14 『その男には取り柄があった』
※※※※※※※※※※
──だから俺は結局、選べなかった。
それは誰かの記憶。褪せた頁を捲る音がする。
ある男が、幻想剣を手にしたときの場面だった。
魔術の詠唱文を読み上げる声が、朗々と聞こえる。
『【そうして私は目を瞑る】【千の位階の片翼】【その視座は空にありて】【箱のなかからは遠く】【そとからも遠く】【此岸と彼岸めく空想と現実】【憧れの肖像とは其の平面のみを通して交わり】【貴方はさながら世界の詠み人】【幾千夜の闇に葬られた物語の蒐集】【それこそが私と貴方の使命と刻め】──』
大陸に伝う古語──聖文字を詠み上げているのだ。
詠み上げた存在は、笑みを滲ませて息を吐いた。
『【ねえ貴方】』
否、その契約代わりの詠唱はいまだに続いていた。
それは、問いかけの形式を取った締め括りの言葉。
他のどの節よりも重要で、資格あるものを捉えて離さない呪いにも似ていた。
『【救われない物語は好きかな?】』
──そこで俺は、奴と同類であると知った。
その男はうらぶれた路地裏で産まれた。より正確に言うと、産まれたらしい。両親のことは、親代わりだった老爺も知らなかった。彼が少年を気紛れに拾ったときはただ、降りしきる雨垂れに打たれた赤子がぽつんと放置されていただけ、だったという。
だから、男は路地裏で育った。貧民街からも離れた僻地では、骨に皮が張ったような老爺と薄暗がりだけが同居人で、餌を啄みに来る鴉と忌々しい溝鼠が隣人だった。屋根があることだけが長所の我が家。日常的に食うに困り、着るものと言えば、滲みだらけの襤褸がふたつ。いつ野垂れ死んでも不思議ではない生活を送ってなお、男は歳を十五まで重ねていた。
過酷な生活を凌げた理由は、明確に存在していた。
それは、両親と神からの、唯一の贈り物だった。
非凡な才能。字も読めず、学もない彼の取り柄。
『爺さん。これ』
『おお、ありがてえなあ』
『……別に』
男には、常人より遥かに高いオド上限があった。
この一帯の貧民街では負けなしだった。路上では荒くれ者たちが食糧を得るため、あるいは憂さ晴らしのために彷徨いている。当然、弱者の代表たる老人と子供が主な標的となるが──男はそれを返り討ちにし続けた。その結果として、知らず知らずのうちにこの地域では一目置かれる存在になってしまった。
また、彼の取り柄は他に、鋭敏な感覚があった。
第六感にも似た危機察知能力だ。これは謂わば『本能的な嗅覚』と言うべき感覚である。路上という無法地帯で生きていくにあたり、開花し、研磨された技能だった。死に繋がる糸口を本能的に感じ取り、生の糧を探り当てる。野生動物のそれに近い能力だった。
ゆえに彼は飢え死にに至らず、あまつさえ居場所を得るまでになった。
『なあ。おめえはどこか行かねえのか』
『……いきなり何だよ、爺さん』
『こんジジイのお守りは飽きた頃だと思ってなあ』
『飽きるとか……そういうんじゃねェだろ』
『拾ってくれた恩ってやつかあ? 確かになあ、おれはおめえを拾ったが……もう、とっくに恩の残高は零になっとるわい。それよかおめえは──』
『俺自身の人生を生きろって? もう耳タコだ』
老爺は、この頃になって繰り言ばかりだった。
やれ夢はないのか、やれ外に興味はないのか──。
『この老いぼれに貸しをいくら積んでも、返せるモンなんか無えんだよ』
皺だらけの顔に更に皺を寄せて、そう言っていた。
『おれはなあ、この街の路地裏しか知らねえ。産まれてこの方、ここでしか生きてこれなかった。若え時分に両脚の腱をブチ切られたあとは、もうどこにも行けんくなった。身体の問題じゃねえ。いや、最初はそうだったんだ。だけどなあ、いつからか、そういう気も失せちまったんだ。腐っちまったんだよ』
──おれも、どこかに行きたかったはずだがなあ。
──もう、どこに行きたかったかも忘れちまった。
『だから、おめえは足だろうが羽根だろうが、気持ちだろうが……腐っちまう前に行っちまえよ。折角おめえにはすげえモノがあるんだからよ』
『あァ、もう何度も聞いた』
呆れ気味に返答すれど、老爺は何度も繰り返した。
『王都で騎士団に入ることも、おめえならできる。ああいや、騎士団はもう潰れたんだったか……? それでも王国軍。軍人としてもおめえは上に行ける』
『わかったわかった』
『おれなんかの面倒見て、重りにすんじゃあねえぞ』
『しねェよ。爺さんの身体なんか紙より軽ィ。いつも背中に乗っけて運んでるだろうが』
『違えよ、おめえは本当……これは大事なことだ』
『大事なことっつってもなァ』
──だって、それはきっと爺さん自身の夢だ。
溢れてしまいそうだった本音を喉の奥に押し戻す。
男の夢は、そんな老人の夢を叶えることだった。
彼自身には──厳しい環境のせいか、生存本能からはみ出た『夢』と呼ぶべき強い欲求がなかったのだ。
『なら、俺が行くときは爺さんも連れてくか』
『は、あ? そんな、おれが邪魔になっちまう』
『手前ェが言ったことじゃねェか。俺だけじゃ爺さんの言う『大事なこと』を適当に流しちまう。だから』
『……そ、うか』
老爺は口籠ると、しばらく時を置いて呟いた。
『それは……それまで、待ち遠しいなあ』
男が十六と歳を数えた頃、老爺が死んだ。
誰に襲われたわけでもない。ただの病死だった。
その死骸は、持ち前の魔力属性である炎で白骨と灰になるまで焼いた。この街に浮浪者を土葬する場所なんてない。突き抜けるような青空に黒煙が高く高くに伸びる姿を見て、ひとつ感慨を拵えた。彼は、死んでようやく街から離れられたのだな──と、侘しいばかりの彼の幕引きに、さも情緒があるように仕立てあげてみせた。男の心の表面に拭き残された悲しみは、そんな手向けの言葉をもってしか葬れなかった。
只人の終わりには劇的な物語性が付与されない。
夢が叶うことも、手酷く裏切られることもない。
ただ、人が死ぬ。その事実のみが残ることは何よりも救われないと思った。
『【救われない物語は好きかな?】』
『あァ』
だから、その言葉を聞いたとき反射的に答えた。
彼にとっては腹立たしいことに、自分が相手と紛れなく同類だと認めたのだ。
『救われねェ話なんて大ッ嫌いだよ』
1
そんな、指先に掠めた記憶の頁から醒めてゆく。
そして──ソルフォート・エヌマが帰還する。
幻想世界から現実世界へと。夢幻から現実へと。
ソルフォートからソルへと。老躯から幼躯へと。
彼の意識は、幼女の肉体に宿る。始めに身体という肉鎧の重みを感じた。次いで虚脱感が纏わりつき、骨肉が軋み出す。きっと筋肉の伸縮と血流の流れによる微細な痛みを、身体が捉え始めたのだろう。これが五感を取り戻す端緒となった。火に炙られた空気が、肌身を舐めているように感じられる。裏庭という壁に挟まれた地の底で、炎熱が滞留していたのだろう。
熱い。熱い。血流がどくどくと頭の芯で脈を打つ。
(生きる、生きている。わしはまだ……!)
