性を買われているのだ。
つまりは幼女サービス。外見の幼さで得をした。
(もっとも、誰に利用されようとどうでもよいことじゃな。わしの夢を遮りさえしなければ)
口から零れそうな、割り切れなさを嚥下する。
(追い風になる間であれば、のう)
ひとつ、ちらりと寝台に寄り添う椅子を見た。
そこでは、神妙な顔でナッドが首を捻っている。
彼もまたソルと同様に怪我人だ。包帯やガーゼを至る所に巻きつけ、傷跡を塞いでいる。負傷の程度としては左腕が酷く、折れてしまったらしい。利き腕ではなかっただけマシだが、厳重に固定されている。
ただ、全体的にソルより怪我の具合は軽い。
いまも建物内を歩き回れるほどである。
ふと、ソルは話の転換も兼ねて、ほうと息を吐く。
「それにしてもナッド、ぬしも気安くなったのう」
「まあ……砦にいた頃は、俺も素直じゃなかったからさ。ほら、俺の生い立ち、入院生活の暇潰しに話したろ? 才能に潰されてて、ひねくれ者に育っちまった馬鹿の話。あれからさ、踏み出そうと思ってな」
「すまぬ、わしが比べたのは『ここでわしが目覚め、ぬしと再会したときの態度』なのじゃ。最初はあのとき真剣に、よく似た別人かと思うたぞ」
「あー……俺、上下関係は意識するタイプなんだよ。商人としてガキの頃は育てられたし、士官学校での教育とかでも身に染みついちまってる。だからまあ」
照れ臭そうに、ナッドは鼻梁の麓を掻いた。
「恩人にさ、敬語使わないほど、俺も礼儀知らずの馬鹿じゃねえって言うかさ。今回、俺はソル……いや、ソル少尉に助けられたようなもんだからな」
「何をまた。むしろわしが助けられた。最終盤、ぬしが命懸けで協力してくれていなければ、わしの行動はすべて意味を為さなかったはずじゃ」
「待て待て、頭を下げるな……ってクソ。わかった。あれはお互い様ってことでいいんだが……」
十日前、ソルが病室で目覚めたときは驚いた。
──いままで意地を張っていて、すまなかった。
男が入ってくるや否や、頭を下げてきたのだ。
髪色と声で、ソルは遅れて「彼がナッドだ」と気づいたものの、事態の把握には時間を要した。戸惑いつつもソルが「頭を上げて、事情を聞かせてくれんか」と言うまで、ナッドは謝罪を姿勢で示し続けた。
彼からはここに至った経緯を聞いた。
──いままでの彼自身のこと。
──それを、変えたいと思った出来事のこと。
ソルは最後まで聞き届けると、ただ頷いた。
(謝るまでもないことじゃ。外面を忘れて喋るわしの落ち度のほうが大きいじゃろうに……謙遜がすぎる。ただ、認めることは始まりでもある。謝罪も真摯そのものじゃった。ここで混ぜ返すのだけはしてはならん。それゆえに、あのときは受け入れたが……)
しかし、それからナッドの接し方が変わった。
自分の胸先ほどしかない幼女相手に、敬語を標準装備とし、ソルの名前に『さん』を付けて呼んできたのだ。若干の精神的な距離を覚える接し方である。
ナッド曰く、尊敬の念を込めた──らしいが。
「敬語だったらお前が本当に嫌がるから、二人きりのときだけ、こう砕けた風にやってんだからな。俺、いまだって無理して普通に喋ってんだぞ。……そこは理解しておいて下さいね、ソル少尉?」
「頼むからやめてくれんか。脇腹が痒くなるのじゃ」
露骨に顔を渋めると、ナッドは不服を息に乗せる。
ソルの、舌鋒と喩えるには角のない舌で、どうにか言い包められたのは奇跡としか言えない。
(やはり、わしが目的にしておる『仲間』とはあまりにも距離が……いや、気のせいじゃろうな。うむ)
「話は戻るけどさ、ソル。書状の真贋を疑ってだけどさ、昨日まで軍のお偉いさんが出入りしてたろ? そのときにでも話はなかったのか?」
「あった、のじゃが……そう、ひとつ聞きたいことがあったのじゃ。ナッドは最近、わしがけったいな名前で呼ばれとることを知っておるか?」
「ああっと……あー確か、修羅って奴だったか」
