10 『炎纏う幻想剣1』
──頬が熱い。身体は燃えるようだ。
まずソルが感じたのは全身を炙る熱だった。
瞼を持ち上げて最初に目にしたのは、空の月。
宵闇に浮かんだ三日月だ。千切れた細い黒雲がその容顔を曇らせている。辺りの星は見えない。数多あったはずの輝きは闇夜のぼやけた黒に埋まっている。それが、ソルの横たわる地上に原因があると気づく。
夜空を彩るようにして、炎が踊っている。
(何事じゃ)
重い身体を起こせば、瞳に映るのは炎の海である。
辺り一帯に熾烈なまでの火炎が燃え盛っていた。
激しく揺れ動く橙色。煌々とした粉を散らして熱風を放つ。目前には火中に誘うような手が幾つも差し出されている。ソルは眠気を払うために首をわずかに振り、その誘いを袖にすると、傍に無造作に落ちていた愛剣を抱き寄せた。意識の覚醒があとわずかでも遅れていれば、比喩でなく火炙りだったようである。
思わず嘆息。髪が黒焦げにならず済んで一安心だ。
屈んだ姿勢を取ると、草木の茂みから這い出る。
ここは、どうやら結界魔術の庇護下にある砦内ではないらしい。見覚えがある。ソルは何者かによって移送され、裏庭の草木の陰に隠匿されていたようだ。裏庭には朝昼晩、鍛錬する際に訪れていたのだ。見紛っている可能性はあり得ない。誰かが運んだのだ。
だが目的、実行人はともに不明ときている。
(さて、帝国兵か強襲部隊か。わしの武具を取り上げていない点、そして危害を加えられていない点を鑑みるに、高確率で帝国兵の手によるものじゃろうが)
ぺたぺたと片手で自分の身体を触っていく。
特段、意識喪失の前後で傷は増えていない。白々とした手足には一騎打ちの際の擦り傷、および出血があるだけだ。しかし、身体は依然として重い。血液の代わりに鉛を流し込まれたかのようだ。そこには体力の摩耗や負傷が拍車をかけているせいもあるだろうが、直接的な因果関係は十中八九、オドの消耗にある。
感覚で言えば、体内の三割程度を消費した。
そのぶん身体能力や五感が鈍っているのだ。
(わしを運び出したのが帝国兵とすれば、そうか。疑問も氷解するわい。東部魔術房の通路でひとり倒れておる幼女は、見るからに庇護対象。心根の優しい誰かに戦場から摘み出された、というわけかのう)
彼はソルを運んだあと戦場に駆り出されでもした。
如何な理由にせよ幼女から目を離した。その隙を突くようにして、いつの間にか安全地帯のはずだった裏庭に火の手が回っていた──そんな筋書きだろうか。
ソルは状況把握を己の想像力で補いつつ移動する。
とにかく、火の海からは脱出しなければならない。
(あまり思い出したくない過去もあることじゃ)
彼女には、炎というものにロクな思い出がない。
すぐ脳裡に蘇るのは、青年期半ば頃の出来事だ。
思い返すたびに戦慄する。傭兵仲間だった男の魔術で髪を焼かれたのだ。その騒動が起点となり「ここまで舐められてはエヌマさんの沽券に関わる」と囃し立てられ、半ば無理矢理その男との模擬戦に引きずり込まれたことを覚えている。結末は予想通り、ソルフォートの完膚なきまでの敗北だ。指先程度あった沽券は微塵と消え、つまり面目丸潰れの出来事であった。
ただ相縁奇縁とはよく言うもので、その男とは長きに渡る因縁が生まれた。
(結局あやつとは腐れ縁になったが……否、郷愁に浸っていられる場合ではないのじゃ)
ソルは燃え盛る草木から抜け出て、視線を定めた。
目を凝らす。降りた帷で影絵ふたつが蠢いている。
(誰かが、戦っておるのか。否、戦闘ではないのか)
暗闇は視線を拒むように分厚く横たわっている。
だが幸い、目に留まった地点には光源があった。
凝視すれば、月下に展開される構図が掴めてくる。
二人だ。一人は逃げ、一人は追う構図である。
(あれは、ナッドか?)