この、摩訶不思議な感覚を味わうのは二度目だ。
仰向けのソルは、両の瞼を上げる──より速く。
その身体を発条仕掛けのように跳ね上げた。
「おおおおおッ──!」
咆哮を放つ。空気が震える。喉が震える。
音の振動が体内の傷をじりりと拡げる。鉄錆の味が喉元に滲み、灼くような疼痛が張りつく。それでも構わずに肺に残存していた空気を吐き出した。こうでもしなければ、死に瀕した矮躯を奮い立たせられない。
白き幼女は宙空に飛び込んだ瞬間、右手を振るう。
だが、果たしてその手に剣が握られているのか。
確認する時間が惜しい。目を遣ってもいない。
だが、ソルはいままでの自分自身を信頼していた。
きっと最期の最期まで勝負を捨てていなかったと。
そう、だから、目を閉じるその瞬間ですら──。
「と、る──ッ!」
果たして、握っていた直剣は幕を切って落とす。
自分以外のすべてを置き去りにした、飛翔。
視界の全貌が開ける。まだ輪郭が曖昧ながらも斬るべき対象の判別はつく。宵闇。地面に落ち窪んだ影。蔓延る炎火。目前に聳える巨漢。ソルが奔らせた剣閃は、この英雄を切り崩すために振るったのだ。軌道は首筋。二度と通じないであろう最大限の不意打ち。
事実──ボガートが絞り出したのは驚愕の音。
「は、ァ……ッ!?」
だが、斬撃は肌を裂くどころか首筋にも届かない。
剣刃には、大木めいた左腕が割り込んでいた。
息を呑む。幼女の細腕を起点にして反動が伝い、途端に身体は勢いを失った。通用しなかったことに歯を軋ませる。ソルが現実世界に帰還して、二秒にも満たない間に繰り出した奇襲。それを目前の英雄は、超人的な反応速度で対応してみせたのである。拙速が巧遅に勝る一瞬に仕掛けたつもりだったが、それでもボガート相手には後塵を拝してしまうようだ。
何にせよ、起死回生を賭けた奇襲は失敗した。
しかし、ソルとしては予想の範疇にあった結果だ。
(これは布石。が、いま掴まれたら終いじゃ……!)
即座に見切りをつけて、左脚で目前の鎧を蹴った。
この後方退避には、さしもの英雄も反応が遅れる。
幼女はまんまと逃げ果して、背を砦壁にぶつけた。
「ッ、く」
軽い衝撃。蓄え十分と言えない体力が削られる。
着地はできたが、どこか墜落の感が拭えなかった。
それで、立ち上がる際には足元が覚束なくなる。
吐き気が競り上がる。三半規管が混乱しているようだ。こめかみから脳奥に響くような感覚の歪みを覚えていた。立つために全身に行き渡らせていた力が勝手に抜けていく。後ろ髪を引かれるように、わずかばかり後退ってしまう。すると壁に再び背中がついた。
ソルは荒れた呼吸を努めて隠し、状況を確認する。
(さあ……ここからどうするか)
空に浮かぶ蒼褪めた月は、尖鋭な光を宿す。
その色合い通りに、厳しい現実を曝し上げていた。
まずはソルの身体だ。左肩には焦げついた創傷がある。灼熱の槍で穿たれたために、傷口が溶けて血液は出てきていない。右の脇腹には似た様相の火傷痕と裂傷。これは魔剣『幾千夜幻想』起動時に貫かれた箇所である。左右の腕には蛇のような青痣が這い、反応が鈍く、動かそうと意識を渡らせれば電撃を受けたように痛む箇所は──やはり、骨が折れているのだ。
全身に掠り傷が隈なく刻まれているのは、当然。
血が滲み出し、赤黒く凝固した箇所は幾つもある。
(それでも、幻想世界での満身創痍よりは上等か)
次は、周辺情報、彼我の位置関係を把握する。
(目前にはラムホルト殿。お互いに手の届く範囲内ではない。位置関係もほとんど変わっておらん。辺りには濃密な闇が沈澱しており、それを切り裂くのは遠間で燃える火炎。下方、地面には幾つもすり鉢状の穴が口を開けている。焼け焦げた跡。微風に乗った焼けた匂いもいまだ濃い……つまりは)
幻想世界内では現実世界の時間は経過しないのか。
ウェルストヴェイルの言は正しかった。あの世界に存在しなかった時間と死。それが確かな息吹として頬を掠める。この世界は、その二つの理で厳然と回っており、いま立たされているのは死の淵なのだ。
身体中の痛みが教えてくれる。鼓動を打つ心臓が主張し、零れ落ちる血液が植えつける。わずかな足場を踏み外せば真っ逆さま。死の崖淵の底で『終わり』がいまかいまかと待ち侘びているのだと──わかる。
