月が照らす前に
夕焼けの中に、それの赤さが原因なのかどうか理由も掴めない頬を隠しながら、彼女は私を見つめていました。真っ黒な瞳はまるでブラックホールのようで、その丸い円に吸い込まれまいと、とっさに目を逸らします。
彼女の、〝ろくに学校にも行かないせいで、綺麗な制服〟に身を包む姿は、私に【可愛い】以外の言葉を選ばせてはくれません。なんて、本人には絶対に言いませんが。
「空が真っ赤なので、興奮します。」
少し不気味なひとことを呟いて、眉下で切り揃えられた前髪と耳上で結んだツインテールを風で揺らしながら、彼女はほのかに笑むのでした。
寒さの増してきた今日、夕焼けの赤みは乾燥した空気にとても映えます。鮮やかさに泣きたくはなりますが、少し縮んだセーターとナイロン製の上着が擦れて、静電気を含んだソレのせいで、私の頭の中はすぐにでもショートしそうです。と、真顔で考えていました。
「そういえば、きょうも駅では人身事故が起きているのでしょうか。どうして建物の上からは人が飛び下りるのですか?人は、足もつかない場所だから首を吊ってしまうのです。【死】は、【生】と案外身近ですね。」
「まあ、あれだ。バカは高い場所を好む。」
いきなり過ぎた問い(ともつかない何か)をテキトーにあしらいながら、ポーチから取り出したお気に入りの煙草をくわえます。何せ私たちも例外でなく、ビルの屋上にいるのですから、彼女の質問が野暮なわけです。
「意味は無いとわかっていながら、あなたとのおそろいが欲しくて、買ってきました。」
私の吐き出した煙の奥に立ちながらそう言って、先ほどから気にはなっていた大きな紙袋から取り出されたものは、二つの真っ白なコートでした。真っ赤な日に照らされても白だと判るのですから、たいしたものです。しかし、いずれ汚れるとわかっていながら、なぜ白を買うのでしょう。解りません。などと思いながらも、ますます彼女が愛しくなるのでした。
「実は、似た者同士なのだろうね。」
コートを受け取り、上着の内ポケットにしまっていた小さな箱と、かるくキスを渡します。彼女の頬は、想像以上に熱を帯びていました。
「セーラー服にコートは、ナシ。」
コートを羽織った彼女にそう言いつつも、ニーハイソックスと短いスカートの間にできた絶対領域が、私の理性を崩壊させようとしています。これは全て、静電気のせいなのです。そういうことにしておくべきなのです。
そんな状態の中、コンビニで買ったドーナツを欲求と共に咀嚼し嚥下しました。ふいに目に入った夕日で、昨日彼女と食べたキムチ鍋を思い出しました。辛い上にうまいそれと同じくらい、人生も辛い上にうまさがあれば・・・どうでも良いような、そんなくだらないことを考えながら横目に見ると、箱の中身を確認した彼女は、案の定涙目で思わず笑みがこぼれてしまいました。
気づけば、今まであんなにも赤を撒き散らしていた夕日も、寝床に帰ろうとしています。よい頃合いなのかもしれません。もしくは、もう遅いのではないかくらいに感じています。何が、とは言いませんけれども。
「もう良いかい。」
「もう良いよ。」
まるで【かくれんぼ】でもしているかのようなやり取りをしながら、これまで経験したことのないくらいに、私たちは強く抱き合いました。
「無理して生きるくらいなら、頑張って生きなくても良い。今まで辛かったね。少し休もう。楽になろうか。これは、君のための人生なのだから。誰にも咎められないよ。傍に、ちゃんといるから。共に幸せになろう。」
言い馴れてしまった言葉もとい呪文を、呼吸もおかずに耳元で囁きます。それでも彼女は、満足そうにこちらを見ています。もう私たちには、この流れがお決まりとなっているのです。
二度目のキスは唇に落として、二人、屋上の末端に立ちました。二十六階建てのビルの屋上。あまりの高さに少し足は震えましたが、この世界を支配できたような優越感があったのも事実です。周りの何もかもが、小さく見えました。
「これは、本当の幸せなのでしょうか。」
いよいよ、という時に出てきた、彼女からの質問でした。正直なところ、私にも詳しいことは分かりません。しかし、一つだけ、しっかりとした意識はあります。
「君の感じた幸せが、本当の幸せだ。」
私がそう答えると、不安気だった顔は一気に笑顔へと変わりました。喜怒哀楽が激しいのも困りものです。
「ありがとうございます。これからも、よろしくお願いします。」
幸せそうにそう言った彼女の横顔は、この世のものとは思えないほど酷く美しく、綺麗でした。
繋いだ手に込められた一層強い力を合図に、そのまま一歩前へ進みます。重力に逆らえない二人が真っ白なコートを着ているせいで、天使になったようにも感じました。あるいは、風に舞うティッシュペーパーとでも言いましょうか。もうそろそろ、それらも紅で埋まりますが。
さて、月が照らす前に、私たちは幸せを求めてあちらの世界へいきます。本当の幸せかどうか、これを読んでいるそちら側には、とうてい理解できないのではないですか。しかし、人間の感情なんてゴミみたいなものですよ。結局、自分自身が正義であって、それ以外は悪なのです。世間体の正義もそうやって決まっているのではないですか。なにをどう願おうと、一人ひとりの勝手だと考えてください。自己中心的でなければ、人間は人間ではありません。
私にも彼女にも、これを読んでいるあなたにも、本当の幸せは存在するのでしょうか。せいぜい死ぬその瞬間まで考え、悩んでください。
それでは、さようなら。