腰の引けた青年が恐怖を湛えた顔で遁走中だった。
地面に転げ、巨漢から距離を取ろうと躍起になっている。その姿を露にする光源は、彼を追う巨漢──敵兵の得物らしき両手剣から発されていた。剣身にはさながら炎蝶とも言うべき炎の切れ端が群れを成し、纏わりついている。どうやら炎属性が付与されているようだ。そして、剣身の意匠を垣間見るに一目瞭然だ。
瞬時に判断をつける。剣を取り、膝を発条にする。
いまソルが十全に把握したことは、ただ二つ。
ひとつ、あの巨漢がナッドに仇なす者であること。
ひとつ、あの大剣が只ならない大業物であること。
これ以上の事情把握に時間を割くことは遅鈍。
事態は一刻を争う。ならば、前に出る。
「ふッ──!」
頭で突き破るようにして一直線に飛び出した。
二人の元に辿り着くまでに要したのは数秒。
最後は地を強く蹴り、飛翔。片手で一閃を見舞う。
期せずして、背後から首を斬り飛ばす軌道を描く。
だが届きかけた刹那、機敏に身体を反らされる。
「まだ、腰抜け仲間が潜んでやがったかァ?」
──易々とは討ち取らせはさせてくれんか。
ソルの口角が震える。先ほどは明らかに死角からの一刃だったはず。それにしては的確な回避行動だ。白刃は空を切る。すわ反撃を警戒したが、彼にとっても咄嗟の行動だったのだろう。大剣の刃や炎魔術が、空中で無防備に近い幼女を襲うことはなかった。
ソルは、ちょうど青年と巨漢の中間に踵から着地。
右足を軸に素早く回転し、臨戦態勢をとる。
位置関係としてナッドを背後に置くと、息を吸う。
「ソル……っ!? お前、何で」
「何でも何もなかろう。助太刀じゃ」
「……っ!」
ナッドの真贋を疑う声は途切れてしまった。
悲しいかな、ソルに余裕はない。声だけで返す。
視線は巨漢から片時も外さない。余所見にかまけてしまうのは、豪胆な絶対者のみに許された特権だ。きっといま意識を背後に遣れば、たちまち頭部が吹き飛ばされるか、あるいは頭部を残して胴体だけ飛ぶか。
だから背後に「退け」と仕草だけで合図を送る。
すると、息を呑むような音がかすかに聞こえた。
「っ、くそ!」
ナッドがそれをどう受け取ったかは定かではない。
ただ結果的に、背後から気配が遠ざかる。絞り出したような毒づきを一言残して、慌ただしい軍靴の音が段々と小さくなり、消える。その間に相手方から手は出されなかった。彼だけは見逃してくれるらしい。
だが、最後に裏庭から脱するまで気は抜かない。
右側に炎の海、左側に強固な城砦を従えた英雄。
意識の範囲内にその一挙一動を収め続ける。
(よし。ナッドの気配は消えた。これで一安心か)
否、若輩者の危地を救ったあとからが本番である。
改めてソルは、沈黙を保つ巨漢を睨み返した。
「ぬしはボガート・ラムホルト殿とお見受けする」
「名乗れェ、何者だァ? 俺の横槍たァ度胸がある」
「わしはソル。横槍無粋とは重々承知。しかし」
幼女は彼我の距離感を目測で測りつつ、微笑んだ。
「この先は、わしがお相手を務めさせていただく」
「……早ェか遅ェか。まァ、それだけの違いかァ」
感嘆したような、呆れたような溜息を落とす。
「餓鬼、手前ェは余程の死にたがりらしいなァ」
ボガートは片眉を吊り、柄の悪い凶貌を歪ませる。
暴風さながらの鼻息を吐いて口髭を靡かせた。
ただ眼差しだけが訝しげに動いている。その理由はおそらく、助太刀と名乗って現れたソルの容姿、あるいは言葉遣いよるものか。「餓鬼ン癖にませた言葉遣いしやがってェ」との呟きを拾う限り、てんで的外れの推察とは言えまい。だがまさか英雄の身にあって、こうも新味のない感想を零すとも思えないが──。
ソルは、靴底を摺って前傾姿勢に移行していく。
剣術者同士の試合ならば顔を顰められる構えだ。