それでもまだ動ける。耐えられる。まだ、倒せる。
無論、虚勢。されど口端はつうと吊り上がる。
気を失う以前よりも、表情には生気が漲っていた。
「ッ! て、めェ……何で……!?」
耳朶を叩いたのは、二の句が継げない男の声。
場の支配者だった彼── ボガートは後退った。
こちらを凝然と見つめてくる。瞼は、あたかも眼窩から眼球が零れ落ちてしまいそうなほど見開かれ、動揺の程度は察するに余りある。人間、きっと彼岸からの帰りを目にすれば、こんな面持ちになるのだろう。
彼はひどく狼狽して、筋肉も関節も硬直している。
「ウェルストヴェイル、どうなってやがる」
理解不能と呟く矛先は、彼自身の片手にある大剣。
その切っ先が宙を彷徨い、震え、宵闇を掻き回す。
魔剣『幾千夜幻想』。鏡めいた刃には遠間の炎を映して、さながら剣の奥底に封じられているようだ。着目すべきは、刃毀れひとつ見当たらないことだ。幻想世界を突破したとしても、剣本体に綻びひとつ現れないのか。状況は変わらず最悪に近いと知れる。
ソルの眼球がじりりと痛む。表面が焼け焦げてしまいそうだ。触れ合う空気は火のように熱く、視神経を辿って脳味噌まで延焼するようだった。酷使され続けた両目では、ただ事物を捉えることすら過剰処理だ。
これ以上は、視界から永遠に光が失われかねない。
(されど、たとえ、そうだとしても──)
目を閉じることはできない。事態は逼迫している。
この瞬間の先でしか未来の光は浴びられない。
だから無理を通す。弱音の虫を殺す。飲み込む。
勝機寥々たる地から這い出るため、正面を向く。
「手前ェは言ったはずだ。誓ったはずだろォが。俺の筆になるって、同類同士で共犯者になるってよォ。使命を果たすまでは終わらねェって……おい、返事くらいしたらどうだァ、ウェルストヴェイル」
その声は、明らかに怒気を孕んでいた。
だがどこか縋るような、祈るような響きがあった。
「なァ、俺の、俺の夢はまだ──」
「ウェルストヴェイルは、斃したぞ」
幼女は静かに、舌足らずの声色で事実を告げる。
事ここに至って、それ以外は不要だった。
「……嘘、じゃァねェか」
その獰悪なる形相は遂に曇り、息を吐き出した。
「手前がそこにいる。証拠なんざァそれで十分、か」
独りごちた途端、盛大な舌打ちを鳴らす。
そんな、誰に宛てられたかも曖昧な音は、虚しく宵闇に消えてゆく。そうして一時、戦闘中とは思えない静寂が支配した。ボガートの内心の癇の強さは、決然と結んだ口元と、額の中心に寄った眉根の盛り上がりにありありと表しておきながらも──だ。
これは、彼も混乱の只中にいる証だろう。そもそも冷静であれば、幼女が奇襲し損ねたあと容赦ない追撃を行っていたはずだ。つまり『幾千夜幻想』を突破された事実は、動揺せざるを得ない結末だったのだ。
余人の及ばぬ沈思に没頭していた彼は、ふと呟く。
「思えばそうかァ。アイツの明確な攻略法だ。恐れを知らねェ餓鬼ならアイツのことも越しやすいってワケだ。……は、種さえ知れりゃァ大したことはねェ」
ようやく腑に落ちたように、頷いた。
ソルは唾液を乾いた喉に流し込む。気配を殺しながら脚を右方向に滑らせる。ボガートが小休止を入れているうちに、壁際から離れなければならない。ここは退路が確保できない袋小路。背水の陣は気を高ぶらせるものの、やはり圧倒的に不利な立ち位置なのだ。
視線を巡らせる。何か利用できるものは──。
「良いさ、手前ェは救われることを拒んだンだ」
ふぅと鼻息を吹いて、大剣を軽々と肩に担いだ。
蓄えた金の口髭を空いた左手で弄っている。動揺の色は薄れ、彼の面持ちには厳しさが戻っている。そこから放たれる肉食獣めいた視線は、捕食対象の美味そうな部位を吟味しているようであり、全身の筋肉の一動作一動作、すべて追っているようにさえ思えた。
葛藤の色を湛えた双眸から詳しい心理は窺えない。
推察が頭を掠めるより先に、彼は口許を歪めた。
「なら、覚悟はできてンだろォ?」
いま彼は、嗜虐的な想像を膨らませているのか。
あるいは、機械的な一計を案じているのか。
「蜘蛛糸が切れた亡者の末路ってヤツを、なァ!」
それは、まるで城塞から放たれた砲弾だった。
悠々と地を飛び越え、空気を突き破るように──。
比すること十倍はあるかという質量が、迫る。
(き……!)