「そう、それじゃそれ」
ソルは眉に皺を寄せて、何度も首肯する。
彼女の元には、帝国軍の来客がひっきりなしに訪れた。誰も彼も、見ず知らずの上官たちである。ぞろりと数を引き連れてきたものだから面喰らったものだ。
目覚めてみれば、寝台を取り囲む男たちの顔が並んでいる光景は、少なくともソルフォート・エヌマの傭兵時代では、経験し得なかったことだった。
貴重な体験だったが、そのなかで妙な名を聞いた。
(彼らは、わしを指して修羅と呼んだのじゃ)
顔も知らない上官からは「これからの活躍に期待する」と朗らかに健勝を祈られたが、ソルは待ったをかけたかった。修羅とはどういうことなのか。
傭兵時代に、同じ仇名で呼ばれることがあった。ゆえにソルの脳内を駆け巡ったのは「まさか」の三文字だった。まさか、ソルフォート・エヌマという身の上が知られてしまったのか──と。
(真に、ただの偶然と知るまで、暗に脅されておるのかと、気が気ではなかったがのう。しかし、遂に異名を授けられるとは。夢でも見ておるのかと思うほど、素晴らしい栄誉じゃなあ……一点に目を瞑れば)
個性ある兵に授けられる称号──異名。
英雄跋扈のこの時代では慣習となっている。
巷で人伝に広がるような、単なる仇名とは区別されており、正式に人事局から付与される異名はやはり勲章に近い。『修羅』『魔術王』『人類最強』──戦いぶりや戦闘の個性により、昨今では引も切らない数多くの英雄を呼び分けるため、用いられてきた。
最近は、目ぼしい新兵に名づけられることが多い。
つまりソルは、新たな英雄候補という期待を背負ったわけだ。憧れた英雄たちと肩を並べたようで、涙を滂沱として下せるほどに嬉しい。嬉しい、のだが。
はああ、と肺を萎ませて嘆息する。
彼女には、どうにも納得がいかないことがあった。
異名の『修羅』という字面だ。
(なにが『修羅』じゃ。昔も呼ばれたことがあったが、気に入るものか、こうも物騒な名前なぞ。正式に呼ばれるのなら、なおさら不満しかないのじゃ)
名付けた元凶は出てこい、と声を大にしたいソル。
修羅なる異名から受ける印象は、ソルの定めた『なりたい英雄像』と乖離しすぎている。修羅という字面では、まるで人の助けを借りずに、殺戮の限りを尽くす戦闘狂のようではないか。語弊も甚だしい。
ソルは断じる。──狂人ではなく、凡人であると。
自分は、果てない戦の日々に身を投じたりしない。
自分は、無為なことを嬉々として続けたりしない。
(わしは、英雄になるために必要なことをしているにすぎん。一つ目標を見据え、身を削れるだけ削ることで、できる限りの近道を行く。そうして一刻も早く、光溢れる夢を手のうちに収めたいだけじゃ)
たとえば、ソルにとって戦場以外に英雄になるための効率的な場所があれば、すぐさま戦線から身を退いて、迷わずそこに飛びついただろう。
(なれない者がなるために足掻くのは当然じゃ。狂ったのは運命の歯車であって、誰でもない)
修羅、という名が余計な騒動を招く恐れもある。
例を一つ挙げるとすれば、傭兵時代の異名を知る輩に難癖をつけられるなど……考えるだけで、ソルの頭を重くする。異名の変更を求めたかったが、外堀はすでに埋められていたため、やむなく取り下げざるを得なかった。ソルの提案した代案の悉くは、無慈悲にも却下されたことは言うに及ばぬ結果である。
異名の外堀を埋めたのは、帝国軍広報部だ。
──すでに広まっているのだから、撤回できない。
これが、代案を蹴るときの軍の決まり文句だった。
「その出来事にしても、不自然なまでに『修羅』なる異名を喧伝する声が大きくないかのう」
「……それは、あれだ。帝国も士気を上げようとしてんだろうな。期待の新星『修羅』ソル少尉……って急いで喧伝してな。ラプテノン王国の方でも、新たな英雄の誕生だって騒いでるから、その対抗馬として」
「新たな英雄、噂の『銀狼』ファルンケルス・ヴォルダーレン殿じゃな──!」