だが、これは戦場で遥か格上を相手取るため。
「生憎、死にたがるほど命を持て余しておらぬ」
「なら手前は考えなしの阿呆ォだ。あの臆病者を庇うたァな。心意気は上等。だが走るなァ虫唾がよォ。喋った感触、手前ェはタダモンじゃねェ。少なくともアレの代わりになるのは、そりゃ命の無駄遣いだ」
「わしは無駄遣いしたつもりはないがのう」
「行動がそうならそォだろ。餓鬼」
ボガートは悠長にも鬚を抜き、闇夜に放っている。
両手剣は片手で掴んでいるが構える様子もない。
だが、仕掛けられない。じりと靴底の砂利が鳴る。
(わしが、火蓋を切るのを誘っておるな)
ボガート・ラムホルトの存在は元より知っていた。
伊達に英雄を志していない。戦場で新進気鋭の英雄が生まれたと聞けば、一も二もなく武勇伝も含め情報を仕入れていた。なにせ追っている夢の舞台に上がった新鋭たちだ。もちろん英雄譚好きとしての嗜みのひとつでもあるが、ボガートは近年、ラプテノン王国にて破竹の勢いで名を上げ始めていた英雄だ。その名前や特徴は、すでに諳んじられるほど熟知している。
さりとて所詮、風の便りに評判を聞いた程度だ。
(だから、まだ誘いには乗れん。情報が足りぬ)
初対面どころか、目にしたことすら初めてだ。
英雄好きとしては忸怩たる思いだった。彼が台頭し始めたのが最近、かつ巡り合わせが悪かったのだ。一目見るより先に夕陽の下、黄金の英雄に討ち取られてしまったのだ。ただボガートが初見の相手という事実は、それはそれで彼女にとって喜ばしいことだった。
つまり彼は『新しいこと』が学べる相手なのだ。
(なれば、この誘いの時間を有り難く観察に使わせてもらうのじゃ。さあ、彼が使うてくる剣術は? 魔術は? 体術は? すへて、この目でしかと『視る』)
弾む胸を押し殺しつつ、ボガートの分析を始める。
まずは体躯。ソルの数倍はあるだろう、岩盤めいた筋肉に覆われている。重量も比例するはずだが、筋肉量も莫大だ。彼の身のこなしが鈍重とは思えない。速度の概念はボガート攻略の際には、突破口たり得ないだろう。兜と鎧にはそれほど特殊な素材は用いられていないように見える。もっとも、ソルは鍛冶仕事や魔術装備に疎いため、装身具に硬化素材や魔術が織り込まれていれば判別は不可能だが、幸いボガートの防具はラプテノン王国軍の規格品だった。仕掛けさえ施されていなければ、オド消費の加速術による一撃で強引に破壊できる可能性はあるだろう。無論、危険度合いは非常に大きい。そのため探すべきは鎧に守られておらず、刃が通用しそうな箇所だ。顔面と首元と関節付近。当面狙うべきはこれら急所のいずれかだろう。また腰紐には小袋しか吊られていない。それもからっぽのようだ。大剣以外で不意を打たれる可能性は低い。
次いで、所作を舐め回すように観察していく。
敵愾心に満ちた双眸は斜に傾け一直線。幼女に注がれている。瞳孔は開いており、少なからず闘争に興奮する姿が見て取れた。額は炎の明かりを薄っすら反射している。自らが放出した炎熱によるものか緊張によるものか。下方に目を遣れば、右足の軍靴が一定間隔で音を鳴らしている。こつこつ。踵で地面を叩く。他の仕草から推測するに、彼が苛立ったときの癖のように思う。その割には鼻下で膨らみを誇示する金髭は几帳面に整っている。面する事柄によって極端に甘さ厳しさが分断されているのかもしれない。苛烈な性格なのか。自他の範囲が明確な人物なのか。
何よりも目を引くのは、ボガートの得物だろう。