──来た。
ソルの喉が凍る。呼気が仄かに漏れ、止まった。
瞬く間に距離が埋まる。直後に突き出される左拳。
風圧を置き去りにした打撃を前に、幼女は笑う。
すでに覚悟の紐は引き締めていた。頭をわずかに逸らす。すると耳元間近で豪快な粉砕音が炸裂。目にも留まらぬ速度で放たれた巨拳が、砦壁に大穴を穿ったのだ。素手によるものと考えがたい音にひとり肝を冷やしたが、彼女もまた彼の右拳と同時に動いていた。
拳と交錯するように、鋭い剣撃を放っていたのだ。
「手前ェに勝機はねェよ」
無防備な左側面から薙ぐ一撃は、躱されない。
きっとそれは彼にとって躱す価値がないからだ。
「ソイツは俺の身体に届かねェ」
きん、という硬質の響きが半秒後に教えるはずだ。
幼女の剣撃は英雄を覆う全身鎧に通じない。幾度も剣閃を迸らせようと傷の一本も入らなかった。つまり先ほどの起き抜けの一撃も無意味だったのだ。幻想世界から帰還した直後で、すっかり頭から抜け落ちていたのか──と、ボガートは愚かさを嘲笑うだろうか。
されど、奔る刃の軌道が揺らぐ。減速する。
ソルは己が振るう剣から、手を離したのだ。
そして柄を逆手に掴む。
(知っておる。ゆえに)
刃は鋭角に軌道を変え、その先は──彼の左踵。
(わしの狙いは、始めからその綻びじゃ)
唯一、ボガートの全身鎧が破損している箇所だ。
視線で貫いた先は足元。股越しに垣間見える素足を狙い撃つ。それはソルが炎の雨を潜り抜けたあと、魔力放出を利用して穿った穴。全霊の不意打ちで切り開いていた狭い突破口。個人要塞とも呼ぶべき、彼の鉄壁を打破する芽はすでに植えつけていたのである。
そして、この剣閃を通す布石はひとつ打っていた。
起き抜けの一撃。あれで急所狙いを印象づけた。
人体の急所には、命の遣り取りをする上で、自他ともに意識が集まりがちだ。強力ゆえに誰しもが読み筋に加えるだろう選択肢。それがあの一幕で、強烈に焼きついたはずだ。想像の埒外から攻撃を加えられたという衝撃が、あの英雄の意識に深く刻み込む。
だから、今度こそボガートは反応できなかった。
(まず、ひとつ)
絞り出した魔力を推進力に、剣先は正確に穿つ。
「チ、ィ……!」
だが、足首を狙った突きは紙一重で防がれる。
左脚がわずかに動いて、目標から軌道がずれた。
破損箇所の縁に接触。夜天に金属音が鳴り響く。
そしてボガートは眉宇をひそめて、後方に飛ぶ。
(余りに……脊髄反射にしても速すぎる……!)
図体に見合わぬボガートの機敏さに舌を巻いた。
紛れもなく人間の意表を突く剣筋だったはずだ。
彼の危機察知能力と反応速度は獣を超えている。もはや英雄という範疇でも突出しているだろう。あの状況で負傷を避けられるのは流石に想定外だった。それでも、ボガートが払った代償は大きい。
後方退避する大男の脚。左脛から足先までを覆う装甲が弾け飛んで、下にある布一枚の皮膚が曝け出されていた。ソルはそれを視界に認め、前に飛ぶ。肉食獣の牙のごとく貪欲に英雄の身体を付け狙う。
どれだけ強固な防波堤も一寸の穴から決壊する。
鎧の魔術的な防護が、脆くなっているのだ。
(もしや。ラムホルト殿があの破損箇所から意識が逸れていたのは、すでに鎧の強固さが失われ、首筋を狙われても致命傷と判断しておったから、なのかのう)
そうであれば、勝利に到達する筋は単純明快だ。
(オドの加速術で渾身の一撃を叩き込むことじゃ)
ボガートの退避は先のような大跳躍ではない。
剣閃から脚を庇うために体勢を崩した状態で、苦し紛れに背面飛びしたのだ。瀕死とは言え、重心を制御下に置いているソルに追いつけない道理はない。
巨体が中空で後転し、辛うじて前傾で着地し──。
幼女はその直後に追いつき、地の位で踏み込む。
定めた狙いは低空。ボガートの軸足となる左脚付近の地面に飛びつき、掠めるように彼の背中側に抜けてゆく。そのすれ違い様に左腿めがけて剣撃を放つ。
躱される。彼は着地に手をついたことを利用して、重心を片腕に流したのだ。咄嗟に逆立ちして斬撃を回避。そうして腕を屈伸させ、飛び退らんとする。
ソルは目前の地面に右脚を出し、己の勢いを削ぐ。
砂利を散らしながら身体の方向を捻り、方向転換。
ボガートが倒立する方向に向き直り──。
(距離を取られるわけには行かぬ……!)