「待て待ていきなり興奮するな! 身体に障るぞ!」
幼女が身を乗り出したと見るや、ナッドが宥める。
ここ数日間に、幾度となく行われた応酬だ。
彼は、とある洗礼を浴びたのだ。──ソルに英雄の話を喋らせた人間は『語調に熱が籠り、早言かつ饒舌に長々と続ける』という、普段の彼女からは想像できない英雄愛好家ぶりを見せつけられる。
最初はうっかりナッドを辟易させてしまって、相槌が引きつっていたほどだった。だが、彼もいまでは扱い方を学んで、宥める役に回ってしまった。
ソルからすれば、実に残念なことこの上ない。意見を交わすことまで望まずとも、話を聞いてもらえるだけで満足だったのだが、我慢する他ないだろう。
ともあれ、ラプテノン王国の新たな英雄の話は、バラボア砦の一件にかかわっている。
(ファルンケルス・ヴォルダーレン。海を隔てた大陸から流入した、片刃の剣の使い手らしいのじゃが……他のことは、まだ手元に情報が届いておらん。ただ、手練れであることは挙げた戦果が証明しておる)
バラボア砦防衛戦と並行して、一つの戦があった。
ドーネル少将麾下千人の軍勢で、ビエニス・ラプテノン連合軍が逃げ込んだデラ支城を強襲する。歴戦の将校も交えた、選りすぐりの大隊だった。進軍を開始したそれは、結果として壊滅という結末に至った。
事実、支城に辿り着く前に少将は討ち取られた。
ラプテノン軍が言うことには、そんな大事を為した新たな英雄こそが『銀狼』ファルンケルス・ヴォルダーレンというらしい。失ったボガート・ラムホルトの穴埋めとしてだろうか、彼も大きく喧伝されている。
だが、自然とだらしなくソルの頬が緩む。
ナッドは呆れたような笑みを漏らす。
「……本当に楽しそうだな」
「英雄じゃぞ? 心躍らずしてどうする?」
「前向きだよな、『銀狼』はこっちからすりゃ敵だってのに。俺とかはやっぱり『同じ戦場に立ちたくねえ』って思うし。とと……そうだ」
ふと思い出したように、彼は懐に手を入れる。
「そうだった、忘れてた。ソルに渡したいものがあったんだ」
「渡したいもの、のじゃ?」
取り出したのは、薄桃の布に包まれた一品。
丁寧に覆いを取ると、手のひら大ほどの破片が姿を現した。窓から差し込む陽の光を浴び、破片の表面は金属光沢──鈍色を放っている。断面は不自然なまでの濡羽色。まるで鋼の死骸のようだった。生きた刃に灯るはずの、あらゆる光を失ったかのような色だ。
心の水面に浮かんだのは、そんな直感だった。
「ほら、あのボガート・ラムホルトが持ってた剣の破片だ。まあ要らねぇんだったら良いんだが、これはソルが持ってたほうが良いと思ってさ。いるか?」
「待て、ナッド。あの剣の破片じゃと? それを持ち出したのは……まずいのではなからんか?」
「見つかったら終わりだろうな。本体のほうは回収されたみたいだし。ただ何でか見つからずに済んだんだよな、この破片。……でさ、受け取ってくれるか?」
「……そうじゃな、ありがたく受け取っておこう」
驚きつつも、ソルはナッドの台詞に頷いた。
英雄譚が大好きな彼女にとって、その剣の価値は何物にも代えがたい。そして彼女は脳裏に、幻想世界での問答が浮かべた。ウェルストヴェイルの辛辣な言葉たちと、その優しさを思い出す。
自らの分岐点となった魔剣『幾千夜幻想』。
記念に持っておきたい。紛れもなく本音だった。
その破片で試したいこともある。
ソルが考え事をしている裏で、ナッドは近場にあった、幼女の私物が入っている袋に破片を入れている。
そこで、拭い去れない根本的な疑問をぶつけた。
「……それにしてもナッド。剣の、しかも破片をどうして拾っておったのじゃ?」
「ま、まあ、その、何だ。あのときは、初めて俺が一歩踏み出せた記念にって思っててな。……ただ、こいつは俺が持つべき物じゃない。あの英雄を倒した、少尉だけに持つ資格がある。正直、俺は何もできちゃいなかったからなって……まあ、それだけだ!」