彼自身と同程度の丈はあるかという幅広の大剣は、剣身の部分に炎を纏っている。着目すべきはその剣身に彫刻された、緻密な文字列だ。大陸で現在も一般的に使用されている言語ではない。『聖文字』と呼ばれる古代文字だ。聖文字は、記された物品に魔術的な効果を齎す特別な文字である。すなわちあの剣には特殊な能力が秘められていることになる。その能力が単純明快に「剣に炎を纏わせる」の可能性もあるが、希望的観測だ。警戒しておくに越したことはない。
ソルは加速する思考を止め、観察を一旦終える。
(剣術は、ガルディ大尉同様にニレヴァート流か? 否、確定事項にはできぬのう。構えを取っておらぬ。相手は英雄。無形の構えすら有り得るからのう。それこそ型に嵌った思考に縛られてはなるまい。利き手は右か両方。利き足は右。恐らく身のこなしは想像以上に速いはずじゃ。肉弾戦では劣勢を強いられるはず。隙を見出すとすれば、小回りが利かない大剣を振るう際かのう。そのとき急所のいずれかを狙う。機会は多かろう。彼は好戦的な性質が強いように思う。さりとて頭が回らないわけではないことが厄介じゃが)
観察行為を反芻し、脳内で情報を組み立てていく。
当のボガートは不愉快げに眉を曇らせていた。
幼女が一向に誘いに乗らないためか、それとも不躾な視線に気を悪くしたのか。
「へェ、まァ薄々気づいちゃいたがなァ。あの雑魚じゃァ絶対ねェとは思ってたが……本当にこの餓鬼がかァ? まだ乳でも飲んでそォな餓鬼だぜ? 嘘だろ」
膨張する殺意とは反し、頬を綻ばせて独りごつ。
不自然だ。この場に他者が介在しているかのよう。
有り得ない話だが、剣と会話しているような──。
「なァ餓鬼ィ、手前の方が大尉の首ィ取ったのかァ」
唐突。至近まで白熱した横薙ぎの一閃が迸る。
大剣による斬撃だ。彼我の距離を一瞬で埋められたことに愕然とする暇はない。ソルは更に身体の傾斜を強め、頭頂すれすれで避ける。予備動作もなく振るわれた刃が裂いたのは、彼女に追随して翻った白尾の先端だった。幼女の体躯は巨体相手と相性がいい。テーリッヒ戦で実感して、学んだことのひとつだった。
だが、オド消費の影響が回避動作にも及んでいた。
反応が遅れた。想定以上に紙一重であった。
「だよなァ。その動き。その落ち着き。その──」
ソルは瞳を、目前に曝け出された右膝に向ける。
姿勢を徹底的に低く保つ。それは幼い身体ならではの強みだった。如何な小柄な体躯を持つ剣術者だとして、ここまで地面に近く構えられない。ゆえにこそ見える突破口は存在し、この好機は見逃せない。
幼女は前方に駆け出しながら右腕を振るう。
刃を走らせ、巨体の右膝裏を横合いから打つ。
「抜け目のなさ。帝国の暗殺部隊出身かァ手前ェ?」
金属音。硬い感触。その手応えに唇を噛む。
痺れた手を引き、ボガートの背後に抜け出た。
いま正確に関節部を狙い打ったはずだ。それでも弾かれたのは単純に威力不足だったのだ。目前の巨躯を押し込んだ鎧は、足の関節部さえも強固な造りをしているのか。あるいは魔術的な防護を敷いているのか。
何にせよ、足の関節部は彼の脆弱点予想から外す。
次いで狙うべきは、と思考を割く前に──。
「蹴りやすい位置だなァ」
ボガートは勢いよく右踵を軸にして回転する。
幼女に向き直ると同時に、蹴飛ばすつもりなのだ。
予感は的中する。右方向から剛速の脚が飛来する。
周囲の風を巻き込むように繰り出されたそれを、幼女は跳躍することで回避する。だが、回避行動に留まらない。彼女の真意は急所を捉えることにあった。
跳躍先はボガートの方向。幼女は首元を狙った。
彼の鎧は首元が自由なのだ。鋼鉄の防護がない。
宙空で刃を滑らせる。今度は両手を使って斬撃を放った。ちらと彼の両腕の位置を再確認。右手は腰元で大剣の柄を握っている。左手は左脚と同期しているため巨体を挟んで反対側にある。肘を背中側に突き出していて、この斬撃を腕で庇うことはできないはずだ。