巨漢は、腕の筋力のみで数丈の距離を飛んだ。
それを再び追おうとしたが、はたと気づく。
「獲物は、手前ェのほうだァ」
ボガートは中空を舞い、砦壁に足裏をつける。
そう、双眸を獰猛に輝かせ、さながら飛びかかる寸前の捕食者を思わせる、両膝を折り畳んだ姿で──。
「あァ!? どうやら息が上がってるなァッ?」
「ッ……!?」
この状況に誘い込まれたのはソルのほうだった。
ボガートの巨影が鞠のように跳ねる。圧縮された空気が一気に放散する。その連想を肯定するような爆音を引き連れて、影が迫る。否、迫るなどと漸次的な姿は捉えられない。すでに目前には凶相があった。
息もかかる至近。金の鬣を逆立てた獅子がいる。
目を剥く間もない。向かって左側から唸る右拳。
「ぁ、く」
歯を食いしばりながら限界まで身体を逸らす。
酸素を求めて海面から口だけ出すように、躱す。
次に胸部から落ちるように地に近づける。その際に左手をついた。腕を伸ばしたまま着地して、衝撃が伝わる前に身体を右方向に投げる。地面すれすれを滑るようにして移動を図ったのだ。そこから体勢を立て直す暇も与えられず、二撃目、三撃目が放たれる。
そこからは、超至近距離での追いつ追われつだ。
互いの尾に食いつかんとする闘犬の争いめいた。
(劣勢……! 戦況の蚕食を企てねばならぬッ)
全身の疲労と負傷は、とうに臨界点を越している。
自らが見定めた限界を越えて、息を繋げている。
そして己に問いかける。現在の焦眉の急とは何か。
(決まっておる! ラムホルト殿に距離を取られないことじゃ。またぞろ炎の雨でも降らされては堪ったものではない。二度も繰り返されてはこちらが持たぬ)
だが、無闇に打ち合うのもまた得策ではない。
剣戟は交わすだけで体力が大幅に削られるもの。距離を詰めるため毎度剣を戦わせては、ものの数分で疲労感が閾値を迎える。勝負は単純な体力比べと化すだろう。そうなれば勝機はない。つまり体格すらも圧倒的に劣るソルが眼目を置くべきは、打ち合いを極力避けながらも、至近距離で継戦し続けることだった。さもなくば、幼女の勝算など襤褸にも等しい。
ゆえに互いは敏捷な身体捌きで間合いを奪い合う。
ボガートは己の土俵である体力勝負に持ち込むために、ソルは彼に距離を取られまいと──。
(ここで隙を見出すこと。それこそが焦眉の急じゃ)
額の毛穴から汗が滲み出て、珠となって闇に散る。
ボガートと付かず離れずの距離を維持すること。身の丈を越した領分で拮抗し続けること。一瞬一瞬、気を抜くことができない。さながら水が並々と注がれた密室にいるようだ。水面が背丈を越す位置に揺らめいていれば、息を繋げるには背伸びし続けなければならない。だがそれも弥縫策、長続きは望めない。
だから、いつか後れを取るのは見えていたのだ。
「半秒、遅ェなァッ!」
酷薄な事実を声に表した直後、白光が目を焼いた。
彼我に生まれた隙間に、手のひら大の球が出現。
小型の太陽──。闇に慣れた両目が刺激される。脳幹の奥が痺れる。蕩けるような甘美な感覚が後頭部から広がる。それを拒むようにして思考を回す。
ボガートは遂に魔力の使用に踏みきってきた。
詠唱はない。魔術でなく己の魔力を現出しただけ。
(ッ、距離を空けすぎたのじゃ……!)
悔やんでも状況に進展はない。次の行動を立てる。
退避だ。退避先は背後か。否、それでは袋の鼠だ。
幼女は前に飛ぶ。飛翔角度は下方向。小型の太陽の下を潜り、巨体の足元から抜けんとする。地面に開いた、すり鉢状の穴の微々たる斜面を滑るように──。
穴の底で小さな身を更に屈めて、再度、地を蹴る。
その刹那に、暴風の唸りが後頭部を擦過した。
そこは、ちょうど巨漢の足元の暗がりだった。
(まさか、これを咄嗟に脚で反応したのか……!)
わずかな穴の深度・角度に救われた瞬間だった。
「はッ、は、ぁ」
そうして到達したのは、他と比べて深い穴。
幼女は底に手をついて、勢いのままに腕を曲げる。
十分な力が溜まった途端、小さな我が身を投げる。
ボガートとは反対方向、退路の空に向かって──。
身を空転させると穴の淵に指を届かせる。気を引き締めつつ、息を漏らす。退避距離はたかが穴ひとつの直径だったが、袋小路からは脱せた。その瞬間を境にして、辺りを焼いていた琥珀の色彩が薄まる。急速に闇が足許を浸していく。小規模太陽は収束したのだ。
幼女は、勢いを殺すことなく身体を反転する。
「手前ェッ……!」
「ぅ……!?」
視界の上半分、夜天は巨大な右手で遮られていた。
掌底が頭部を打撃──前、ソルは腕を跳ね上げる。
咄嗟にできたことは上出来だった。右手を柄に、左手を白刃に添えて、目前まで差し迫る拳を阻むように構えた。剣を盾代わりにして受け止める。これは彼女が生まれ持った反射能力ではない。骨身に染みつくまで続けた反復練習の成果に違いなかった。
衝撃は響いた。腕を伝い、背骨から異音を鳴らす。
幼女は体勢を崩して、両足は浮いて、飛んだ。
小さな背は斜面に打ち据えられて跳ね、再落下。
穴中央に向けて、転がりながら滑り降ちてゆく。
「気味が悪ィ餓鬼がァ……!」
「ご、ぉ」
身体は回りながら歪む。表情が歪み、骨が歪む。
視覚も聴覚も嗅覚も味覚も触覚も、薄れていく。
その無明寸前の電撃めいた光が、無音寸前の風音と甲高い音が、無臭寸前の噎せ返るほどの血の臭いが、無味寸前の鉄錆味が、無痛寸前の激痛が──人形のように崩れ落ちていく身体のなかで残っていた。
唇から、肺の奥底に溜まっていた空気が漏れる。
「──……──」
転がり落ちた先で、音はもはや聞こえない。
痛みもない。一連の衝撃と振動で意識を振り落とされかけていたものの──否、何なら一度は落とされたようなものだ。それを、完全な闇に呑まれる前に指先で引っかけて手繰り寄せた。精一杯、繋ぎ止めた。
視覚が戻る。網膜では黒白に明滅が繰り返される。
空に聳える巨漢が、鋼鉄の刃を振りかぶっていた。