ナッドは朱の入った顔で締め括って、座り直す。
きまり悪そうな彼に、ソルは微笑みを零した。
男子三日会わざれば刮目して見よ──とは、なるほど実に名言である。目前の頼りない青年が、以前よりも大きく、芯が通ったように見えた。
負けてはいられぬな、とソルは視線を落とす。
見目はあどけない幼女、精神は老人。
だが、成長の早さで若人を超えられぬ道理はない。
拳をつくり、密かに気炎を上げるソルだった。
「そうじゃな。互いに頑張るとするかのう。しかし、ぬしは、軍人の道を進んで後悔はないのか?」
「ああ、後悔なんかねぇよ。もう俺は商人に戻る気はないし、あっちは妹に任せておくさ。……戦場は今もまだ怖いけど、憧れるもんもできたしな。……ソルはさ、戦場に残るんだろう?」
「もちろんじゃ。まだ見ぬ英雄達と戦い、わしは夢の先に行く。それまで膝を折るつもりは、ない」
「──威勢の良いお嬢ちゃんだ。『人類最強』の仔犬ちゃんが重ねて見えちまうねえ」
※※※※※※※※※※
「一応、ノックはしたんだが……どうにも、間が悪かったようだ。お邪魔したんなら出直そう」
「っ! あの、いえ、問題ありません!」
ナッドは内心、ぶるりと竦み上がっていた。
椅子が倒れるのも気にせず、慌てて立ち上がる。それと同時に、見事な敬礼を扉へ向けた。自己評価では満点の所作である。咄嗟にしては、士官学校での教え通り、完璧なものに仕上がっているはずだ。
扉付近に立っていたのは、壮齢の男だった。
「いやーいい、いい。許す、堅苦しいのは『無し』だ。人前でもないんだ。周りの目は気にしなくていいだろ。俺、怪我人に畏まられると、怪我の具合が悪化するんじゃないかって気になっちまうからよう」
「は、はあ……では、し、失礼します」
ナッドはすっかり困惑して、敬礼を取り上げた。
男は、どこか草臥れた顔を悪びれたように歪める。
彼の、草臥れたような印象を強めているのは、顎にこびりついた鬚の剃り残しと、緩やかに下がった眉尻だろう。焦げ茶の髪は適当に短く切られ、小綺麗な身なりではないものの、一定の清潔感は保たれている。
中庸という言葉が擬人化したのなら、きっと彼のような顔をしているだろう。そんな、人好きのする容姿だった。少なくとも、畏怖を覚える外見ではない。
しかし、ナッドは凝固した緊張を喉奥に押しやる。
(何で、このような方が、ここにッ!?)
凝然と見続けたのは、彼の身分を証明する服装だ。
彼は帝国軍服を軽々と羽織っており、裾から覗く防具の類いも、まだ軽装の範疇に留まる程度の鎧のみだった。その鎧は、室内を洗う陽光によって『白銀』に輝いている。さながら、天高くで瞬く星のように。
帝国において、白銀の鎧は頂点に立つ英雄の象徴。
帝国の大英雄『六翼』の一員である証だ。
(『六翼』──間近で、本物を見れるとか、嘘だろ、夢じゃないのか……!?)
ロズベルン・ラスティマイン中将。
『六翼』の席次では最下の第六位。しかし、下士官からは最高の人気を誇っている。ロズベルンの堅実な采配と、その武勇が語り草となっている。
曰く、必ず自軍の総員を生かして戦を終える。
曰く、ビエニス王国の英傑である『四大将』二人を相手取り、引き分けまで持ち込んだ。などど、耳を疑うような逸話も数多い。だが、ゆえにこそ、帝国を代表する大英雄の一翼を担っているとも言えた。
ナッドは、ひたすらに萎縮する他ない。
普段会えない、著名な大英雄。
更に言えば、軍最上層の人間と出会したも同然だ。
あまりにも心臓に悪いサプライズにすぎた。
いまも胸の鼓動がばくばくと打ち鳴らされている。
(待てよ、落ち着けよ俺……本当にマズイのは俺じゃないだろ。ソルだ。あの英雄好きが、そんな大人気の英雄に会ったら──どうなるか、本当に分かんねえぞこれ……! 興奮のあまり失礼千万をかます可能性、結構高いぞこりゃ……!)