では、これで彼の綽然とした顔を崩せるか。
放たれた一撃は読み易くも鋭い。それを──。
「一合で蹴りがつくたァ、思っちゃいねェよなァ?」
ボガートは口端を歪めて、飛び退る。
刃が届く前に、距離が一気に離されてしまう。
幼女は緩やかに螺旋を描きながら双脚で着地する。
そして迅速に位置関係を把握する。現在、自らは裏庭の中央付近に立っている。それに対して巨漢は西側の端。しなやかな筋肉による異様な跳躍力を見せた。
目算で言えば、彼の元まで最低三十歩は必要だ。
所詮は幼女の歩幅である。短いそれは跳躍力と歩数で埋める必要があった。ただ地力で劣る自覚がある身としては、自ら距離を詰めることに抵抗がある。ここは構えを崩さず、様子見を選択するのが最善かもしれない、という──弱気な判断を即座に切り捨てる。
迷いを捨てる。ソルには遠距離攻撃の手段がない。
それに比べ、あの英雄は炎属性魔術が使えるのだ。
敵方に与えた猶予分、一方的な攻撃に晒される。
炎の海を遠景に、英雄は大剣を地面に突き刺す。
「煩わしい蝿一匹。夢なぞ見せずに焼き殺そォか」
彼は、不穏さを匂わせる言葉をぼやいた。
そして大剣に宿していた紫光を唐突に消した。
ソルの心臓がひときわ強く跳ねる。
今更駆け出しても時すでに遅し。間に合わない。
「【星神の威光】【万象の属性から借り受ける】【其は炎、経典に綴られし原初の劫火】!」
ボガートが口遊んだのは三節からなる詠唱だ。
魔術詠唱とは「事象の固定化」に必要なものだ。
端的に言えば、詠唱は『魔術で如何なる事象を引き起こすか。その想像を固めるためのもの』である。よって魔術の詠唱時間は複雑になればなるほど比例して長くなる傾向がある。また単純事象を起こす魔術であっても、その規模が大きいほど詠唱文も増える。それはいずれも要求される想像力が高次元であるためだ。
基本的に「消費魔力が嵩むものに比例して詠唱が長くなる」という関係性が成り立つ。
(ボガートの詠唱は三節。決して多くはない)
簡単な魔術は一節か二節の詠唱。
戦闘で有用とされる魔術を繰り出すには、三節以上の詠唱が必要と言われる。ただ三節からなる魔術は所詮、実用的ながら程度は最低限。たとえば炎属性は手のひら大の炎の現出に留まる。ソルが容易に躱せるようなものでしかない。本来ならば恐るるに足りない。
しかし、ここに例外が存在する。
実に単純な理屈だ。魔術に注ぐ魔力の濃度と質が桁違いならば、同事象を引き起こすものであれ現出する結果の威力・規模はともに大きくなる。つまり詠唱時間と規模が釣り合わない、常識的な観点からは逸した魔術が引き起こされる場合がある、ということだ。
それはまさしく天性の才能による所業である。
それはまさしく凡人を飲み込む才能の奔流である。
「屑は塵へ、塵は風へ、風は凪いで、遂には消える」
そうして、ボガートの身体の輪郭が紅々と輝く。
炎の海の上空に広がる宵闇に、炎、炎、炎──。
二百を超える炎の塊を生み出されたのだ。
(三節の魔術でこれか。壮観じゃな)
まるで中天に陽が浮かんでいるかのごとき光量だ。
塊のひとつひとつは超高温の炎。灼熱が肌を焼く。
相対するだけで眼球が乾いて、罅入るように痛む。
あれが直撃すればどうか。想像するだに恐ろしい。
(まさか魔術にも長けておるとは。裏庭が開けた空間である点を存分に活かしてきたのう……)
目を細めながら、思わず絶句する。
遮蔽物はない。平坦な地面には凹凸ひとつない。
ソルの手にあるのは剣が一振りのみ。
「灼熱八十の雨霰──『一緒くた』に燃え尽きろ」
空中に浮かぶ二百の炎が地上に狙いを定める。
そして掃射される、膨大なまでの炎の弾丸。
それは、幼女が飛び退いて躱せるような範囲をゆうに超えていた──。