「──……──……!!」
またしても両手と剣で受け止める。痛みはない。
いまは地面が背を支え、吹き飛ぶこともなかった。
嗅覚が戻る。肺一杯に空気を喉奥へと流し込む。
取り込んだ空気の端々には、肉の腐敗臭が斑点をつけていた。
「────」
呻いたが、己の軋みすら鼓膜は捉えられなかった。
味覚が戻る。腐敗臭と鉄錆の味が入り乱れる。
巨漢は再び振りかぶり、空の月光に鋼鉄を翳す。
「──……ァ──……!」
またしてもソルは構えて受け止める。痛みはない。
手応え。否、衝撃は最終的に背が受けたのだ。
正確には背応えが、身体に凝固するようだった。
(何か、聞こえた)
聴覚が戻る。こめかみを一定の高音が貫いている。
その合間に誰かの怒声が途切れ途切れに聞こえた。
それに連動して、目前の鬼気迫る表情が猛る。
この声の主がボガートだと遅まきながら知るが、まるで膜一枚隔てた外で吠えられているようだった。
「……何──何でッ……笑って ──がるッ……!」
「えぁ……?」
触覚が戻る。口元に張りついた感覚がわかる。
きっとソルは憧れの熱に浮かされていたのだろう。
隠しきれない高揚感が口の端に登っていたのだ。
だが、それに対する反応にひとつの確信をもった。
これまでの観察から浮かび上がった疑念を呟く。
のう、ラムホルト殿、ぬしは最初から何を──と。
「なに、を……おそれ、ておる」
「────」
その言葉の答えは、間断なく見舞われる必殺。
巨大な図体から繰り出される、熾烈な剣撃だ。
斬撃、斬撃の嵐。まるで滝の奔流を剣で受け続けるかのようだった。幼女はこの暴威に抗える力を有していない。威力たるや、背後の地面が一撃一撃ごとに凹むほどだ。着実に体力と精神力をこそぎ落とされる。
ソルの矮躯は悲鳴を上げる。腕が軋む。特に左腕は力が上手く入らない。肩が異音を発す。背骨が砕けてしまうのではないか。食い縛った歯の隙間から苦鳴が漏れる。一振りごとに身体が壊されていく音がする。
剣を盾代わりに防ぎ続けるにも、限度がある。
だから、いま打開策を言葉として撃ち込む。
「なぁ、え……じゃぁ」
舌が回らない。言語になり損ねた呻吟が漏れる。
それでも、ここで撃たねばきっと死一直線だ。
「ぁ、ぜ、ラム、ホル──」
だから気を張って、言の葉を精一杯紡いでいく。
剣士問答。戦闘は武力以外が物を言う場合がある。
戦場とは規定がない総合力で争う舞台だと、誰よりもソルフォート・エヌマは知っている。
「な、ぜ……ラムホルトどのは、ここに……きた」
「……どういう意味だ、そりゃァ」
それには、思わずという響きで問い返された。
(興味は引けた……が、どう隙をつくるか。わしに見て取れたラムホルト殿の人間性と行動原理から、彼の立ち振る舞いに隙間を抉じ開ける。その示唆は、きっと出揃っておるはずじゃ)
推測する糸口は、幻想世界での問答にあった。
ウェルストヴェイルは言っていた。曰く「ボガートたちの最初の目的は『人類最強』の打倒。あるいはその看板に泥をつけること」。だが蓋を開けてみれば、その目的は果たされていない。打倒計画から一転、現在のようにバラボア砦強襲に至っている。彼女も「結局、それは叶わなかったんだがね」と呟いていた。
では、叶わなかった理由、頓挫の原因とは何だ。
(ラムホルト殿は、何を考えておるのか)
強襲部隊が『人類最強』に敗北したからだろうか。
否だ。彼女から命からがら逃げたにしては彼らに傷がなさすぎる。そして幻想世界も攻略されていなかったことを鑑みれば、自ずと答えが見えてくる。きっと強襲部隊は、つまりボガートは、だがそれは──。
導き出した答えが信じきれず、口に出してしまう。
「なぜ、『人類最強』と、戦わなかった……?」
※※※※※※※※※※
──だから俺は結局、選ばなかった。
古ぼけた記憶だ。褪せた頁を捲る音がする。
男は、老爺が死したあと路地裏から出ていった。
向かった先は王国兵の門戸。男は人生の指標を失ってしまったがゆえに、生前の老爺が語っていた未来をなぞることにしたのだ。否、ことにしたとは語弊がある。なぜなら、それ以外の道に進む発想すら浮かばなかった。単なる惰性だった。高きから低きに水が流れるように、確固たる意志もなく進んだ道にすぎない。
しかし、闇夜の灯火とはよく言った慣用句である。
そこで出会ったのが『最後の騎士』と呼ばれる男。
人生で最も尊敬し、誰よりも惹かれた人物だった。
『諸君らは王国の剣である』
彼は、テーリッヒ・ガルディという名だった。
王国軍の教官として壇上に立つ姿は、輝いていた。
『世の名工曰く、片刃の剣の美とは斯くあるべき人間性を表している故という。わずかに湾曲した刃のように胸を張り、峰のごとく背をそびやかにせよ』
──王国の伝統的な剣の有り様が、在り方を示す。
──その在り方のみが王国兵の資格である。
交流を深めるなかで惹かれたのは、彼の生き方だ。
常に王国の剣となり鎧となること。民草の強き守護者であり、戦士の良き理解者であること。厳格さと誠実さを忘れずに携え、騎士の階級が消えた王国で、俗に言う騎士道精神とやらに則って生きること。誰が見ても立派な人間だったが、ひどく不器用にも思えた。
子供の頃に憧れた姿を追って、いまも続けている。
年嵩の男のはずが、なぜか誰より少年らしかった。
『俺に、アンタの夢を叶える手伝いをさせてくれ』
そう口に出す間際に過ったのは、老爺の顔だ。
街の暗がりに沈んだ路地裏。そこに住んでいた老爺の、羽根が捥がれる以前の夢の輪郭を想像することは容易い。いの一番に出た騎士団という言葉。男が「路地裏から出るときは爺さんも連れていく」と言ったときの皺だらけの微笑みは、誰より少年らしかった。
だから一際、テーリッヒを特別視させたのだろう。
(きっと、爺さんも子供の頃は騎士に憧れてたんだ)
それからは、彼の夢を叶える仲間集めに奔走した。
流石に大男ひとりで叶えるには荷が勝ちすぎる。