恐ろしい想像が、ナッドの顔色を塗り変える。
グロッキーな紺青色から血の気が引いて、白紙のような無表情へ。顔色の濃淡が綺麗な推移を辿るなか、ナッドには走馬灯が見え始めた。
勢いあまって、己の人生の総括まで終えてしまう。
(祖父さん、親父、それとネイト。いままで逆恨みしてて、ごめんな。本当は帝都に戻ったとき、謝りたかったんだけどな……。長男の最期が晒し首とか、ハルト家の看板に泥を塗っちまったみたいだ)
妄想は加速していき、数日後の未来に及んでいた。
ナッドの脳内では──帝都の往来に首が二組、仲良く並んでいる。なぜか幼女の顔は満足げで、横の自分の顔が悲痛に歪んでいるのは何かの暗示だろうか。
この運命を辿ってしまうのか、そうではないのか。
それが決まる唯一の分岐が、ソルの態度ひとつ。気が気ではない。幼女の反応は、いまだ杳として知れないのだ。少なくとも、まだ背後の寝台で身体を横たえている……はずだ、とナッドは己に言い聞かせる。
生唾を吞み下す。なんて分の悪い賭けだろう。
ナッドが恐る恐る、緩慢に、背後を見遣ると──。
「ソ、ソル少尉……気絶してる……」
「なかなか、不思議なお嬢ちゃんだ。『修羅』の名を冠するほど、獅子奮迅の活躍をしたって聞いたが、やはり精神は年相応なのかねえ……しっかし、まあ、何だろうなあ。見られただけで気絶されると、おじさん凹んじまうなあ。子供受けはいいほうだって自負があったんだが……」
力なく笑うロズベルンは、罰が悪そうに頭を掻く。
彼はどうやら幼女が、顔や雰囲気の醸す怖さのあまりに気絶した、と勘違いしているようだ。
ナッドは作り笑いで合わせつつ、吐息に安堵を忍ばせる。
(あぶ、危なかった……好きって気持ちが度を越すとこんなことになるのか。ともあれ、中将に『英雄好きを拗らせた結果、気絶したのでしょう』……とかは口が裂けても言えない雰囲気だな。顔見りゃ一発なんだけどな。何だ、あの幸せそうな顔)
尊敬対象でもなければ「アホ面」と形容していた。
ナッドは自然な動作で、幼女の頭部を身体で隠す。
大英雄のお目汚しにならないようにしなければ。
ただ、ナッドは一つ胸に刻み込む。
ソルの英雄愛好家の面が強く出たときだけは、彼女を尊敬対象から外すことにしよう、と。
(まあ、バレるときはバレるんだしな。とりあえずここは、ソルの名誉のために黙っておくのが吉だな)
そして、ロズベルンが口に出した『修羅』という異名についても、曖昧に笑っておく。それは決して、ナッドがそれを提案した元凶だから──ではない。
溢れる冷や汗も、きっと何かの間違いだ。
さながら暗示のように、彼はそう脳内で唱える。
(いや、だって仕方ねぇだろうよ……戦っている最中の少尉は『修羅』みたいだったんだ。上官たちに異名付けの参考にしたいからって訊かれて、馬鹿正直に答えたらこれだよ。まさか、そのまま採用されるなんて予想外だったんだよ……信じてくれ、ソル)
しかし、罰の悪さで黙っていても埒が明かない。
ナッドは意を決して尋ねてみる。
「ロズベルン中将……不躾ながら、ソル少尉への用向きを伺ってもよろしいですか……?」
「まあ、そうするかねえ。俺としちゃ、お嬢ちゃんが目覚めるまで待ちたいんだけどな。……残念なことに、俺も時間が惜しい身でな。お嬢ちゃんが目覚めたら、ちょっと伝えておいてくれよう」
「りょ、了解しました!」
「だから、そう畏まらなくてもいいって……別に、深刻な話じゃあない。俺が不在の間に砦を守り通した、勇敢な兵士たちを称えに来たついで──下僚候補の、そうだねえ、ソル少尉への人事書類を届けにな」
咳払いし、ロズベルンは懐から紙を取り出した。
それは今朝、幼女宛に届いた書状と同程度のものだと分かる。一見しただけで「色と質感が違う」と知れる高級紙、帝国のシンボルも入っている。
ロズベルンは「深刻な話じゃあない」と軽く言っていたが、ナッドからすれば「これが深刻な話じゃなかったら何が深刻な話なんだよ……」とぼやきたい。
彼はナッドに書状を手渡して、その中身を明かす。
「その怪我の快復後になるが……ソル少尉には『獄禍』討伐部隊への出向要請が来ている。つまりは──英雄譚によくあるお題目で言うなら、『怪物退治』のお役目ってことだ。お嬢ちゃんはどうか分からんが、男の子なら燃えるだろ?」
これで第一章終了です。二章に続きます。
色々と不慣れな点はあったかと思いますが、楽しんでいただけていたなら幸いです。
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