だから、騎士に惹かれた者たちを仲間に加え──。
最終的にはテーリッヒの薫陶を得た『騎士団』とも自称できるほどの一派を形成した。
『まァ騎士団というにはならず者ばかりだがなァ』
『なに、王国の騎士団というものに生まれは関係ないのである。現存する騎士団……帝国騎士団はそれこそ血統主義が抜けないようであるが、ラプテノンは最初から異なる。港町が元となった土地柄、国の要職に海向こうの民が入った事例まで存在しているのだ』
『生まれる場所は選べねェが、生き方は選べる、か』
『もちろんある程度、豊かな者の物言いであるが』
──ゆえに『選択』とは重い意味を持つのである。
その場において唯一の貴族階級だった彼は言った。
貴族の義務と同質の考え方なのだろう。豊かさを持つ者は責任を負う。選ぶ自由があるということは、それだけ恵まれていることで、それだけ幸せなことで、恵まれない者が大勢いるから、義務が生じるのだ。
そのとき老爺を思い出し、深く頷いたものだった。
持てる者には、等しく選ぶ権利と義務がある。
持てない者、持てなくなった者の代わりに──。
喩え話にしては直接的な形容を魔剣から聞いていた。
『いいかい? 我が主。ボクと貴方には、貴方の敬愛している大尉殿の言う権利と義務がある。ボクたちは謂わば、物語の登場人物の幕引きを悲劇から喜劇に塗り替えているようなものだ。それまでの歩みを否定して、けれどその労力だけは肯定して、流れを無視して表彰する。貴方はその傲慢さに戸惑っているようだけれど、その躊躇いも傲慢の範疇にあるんだよ』
『……あァ』
『この行為を赦すのは共犯者のボクと、貴方自身だ』
『わかってンだよ、そんなこと』
──ボクは貴方の描き直す結末の筆なんだ。
──傲慢に、自分勝手に、心向くままに、誰かの人生に花束をあげることがボクたちの使命だ。
『めでたしめでたし。誰かの人生をそう閉じることができる権利と義務、それを忘れないでくれよ』
物語の登場人物より読者には余裕がある。
誰かの人生に第三者として立ち会っているゆえに、それだけ同情してしまうし、想いを汲んでしまう。
『だから俺が、俺たちがアンタを騎士にするンだァ』
それはきっと、あの老爺に叶えられない夢を──。
代わりに、テーリッヒに叶えて欲しかったからだ。
彼らの人生を遠巻きに眺めていたから「報われて欲しい」なんて思いに駆られるのだろう。本人たちに知られれば、迷惑千万と煙たがられること必至の、願望の押しつけだ。第三者による自己満足にすぎない。
それでも間違っていないと、その男は思っていた。
そうして月日は流れ、ひとつの分岐点が訪れた。
テーリッヒが退役する最後の仕事である。
『なァに? 帝国の『人類最強』を倒すだァ?』
『ああ。上層部からの打診である。私の最後の大仕事ということだ。私とボガート、他の隊員は未定だそうだが、かの大英雄の討伐部隊を結成するようであるようで、その頭領としてボガート。貴様を推薦した』
『……はァ? 何で俺を、大尉じゃねェのか』
『この大仕事は手に余る。私では成し遂げられない。此度の任務の要は、貴様の持つ魔剣と貴様の腕にかかっているのである。つまりは権利と義務が発生する』
──私の夢は、貴様に託すことになるのであろう。
その言葉に、男は舌打ちを漏らしてしまった。
(また爺さんと同じようなことを……いや、違ェ。考え直せ。コイツは大尉の夢を叶えるには絶好の機会だろォ。どうやら大尉は有終の美を飾ることとして見ているようだが、退任間際に滑り込みで叶えられるかもしれねェ。最高の結末に、できるかもしれねェ)
──彼の最後の大仕事で騎士を復活させること。
その最高の結末への導線を見つけ、笑みが溢れた。
テーリッヒの夢を叶えるにはうってつけの機会だ。
帝国の大英雄の頂点、六翼。その一翼にして『人類最強』の名を軽はずみに背負った女。その打倒を成し遂げられれば、間違いなく大陸中の国家間の関係性が激変する。それだけの大功を上げれば、王国上層部も無視できず、騎士の名だけでも復興させられるかもしれない。後日、その希望も確約にまで至った。
これは彼を驚かせるために秘していたことだった。
(正式に『騎士』と『騎士団』が王国に復活する)
男は、万に一つも失敗を想像していなかった。
他の隊員は彼らの仲間たちに決定していたし──。
右手の『幾千夜幻想』を一瞥して、確信していた。
(この夢は、叶う。叶える。大尉は報われるんだ)
そして任務決行日、目標の大英雄を初めて見た。
六翼の一翼『人類最強』アイリーン・デルフォル。
そう、見た。遥か遠目に見ただけだったのだ。
されど、それだけで言葉が出なくなった。
震えた。慄然と、ただ、動けなくなったのだ。
(死、ぬ)
動けないまでの恐怖を覚えたのは、初めてだった。
無意識下に後退っていた。路地裏で磨かれた本能的な嗅覚が嗅ぎ取る。第六感が警鐘をけたたましく鳴らす。それはきっと神への忌諱に似ていた。大いなる存在に対する、怯懦の念に打たれてしまったのだ。
周囲の顔を見回した。自身含め、皆は剽悍な面差しを強ばらせていた。顔色を蒼白に染めて、それが緋色に重ね塗りされて、どこか悲壮な印象を与えていた。
頭を過ったのは、またしても老爺の最期だった。
(あれが、俺たちの辿る未来として想像できた)
もしもこのまま、足を止めなければどうなるか。
あの黄金の光に向かった場合、死──報われない『おしまい』を迎えるのではないか。否、むしろあの光に近づけば必ず迎えてしまう未来なのではないか。
夢が叶うことも、手酷く裏切られることもない。
そんな未来を、残酷にも確信してしまった。
『退却だァ』
『ッ、ボガート……』
『退却する。計画は、変更だ』
そして、彼は言い訳めいた本心を胸の内に留める。
──俺は結局、選ばなかった。選べなかった。
※※※※※※※※※※
(なぜ、『人類最強』と戦わなかった、だとォ?)
ボガート・ラムホルトは幼女を見下ろす。
忌々しさに眉宇をひそめて、両腕に力を込める。
あのとき、地の果てに認めた黄金の光を思い出す。
(何も知らねェ餓鬼にはわかるはずもねェ。あの脅威を目にした絶望感なんて、人生で味わったこともねェだろう。ウェルストヴェイルを打破できるくれェに薄っぺらな人生を歩んできた、手前ェなんかに──!)
対峙できる。そう思えた時点で人間ではないのだ。
少なくとも人間という動物とは異なる。視認した瞬間には、種の本能が身体を縛するのだ。近寄ってはならない。絶対に敵わない。かの『人類最強』は謂わば人型の竜なのだ。その口腔の挟まりに行く選択肢は、死を忌避する思考を擁している生物ならば選べない。
選べるのなら、それは生物として狂っているのだ。
(そんなもの、生物なんて名乗っちゃいけねェ。生きるために生きねェ。生存本能という理から外れ──人間とは異なる行動原理で駆動している『何か』だ)
──何がわかる。数えるほどしか生きてねェ奴に。
「何がわかるッてんだァァ──!!」
もはやボガートの理性の箍は外れてしまった。
瞋恚の焔は内心で猛り、視界を濛々と歪めてゆく。
目前には仰向けの幼女がいる。血塗れの髪は黒々とした赤髪のようだった。双眸には黄昏時の稲穂の輝きを融かしたような色が満ちている。その黄金を、かの『人類最強』の色に見立てて、魔剣を振り下ろす。倒れたままの彼女は精一杯、刃を盾にして防いでいた。
どこからか異音と、わずかな苦鳴が漏らしている。
(簡単には終わらせてやらねェよ)
行使するは己の肉体のみ。魔力の類いは使わない。
本来、無駄遣いするつもりもない。このあと砦攻略を行うために温存したいからだが、他にもある。
ボガートには砦を陥落させたあと、自らの炎で為すべきことがあるのだ。
(やられちまったヤツらは……討ち取られちまったガルディ大尉と騎士団は、葬ってやらねェと。こんな、クソみてェな場所に縛りつけておくわけにはいかねェんだ。せめて俺の炎で、俺の手で、送る)
そして、弔鐘代わりとして聞かせてやるのだ。
この『黄金』の悲鳴を、呻吟を、断末魔を──。
(なァ、爺さん。俺はいつもこんな役回りだ)
ボガートは、いつも誰かの結末を見送ってきた。
想起するのは、地平線まで見渡せる黄昏時の荒野。
夕映えが地を灼き、窪みには濃い陰影を落とす。
足元には線が引かれている。彼が立ち入れないその線の淵に立って、次々と側から離れてゆく背中を見ていた。最初は老爺。薄闇で看取って、それを焼いたときから運命として定められていたのかもしれない。そして『幾千夜幻想』で結末を塗り替えた、数多の同情すべき人々。いまや側にいたはずのテーリッヒの背中も霞み、騎士団の皆も遠くに行ってしまった。
手を伸ばしても、声を涸らしても、届かない。
この線はまるで現実と物語とを隔てているようだ。
(俺は、いつも残る側だった)
きっと理解者は「当然だよ」と笑うに違いない。
誰かの物語を追う読者は、最後の頁を捲ったあと現実に取り残される。それまで隣にいるようにすら思えた登場人物たちは、幻のように搔き消える。そんな虚しさに似た感情の残骸は、潮の引いた冬の浜辺に点在する貝殻のように置き去りにされてしまう。
そう。思えば、産まれ落ちたときからそうだった。
脳裏に浮かべる。その瞬間を想像してみる。
きっと二人は喚く赤子を路地裏に置いて──。
靴音は段々と遠く、二人の影は段々小さく──。
(行かないで)
罪悪感と責任感で、いまも口にできない本音を。
あのとき──言葉にできなかった慟哭を力にする。
(俺の前から、いなくならないでくれよ)
眼下から、ひときわ豪快な音が炸裂する。
ボガートの激情が乗った一撃は会心の出来だった。
幼女の細い腕は、堪らず不吉な音を鳴らす。轟然とした衝撃が、爪先から脳天まで奔り抜けてゆく様を見て取れる。心底まで震わす振動。それで散り散りになりかけた意識を、必死で掻き集めて形を保っているのだろう。黄金色の輝きはいまだに消えていない。
だから手を休める暇なく、剣筋を幾度となく描く。
「消えろッ! 俺の前から、消えろッッ!」
そのときだ──それは、空から齎された。
「『黄金』がァァァッッ!」
「ちっ──くしょうがぁぁぁ!!」
第三者の悪態が、幼女の処刑に水を差した。
ボガートは脊髄反射的に、魔剣を頭上に掲げる。
一瞬の間を置き、盛大に響き渡るは一重の金属音。
ボガートの振り上げた鋼鉄は、空からの襲撃者の剣撃を難なく防いだ。襲撃者は弾かれるままに、そこから飛び退いた。と言うよりは、吹き飛ばされたと表現するほうが正しいのだろう。遠くの地面を転がる。
彼は、砦壁の上から飛び降りてきたようだった。
腕に迸る衝撃と負荷に堪え切れず、痛みに悲鳴を上げていた。
「ここは、腰抜け野郎の居場所じゃねェ」
ボガートは振り向き、その男に視線を注ぐ。
顔を必死に歪ませ、足を震わせつつも、立つ青年。
足元から、かすかな、ひびわれた声が聞こえる。
「……ナッド」




